感謝

                                      .

 口下手で、生意気で、手だけが早かったので、若い頃の特技は、「喧嘩」でした。俊敏な運動神経を父母から受け継ぎましたので、少々運動は得意だったかも知れません。ですから、どんな相手も怖いと思ったことがないのです。怖さ知らずの恐ろしさこそが、相手を先に怯(ひる)ませてしまう、これが技術巧者の相手に勝るのでしょうか。若気の至りと、物怖じしないクソ度胸で、売られた喧嘩を買い、たまには卑怯な相手には、売ってもみました。男の四人兄弟で育った者が、みんな喧嘩が強いのかというと、そうでもないようです。それでも兄たちに殴られて、痛さを知っていること、その痛さで怯えたり、尻込みしないで耐え、組み返していこうという心意気が養われたのでしょうか。そんな力量があれば、喧嘩には負けない、これが我流の〈勝ち極意〉でした。父も、『喧嘩で負けてきたら、家に入れない!』と変な家訓を掲げていましたから、負けられませんでした。もちろん、空手の猛者と対面で、殴り合ったら負けるかも知れませんが、その時の目と表情が大切なのだと思っていましたから、相手を先に飲んでしまえば、勝負は決まったものでした。

 そんな野蛮な若かりし日、青春の蹉跌(さてつ)を通過して、老いを迎えて恥じております。「恥」は覆い隠しておくべきなのでしょうか。『天国まで秘して持っていくべきことだ!』という方がいますが、「善い人間」に思われている自分が、実は、『そうではない!』と言わないと、どうしても落ち着かないのです。このまま天国に行ってしまっては、嘘と恥の上塗り(!?)になってしまって、きまりが悪いのです。もちろん召されてしまってから、何を噂されようが、もう地上でのことは関係なくなってしまうのでしょうが。

 二十五までの自分に、本当にあきれ返っていたのです。『こんな生き方(具体的には書かなのが賢明かとも思います)をしていたら駄目になってしまう!』、そんな思いが、心の思いの隅っこからフツフツと沸き上がってくるのを感じていました。それは3年の仕事が満ちようとしていた直前に、『廣田くん、僕の弟子のいる短大の、高等部に教師の機会があるけど行ってみませんか?』と言って紹介してくれたのが、W大の教授で、所長をしておられた方でした。こ生意気な私を、この方は目に留めてくれて、人生の線路を敷いて下さり、何かと面倒を見てくれていたのです。それで、勤め始めたのが女子高でした。何時でしたか、「高校教師」というドラマがあったようですが、聞くところによると、教師にあるまじき風の教師の姿が演じられていたそうですが、私は観たことがありませんでした。私が教壇に立った学校には、おかしな話にならない伝統(!?)がありました。『廣田くん、〈小さくて可愛い恋人〉を作ってもいいんだよ!』、と鼻の下が長いという典型的な音楽教師がいて、その彼に唆(そそのか)されました。男性教師たちのソフトボールの倶楽部に誘われて一緒にプレーをしたのですが、そんな時の彼らの話題の中で、卒業生が話題になることがありました。『ほら◯◯、☓☓先生の可愛い子・・・』、私は、悔い改めて真面目な教師になろうと決心して転職していたのです。酒もタバコも喧嘩も止めました。というよりはやめられた、そういった方がいいでしょうか。

 「聖域」だと言われていた世界が、そうではないことを知って呆れ返っていました。『これは、例外的なことなのだ!』と、今でも思っていますが、小説がテレビのドラマ化されるのですから、ほかにも、悪モデルになる学校が実在していたかも知れません。男を見る目の育っていない少女を、自分の恋愛の相手にする彼らの馬鹿さ加減、教師の風上にも置けない彼らに耐えられないで、2年で、その学校をやめました。所長や、短大の教務部長をしていた先生には、大変申し訳ないことをしてしまったのです。

 今思うと、誰にでもできない経験の中を通されてきたということになるでしょうか。恋文やギフトを下駄箱の中に入れられたり、待ち伏せされたり、家まで付いて来られたりの、強(したた)かな少女たちもいましたが、あの時の同僚のようなことは決してしませんでした、本当です。女子高の男性教師、どんな男でも、少女たちの憧れの対象になるからでしょうね、『もてた!』と自慢する人もいますが。うーん、「恥な過去」を持つことは、「善行」だけで過ごして、自惚れるよりもいいかも知れませんね。ちょっと恥ずかしいのですが、それでも生きるって楽しかったと思うのです。あっ、臨終のことばのようになってしまいましたが、今も生きていてよかったと思っています。自分の人生に記念すべき出会い、ターニング・ポイントがあったから、生き方を変えることができ、いえ、自分は力ではありません。それで今日、ここで、人に迷惑をかけずに生きておられるのを、彼此(ひし)と感じております。実は、今日は、私の誕生日で、朝の4時45分に山奥で生まれたそうです。両親に感謝!(投稿に躊躇しましたが、19日になって再投稿を決めました)


(写真上は、故郷の山からフジを望むもの、下は、12月になってから咲き出す「プリムラ・ジュリアン」です)

人の特質

                                      .

