祈りの継承

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 『それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(ヨハネ20:27)》

 弱冠27歳のダーフィト・シュトラウスが、イエスさまの生涯の中から、「奇跡」とか「真理」を取り除いて、〈史的イエスの探究〉と言う目標を掲げて、「聖書」を薄い書物に改変しました。1835年に、神の子ではない、人の子として「イエス伝」を著したのです。不信仰の立場で書いた書物によって、教会史の中で、非常に悪い影響力を蔓延させたのです。キリストの教会に不信仰もたらせたわけです。それに賛成するかしないかが、結果的に問われたのでしょう。

 この人は、ドイツのシュトウットガルに生まれ、子どもの頃から、神学に強い関心を示し、チュウビンゲン大学に進学して、哲学を学びました。ところが、〈直感と感情〉で聖書に向かうシュライエルマッハーに共感してしまうのです。

 『誰から影響を受け、学ぶるか?』によって、人は変えられてしまいます。変えられた彼ら、主にドイツの教会の〈聖書批判〉から生じた「新神学(自由主義神学)」の影響は、世界に広がります。それは日本の教会をも見舞うのです。海老名弾正、小崎弘道は、その筆頭だったと言えます。小崎は、聖書信仰の立場を捨てています。あのシュバイツアーは、この系譜の中の人でした。

 私は、単純に、聖書の記すことを信じている母に育てられ、その母を生かしてきた聖書を、《神のことば》と信じ続けてきました。母や家内や子どもたちが、そして自分が病気した時も、『我はエホバ、汝を癒す者なり(エホバ・ラファ 出エジプト15:26))』と、天にいます神さまを信じて祈ってきました。この「祈り」、「祈れること」に感謝して今に至っています。

 主イエスさまが、「信じる者になりなさい」と、トマスに言われたように、自分にもそう語りかけているのです。『祈って!』と、幼かった四人の子どもたちが願うので、その都度祈ってきました。今や家庭を持った子どもたちが、家族や親族の必要があると、『お父さん、お母さん、祈って!』と言ってきます。

 昨日、姪の入院先の東京・八王子の大学病院を、三年ぶりに帰ってきた長女と一緒に見舞いました。5分ほどの面会でしたが、長女は、別れ際に、従姉妹の癒しのために祈っていました。それは、少なくとも三代に及ぶ、《祈りの継承》だったのです。

(「アレオパゴスの祈り」です)

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苦労の跡を

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 私は、「落語」が好きで、学校に行けないで、ラジオに育てられたので、この落語をよく聴きました。みなさん話術、間の取り方に長けておいででした。惜しくも早く亡くなられた、若い頃に聞いた金原亭馬生、兄貴的な立川談志、古今亭志ん朝などの噺は、極めて優れていると思っていました。廓噺(くるわばなし)や、呑み助の噺が多いのですが、人を、思わず吹き出させるほどに、屈託なく笑わせる話術は芸術の域なのです。

 とくに、金原亭馬生と古今亭志ん朝の兄弟、あの志ん生の息子たちの落語は、素晴らしいと思っています。志ん生が、満州に兵隊さんの慰問に、2年も出かけていたからでしょうか、家庭を顧みない残された家族は極貧だったそうです。その様子を、馬生が、次の様に思い返しています。

『幼いころ家が貧しかった。寒さで夜、眠れない自分のために、母は近所の人から古い湯たんぽをもらってきてくれて、「おそば屋さんに行ってお湯をもらっておいで」といった。不慣れなそば屋に入りそびれ、外で震えていると、通りがかりの男の人が声をかけてくれた。そば屋の人に、お湯を頼んでもくれた。店には天ぷらそばをうまそうに食べている客がいて、馬生少年は思わずジーッと見入ってしまう。すると、その客は店の人に怒鳴った。「おいこのガキに早く湯をやれ、そばがまずくなっちまうよ」。馬生は帰りの夜道を湯たんぽを抱いて、泣きながら歩いたという(「わたしとおそば」から)』

 この「貧しさ」が、この人の噺(はなし)に味を添えていたのでしょう、渋い味が人情噺にあったのです。一芸を為す人には、貧しい経験が、益になるのでしょうか。野球だって同じです。苦労人という人がいたのです。稲尾和久というピッチャーがいました。こんな話を残しておいでです。

 『薄い板一枚隔てて、下は海。いつ命を落とすか分からない小舟に乗る毎日だったが、おかげでマウンドでも動じない度胸がつきました!』とです。また、強靭な下半身は、この漁の手伝いによって培われたわけで、276勝もした名投手でした。性格も穏やかで、多くのフアンがいて、慕われていたのです。

