わが dandyism について

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 男子の〈丸刈り〉が嫌われていて、『野球部員になりたくない!』と思ってる少年が増えて、部員数の少数化が起こって久しいのだそうです。自分の中学の三年間は、校則で〈丸刈り〉、坊主刈りでした。中2頃の生意気盛りには、夏休みに入ると、スソ狩りをして、長髪の真似を、反抗的にしていたのです。

 クシを持ち歩かなくていいし、第一、ジャバラの制服に帽子を被らなければならなかったのです。あの3年間の後に、慎太郎狩りでしょうか、短髪が流行っていて、上の兄がしていたので、いつも別名で〈スポーツ刈り〉をしていました。就職後は、長髪で、整髪剤をつけて、跳ね上がった箇所を、蒸しタオルまでして直して、出勤していました。

 その職場を辞めて、宣教師のお手伝いをした後、その教会の責任を負ったのです。初期に、県立高校でラクビーをしていた高校生が、問題児で、彼のお世話をし始めたのです。その間に、彼が問題を起こして停学になり、罰で『丸刈り」になりました。彼の監督者としての責任を感じた私は、床屋に行って、〈丸刈り〉になったのです。停学が解けて復学したあと、彼のクラブ連中が、大挙して、〈丸刈りになってくれたおじさん〉って、どんな人か、首実験に来たことがありました。そんなことがあって、中学以来の〈丸刈り〉だったのです。

 ある時、自転車で転倒して、左肩の鍵盤の断裂の怪我をしてしまったのです。その縫合手術で、ひと月ほど入院しましたら、同室に、教会のメンバーの方のお兄さんが、一緒でした。 両手を使えないほどの重症の怪我をされていたのです。私の手術後の左腕は、アメリカンフットボールのプロテクターのような道具で、縫合した腕を固定していましたが、右の利き腕が使えましたので、この方の食事のお世話をしたり、お手伝いをしていました。

 同じ年齢で、彼は、同じ県の私の生まれた山あいの沢の二本ほど西にある沢の山の中で、同時代に産まれていましたので、仲良しになってしまいました。彼が〈丸刈りで、看護婦さんに髪を切ってもらったので、彼の真似をして、同じように切ってもらったのです。あんなにさっぱりしたことはありませんでした。それ以来、今日まで、牧師なのに〈坊主狩り〉をし続けて、今日に至っています。

 中国に参ります時には、〈日本兵〉が、丸刈り頭だったことがあって、悪い記憶を呼び覚ますことにならないか、実は迷ったのですが、〈ごめんなさいの気持ち〉で、バッグにバリカンを入れて、海を渡ったのです。同じ大学の先生の中にも、坊主頭の方がいましたので、それを十三年間通して、今や三機目の電気バリカンを、一人で使って髪を切り続けていのです。

 もう長髪にすることはないでしょう。長髪にしても、もう髪の毛が薄くなっていて、どちらでも同じで、ポマードやチックを使うようなことはなさそうです。で、考えているのは、〈鬘(かつら)〉です。でも、そんなものを買うよりは、季節の果物を食べた方がよさそうです。ざんねんながら、もうダンディーとは縁がなさそうです。背広も、ネクタイも、ワイシャツも、黒革シューズも、一応ありますが、着る機会がなくなりました。

 あの同年齢の方は、私が中国に参ります直前、別の病院に入院されていた時に、バプテスマをさせていただきました。通常は、浸礼でしていましたが、滴礼で式を、入院先の病室で行なったのです。あれ以来、お会いする機会がありませんが、どうされてておいででしょうか。気にかかる、同じ〈丸刈り仲間〉です。

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今季の朝顔です

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 今季、夏の訪れを告げるかのように、今朝、一所懸命に咲いてくれた「朝顔」です。在華中の二ヶ所の家のベランダでも、日本から持って行った種で、鉢の中で芽を出して、様々な彩りで、毎年咲いてくれました。鉢の中に落ちた種が芽を出し、年が明けても咲いていたこともありました。