 上智大学で、「死の哲学」を、長く講じておられた、アルフォンス・デーケン教授が、「人が持つ3つの特質」ということで、次の三点を上げておられます。

 ① 考えること
 ② 選択すること
 ③ 愛すること

 どういう事を言おうとしておられるのかを考えてみました。私が人間であるのは、「考える」からなのだということでしょうか。いつも私は考えているのですが、空腹時には、食べ物のこと、ちょと寂しくなると、過去や子供たちや孫たちのことに思いを馳せます。事件が起きますと、なぜこういったことが起きたのだろうか、結果はどんな影響になるのだろうか、関係者の気持ちなどを考えるのです。そんなことを考えていましたら、北朝鮮の金正日死去のニュースが、先ほど、耳に飛び込んできました。そうしましたら、横田めぐみさんのことを思い出したのです。何時でしたか彼女の手紙を読んだことがありました。小学校5年生のめぐみさんが、旅先からご両親や弟たちにあてたものでした。そこには、

  『たくや、てつや、お父さん、お母さん、もうすぐ帰るよ。まっててね。めぐみ。』

とありました。めぐみさんは、ご承知のように、北朝鮮に拉致されて、強制的に家族から引き離されてピョンヤンで生活していると聞きます。結婚もし、お嬢さんがいて、そのお嬢さんが日本にやってきたこと、そんなことを知っています。ご両親が、拉致被害者の会の責任をとっておられ、テレビのニュースになんども出ておられるのを見ました。お母様の手記も呼んだことがあります。犯罪によって分断された家族とは、どういったものなのかも考えてみたことがありますし、もし、これが自分や自分の身近にいる人だったら、どんなことになっているのだろうかとも考えたのです。もちろん、めぐみさんは、どんなことを考えながら、異国の地で生きてきているのだろうかとも思わされます。ご両親、二人の弟のことを考えない日などなかったに違いありません。

 日本で生活をしていたら、自分の意志で学校も職業も結婚相手も、人生に関わる様々な、〈選択〉ができたのだろうと思うのです。そういった選択権を暴力で奪われて、思ってもみなかった、第三者や国の目的にために強制されて生きなければならなかったに違いありません。人である証の1つは、「選択すること」なのに、自分の願望を奪われ、他者の意思に従って生きるというのは、非人間的な取り扱いなのです。1977年に拉致された時が、めぐみさんの年齢が、13歳でしたから、今年47歳になっておられます。この年の春、「北国の春(いではく作詞、遠藤実さっきょく)」のレコードが発売されています。これを文章化してる時、道路の向こうから、この曲が流れてきたのに驚かされました。

 めぐみさんの家族への手紙の中には、家族への思いが込められていますから、死亡との北朝鮮からのレポートの信憑性が疑われますから、生きていらっしゃれば同じ家族への「愛」の思いを溢れるほどにお持ちに違いありません。「愛すること」も「考えること」も、人の心の中に精神的な活動ですから、どんなに自由を奪われ、将来を奪われ、家族を奪われても、これだけは、誰によっても奪われることはないわけです。社会学者は、人間の基本的な欲求の1つに、「愛することと愛されること」を上げています。特にお母様の早紀江の思いを知ると、早急に帰国の道が開かれることを切に願わずにはおられません。

 デーケン教授は哲学者ですから、言われることは意味深長です。私は、上智大学で、彼の講座を受講したことがあります。1959年に来日され、誰もが避けることのない「死」に対して、積極的に学ぶことを推奨され、「死に対する準備教育」に携わってこられました。私は、彼の講義を聞きながら、死を避ける傾向の極めて強い日本の社会の中で、覆いがかけられ、その上にほこりがうず高く積もった「死」を白日のもとに晒した貢献は大きいと思います。生きたいと願うなら、「死」を学ぶことが、きわめて重要であることを主張されているのです。もし私たちが、充実した生を生きたいと願うなら、生の終着駅の「死」に、真正面から立ち向かうように勧めておいでです。

 誰の「死」も願ってはいけませんが、人道にもとる行為の人が、なくなることによって、新しい展開がなされ、抑圧された人々が自由を手にすることができるなら、それもありかなと、迷いながら考えております。帰りを30数年も待ちわびているご両親と弟さんたちの気持ちを考えますと、悲しい人の死が、希望の光となるのかも知れないなと、そんなことを思っている、「冬至」間近な日の午後であります。

(写真は、北国の春を告げる花の開花です)

女の修行

.

越後瞽女(ごぜ)の小林ハルさんが、『いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行。』、と言われています。教育など受けたことがない方だったのでしょうけれど、驚くほどの含蓄のあることばで、なんども頷いてしまいました。学校出たての頃に、上司の狡さに憤った、未熟な私は、一悶着起こしてしまいました。青年期の融通の無さなのでしょうか、理想主義に青臭く生きて、現実の世の中を知らなかった結果だと思います。そんな私だったのに、味方してくださった方がいました。警視庁に勤めながら、夜間の大学を卒業し、転職して私と同じ職場におられた係長でした。ちょうど〈兄貴〉と呼ぶのが相応しい年齢で、まだお酒を飲んでいた頃でしたので、よく連れ歩いてもらいました。彼の親しい仕事上の友人が福岡にいて、出張した折に、大変なお世話をしてくれました。若い頃の〈世話〉ですから、お察しがつくと思いますが、博多弁というのでしょうか、九州ことばが〈男っぽさ〉を感じさせてくれて、さっぱりした〈九州男児〉と呼ぶのに相応しい方で、博多の中洲を、あちらこちらと案内してくれたのです。

思い返しますと、沢山の方々と出会って、共感したり、尊敬したり、あるいは嫌悪したりしてきましたが、ハルさんが言われうように、善人との関係は、〈祭り〉のように、賑々しく、楽しく、時間がたってしまうのを惜しむような交わりをもちました。「学ぶ」ということばの語源は、「真似ぶ」だと言われています。師が書かれた書を、一画一点同じように書く、つまり真似して書き上げることが、いわゆる〈書道の真髄〉だと言われています。スポーツにしても、上手な投手の投球法を、打者の打法を真似ることから始め、迷ったときには、基本に帰って、また真似るということによって、好い結果を残せる選手になっていくわけです。空手だって、「型」から入り、組み手はあとから鍛錬していくのです。ですから書を読んで学ぶことよりも、人から学んだことのほうが多かったのではないでしょうか。