 『苦労は買ってでもしろ!』、わが家の4人の子たちに、安易に生きるよりも、苦労をすることを願って育てたつもりですが、つらかった話を、ぽつりぽつりと話してくれる年齢に、彼らがなってきたようです。

 三年ぶりに帰って来た長女と、県北の那須地方に、彼女の運転で、家内と三人で旅行をしました。家内の恩師が中心になって始めた「アジア学院」を訪ねたのです。何もなかった原野を切り拓いて、農業指導者の養成を、五十年続けてきたと、案内をしてくださった職員の方がおっしゃっていました。

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 国内外、とくに東南アジアからみなさんが多く、有機農法で、穀物や野菜や果物、養豚や養鶏をされてきておいでです。広い敷地の、門のそばに、稲の田植えを終えた田んぼが広がっていました。その田んぼに鴨が泳いでいたのです。これも農薬を使わない農法の一つで、聞いてはいましたが、実際に鴨の泳ぐ姿を見て、感動的でした。巴波の流れを泳いで、観光客に餌をねだるのとは段違いだったのです。

 地域のみなさんとの軋轢もあったり、資金繰りもあって、その五十年の運営は苦労が多かったのでしょう。自然農法を実践する真摯な農業人がいて、目の青い欧米人の指導者やボランテアのみなさんが、イキイキと働いておいででした。出来上がった米や小麦粉で作った醤油や煎餅やクッキーを買い求めて、帰って来ました。

 ここにも「苦労」を、苦労としない人たちの夢や理想の跡が見られて、素晴らしい時でした。栃木に来て以来、家内の願いが叶えられて、長女の運転のレンターカーでの訪問でした。そういえば、その「那須野が原」は、人の住めない原野だったのが、入植して水路を開き、開墾し、青々とした田んぼや牧場が、今家広がっていました。明治人の強靭な心や肉体、そして開拓魂が感じられたのです。

(「アジア学院」の看板と咲く菖蒲の花です)

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ただ感謝あるのみ

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 『天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。(イザヤ4913節)』

 小学校の何年生だったかの記憶がないのですが、私たち四人の男の子たちの父親は、お酒を飲まない代わりに、食通だったのでしょうか。若い頃は、稼ぎが良かったのでしょう、大島紬の和服を数着持っていて、羽織には〈家紋〉が付いていました。

 良い物好みで、持ち物は多くは持ちませんでした。物を大事にする人でした。昔の人が、そうだったのでしょう、良い物をわずかに持ち、和服の洗い張りとか縫い直しとか、Yシャツの襟の裏返をして、衣替えすると大事に保管もして来季に備え、襟などの汚れた箇所は、母にシンナーで拭かせていました。

 靴など、母がピカピカに磨き上げ、クリーニングに出したYシャツを着て、いわゆる dandy で、颯爽として都内に勤めに出ていました。ある時、渋谷に連れ出してくれて、青山だか六本木だったでしょう、『こんなの初めて!』と言う、柔らかな子牛と豆と黒パンの料理とデザートをご馳走してくれたことがありました。私は、子どもたちには、そんな豪華な目を見張るようなものはご馳走したことがなかったのです。父に真似られない懐事情だったからでした。

 そんな父親に真似た点だってありました。勤めを始める私に、次兄が、背広を誂えて、就職祝いをしてくれたのです。それに見合うように シャツを誂え、メーカーの名前を忘れた名靴を履き、父のように背筋を伸ばして、颯爽と通っていました。少なくとも5年間は、父似の dandy な青年でした。

 自分なりに夢を持って、社会人として生き始めて、けっこう順調な始まりだったと思うのです。ところが、キリスト教伝道者になるように迫られて、その夢を替えました。その職場を退職して、宣教師と共に出かけて行くまで、母教会の信者さんの経営する、鉄工所で、溶接工として働かせてもらい、大きな自動車工場の溶鉱炉の中で、煤で真っ黒になりながら働いたこともあったのです。

 その方のお嬢さんの家庭教師をしながら、出かけるのを待機していたのです。その職場のおじさんが、『キリスト教って、教師を辞めるほど、収入が多いんですか?』と聞かれたのです。だいたい転職の動機は、待遇の良い職種や職場に移って行くのが常なので、そう、聞いてきたわけです。『ええ!』と答えた私でした。

 それで、母教会から、1時間半ほどの街に出かけたのです。そこには、父の知人がいて、この方の紹介で、青果物の卸商の荷運びの手伝いを、地元の青果市場で始めたのです。ネコという台車で、同じ年齢の青果商が競り落とした蔬菜や果物を運んで、大きな車の荷台に積み上げて行く仕事でした。学校時代に、青果市場でアルバイトをしていたことがありましたから、なんの苦にもなかったのです。