 奈良朝末期に、遣唐使が持ち帰って、日本中の庭先で、タネが蒔かれ、この国を長く飾ってきた園芸の雄とでも言う花なのです。難しく複雑ではなく、単純に朝咲いて、夕べには萎んでしまう花なのですが、1日分の元気を呼び覚ましてくれている花なのです。

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ガマンと頑張りで

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 『ガマンしないで、適切に冷房機器をご使用ください!』と言う、ニュースでの注意事項を、今朝聞いていて、悲しいかな、ある歌の一節、「 ♭ 我慢だ待ってろ  # 」が、思い出されてしまいました。

今日も暮れゆく 異国の丘に
友よ辛かろ 切なかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日も来る 春が来る

今日も更けゆく 異国の丘に
夢も寒かろ 冷たかろ
泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
望む日が来る 朝が来る

今日も昨日も 異国の丘に
おもい雪空 陽が薄い
倒れちゃならない 祖国の土に
辿りつくまで その日まで

 これは、望郷の歌の一つなのでしょう。終戦後に、旧満州に攻め込んできたソ連軍によって、はるか北のシベリヤに抑留された日本兵が、山紫水明の祖国を思い出しながら歌っていた歌です。後に分かったのは、作詞家の増田幸治も、作曲家の吉田正も抑留経験者で、収容の兵舎で作り上げたのだそうです。その旧作の歌を、一人の復員兵が、NHKのど自慢で歌ってから、大反響が起こったのです。それからしばらくして、二人の作詞、作曲家が名乗り出て、日の目を見た歌だと言われています。

 ある方が、お父さんの抑留体験を、次のように記していました。

 『私の父はシベリア抑留者です。幸い、昭和24年無事に復員することが出来ました。しかし、4年間の抑留生活については多くを語ろうとはしませんでした。約60万の日本軍捕虜が酷寒のシベリアで強制労働をさせられ、その内約6万人が亡くなっています。父は28年前に亡くなりましたが、生前TVでこの「異国の丘」が流れると泣いていました。シベリア抑留者の血を吐くような望郷の思いを謳った「異国の丘」は、私たちの心にいつまでも残る絶唱でしょう。』

 子どもの頃に、「りんごの歌」、「とんがり帽子」などと一緒に、この歌がしきりに歌われ、ラジオから聞こえてきたのです。父は、戦時下には軍需工場で働いていて、軍隊の経験はなく、抑留経験もありませんでした。当時の若者が、「お国のために」、いえ「両親や妻や子や孫のために」、ある者は兵士として、ある者は軍属として、また背後の工場で働きながら、戦中を生きていたわけです。

 焼夷弾で日本中が焼かれて、広島と長崎には原子爆弾が投下されて、あの戦争が終結し、様々なことがあったのです。この歌を歌いながら、日本の再建のために働いて、平和と繁栄を手にしたのです。

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 中部山岳の山の中で生まれて育ちましたから、都会生活者だった家内の家族の通ったような、食べ物に窮して、着物を手にして、さつま芋や野菜と交換するような戦後を、私の家族は通らなかったのです。よく、「尋ね人の時間」が、NHKの放送があって、大陸などから帰って来ている人の現在の所在を尋ねていたのを聞きました。

 また駅等や電車に車内では、が、アコーデオンを手にしたり、募金箱を手に下げた「傷痍軍人(しょういぐんじん)」がいたのを見かけました。『勝ってくるぞと 勇ましく 誓って国を出たからにゃ・・・』とか、『ここはお国の何百里 離れて今は 満州の・・・』とか歌う、復員兵の声が耳の奥に残っています。