ところが、〈良い人〉とばかり出会わないことが、かえって生きていることを楽しく面白くしてくれるのでしょうか。今で言う、〈空気の読めない人〉とか、ひっきりなしに否定的なことを言う人、人を非難し中傷してやまない人、人と和していくことのできない独行の人、お酒を飲まないと何もいえない人、飲むと目を座らせてくグズグズと愚痴をならべる人、一人でしゃべりまくっている人、いじけている人、自慢する人、過去のことばかりに思いを向けている人、挙句のはてに、奥さんの悪口をしていた中学の英語教師、下ネタばかりが話題のおじさん、男の中にこういう人が意外に多かったと思います。こういった人を「反面教師」、ハルさんに言わせると「悪い人」と言うのでしょうか。この所謂(いわゆる)、「悪い人」に「真似ぶ」こと、『彼らの真似はすまい!』とは思わされましたが、彼らから学んだことのほうが、〈いい人〉から学んだことよりも、はるかに多いのだと思います。ハルさんは、『悪い人との関わりこそが、私の人生修行でした!』と言っておられるのです。「修行」を、goo辞書で調べますと、『[名](スル) 1 悟りをめざして心身浄化を習い修めること。仏道に努めること。 2 托鉢(たくはつ)・巡礼して歩くこと。「全国を―する」 3 学問や技芸を磨くため、努力して学ぶこと。「弓道を―す… 』とあります。


避ける代わりに、恨む代わりに、その人から学んだハルさんは、盲目という境遇の中で、人にいえない程の辛い経験を、現・三条市に明治30年に生まれ105歳でお亡くなりになるまで、お持ちだったようです。特に家族からの仕打ちは、恨んでも余りあるものがあったのですが、彼らを赦してしまう度量の大きさには驚かされます。何と、黄綬褒章を受賞され、「人間国宝」と呼ばれる晩年を迎えておられます。「瞽女さん」とは、「盲御前(めくらごぜん)」から派生した呼び名で、門付けをしながら、三味線を弾き語りし、お足(お金のことです)やお米や野菜などを貰って、村から村を渡り歩いて生きていた、旅芸人でした。ハルさんは、自分の境遇を跳ね返して、すべての悪しきこと、悪い人との出会いの経験を「修行」にして、生きたのです。同じ新潟県の出身で、連合艦隊司令長官だった山本五十六が、『苦しいこともあるだろう、言いたいこともあるだろう、不満なこともあるだろう、腹の立つこともあるだろう、泣きたいこともあるだろう、これらのことをじっとこらえてゆくのが男の修行である。』と言っています。ハルさんのことばにくらべると、私の好きな日本人の一人でありながら、何か色褪せて、口先だけのことばに聞こえてなりません。古い日本の雪と因習の深い裏日本の片田舎で、女が生きるということ、しかも目が不自由だっただけで、不条理の中を生きなければならなかったハルさんの「女の修行」のことばは、千金にも万金にも兆金にも聞こえるのです。

(写真上は、小林ハルさんのお顔、下は、ハルさんの生まれた新潟県三条市です)

ダモクレス

.

 「ダモクレスの剣」を、〈コトバンク〉で調べますと、「栄華の中にも危険が迫っていること。シラクサの王ディオニシオスの廷臣ダモクレスDamoclesが,王位の幸福をほめそやしたところ、王が彼を天井から髪の毛1本で剣をつるした王座に座らせて、王者の身辺には常に危険があることを悟らせたという故事による。 」とあります。一国の命運を握って、様々なことを意思決定し、それを行っていかなければならない政治指導者は、その地位に甘んじるだけではない。その責任の重大さをしっかり受け取めて、死の覚悟を決めて取り組まなければならないといった、自戒の意味にとれる話です。もちろん、これは国だけではありません。一つの会社、一軒の商店でも同じではないでしょうか。そこには社員や店員がいて、その彼らには妻子・家族がいるのです。社員の子弟の衣食住、さらには将来を左右するような責任を、ボスは負っているのですから。

 ある会社が倒産の危機に瀕していました。知り合いに、その会社の部長をされていた方がいました。その苦境を彼が訴えてきたのです。私は、『あなたの部下の再就職のために力を尽くしてください。彼らには奥さんがいて子どもさんたちがいます。あなたの責任は大きのです。まず彼らの生活の安定をはかってあげなさい!そのあとでご自分の・・・』とアドバイスをしました。ところが、自殺に誘われるような中を通っていた彼は、部下たちを残して、転職してしまったのです。私は、心の底で、『バカヤロー!』と叫びました。『あなたが、自分の部下のために逃れの道を設けてあげるなら、天はあなたを助け、あなたの家族が路頭に迷う様なことはされない。きっとあなたには、素晴らしい仕事の機会と立場が備えられるから!』と励ましていたのです。


 私は、以前、ある小さな会社を持っていました。子供たちが教育の必要としていたときに、その仕事が与えられたのです。本職以外の事業で、学生の頃のアルバイトで経験していた仕事でした。営業努力の末に与えられたというよりは、天から降ってきたようにして備えられたのでした。なんと、子供たちの大学教育が終わるまで、この事業は続けられ、教育の終了の月と共に、終わったのです。これも私の意思ではありませんでした。これは私と家族にとって不思議な経験でありました。妻や子どもたちが人並に生活していくことができるために、何か偉大な力が、夫や父親を導き、彼らを雇用する業主に、特別な知恵や機会が備えられるのではないでしょうか。食べて、着て、住むことができ、教育が受けられ、たまには娯楽ができるように備える、そういった責任が委ねられているわけです。そのために、責任ある方々には、特別な知恵や能力や機会が備えられるのではないか、そう思うこと仕切りです。

 資金のやりくりや仕入れや販売、人の雇用など、社長さんたちは、強烈な重圧のもとにあります。『誰か、経営を代わってくれないか?』と思うのも当然でしょうか。まさに、一本の毛髪の吊るされた剣の下に、座らされ身を置いているような重責を感じているのも事実です。