 それでは、家族を養うには、足りませんでしたので、母教会が、長い間助けてくれたのです。そして、卸商の方が、優しい人で、野菜や果物を、『これ食えし!』と言っては、いつも分けてくれたのです。数年経った頃でしたが、東京に用があって行って、母を訪ねたのです。新しい地での生活を心配して、住んでいた家を訪ねると言った母と一緒に、特急電車に乗ったのです。

 その同じ車輌に、後に校長になられる、私の勤めた学校の上司、社会科の主任の先生が乗っていたのです。あちらは気付かなかったのですが、意気揚々と退職した職場の主任に、弟に貰ったズボンとジャンパー姿で、颯爽として働いていた頃とはだいぶ違った自分を、誇らなければならないのに、初めて恥じたのです。クルッと顔の向きを変えてしまいました。

 献身の生活は、持ち物も少なく、貧乏臭く見えたのでしょうか、母が、とても心配してくれました。それ以来、隣国に行っても、月々、母は、遺族年金から、天に帰る少し前まで、大金ではありませんでしたが、援助し続けてくれたのです。家内はパートで働くと言ってくれ、乳酸菌飲料の配達などを、子育てしながら、喜んで続けてくれたのです。足りないことも、人に物やお金を乞うことはしないで、生きてこれました。それは今に至るまで同じなのです。

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 イエスさまは、アッシジのフランチェスコのような乞食のような身なりはなさらなかったのです。フランチェスコは履物を脱いで裸足で歩き、皮のベルトでなく縄を腰に巻いた姿で歩いた人だったそうです。奇行などではなく、物の豊かさや華美に生きることもなかったのが、イエスさまでした。人から哀れさを感じさせるようなことはありませんでした。ローマ兵が、十字架に行くイエスさまの服を、くじ引きにした記事が、聖書にあります。皇帝に養われていたローマ兵が、くじ引きするほどに、イエスさまは良い物を身につけておいででした。決して惨めな風体ではなかったことになります。

 また、母国の団体や幾つもの教会から援助されている宣教師さんたちとは違い、私たちの交わりの宣教師さんたちは、個人の立場で、家族や友人たちの support  で伝道されていました。大きな家にも住んでおいでの欧米からの宣教師さんたちが、保養地に別荘を持っていたのに、私たちの交わりの宣教師のみなさんは、そう言った生活をされませんでした。

 ある宣教師さんの家に行くと、いつもスパゲッティが出て来たそうです。それだけしか出せなかったのです。その方のお父さまは、母国の教会の牧師さんでしたが、母国の諸教会に手紙一本出すことも、援助の要請もしなかったのだそうです。送られてくる愛心で、生活をし奉仕をしておいででした。その5人のお子さんたちの4人が、今は伝道の働きをし、3人は日本で奉仕しておいでです。残りのお嬢さんも、留学生のお世話をしながら伝道をし、一番上のお嬢さんのご主人も教会の役員をされています。奥さまは、ご主人を天に贈られて45年の経った今年、100才になられます。

 どういうわけか、疲れてしまった私と家内を、その宣教師さんは、ご自分の教会に、家族で、きっと招いてくれたのです。まだ、家で学んでいたお子さんたちは、私たちに部屋を三日ほど提供し、どこかの隅で寝ていたのです。そんな彼らは、豊かには見えませんでしたが、説教の謝礼と言って、けっこう高額な献金をいただいて、帰宅したのです。この方が、理解者でいてくださったことが、今日がある所以です。

 『ユリ、準は大丈夫だからね!』と、夫を助けていきなさいと言ってくださったそうです。今は、満ち足りる喜びで、今はゆっくり静かな時季を、巴波川のほとりで過ごしています。時々、息子たちが、様子を見に来たり、助けに来てくれています。『お父さんたち大丈夫なの?』などと、親が言ってきたことを、〈鸚鵡返し〉に言ってくれれいます。感謝な日々です。

 三年ぶりに、帰省してきた長女が、二週間の滞在中に、家事をしてくれています。ちょっと痩せてきている家内に、美味しいものを食べさせようとしてくれているのです。この土曜日には、姉に会いたくて、昼過ぎに次男が、家内と姉の好物、新宿のデパ地下で買ってやって来ました。夕方には長男家族が訪ねて来たのです。二人だけの家が、急に賑やかで笑い声が溢れました。ちょとお風邪気味の私の方を、嫁御が揉んでくれ、孫たちと談笑しながら食事をしたら、頭の痛いのが飛んでいきました。

 これまで歩んできた一日一日に、主の守りと祝福がありました。「人生の秋に」生きている私たちですが、為すべきことがあって、それに忠実でありたいと思う日々です。感謝のほか何もありません。