 『ガマンだ待っていろ!』の歌詞を、ニュースを聞いて、戦後の歌の一節を思い出してしまう自分が、そんな世代であることを思ってみますと、ずいぶん昔、いえついこの間を忘れないでいることが不思議でなりません。頬が痩せ落ちてしまった、戦後東京の街角で撮ってもらった父の写真があったのも思い出します。目が映るような雑炊をすすって、子どもたちのために、シャニムに働いた父の世代の《頑張り》があって、生き延びて、令和の時代を迎えていることになるのですね。

(原田泰治の「故郷」、金峰山から富士を仰ぐ写真です)

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[街]シンガポール

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 マレー半島(旧インドシナ半島)の南の突端に、中華系の客家の出の、リ・クワンユウが建て上げた、585万人ほどの人口を擁する国です。長女が10年ほど、この街の会社で働いていましたので、何度となく訪ねたことがありました。

 アジアでは、実にきれいな街で、厳しい法律のもと、街の美化が保たれているのです。ゴミを捨てると、罰金刑が課せらているほどで、ポケットに手に突っ込んでいて、それを出す時、紙切れでもすり落としてしまうと、キョロキョロ辺りを見回して、拾わなければなりませんでした。

 人口構成は、中華系が74%、マレー系が14%、インド系が7.9%、その他が1.4%で、スーパーやコンビニに入ると、中国語や福州語や閩南語が飛び交っていますが、公用語は英語です。

 もともとは、マラッカ王国があったそうで、1500年代に初めに、ポルトガルが、マラッカ(航路だったマラッカ海峡で重要地でした)を占領し、1824年には、イギリス統治の時代がはじまっています。イギリス人のラッフルズという商人が、商館を建ててからの関わりです。1942年に、北から日本軍の自転車部隊が、この街に侵入し、占領してしまいます。海峡の近くには、その屈辱の歴史を記す石碑が残されてありました。

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 中国でも東南アジアでも、ここまで日本軍が侵攻したのかと思うと、平和の時代に育った私には、驚きの他ありませんでした。マレーシアの一部の島嶼部が、国家として、1965年に独立しています。

 この街の中心部に、Chinese town があって、移民の歴史を語り継ぐ記念館があって、そこに入ってみたことがありました。上海が、そうであったように、アヘンを吸っていた歴史も、生活振りの再現の展示で、忘れないようにしているのでしょう。そこに、蘭州ラーメンの店があって、麺を手延べする作業を、店主が実演していて、娘は贔屓筋で、両親の同行を喜んでくれました。撮っていただいた家内と娘と私の写真が、壁に貼られてあります。

 いつでしたか、船に乗って渡った島で、自転車を借りて、家内と娘と3人で、島巡りを楽しんだことがありました。ジャングルのような中を、走ったのですが、家内はまだ元気だったのです。美味しい食事を食べて、家に帰って、シャーワーをして、ぐっすり寝てしまったのです。朝起きたら、娘が騒ぎ出したのです。スマホも財布も身分証明書も銀行カードもパスポートもなくなっていて、私の愛用の帽子もなくなっていたのです。

 玄関の施錠を忘れていたのです。十分に注意して生活していた娘が、疲れて、確認を忘れてしまったわけです。シンガポール警察が、やって来て現場検証をしましたが、犯人は出ませんでした。ただ、いのちの無事を感謝したのでした。どうも夜中に、玄関のノブを回しながら、機会を狙っているドロボーが、このシンガポールにもいたのです。

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 ある訪問の時でした、街を歩いていて、家内が具合悪くなったことがありました。あの時もemergency car を呼んだのです。そして病院に搬送され、そこで手当を受けたのです。回復して、入院することもなく、帰る段になって、医療費の精算をお願いしましたら、旅行者だったからでしょうか、日本人だったからでしょうか、娘が働いてる街で親が具合が悪くなったからでしょうか、なんと治療費の請求がありませんでした。それが、この街での驚きの二段目だったでしょうか。