 私たちは、国の責任者に立てられている方を、非難こそすれ、彼のために感謝や慰労を願い、敬っていないのではないでしょうか。人間的に嫌い、思想的にも同意できない、過去の経歴に嫌悪するなどの理由がありましたが、彼は、一国の「命運」、1億3千万人の命と財産と将来を、任されているということになります。この中国ですと、14億人(ある方は19億いるかも知れないと言っておられましたが)の命の保持といった重責を担わされていることになります。後代に名を残すなどといった野心があったら、このような責任は負うことができないでしょうね。そういった重圧があって、部下を信頼できず、何時謀反を起こされるか分からないような恐れに駆られ、自分の身内の者や、子飼いの部下たちだけで身を固めた《専制》や《独善》や《独裁》に陥ってしまうようです。何時でしたか、チャウセスクというリーダーが倒れていく場面をテレビの中に見ました。人を信じられなかったこの人は、孤児たちを集めて訓練し、親衛隊を編成し、彼らを特別に寵愛することで忠誠心を育て煽り、身辺警護に当てていたと聞きます。ここに掲げた写真は、独裁者と刻印された人たちです。一人一人消えて行くのですが、責任を放棄して独裁に走ってしまうと、天からの祝福を失ってしまう結果なのでしょうか。

 王座に座すことは、私にはありませんでしたが、「責任の座」に座ったことはあります。その重圧は、心休まることのない立場でした。共に立って、重荷を少しでも負ってくださる方、理解してくれる人、何でも相談できるメンターを切に願いました。そのような責任から離れた今、彼らのためにすべきことがあると思わされています。感謝と慰労の心を向け、手を上げることに違いありません。ふと頭上を見てしまう師走です。

(写真上は、リチャード・ウェストールの描いた「ダモクレスの剣」、下は、独裁者たちの顔写真です)

ピグマリオン

                                      .

 「ピグマリオン効果」を、goo辞書で調べますと、「pygmalion effectとは、教育心理学における心理的行動の1つで、教師の期待によって学習者の成績が向上することである。別名、教師期待効果(きょうしきたいこうか)、ローゼンタール効果(ローゼンタールこうか)などとも呼ばれている。なお批判者は心理学用語でのバイアスである実験者効果(じっけんしゃこうか)の一種とする。ちなみに、教師が期待しないことによって学習者の成績が下がることはゴーレム効果と呼ばれる。 」とあります。小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年、合計しますと16年間も学校教育を受けたことになります。人生八十年としますと、5分の1は、学校教育のもとにあったことになります。もちろん、高校や大学は義務教育ではないのですから、行く人、行かない人と分かれますが、幼稚園や保育園だって、過疎地の田舎で育ちましたから、私の場合はありませんでした。また小学校3年までは病欠児童でしたから、三分の一くらいしか通っていなかったと思います。それでも、学校に逝っていたころが懐かしいですね。

 三度目の小学校の担任が内山先生でした。おばあちゃん、いえ、小学校2年の2学期から担任してくれた女先生が、そう見えたのです。たぶん、まだ50代の前半だったでしょうね。この先生に、初めて褒められたのです。幼児教育を受ける機会がなく、病欠児童だったので、団体生活の訓練が出来ていなかった私は、授業中に立ち歩くし、級友にちょっかいを出すし、どの学年の毎学期の通信簿には、行動の所見欄には、きまって『落ち着きがない!』と記されてありました。今でいう「ADHD(注意欠陥/多動性障害) 」でしょうか。そんな私が可哀想だったのでしょうか、内山先生には怒られた記憶が、全くないのです。国語の時間に、『ガタガタゴットンガッタン・・・』と、擬音の入った記事がありました。『これは何の音ですか?』と、内山先生が聞きました。ふだん、注意をそらして聞いていない私が、このときはしっかり聞いていたのでしょう、まっさきに手を上げたのです。いたずらですが、気が弱くて手なんか上げない子だったのにです。『それは、電車の音で、引込線に入って行く時に、線路を変えていくときの車輪の音です!』と、だいたいこんなふうに答えたと思います。そうしましたら、『ひろたくん、よくわかるわね!』と褒めてくれたのです。6年間の小学校生活で、ただ一度、2年生の2学期だったと思いますが、褒められたのです。後にも先にもないのです。


 兄たちに似て運動神経はよかったようですし、知能検査の指数も高かったのだそうですが、行動に問題を持っていた私は、今でも秘密にしている多くのことが、学校でありました。病弱でわがままに育ってしまったからでしょうか、社会性が欠けていたのです。それでも、こういったことで親に怒られた記憶はないのです。やはり褒めるということは、素晴らしい教育効果を上げられることなのですね。ある方が、もう一度父親になったら、『こんなことをしたい!』という本を書いています。『子どもと子どもの母親をほめたい! 』と彼は言っていました。

 どうしたことか、そんな私が学校の教師になりました。中学の担任に大きな感化を受けたからです。この先生は、毎日の朝礼と終礼、担当の社会科の授業の初めと終わりの礼の時、一段高くなっている教壇から、我々の立っている床に降りて、常に深く礼をするのです。同級のみんなは気付いていたのか、他の教師は、その教壇の上に立って挨拶をしていました。そんな違いに気付かされたのです。数年前から、こちらの学校の教壇に立つ機会が与えられ私は、この先生と同じに、どのクラスも教壇を降りて、講義の開始と終了の挨拶をしています。それ以外思いつかないからです。同じ目線にたってものを言う、同じレベルで向きあって相対する、といった気持ちが、嬉しく共感したからです。それで、担任が教えていた社会科の教師になった、いえ、させてもらったのです。能力があったのではないのですが、人に恵まれて、面倒をみてくださった方の力添えで、高校の教師をしました。また、今回もそんな人に恵まれて、こちらの教壇に立たせていただいております。

 そんな自分の小学校時代を思い返して、国鉄の引込み線のある旧駅の構内を遊び場にして、上の兄の同級生が親分で、この親分の下で、遊んでいて聞いた物音を思い出したからです。そのように思い出した私を《褒めてくれたこと》、これこそが、私の原点なのだと知らされるのです。あの時、初めて得意になれて、誇らしい自分を知らせてくださったのですから、内山先生の覿面(てきめん)の教育効果には感謝が耐えません。よかった!

(写真上は、教室の様子、下は、田浦の廃線跡です)

『カスがいい!』

                                    .