(ダンディー親爺、団欒のイラストです) 

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隠されたものの露見が

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 『おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。 ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。(ルカ1223節)』

 子どもの頃に、〈炙り出し(あぶりだし)〉という不思議な遊びだか化学実験だかがあったのです。なぜそうなるのかが、子どもの私には理解できなかったので、不思議でならなかったのです。種明かしは、特殊なインクで紙の上に書いてあっただけで、魔法などではなかったわけです。

 身近にあった食べ残しのみかんの皮を絞った汁で、紙に描くと、乾くと描き跡が消えてしまうのですが、それを火にかざすと、描いた文字や絵が浮かんでくるのです。みかんの出回る季節にやってみたのですが、原理が分かると、どうってことはないのですが、最初にやった人は、やはりすごいなあと思ったのです。

 闇の中で行われている物事を、灯をかざすことによって、見えるようになるのも、〈あぶり出し〉になるのでしょうか。犯罪など、世の中に起こっている事件や出来事の原因などについても、それを究明するために、警察や税務捜査官や特捜が活躍しています。この方たちは、〈あぶり出し〉の専門官かも知れません。

 戦後政治に「闇」の部分があって、国民には、長く隠されていました。知る由のなかった、その闇が暴かれた事件が、先ごろあったのです。私たちが学校に行っていた頃からでしょうか、キャンパスで、ある団体が、熱心に活動していたのです。共産主義運動と創価学会と統一教会などでした。巧みに口車に乗せて、信者やシンパ(共鳴者)を獲得していたのです。

 五月になると、後に「さつき病」と言われるようになる病が、学生の間に蔓延していきました。夢を持って入学したにも関わらず、授業につまらなさ、教師陣の熱のなさなどで、期待が裏切られて、戸惑った学生が、虚な目をして、心理的に不安になっていたのです。同級生には自殺者もいました。大阪医師会が、次にように知らせています。

 『入学や就職にともない学校や職場で新たな生活がスタートします。新生活は、慣れないことも多く知らず知らずのうちにストレスがたまるものです。気づかないうちに無理をしてしまうことも少なくありません。また、仕事の内容や環境が自分に合っていないために、「適応障害」を起こしていることもあります。こうして1カ月が過ぎ5月になる頃に、身体のだるさ、疲れやすさ、意欲がわかない、物事を悲観的に考えてしまう、よく眠れない、食欲がないなどの心身の症状が現れることがあります。これを「五月病」といいます。五月病は、正式な医学用語ではありませんが、一般に、この季節に学生や新入社員に起こりやすいため、こう呼ばれています。』
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 さめていた自分は、時間のある時には、アルバイトなどしたり、出会った級友たちと、駅前のルノアールで、苦いコーヒーをすすってのお喋りで、自分の経歴や夢や恋心を、けっこう熱っぽく語って、自己顕示、自己主張をしていたので、罹患しないですみました。夢なんか、破られて丁度のものと思っていたこともあってです。それにしても濃くて苦い印象が、最初の頃のコーヒーの味だったなあ。

 昨年の前の首相へのテロ事件は、単なるテロリストによる、政治的な犯罪なのだと思っていましたが、隠れたことがあったようです。安倍一族と、お父さんの義父に当たる岸信介元首相と、〈勝共連合(反共産主義運動を縹渺した統一教会)〉との強固な繋がりを継いできた勢力への反動、〈NO!〉でもあったのだそうです。宗教被害、二世代被害だけの不満爆発だけではなく、事件の結果が、そのようなことが暴露されたこと、隠れたものが〈炙り出し〉になってしまったのでしょう。

 隠れたところで行われた出来事は、隠れたところで見ておられる方によって、お見通しで、それが必ず露見してしまうのです。善も悪も、人を造られた神さまは、漏れなくご存知なのです。だからでしょうか、疑心暗鬼になって、政治不信が蔓延してきてるのです。かつて、それが亢進してしまって、侵略戦争を起こし、敗戦によって、国が破綻してしまったのが、歴史の事実なのです。

 一人一人は良くても、組織に組み込まれた人、組織に動かされる人は、思ってもみなかった結果を、いつの間にか生んでしまうのでしょう。初めは、全く意図したり、計画したことにないことが、闇の勢力に inspire されてしまうと、もう訂正できないようなうねりや、激流になって飲み込まれ、あれよあれよと思っているうちに、悲惨な結果を生んでしまうのです。

 まさか、あのピラトだって、イエスさまを十字架につける最終決定者になろうなどとは思いもしなかったのでしょう。でも、歴史の激流に中に呑み込まれて、末代まで、その恥な罪深い執政官というレッテルをもらったのです。そのキリストであるイエスさまによって、自分の人生の方向が変えられて、満足で今を過ごしております。ピラトになるまじく、主なる神さまを畏れ、今を生きたいものです。