 そこには、「シンガポール植物園(Singapore Botanic Gardens)」があり、とくにシンガポール国立蘭園 (National Orchid Garden 」もあって、多種多様の蘭の花が見られるのです。今も、わが家の室内では、胡蝶蘭の白と赤の花が、晩期を迎えても綺麗に開いています。中華系のみなさんは、とくにランの花が好きなのでしょう。わが家で、こんなに長く咲く花は、今まで見たことがありません、第四期目の花なのです。

 チキン・ライスも飲茶も蘭州ラーメンも伊勢海老も、食べ物が美味しい国、街でした。滞在期間延長で、マレーシアのジョーホールバルに連れて行ってもらった、国境付近も、懐かしく思い出されます。マーライオンも、大小が港にあって、また行ってみたいなと思い返しています。忘れていたのは、娘の言っていた教会の牧師さんのお母さんが、夜景の実にきれいな海辺の高台にあるレストランにご招待いただいて、食事をご馳走してくださったことです。高校の校長をなさっていた方で、柔和な方でした。好い思い出ばかりにしておきます。

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越水?!

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 昨夕、”weather news“ を見ていましたら、雷雨予報欄が、〈40mm〉を記していたのに驚きました。通常〈1mm〉なのにです。眼下の巴波川の水位が、見る間に上がってきて、もう少しで、「越水(えっすい)」するところでした(NHK の天気予報のニュースで、仕切りに福岡や大分や佐賀の皮の水が堤防を越えたのを、「越水」と言っていました)。それを初めて聞いたのです。まさに「線上降水帯」の地上の現実は、これで二度目で、自然の猛威に驚かされた夕べでした。

 それでも昨日の散歩で、大好きな「木槿(むくげ」の花が咲いていました。夏の到来を実感させてくれる、特愛の花です。それに、桔梗の花です。

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神さまの喜ばれること

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 『神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。(詩篇14710節)』

 古代社会では、力の象徴や速さのトップは、野や宿場間や戦場を駆ける交通手段や、運搬や、戦いに、大いに用いられた「馬」でした。貴重な家畜、助け手だったのです。私たちの生活を、多方面で助けていましたから、重宝されていたのでしょう。1964年、東京オリンピックの開催の年に、東京と大阪を結ぶ「東海道新幹線」が、線路の上を疾走しました。今や、「リニア新幹線」が、宙を浮いて前進する、超スピードで移動ができる時代になっています。

 この詩篇は、そう言った「力」や「速さ」を、神さまは好まれないと言うのです。せっかちな私は、のんびりした性格の家内を受け入れるのが難しかったのです。でも、今振り返って、この五十数年を思い返して、比べてみますと、確かに行動が早かった私ですが、いつも物にぶつかったり、転んだりで、怪我することが多かったのが、私でした。堅実に、歩き始める前に、走る出す前に、よく考えて行動する家内の方が、優っていたので、もうすでにキャップを脱いでしまいました。

 「牛歩豚行(ぎゅうほとんこう)」と言うことばがあるようです。牛も豚も、ノシノシと行く様を見せていますが、馬はつまずき倒れたり、塀にぶつかったりしますが、牛歩の牛や豚行のブタは、そう言った危険性はないと思われます。

 豚に似ている猪(いのしし)ですが、その走る様を、「猪突猛進(ちょとつもうしん)」と言ったりします。その意味は、ある人間の性格や、生き方をそう言うのですが、この「猪突猛進」の人は、目標に向けて、傍を見て、状況を見ることをしないで、一直線に進むのです。設定した目的を達成するためには、がむしゃらに進んで行きます。

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 そう言った人は、行動の人として、好まれて、『こんな政治家がいたら、日本は変わる!』と好まれますが、実は失敗する可能性も大きくて、危なくて任し切れません。確かに、ラグビーの試合向きの性格ですが、それでも一歩一歩の前進の方が、勝利に近そうです。失敗の確率は少ないのでしょう。創造者でいらっしゃる神さまは、《堅実さ》を好まれ、人に、それを求めておられのかも知れません。だからでしょうか、イエスさまは、エルサレム入城の折に、ろばに乗っておいででした。