 小学校の社会科で、インドの南にある島を「セイロン」と学びました。ところが、いつからでしょうか、「スリランカ」と国名が変更になっていたようです。新しい歴史の事実が発見されて、歴史の記述が変わってしまうように、国名も、指導者が代わり、新しい法律ができたりして変わっていくのですね。うっかり旧名で呼んでしまって、『アッ、1978年に変わったんだっけ!』と、後になって思い出してしまいます。おいしい紅茶の代名詞のような国ですが、国語学者の大野晋は、このセイロン島の北東部と、インド半島の南部に居住する「タミル人」の言語が、日本語の起源の1つだと主張していました。農耕で米の栽培に関する言語が、近似しているので、海上を船に乗ってやって来たタミル人によって米の耕筰法が伝来されたと主張しました。それと一緒に、「ことば」も伝わったというのがこの方の学説です。「畑」はpat-ukar(田、畑の意)、「田んぼ」はtamp-al(泥田の意)、「米」はhakum-ai(臼で脱穀するも意)と言うのだそうですから、興味がつきません。

 さて、このセイロンに、『むかしむかし・・・三人の王子がいました・・・』で始まる童話が残されています。セイロン島のセレンディップ王国があって、そこの三人の王子さまが、悪の権化である竜を退治に出かけていくのです。なんだか鬼ヶ島に行った桃太郎伝説を思い出すよう話です。自然を愛する上の兄、幻術を愛する次の兄、弟は勇気を愛する、三人三様の善良な三兄弟が、力をあわせて難関に立ち向かって行きます。そして竜退治の旅の途中で、上の兄たちは、王族の娘をめとり、弟は百姓の娘を妻とします。それぞれ愛する女性を見つけるのです。三兄弟は、旅の途中で出くわす、様々な問題や物事に、協力しながら立ち向かって、解決の道を見出していきます。彼等が生まれつき持っている才能や性格、たとえば勇気や知恵が用いられていくのです。結局、そういった出来事の中で、自分の中に問題解決の糸口や策があることを知るのですが。

 この三人の王子の童話から、最近、よく聞く「セレンディピティ」と言う言葉が注目されています。何か困難な場面に立たされるとき、また大きな問題に直面するときに、その解決をもたらすものは、技術や方法ではなく、自分の目の以前や自分の内側にあるものだというのです。目的を果たせななかったけれども、何かに向かって努力していくうちに、期待に反し、予期しなかったこと、副次的に益になるものを見つけ出せることを、言っていることばのようです。あの「星の王子さま」の話も、すぐそばに大切なものがありましたし、チルチルとミチルの「青い鳥」も、近くにいたのです。「偶然の幸せをつかむ能力(Serendipityセレンディピティ)」があるのでしょうか。水を掘っていたら、石油が湧き出したり、芋を掘っていたら金が出てきたり、幸運の物語が多くありますので、私たちの人生にも、そんな経験が多くありそうですね。

  
 何時でしたか、ある雑誌を読んでいましたら、お母さんの手記が載っていました。「子育ての回顧録」で、誤解していたことが、かえって益になったという話です。このお母さんは、《こはかすがい》という言葉を聞いて、『子はカスがいい!』と聞き取ったのです。このお母さんの息子は、どうしょうもない手の焼ける子で、いたずらはする、勉強はしない、親の言うことは聞かない、札付きの不良だったのです。子育てに悩んでいたお母さんの耳に、『不良で、なんの役に立ちそうにもない、クズのような、酒を絞りとったときの残り〈粕〉のよう子が、一番良いのだ!』と信じて、息子を諦めたり捨てたりしないで、一生懸命励まして育てたのです。そのお母さんの誤解によって、息子はやがて更生し、立派な大人に成長していったという手記でした。口がもつれてしまいそうな、「セレンディピティ」と言うことばを聞いて、そんな話を思い出しました。

 盗みをして捕まりました。警察に通報されなかったのですが、学校に通報されました、私の通っていた中学は私立で、何処の学生かすぐに分かってしまう制服を着なければなりませんでした。担任は、それを問題にしないで、不問に付してくれました。そんなことが何度かあって、昔の《感化院《少年院とか少年刑務所》に行かないですんだのです。きっと行っていたら、感化院の中で多くの犯罪テクニックを学んで出てきて、大悪になっていたことでしょうか。カスのような私が、今日も、このように生きているのは、小学校から高校まで世話してくれた先生たちにとっては、《予期せぬこと》だったかも知れません。そんなことを考えていましたら、何だか、「漂泊の思い」にかられてセイロンにでも行ってみたくなってしまった、年の瀬であります。

(上の絵は、「セイロンベンケイソウ」、下のamazonの本は、「セレンディップ(セイロンの旧国名)の三人の王子」です)

蒸しタオル

                                      .
 
 『廣田先生、ご無沙汰しています!』と声をかけられて、話しかけてくれた方の顔を思い出せませんでした。ある大学で2ヶ月ほど会話を教えたことがありましたが、その時の30数名いた学生の一人が、彼でした。ホテルのフロント・ボーイとして、眼をキラキラ輝かせてゲエストを送り迎えしていたとき、私の姿を見かけて呼びかけてくれたのです。日本から来られた方と面会するので、そのホテルのロビーにいた時のことでした。どこでだれと会うかわからないのですね。僅かの間しか教えていませんのに、教室の椅子に座って、教壇の上に立ち、机間を歩きまわる教員を凝視するのですから、彼らは忘れることはないでしょうか。でも私は、もう5年も前の学生の顔は忘れてしまっていたのです。20前後の若者の成長の変化は大きいのですから、ある面では仕方がないかと、言い訳をしています。

 『「お名前は何でしたっけ?」と聞くと、「〇〇です」と答える。「うん、苗字は覚えているんだけど、下の名前は何でしたっけ?」と聞くことにしている!』と、私の弟が教えてくれたことがあります。そうすると忘れてしまったことの言い訳をしないで、名前を聞くことができる、名前を聞き出す優れものなのだそうです。彼は、幼稚園から高校まである私立学校の教師ですから、名前を覚えるのは大変です。幼児から高校生まで、幅広く体育教師をして教えているのですから大変です。どんなに記憶力が優れていても、全員を覚えることは至難の技なのでしょうか。来年、母校の管理職を最後に退職するそうです。