(「喫茶店とコーヒー」のイラストです)

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父の日後日譚

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 「父の日」だったからか、母親を気遣ってか、いやその両方で、ハワイにいる長女が、浅草に寄って、浅草名物を買い込んで、東武特急日光線で、ハワイからやって来ました。浅草名物を手にしてでした。溢れるようなお土産を満載した二つのスーツケースを羽田空港で宅配にしてでした。「コロナ禍」で親孝行のできなかった三年の後の帰省でした。

 届いたのは、食卓に載せきれないほどでした。ここでは買い出し、食事の用意、後片付けをやってくれています。昨日は、県都・宇都宮に行って、綿の手拭、駅弁、モツ焼鳥などを買って来てくれました。” Tops chocolate cake “ を夕食後に、20年以上ぶり食べて満足でした。

 前日の土曜日の昼過ぎに、新宿発の一本で来れる日光・鬼怒川行きの特急電車で、次男が新宿のデパ地下で、母親のために、来るたびに持参する浅草名物の「よもぎ団子」、それに「水羊羹」、「大学芋」、「豚の角煮」、「落雁」などなど、ちっと甘い物傾向の菓子類などを手にして、やって来たのです。家で、姉弟、積もる話が盛り上がっていました。

 その夕方に長男家族が、中華セットの夕食を手に、玄関のチャイムを鳴らしました。嫁御は、体調不良の肩のツボを、巧みに押して、アンマをしてくれました。頭痛で日本手拭いで、鉢巻きをしていたのが、すっかり無くなってしまいました。すごく上手でした。孫たちは、面白おかしく、オバと幼い日を語合い、九時近くになって、明日の礼拝のために帰って行きました。

 『今日はこちらで父の日です。日本は昨日でしたね!🙇ごめんなさい。いつもいつもブログやメッセージで励ましてくれて、本当に感謝してます!お父さんの正直な気持ちがよく分かるようで、いつも楽しみにしています。これからもご指導のほう、よろしくお願いしますね!8月の終わりに会えるの楽しみにしています!!では。』と、アメリカ時間の「父の日」の Message を、この交わりに加われない次女が送ってくれました。8月に、家族で訪ねてくれると言ってくれています。

 『多過ぎ!!!」と、何度か言われたこともあったのですが、四人四様の今を、精一杯、それぞれが生きていて、優しいお母さんとガミガミオヤジを思っていてくれています。

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この頃の散歩道の花々

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 『しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(マタイ6章29~30節)』

 こちらに住み始めた頃、前の家の近くの家の庭に、「サボテンの花」が咲いていて、『キレイだなあ!』と思って通り過ぎたまま、時が過ぎてしまいました。自転車ではなく、散歩していると、あの時以来、数年ぶりに、咲いていたのです。

 もう嬉しくなって写真に撮りました。砂漠でなく、道路に面した庭で見て、うれしくて可愛い子に逢った気持ちでのシャッターだったのです。梅雨の合間に、通り過ぎる道の端に、美しく咲いている花々に励まされています。

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へゝ、のんきだね!

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 添田唖蝉坊が、明治・大正期に、おもに浅草で活躍し、世の中を斜めに眺めて、壮士節を継承し、表現したのが、「のんき節」でした。時の政府や財閥、権力者や社会を笑い飛ばした「風刺」の演歌だったのです。路傍での演説の代わりに、壮士たちがバイオリンを弾きながら、こんな歌を歌ったのです。だれもが、呑気に生きたいのですが、この世の現実は、世知(せち)辛く、問題ばかりで、将来を見通せなく、問題や課題が山積した、邪悪なままにとどまっているからです。

學校の先生は えらいもんぢやさうな
えらいから なんでも教へるさうな
教へりや 生徒は無邪氣なもので
それもさうかと 思ふげな
ア ノンキだね

成金といふ火事ドロの 幻燈など見せて
貧民學校の 先生が
正直に働きや みなこの通り
成功するんだと 教へてる
ア ノンキだね

貧乏でこそあれ 日本人はえらい
それに第一 辛抱強い
天井知らずに 物価はあがつても
湯なり粥なり すゝつて生きてゐる
ア ノンキだね

洋服着よが靴をはこうが 學問があろが
金がなきや やっぱり貧乏だ
貧乏だ貧乏だ その貧乏が
貧乏でもないよな 顏をする
ア ノンキだね

貴婦人あつかましくも お花を召せと
路傍でお花の おし賈りなさる
おメデタ連はニコニコ者で お求めなさる
金持や 自動車で知らん顔
ア ノンキだね

お花賈る貴婦人は おナサケ深うて
貧乏人を救ふのが お好きなら
河原乞食も お好きぢやさうな
ほんに結構な お道樂
ア ノンキだね

萬物の靈長が マッチ箱見たよな
ケチな巣に住んでゐる 威張つてる
暴風雨(あらし)にブッとばされても
海嘯(つなみ)をくらつても
「天災ぢや仕方がないさ」で すましてる
ア ノンキだね