 人間の歴史を見る時に、馬よりも牛を、力よりも技を、速さよりも一歩一歩の大切さを生きた人、団体、国家の方が、長らいでいるのです。先日も、『ずいぶん歩いて来たものだ!』と、自分の過ぎた年月を思い返したてブログに記しましたが、倒れては立ち、病んでは癒え、泣いて流した涙を拭き、悪さをしては謝りをくりかえしてきた自分ができなかった「牛歩」の家内の方が、はるかに優れた生き方をしています。それが「馬の力(速さ)」や「歩兵」を好まれない神さまの、御心に適っているようで、もうバンザイのこの頃の私であります。

(”https://www.vecteezy.com/members/alexander7david“のイラストです)

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『よくやった!』

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 ある年明けの新年の挨拶状に、次のみことばを記したのです。

 『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。 (箴言171節)』

 これを読まれた牧師さんが、すぐに連絡して来て、『この春に行われる、私たちの教会の聖会においでくださって、説教をお願いします!』と言われたのです。それで、喜んで、その講師依頼をお受けしたのです。

 二泊三日の聖会で、四回ほどのお話をさせていただいたのです。その奉仕を喜んでくださった牧師さんは、翌年もお招きくださったのです。『聖書から、こんなお話は聞いたことがありませんでした!』と、そんな臍曲がり牧師の話を喜んでくださり、こんな子を産んだお母さんにも、『お会いしたいし、その証をお聞きしたい!』とのことでした。それで、母と一緒に、この教会の「婦人会」を訪ねたのです。

 その証の機会は、母にとっては誉であり、激励や慰籍でもあったようです。小学校を終えただけで、紡績工場で働き始め、養父母に養われた母でした。でも、聖書の神と出会い、この神さまが、「父なる神(アバ)」であることを知って、〈父なし子(ててなしご)〉ではなく、自分を造り、愛し、認めてくださる本物の神の救いに預かったのです。

 その出雲市内の教会に行くきっかけとなった同級生と、カナダ人宣教師の導く教会で、信仰生活を過ごしています。その方は、「熱河(ねっか)宣教」を、ご主人と共に、旧満州の地でされたのだと、母から聞きました。産んだ子たちの二人が牧師になり、もう一人はミッションスクールの教師になり、次男は外資系ホテルで働きました。気性の荒い四人の子育ての賑やかさは、兄弟姉妹のない母には、辛い幼少期を忘れさせる、喜びのひと時だったのでしょう。

 父も、生母に育てられることなく、継母の手で大きくなったので、一つには、きっと境遇が似ていたこともあって、結婚へと導かれたのでしょうか。母は、父の事務所で事務員をしていたことしか聞いたことはありませんでした。そして男の子四人(弟は戦後の生まれですが)を産んだ母親は、「軍国の母」だったのでしょうけど、戦争が終わり、新しい時代を迎えて、《平和の時代の母》は、子育てに専心してくれたのです。

 夏がくれば思い出す出来事は、父や、母に愛されて育てられたことです。愚痴も、批判も、悔しさも、父も母も口にしたことがありませんでした。一人の信仰者として、95年の生涯を終えて、生かしてくださった父なる神のもとにあるのだと確信します。熱い油の中で、中華麺を入れてあげて、たくさんの具材で作った餡をかけて、思いっきり食べさせてくれたのです。大汗をかき、フウフウ言いながら食べました。

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 生涯の終わりに、母の祈りで、遂に救われた父は、子育て中の夏が来ると、ドライアイスを入れて、紙の箱に収めたソフトクリームを、東京から電車で持ち帰って、『さあ喰え!』と言った、嬉しそうな父の顔を見ながら、頬張りついたのです。学校では運動部にも入れてくれ、お忍びで試合観戦に来てくれた父でした。カルメ焼きも揚げ餅も、父の味です。