 ある時、『たまには東京に出てきませんか。会わせたい人がいますから!』と連絡がありました。地方都市にいた私に、ある大学で教えている知人からの電話でした。この方とは、「高野山」で行われた研修会で同席し、その後、何くれとなく世話をしてくださった方でした。『ここの胡麻豆腐が美味しいんです。いっしょの食べに行きましょう!』となんども誘ってくれて、宿坊の中でご馳走してくれました。お父様が、有名な哲学者で、彼もまた学者でした。息子のようにでも思ってくれたでしょうか、とても面倒をよくみてくれたのです。約束の帝国ホテルに参りましたら、この方と同年輩の夫妻が待っていてくれました。ある私立学校の理事長でした。『私の学校で働いてみませんか!』とのお誘いだったのです。『今回、私の学校の卒業生で、廣田鐵も招聘しているのですが・・・』と言われたのです。お話しが途切れたとき、『その廣田は、実は私の弟です!』と口を挟みました。このご夫妻も、私を呼んでくださった方も、眼を丸くして驚いていました。それは全くの偶然だったのでしょうか。兄弟とは知らないで、弟と私を教師として、同じ時に迎えようとしていたのですから、私も驚きました。

 私は意を決して、働いていた学校を退職し、アメリカ人実業家の新規事業の助手となり、彼から教えられることを願って、彼に従って東京から出て、地方都市に行ったのです。それをやめるわけにはいきませんでした。当時、私は、早朝、中央蔬菜市場で競りに参加して、野菜や果物を扱う仲買商の荷運びのアルバイトをしていました。学校に通っていたときにもしたことのある仕事でしたから、苦にならず、運動とバイト料の一挙両得で楽しい時期でした。待遇面から比べると、比べ物になりませんでした。私を紹介してくださった方には申し訳なかったのですが、理由をはっきりとお話しして、お断りしてしまいました。理事長夫妻も分かってくれました。それなのに、数年後、この方は、自分の務めている学校に、また私を招いたのです。東京に出てきて、その学校に彼を訪ねました。今度は女子大でした。長女も生まれていた頃ですから、物入りも多かったので、いろいろと心配してくれたお話しでした。その優しい配慮は肝に入りましたが、条件や将来の約束の良さで、意を覆すことができなかったのです。またお断りしてしまいました。

 それでも大過なく子供たちを育て上げることができました。大きな組織の中にある安定から、個人がささやかに始めた事業の不安定さに移っても、満足度は十二分に覚えることのできた事業への参加でした。自分を建て上げるためには貴重な年月だったと、振り返りながら思います。その実業家も、彼の友人たちも亡くなってしまいました。ふと頭を見ると、李白の「白髪三千丈(坊主頭ですから当てはまらないでしょうか)」です。髪の寝癖を直すのに、毎朝、蒸しタオルを使っていたことなど、今のこの頭を見たらだれも信じてくれないでしょうね。「月日は百代の過客にして行かふ年また旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす」と記した芭蕉に同感の今です。ゆったり時が流れていくのですが、中国の社会の発展の速さに、眼を回されてしまう、間もなく師走の十二月であります。

(写真上は、「胡麻豆腐」、下は、今の「帝国ホテル」です)

むかしむかし

                                      .

 『最近、博多の街が元気がありません!』と、ある方が話しておられました。九州では、鹿児島の「天文館」と並んで、最も繁華街としてその名の知られた街だったのですが。そういえば日本中の県庁所在市、昔から名だたる街、とくに駅前の商店街が寂れてしまっているのです。まだ日本にいたとき、倉敷に車で出かけたことがありました。そこにある「大原美術館」の展覧会を観るためだったのです。『きっと、いつか行って、観てみたい!』と憧れていた街だったので、その旅は大変満足でした。岡山に知人がいましたので、彼のところに泊めていただきました。

 この美術館は、大原孫三郎が、私財を投じて蒐集した絵画や彫刻などが展示されていて、明治期に建てられた美術館としては日本屈指のものです。思ったほど大きくなかったのですが、その小ぢんまり振りが、かえって趣を特別に感じさせられました。その折、倉敷と岡山の街を歩いたのですが、とくに倉敷の駅前は、シャッターが下ろされたままで営業してない店が、軒を連ねていました。食堂だけは、駅前にチラホラありましたので、そこに入って食事をとったのですが、『ほんとうに元気がない街だなあ!』とため息が出てしまいました。かつては、紡績で栄えた街だったのですから、山陽線の主要駅の乗降客は頻繁だったことでしょう。かく言う私も、自動車で訪ねましたので、ちょっぴり気が引けますが。それでも、商店街が元気をなくしてしまった理由は、大型店が郊外にできてしまて、中心街が分散してしまったこともあるに違いありません。大型店の出店の功罪をとやかく言う以前に、駅前の商店街を元気づけてあげたいと思うことしきりでした。