南京米をくらつて 南京虫にくはれ
豚小屋みたいな 家に住み
選挙權さへ 持たないくせに
日本の國民だと 威張つてる
ア ノンキだね

機械でドヤして 血肉をしぼり
五厘の「こうやく」 はる温情主義
そのまた「こうやく」を 漢字で書いて
「澁澤論語」と 讀ますげな
ア ノンキだね

うんとしぼり取つて 泣かせておいて
目藥ほど出すのを 慈善と申すげな
なるほど慈善家は 慈善をするが
あとは見ぬふり 知らぬふり
ア ノンキだね

我々は貧乏でも とにかく結構だよ
日本にお金の 殖えたのは
さうだ!まつたくだ!と 文なし共の
話がロハ臺で モテてゐる
ア ノンキだね

二本ある腕は 一本しかないが
キンシクンショが 胸にある
名譽だ名譽だ 日本一だ
桃から生れた 桃太郎だ
ア ノンキだね

ギインへんなもの 二千圓もらふて
晝は日比谷で たゞガヤガヤと
わけのわからぬ 寢言をならべ
夜はコソコソ 烏森
ア ノンキだね

膨脹する膨脹する 國力が膨脹する
資本家の横暴が 膨脹する
おれの嬶(かゝ)ァのお腹が 膨脹する
いよいよ貧乏が 膨脹する
ア ノンキだね

生存競争の 八街(やちまた)走る
電車の隅ッコに 生酔い一人
ゆらりゆらりと 酒のむ夢が
さめりや終點で 逆戻り
ア ノンキだね

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 この歌詞以外に、〈鮹に骨なしナマコに眼なし 政府に策なし議員に抱負なし 民に職なし 愛もなし 皮肉にや抱負と骨がある へゝのんきだね〉などと歌っていました。

 この令和の御代には、どんな「のんき節」が歌われるのでしょうか、庶民の目をくらます、颯のようなツブテが上の方から飛んできます。身をかわしても避けられないで、まともに受け止めてしまうのです。

 この演歌師の気分になって、笑いを誘う、風刺やhumor (ユーモア)や、機知にあふれた歌詞で歌ってみたい気分に、私もされています。まさに物価高で経済不安、戦争や戦争の噂が飛び交い、テロリストの暴挙、軽い気分なのででょうか殺人、詐欺、強盗のニュースが矢継ぎ早です。呑気ではいられない世情の中で、神経質な世の中を、『へゝのんきだね!』と笑いでとらえてみたいものです。

(演歌師のイラストです)

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美味しい果物の季節到来.

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 私たちが、過ごした華南の家で、この時季の一番人気は「マンゴウ」でした。小ぶりな物が安く、甘くて香りが好く、南国の香りと味がして、美味しいのです。種類も多く、台湾から輸入された物は高級で最高ですが、もらって食べるくらいです。二番人気は「パパイヤ」、『3つで10元です(1っこ60円ほど)!』と売っていて、檸檬(レモン)を絞って果肉と一緒に食べた味は最高なのです。

 わが家を訪ねてくださった日本からの友人に、これをご馳走しましたら、実に美味しそうに食べていたことがありました。三番人気は「榴liulian/ドリアン」、匂いは強烈ですが、<果物の王様>だけあって、他を凌いでいます。ただ、とても高いので、素通りしていました。四番人気は「マンゴスチン」、これは「果物の女王」と言われるだけあって、冷やして食べたら、ほの甘くて、上品な舌の感触があります。

 果物は、日本では目が飛び出すほど高値ですが、それでも、あちらでは安く買い求められます。スイカ、ぶどう、桃、梨が出回って、何種類もの杏子も、果物屋の店頭に並んでいるのです。国が広いからでしょうか、それに輸入品も出回っていて、果物種類の多さ、同じ果物でも何種類もあって、名称が違っています。果物好きには、天国の様です。