 鮮明な思い出の日々があって、賑々しい家庭でしたが、家族のために祈り続けてくれた母がいて、その母の信仰を継承した四人の《祈る男の子たち》が、老いを迎えて、まだ支え合っているのです。〈熱々のかた焼きそばがあって、喧嘩ばかりの家庭〉で育った私たちなのに、《平和な時》を過ごせている今に、ただ感謝するばかりです。

 『よくやった!』と、子が二親を褒めるのは、おかしいでしょうか。でも、褒めたい心境の真夏の今朝であります。

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家内の宝物たちです

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 『正しい人の行く道は平らです。あなたは正しい人の道をならし、平らにされます。(イザヤ267節)』

 人には、防護本能(防衛本能でしょうか)があるのでしょうか、今や〈老い〉との対決に違いなく、こちらに越してきてから、車がないこともあって、散歩に励んできたのです。それにしても、『ずいぶん歩いたなあ!』と言うのが正直な思いです。

 山道も、畦道も、外国の道も、車の故障で高速道の端も含めて、この二本の足は、歩き続けてきたので、感謝の思いで、この年齢になって、ふと足元を見つめているところです。でも、上を見ないといけません。そこには、どんな凸凹道でも、「平にならされる神」がおいでだからです。

 YouTubeに、「100歩歩くより足振りを」と言う整体師の番組があって、天候や所用で、ちっと歩けなかったので、その勧めをやってみたのです。ほんの五分ほどでしたが、翌朝起きましたら、な、なんとお尻がいたくて起き上がれないほどだったのです。壁に手をついて、足を前後に振り、捻ったりしただけだったのです。どうもふだん使わない筋を傷つけたようです。

 『老いないために!』、『老いを蹴散らすために!』のスローガンは良いのですが、チェック機能のない〈代替運動の勧め〉は、要注意だと感じた次第です。家内が、スマホ操作を覚えてから、運動や食べ物や supplement 情報に耳と目を向けていて、なお、先日帰省した長女の勧めもあって、より敏感になっています。

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 朝食に、野菜スープを飲むようになって、数年経ちます。友人の奥さまから、いただいた本を読んでからです。それは私たちに適していて、励行しているのです。また東京にいる若い友人が、無農薬の糠(ぬか)を手配してくださって、それをフライパンで炒めて保存し、スプーン一杯を、そのスープに入れて飲み始めました。さらに、美味しくなって愛飲しているのです。

 先日、中国からお見舞いに来てくださったご婦人が、「プロティーン」を持ってきてくださったのです。以前ご主人が、関西方面の大学に出張で来られた折にも、時間をさいて、ここを訪ねてくださって、頂いたのと同じ物でした。それに、長女がコストコで買ってくれた、coconut oil 、有機蜂蜜、collagen powder 2種、友人がくださったイスラエル産のデーツ液などを、バナナ、ブルーベリー、ヨーグルトに入れて、食べているのです。何か身体が喜んでいるようです。

 それに、中国漢方の木の実や海産物、薬草も、中国本社から東京に戻って来られる中国人のご家族から、家内のためにと頂いているのです。良いものばっかり、『身体に良いから!』と、飲んだり食べたりしております。《愛》で押し流されそうです。臍曲がりの私は、逆に《採らない勧め》にも、何か意味がありそうに感じてしまうのです。家内は、『一番なのは、感謝だよね!』と言い、祈りによる神さまの祝福こそが、最高の秘訣なのだと言うのです。

 私は、サプリメント愛用家ではないのですが、適当な運動と、日常の普通の食事に、バランスよく、おかずの種類を多くして、それを口に運び、喜びと感謝で頂くことこそ、最大の健康の秘訣だと思っています。四人兄弟で、おかずを取られないために急いで食べて、残ったものを横取りしてしまうと言う、〈三男坊の悲しい習性〉で生きて来てきたので、反省点も実に多いのです。