 学校を出たての私は、何度か福岡にも出張しました。そこに関係機関がありましたので、年に数回出かけたでしょうか。東京から博多まで、「あさかぜ」という寝台特急を利用しました。寝台が硬くて狭い上、車軸の金属音がうるさく、停車駅ごとの停車と出発で、浅い眠りをむりに起こされる旅でした。ああいった旅は、山陽新幹線ができてしまってからは、必要なくなってしまったのでしょう。聞くところによりますと、2005年3月に寝台特急「あさかぜ」は、完全に廃止されてしまったようです。同行の研究員とといっしょの場合が多かったのですが、駅弁を買ったり、土産物を買うことはできませんでしたが、ビュッフェで朝食をとった思い出があります。眠い目をこすりながら、朝、寝台特急を降りた博多の駅は、それはそれは賑やかな街でした。仕事を終えて、夜の「中洲(なかず)」で接待がありました。名だたる校長や理事長が同席し、芸者まで呼んでくれました。まだお酒も飲んでいた生意気な若造でしたが、殿様のようにもてなされるのが常でした。いけませんね、あのような体験というのは、人をもっと生意気にさせるからです。そんなことで鼻っ柱の高くなってきていた私に、上司で、新潟で県立高校の校長をされていた方が、私の生き方を感じられたのでしょうか、注意してくれました。この方は、田中角栄の紹介だったと思いますが、退職後、息子さんのいる東京に越していらして、研究所で課長補佐をされていました。賢く知恵のある方でしたから、叱ったりしたのではなく、『廣田さん、こんな所にいちゃあいけません。現場に出なさい!』と、婉曲な言い方で諭してくれたのです。


 〈いい出会い〉がありました。この元校長や、その他にも良い方に恵まれたと思います。生意気だったのですが、聞く耳をもって、耳を傾けられたのは幸いでした。その後、生き方を全く変えて、酒もタバコも女も、きっぱりやめました。そんな時にアメリカ人実業家と出会って、彼の事業の助手のような仕事をしたわけです。人生の一番良い時を、この方と8年近く過ごしたでしょうか。文化の違いこそありましたが、たくさんのことを彼に教えられました。私の多く恩ある人の中の一番の「師匠」です。この方には噛み付いて、歯に衣を着せずに、何でも言ってしまいました。彼は、確りと聞いてくれたのです。ただ、二人の間の齟齬(そご)については、第三者に決して漏らさなかったのです。彼が病を得て、大阪駅の近くの病院に入院されていた時、『若かったときの私を赦してください!』と言ってくれました。『私の方こそ生意気でした!ごめんなさい。』と、私も若かりし日の非礼を詫びたのです。

 そういえば、何度目かに博多に行ったときに、大分の出身で、とびきりの日田美人が、私に恋をしました(ちょっと男の卑怯な言い方でしょうか、すみません!)。ただ単に東京人だったからでしょうか。太宰府の古蹟に連れていってくれました。東京まで追いかけてきてくれましたが。好きでした・・・でも一緒になることができませんでした。今は、もうおばあちゃんになっているのでしょうね。福岡にいるのか、日田にいるのか、ちょっと懐かしくなってしまいましたが、家内には内緒です。そんなことで、思い出の博多が元気を呼び戻してほしいと願う、晩秋であります。

(写真上は、東京から博多を走っていた寝台特急「あさかぜ」、下は、昭和39年の「博多駅」周辺です)

花束

 

 「冥利(みょうり)に尽きる」を、gooの辞書でみますと、『その立場にいる者として、これ以上の幸せはないと思うこと。「教師冥利に尽きる」』とあります。今日は、1年生の「発音」の授業で、「東教201室」に、一礼して入ると、『おはようございます!』と一斉に大声で挨拶をされました。このクラスは、いつも、そういった歓迎の意を表してくれます。それで、こちらも『おはようございます!』と返しました。すると、間もなくクラスの代表の数人が、花束を抱えて私のところに近づいて、今度は、『ありがとうございました!』と言って、その美しい花束を渡されたのです。

 大学に入って、9月の間は、一切の学習の前に、新入生の「軍事教練」が、中国のすべての大学で行われます。迷彩服と帽子と軍靴を履いて、まだ真夏の炎天下に、声を張り上げ、隊列を組んで行進をするのです。芝生の植わった運動場やバスケットコートが十面以上も取れる場所で、教練が繰り返されるのを、教室にへの行き帰りに眺めてきました。それがすんで、9月の最終週から、授業が始まったのです。初めて日本語を学ぶ学生が大部分ですから、全くの基礎学習なのです。教科書通りの「あいうえお・・・ん・・・きゃきゅきょ・・・」の繰り返しです。私の後について、彼らは、『あいうえお・・・ん・・・きゃきゅきょ・・・』と唱和します。何枚ものレジュメを日毎に作って配り、それで、実に単純な発音練習を繰り返して、今日は最終講義だったのです。「素直」というのでしょうか、「実直」、「素朴」といったらいいのでしょうか、初々しい顔を上気させながら唱和する80数名の2クラスの授業を担任し、昨日一班、今日は二班の授業が終了したのです。もう少し授業数があったらと思うのですが、学校の規定ですから仕方がありません。あとは期末試験を待つのみになったところです。

 授業が終わると、全員で、『記念写真を撮りたい!』ということで、みんなが寄り添ってカメラに目を向けました。誰かが、テーブルの上に私が置いた花束を持ってきてくれ、それを抱えながらの撮影でした。それが終わると、『好き・・・「わたしはチョコレートがすきです。」』という会話を教えたからでしょうか、チョコレート好きの私のために、チョコレート、クッキー、中国の伝統玩具、鉄観音のお茶、ノートブック等々、プレゼントを渡されました。この気持を、どう表現したらいいのでしょうか、まさに、『教師冥利に尽きる!』の一言でした。物のせいではなく、彼らの心が嬉しかったのです。


 こちらにやって来て、天津で一年間中国語を学び、その後、越して来たこの街で出会って、友人になった方が紹介してくれた大学で日本語を教え始めました。もう五年になります。明日の中国を支えていく若者たちと接する機会が与えられ、彼らの学びに関わって、教授する立場が与えられるというのは、実に驚くべき特権であります。クラスが終わってキャンパスを歩いている時、いい知れない感謝と、何とも言えない充足感と疲労感、若者たちの熱気に触れる清々しさで、心が満たされ、気持ちがいくどとなく高揚したものです。これまで教えさせていただいどの学年も、素晴らしい若者たちで教室は溢れいました。学生の中には、第一志望校には進めなかったのですが、心機一転、自分の前に開いた扉から入っ来て、精一杯に学ぼうとしている姿は、実に素晴らしい心意気を感じさせてくれます。