 「サトウキビ」も、収穫したままの太い篠竹の様に、店頭に立てかけてあって、買うと、皮剥き機で剥いてくれたり、絞り機で果汁にして売っています。土が付いたままで売っていますのです、ちょっと買う気にはなりません。郊外の畑に植えられている、周りの様子を見ているので、買う手が引っ込んでしまいます。
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 格子戸で囲まれた小区の入り口の脇にある果物屋に行きますと、『これが美味しいよ!』と勧めてくれましたので、財布と相談しながら買ったり、手を引っ込めたりしていたのです。熱く火照った体に、夏場の果物は、最高です。毎週、水曜日にお邪魔していた家は、いつも果物を用意して出してくれたのです。なんでも美味しいのです。『これ甘くて美味しいですよ!』と、ご夫人が手で渡してくれて、美味しそうに頂いていました。

 彼女は、美味しい果物屋を知っているのです。『何処で買うんですか?』と聞きたくなる言葉を引っ込めています。そんなこと言ったら、買ってきてくれるからです。亜熱帯の地、この街の人たちは、生きることを楽しむのだそうです。それに気前が好くって、人のことを考えていてくれ、実に好い人たちなのです。瑞々しくて美味しい果物の様です。

 こんなことを思い出したのは、昨日散歩帰りに寄った、スーパーマーケットの果物売り場に、マンゴウがたくさん並べられてあったからです。一つ、980円で、メキシコからの輸入品でした。しかも追熟前で、あの甘い香りもしなかったのです。ブレンダーで、牛乳とラカント(羅漢果から取った甘味料)に果肉を入れて、撹拌して頂くと美味しいのですが、手が出ませんでした。

 もうスイカやメロンのシーズンなのでしょうか、たくさん並べられてありました。〈高級果実〉、なんだか今年は値段がとびっきり高いのです。それで、ニュージーランド産のリンゴとオレンジを買ったのです。これからは、梨がでまわり、桃も季(すもも)もイチジクも、店頭に並ぶでしょうか。果物の美味しい季節を感じております。

(「マンゴー」と「イチジク」です)

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我、山の子なれど

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 夏場の「泳ぎ」は、もっぱら多摩川でしました。中央線の鉄橋の下が、格好の水泳のできる箇所だったのです。硬質の粘土("ナメ"と呼んでいました)が、川の流れでえぐられて、3〜4mも深さがあったでしょうか。水は澄んでいて、「ハヤ」の魚影を裸眼で見ることができました。 

 病欠児童の自分が、四年生頃から元気になり出してからは、一夏中、そこに行っては泳いだのです。海水浴など行ったことがありませんでした。でも、文部省唱歌で宮原晃一郎の作詞で、作曲不詳の「われは海の子」をよく歌っていました。

1 われは海の子 白浪の
  さわぐいそべの松原に
  煙たなびくとまやこそ
  わがなつかしき住みかなれ

2 生まれて潮にゆあみして
  波を子守の歌と聞き
  千里寄せくる海の気を
  吸いて童(わらべ)となりにけり

3 高く鼻つくいその香に
  不断の花のかおりあり
  なぎさの松に吹く風を
  いみじき楽(がく)とわれは聞く

4 丈余のろかいあやつりて
  ゆくて定めぬ波まくら
  ももひろちひろ海の底
  遊びなれたる庭広し

5 いくとせここにきたへたる
  鉄より堅きかいなあり
  吹く潮風に黒みたる
  はだは赤銅(しゃくどう)さながらに

6 波にただよう氷山も
  来たらば来たれ 恐れんや
  海巻きあぐる龍巻も
  起らば起れ おどろかじ

7 いで大船を乗り出して
  われは拾わん海の富
  いで 軍艦に乗り組みて
  われは護らん海の国

 この歌は、明治43年(1910年)、『尋常小学読本唱歌(六)』(6年生用)に掲載されています。海洋国家で、国土の狭い日本が、果たそうとしたのが、海外進出、海外制覇だったのです。戦後の教育を受けた私たちは、歌詞の3番までしか歌ったことがありませんでした。平和憲法を戴いた戦後の学校で歌うには、4番以降の歌詞は削除されたのです。

 それで、海への憧れが養われて、『何時か、海外へ雄飛するんだ!』と、自分を鼓舞したのですが、結局は現状維持の危険な冒険を冒さない、平凡な生き方を選んでしまいました。それでも18でアルゼンチンを考え、大人になってからはインドネシアも思いの内にあり、結局は、六十を過ぎた頃、職を辞して、中国に行ったのです。大阪港から上海の外灘への船旅は、結構、海に憧れた少年時代を過ごした私には、満足させてくれるものがありました。

 飛行機ではなく、船の旅は、鴎が飛んだり、トビウオが船と競争したり、海に落ちていく夕陽は、驚くほどに神秘的だったのです。二日間の船旅はゆっくりで、ボウっとする時があったり、海面が見える風呂があって、そこに入って、それを眺めたりできるのも"乙(おつ)"なものでした。