 『来週行くからね!』との message を送って、次男が時々来てくれます。浅草の老舗和菓子店の「よもぎ餅」を欠かせずに入れ、紙袋いっぱいのお土産を持ってです。一緒に過ごせない代わりに、メールをくれる次女、家内の通院に送り迎えをしてくれる長男、四人を産んだ家内の《宝物たち》です。そんな《喜び》で、母親は輝くのです。そして私にも、そのお裾分けがあります。

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わが賛美の主よ

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 このところ、「ヨハネの黙示録」を読んでいます。この書の一説に、メロディーをつけて、いつも歌っていたのが、私の恩師でした。子どもたちは、もう幼い日から歌い出しの部分を、聴き覚えていて,時々、彼らは歌っていました。すでに大人になった今でも、この聖句に出くわすと、歌い出しているのでしょうか。

 『彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」(黙示録512節』

ほーられた子羊こそは 力と富と勢いと 誉れと栄光と賛美とを受けるにふさわしいお方です

 この恩師は、アメリカの工科大学を終え、空軍の士官だったのですが、日本宣教をしている宣教師の帰国中に、テキサスに街で開かれた “ conference ” に参加し、そこでこの方と出会います。その人格的な感化と、みことばの迫りがあって、日本宣教を志したのです。パウロがテモテを、主の働き人として養成したのに倣って、恩師もその宣教師のもとで、聖書や教会の主への従順、教会への献身を学んだのです。

 もちろん、神学校や聖書学校での教育を否定していたのではありませんでした。恩師も、私の兄も私も、この養成過程を経て、主の働きに召され、按手礼を受け、群れへの責任の委任を受けました。神学や教理には縛られませんでしたが、スポルジョン、内村鑑三、岡田稔、榊原康夫、竹森満佐一、リュティなどのみなさんの説教や書物から、浅学な私は。学んでまいりました。同じように、「神の恩寵」の教えは、私が受けたものと同じでした。

 系統だった神学教育の単位を履修しなかったこと、任職検定試験を受けなかったこと、教師や牧師の資格の認定を得ませんでしたが、man to man で教えられ、単立の群れで奉仕が、32年の間できたのです。全てを網羅するカリキュラムに従って学んではいませんが、多岐に亘って学んだのは事実です。どういった動機でか、どんな価値観か、誰のためにか、どんな態度で生き、どんな奉仕をするかなどを学んだのです。金銭や異性からの誘惑の勝利するにはどうするかも学んだでしょうか。

 私は、大学教育で、教育法に則った単位を履修し、東京都から教員免許証を、卒業と同時に得ました。それで、献身以前の5年ほど公教育に従事しました。中国の大学では、日本語教師を委嘱されて、10年ほど従事しました。何人もの教え子が日本に留学をし、博士号までとったりされていました。

 私には、日本キリスト教界での資格はありませんが、《神の選びと委任》があったと自負しております。家内と私の奉仕を通して、傷ついた人が回復され、病んでいる人が癒され、無目的な人が目的を見出し、嫌っていた夫や妻を愛し始め、絶望していた人が希望を見出し、永遠の命の約束をいただく、その助力をさせただきました。それで、私も、次のように賛美するのです。

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1 千歳の岩よ、わが身を囲め、
  裂かれし脇の 血しおと水に
   罪もけがれも 洗いきよめよ。
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2 かよわき我は 律法にたえず、
  もゆる心も たぎつ涙も、
   罪をあがなう 力はあらず。
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3 十字架の他に 頼むかげなき
      わびしき我を 憐れみたまえ、
      み救いなくば 生くる術なし。
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4 世にある中も、世を去る時も、
     知らぬ陰府にも 審きの日にも、
     千歳の岩よ、わが身を囲め。
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 『主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(黙示録411節)』
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わが神 あなたは 栄光と誉れと力を受けるに ふさわしい方 あなたは全てを造られ み旨のゆえに 万物は存在し 創造された (黙示録411節)