 黒板の板書を拭き、消灯し、ゴミを拾って教室を出た私は、その花束を左手で抱え、キャンパスをバス停まで歩き、バスに乗って我が家に帰ったのです。その道筋は、勲章をもらった軍人のように、なんとも言えなく誇りを感じて歩いてしまいました。だれにも聞かれませんでしたが、『これ、俺の可愛い学生たちにもらった花束!』と自慢したい気持ちで一杯でした。お小遣いを出しあって買ってくれた、その気持が、私の「勲章」です。今日も満足な一日でした。家で待っていた妻にも、この勲章を抱かせて、記念の写真に収めたところです。いつも気持ちを添えてくれているのですから、勲章を分けあえたことで、二重に幸福をかみしめられた一日でした。

(写真上は、頂いた「花束」、下は、プレゼントに添えてあった「メッセージ」です)

どぶ板

 
 華のお江戸の新宿に、今では信じられないでしょうけど、「どぶ板(下水道に木の板で蓋をしたところ)」がありました。ところが今、JR、地下鉄、京王、小田急、バス、タクシーで降りますと、 美しいビル(コンクリートの肌の見えない)が林立し、世界に誇る繁華街が目に飛び込んできます。裏道を歩いても、道路はきれいで、段差はなく、人は安心してそぞろ歩いています。小学生の時に、新宿の東口から歌舞伎町まで歩いて「コマ劇場」に、父が連れていってくれた道筋には、古い新宿の街の風景が残っていました。中学生の頃、高校のバスケット部の試合の応援に駆り出されては、帰りに、上級生やOBがご馳走してくれた食堂街のあった西口の線路際は、雑然としていました。学校に行っていたころは、映画を観たりコーヒーを飲んだり食事をするために、たびたび降りました。その頃の新宿の道路の脇には、「どぶ板」があって、ゴミが散乱し、西口と東をつなぐ線路下の地下道には乞食や孤児、東口の駅頭には傷痍軍人を見かけました。どこを通っても、小便臭かったのですが、汚さだけではなく、昔からの人の営みの面影の「下町情緒」が残されていました。

 このように大きく変化していく様子を見ながら、日本経済のとてつもない進展ぶりを身近に感じたものでした。田舎に住んでいて、数カ月ぶりに新宿に降りますと、迷子になってしまうことが度々でした。何時でしたか、京王ルミネのビルの中の美味しい珈琲店に入ったことがありましたが、帰りに迷路のように入り組んだ通路の中で、道を失ってしまいました。西口を降りると駅前に、父の会社があって、向こうの方に淀橋浄水場があり、都電が、中央線の荻窪駅まで走っているのを眺めることができたのに、西口で迷子になって、田舎者になった自分を笑ってしまいました。たしかに懐かしいものが、1つ1つと消えていく新宿、いえ日本の街であります。


 そんな街の変化が、今住んでいる中国の町の中にも見られるのです。初めて訪華した20年前の北京でさえも、信号がほとんどありませんでした。自転車がはるかに車の量をしのいでいたのです。タクシーに乗って、胡同の中を走って目的地に行きましたが、バス路線も少なかったのです。そこには、新宿にもあった「どぶ板」のような、古きよき時代の残滓があふれていました。何よりも、北京の下町人のにおいのする営みを肌に感じたのです。

 ところで華南の町の、この5年の変化は、日本の20年~30年の変化を、一挙に遂げているのではないでしょうか。古い時代の複雑さ、怪しさ、危なさがあって、道路は段差がきつく、歩道もなく、バスを乗り継いでも、降りて歩きだしても、自転車や電動自転車が、ぶつかりそうに交わしていくのです。店の前は公共の場なのですが、我が物顔で私的に使われていました。ところが、急激な変化というのでしょうか、街の様相が激変しているのです。駅に行くためにバスに乗ると、どこをどう走っているのか曲がりくねって、皆目わからなかったのですが、今、主要道路は、ほとんでまっすぐな道路になり、上下線の中央分離帯ができ、路側帯があって歩行者保護がなされています。道路や街並みが、銀座通りのようになってしまっています。小さな商いをしていた人たちは、どこに消えてしまったのでしょうか。

 そのように整備された道路を走る中国の運転手さんの技術は、一見して上手ですが、一触即発、常に事故の可能性を秘めています。急ブレーキと急ハンドルは、タクシーもバスは、とくにそうです。それで衝突しないで車を交わしているのは、見事ですが、上手とはいえません。規則が遵守され、運転レーンを守り、車間をとり、横入りをしないなら、ニューヨークでも、東京でも、パリでも、彼らは運転することができます。街が綺麗になったのですから、走っている車が、譲り合い、歩行者優先になってくればいいのにと思っております。そういえば、昔の日本の運転も、今の中国に勝るとも劣らないのではないかと思います。かく言う私も、自転車に一度ぶつけ、もう一度は車にぶつけた過去を持っております。ひやひやは数限りなくあります。やはり、こちらでの運転は遠慮したいと決心していますが、こちらの運転の見事さに感心し、けっこう楽しく眺めているのです。

 「どぶ板」は、庶民の生活環境を象徴するような物といえるでしょうか。どこにでもあったのですが、近代化とともに不要になった物たちの総称です。中国の街角から、今、消えつつある物たちのこと、伝統的な生活様式のことでもあります。四川省の成都で、あちこち案内してくださった方が、『この街の伝統的な街並みが消えてしまうのは寂しいことです!』と嘆いていたのを思い出します。新しさと古さとは共存できないのでしょうか。先日、観光用に整備されてしまった古い町並みを歩いていましたら、「覗きカラクリ窓」を見かけました。声色を使って動物の鳴き声をしながら、カラクリを操作している路傍芸人がしていました。昔、育った街にもいたようなオジさんでした。これも消えつつある伝統芸能なのかも知れません。郷愁を誘うものが一つ一つ消えていってしまうのを残念に想う、十一月の終わりであります。

(写真上は、JR新宿駅東口、下は、江戸末期の横浜の街並みです)