 今住んでいます栃木のみなさんは、〈海なし県人〉で、海に対する憧れが強いのでしょう、よく行かれるのは、茨城県の海だそうです。小山に両毛線で行き、そこから、水戸線で出掛けるようです。もちろん、車で出かける方たちが多いようですが、この五年間、海の潮騒をきくのが好きな私ですが、まだ出かけたことはありません。

 横須賀で育った父は、少年期に遠泳をして、夏を過ごしたと言っていました。〈六尺褌(ろくしゃくふんどし)〉をしめていたそうで、溺れた時の救助を考えた、優れた水泳着だったのです。中学一年の夏に、その真っ赤な褌をしめて、ちばのうみで行われた、臨海学校に行ったのです。山のこの私は、この「海の子」の歌を、羨ましく歌っていました。

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しゃべり言葉の面白さ

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 『あー、あー、あー』、『テス、テス、テスティング』、『マイクテスト、マイクテスト』と言って、マイクロフォンを使う時に、通じているか、音の高さは大丈夫か、エコーになっていないか、そんなことを試すことがあるそうです。

 NHKなどでは、以前は『本日は晴天なり、本日は晴天なり』と、マイクテストをしたそうです。これは、英語放送をする時に、“It is fine today”を直訳したものなのだそうで、英語では、“f”“t”の音をチェックしたのですから、日本語に翻訳しても、本来なら意味がないことになります。

 こう言うのを「猿真似」というのでしょうか。中国語ですと、“d”“t” の区別が難しいのです。「電」は"dian”、「田」は“tian”なのです。この発音がなかなか大変で、物真似をするのですが、どうも猿真似で、身に付かないのです。

 “f”“h” と区別ができないのです。「ファ」が「ハ」になってしまうは、日本語には、「ファ」の発音の言葉はないからです。逆に中国の方は、「きっと」とか「ちょっと」とか「ぱっと」という発音が、「きと」、「ちょと」、「ぱと」になってしまうのです。この「促音」の発音が漢語にないからなのです。

 英語圏では、「猿真似」を、“copy cat"といって、「猫」になるのだそうです。「猫に小判」は、欧米では「豚に真珠」で、因みに中国語では「対牛弾琴」で「牛」に琴の音を聞かせることなのです。「猫に鰹節」は「猫にミルク」と言うのだとか、因みに中国語では「虎口送肉」、肉食の「虎」の口先に肉を置くのに似ているようです。

 アルバイトをしていた時に、秋田出身の社員の方がいて、東北弁の口調を、初めて自分の耳で直接聞いて、すごく暖かさを感じたのを覚えています。性格が穏やかで、いつもニコニコしていて、恥じないで一生懸命喋っていたのです。『うんだべさ!』を聞き覚えて、時々使ったことがありました。『そうなんだ!』というよりも、本当に、その通りなのが伝わってきたのです。寒いから、あまり口を大きく使わないで話した言葉なのかな、とも思ったのです。

 鹿児島で、お会いしたおばあちゃんの「薩摩弁」は、まったく分からない、まるで外国語でした。一生懸命話しかけてくれて、大歓迎してくれましたので、ただ頷くだけでした。西郷隆盛と従道も、兄弟で話す時には、「薩摩弁」だったのでしょうね。

 在華中にも、今まで標準語を話していた方が、同じ故郷の方から電話が入ると、その「方言」に切り替えて話し始めるわけです。ある時、英語での講演を、中国語に翻訳しているのを聞いて、日本語に置き換えていたら、もう疲れてしまいました。英語だって、50年も使っていないのですから。言葉って、面白いですね。

 方言を持たない、標準語語りを自認していますが、東京弁だって、江戸の下町言葉と長州弁でできたと聞きますし、その東京弁の人が、私の標準語だと思って使っているのを聞いたら、『ちょっと違うなあ!』と思うことでしょう。

 中部山岳の地で生まれ、その地で小学校一年生の一学期まで過ごした時の言葉が、家の中だけで時々混じっていたのです。父も母も、そこの出身ではないのにです。小学校を、東京の南多摩郡で過ごしましたので、土地っ子の話す〈べえべえ言葉〉を、真似して話していました。群馬県や神奈川県でも、それを話し、栃木に参りましたら、『そうだべえ?』と話す言葉を時々聞きます。

ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく 啄木

 乗り換え駅では、その沿線のそれぞれの地の言葉で、同郷者どうしの話し言葉が聞こえてくるようです。新宿駅から、長野方面行く中央線の列車に乗り込むと、甲州弁、信州弁が聞こえたのです。上野も池袋も品川も、同じなのでしょうか。歳をとって、故郷の出雲弁が出てきた、緊張感の緩んだ母のしゃべり言葉を思い出します。

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