 さらに、わが特愛のコーラスは、詩篇6212節のみことばに、福岡の教会の一人の兄弟が作曲した賛美も歌い続けているのです。

 『私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。(詩篇6212節)』

私は静かに 神を待つ 私の救いは 神から来る 私は決して揺るがない 私の救いは 神から来る 

(“ Christian clip art ” の「過越の小羊」、震災前の熊本城の堅固な石垣です)

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 一昨晩は、閃光を放つ雷光と天を揺り動かすほどの雷鳴があり、少々寝不足の昨日でした。それで、栃木市立図書館から、「雷をひもとけば(新藤孝敏著/電気学会刊)」を借り出して、読み始めています。

 古来、「雷神」と恐れられ、「神鳴る」を語源だとされてきました。「雷」の光と、つんざくような音を聞きますと、思い出すのは、アメリカ人の Benjamin Franklin です。『雷は神ではない!」と言って、それを「電気」現象だとして実験し、「避雷針」を発明していることを、小学校の授業で学びました。1752622日に、彼の実験は、小屋から、棒を立てて、その先端に金属片を置く方法ではなく、金属針を凧につけて、雷雲からの放電を得ようしたのです。

 放電があって、突然タコ糸が毛羽立ったのだそうです。息子さんのウイリアムと一緒に実験をしたのを聞いて、この科学する人は、家庭の人でもあったことを知って、なんか安心したのを覚えているのです。

 後になって、雷の実態が解るようになってから、その時のフランクリンの実験は、実に危険だったのです。落雷が針の上に落ちていたら、糸を手にしていた彼は、即死していたと考えらえています。同じように実験中に、雷に打たれて亡くなられた科学者もいたのです。 

 私たちは、学校でフランクリンの業績は、雷実験をした科学者と学んでいますが、アメリカでは、政治家としての業績が大きく、あの「独立宣言」の起草者、合衆国憲法の制定の制定に関わって、合衆国の建国時への貢献は、大変大きく、「建国の父」だった人です。

 『青年よ。私からの忠告は、聖書への知識と堅い信仰を深めることだ。なぜなら、これはあなたにとって確実に有益だからだ。』と言うことばを残しています。
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 日本でも雷で有名なのは、平賀源内で、「えれきてる」と言う電気の外来語の日本語表記に関わった讃岐の人です。江戸期の発明家ですが、この源内の友人の杉田玄白に、『あゝ非常の人。非常の事を好み。行いこれ非常。何ぞ非常の死なる。』に言わしめた人だったのです。

伊香保嶺に雷な鳴りそね我が上には故はなけども子らによりてぞ

 これは、「万葉集」におさめられた、「雷」を詠んだ和歌で、隣県の伊香保の山嶺に響き渡る雷鳴や、きらめく雷光は印象的だったのでしょう。この上野国や隣の下野国は、この雷で有名で、宇都宮は「雷都」と言われています。

 八王子に富士森公園がありますが、そこに車を止めて、しばらく大きな木の下で、休んでいたことがありました。雷鳴が鳴ったので、車に戻って公園を後にしたのです。その木に落雷があって、どなたかが亡くなったと、後で聞いたのです。すんでのところで、感電死をまぬがれた学生だった私は驚きました。

 ある方は亡くなり、またある方は生き延びます。フランクリンは生きて、別の科学者は命を落としました。そんなフランクリンも、84歳で亡くなり、この私もいつか死にます。神の国に貢献したり、社会にとって有益だから、その人は長生きをし、そうでないから短命だとは結論できません。全ての人の生と死の時を定められる、創造主なる神さまがいらっしゃるのです。それゆえ、神さまは畏れられるです。

 私は、《雷好き》で、あの雷光を見、またゴロゴロと鳴る《雷鳴》を聞きますと、スカッとするのです。とくに大陸で聞いた雷鳴は、言いようもなく dynamic だったのに驚かされました。お腹の底で響くような感覚が好きなのです。いつか、《雷三郎》と言うpen name にしたいと考えているほどであります。

(フランクリンの凧揚げ、雷光です)

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