遠来の客

 

「論語(ろんご)」の「学而(がくじ)」に次のようにあります。

「朋(とも)あり遠方より来る。また楽しからずや。」

*原文[子曰、学而時習レ之、不二亦説一乎。有レ朋自二遠方一来、不二亦楽一乎。人不レ知而不レ慍、不二亦君子一乎。〔子(し)曰(いわ)く、学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有(あ)り遠方より来(きた)る、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。〕]

✳︎訳文

「孔子(こうし)が言われた。『師の教えてくれたことを学び、いつも繰り返して自分の身につける。なんと喜ばしいことだろう。同じ志をもつ友達が遠くからでもやってきて一緒に学ぶ。なんと楽しいことだろう。たとえこうした生き方を他人がわかってくれなくても、気にかけたりはしない。それこそ君子といえるのではあるまいか。』」

✳︎意味

「同じ学問に志す人間は、どこからでも集まって、学び合う。同窓・同門のことも言う。」

中国華南で、何年も何年もの間、出会ってから、行き来をして来た「朋友pengyou」の二人が、昨晩、成田国際空港に到着し、京成線で浅草に出て、そこから東武日光線直通の特急で、わが街「栃木」駅においでになられました。

2019年が明けた元旦から、省立医院に入院していた1週間ほどの間、何くれとなくお世話してくださったご婦人たち、お見舞いくださった多くのみなさんの代表のようにして、家内の見舞いに来てくれたのです。お一人は、家内の娘のように、いえそれ以上に、何年も真心から助けて来てくださった二人のお子さんのお母さまです。そのお子さんたちには、家内が日本語を教えていた時期もあります。

もうお一人は、東京の大学で、博士号をとって、私たちの住む街の大学で教鞭をとっておられる、日本語の堪能なご婦人です。まるで日本人のような感じのする、《二人姉妹》のような方たちなのです。4ヶ月ぶりの家内と私の再会を、喜んでくださいました。まさに《遠来の客》であります。

友人たちの「寄書き」や、贈り物やお気持ちをお持ちくださったのです。国境を越え、過去の経緯(いきさつ)を超え、年齢を超えた「友情」、「友愛」を深く感じる訪問です。今夕は、私たちのために、腕をふるって、夕食を作ってくださったのです。家内が、『食べたい!』と注文した〈トマトと卵のスープ〉に、蒸した鯛、小エビの炒め物でした。

来ることのできなかった、懐かしい方たちの消息をお聞きしたり、思い出話にも花が咲きました。まさに、「楽しからずや」の時を共にすることができております。中国語では、「目出度い」とは言わないのですが、退院を、遠くからおいでくださって祝福してくださったのは事実です。嬉しくも楽しい時であります。

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同窓会

 

 

わが家に出入りする可愛い女の子がいます。友人で大家さん夫妻の息子さんのお嬢さんで、お母様と一緒に、時々やって来るのです。月初めの結婚記念日には、真っ赤なバラの花を一輪、入院していた家内に、お祝いだと言ってくださったのです。その他にも、お絵描きをしては、それを見舞いに行く私に託してくれました。

退院して来て、昨日の朝、家内と久しぶりに、〈いーちゃん〉が会ったのです。チラチラと視線を送るのですが、何度も会ってきたのですが、誰だか分からなかったのか、はっきりしなかったのか、それでも、『おはよう!』と家内には挨拶をしていました。

しばらくして、家内が造花のバラを持って、『これありがとう!』と、今までしていたマスクを外して彼女に話したら、『おかえり!』と言ったのです。曖昧なうちには言いえなかった「ことば」が、彼女の口から出てきたのです。その「ことば」を聞いた家内は大喜びをしていました。

500グラムほどの早産で、妊婦だったお母さまも体調不良で、お二人とも生死の境を通られたのですが、獨協医科大学病院の医療スタッフの懸命の治療で、お母さまは快復され、いーちゃんも長く保育器の中で過ごし、今では幼稚園の年中なのです。

実に賢くて、男の子のような笑をし、時々、おいたをしては、お母さまに叱られて、好い子に成長しておいでです。《ウンパー(お爺ちゃんのこと)》が、同じ病院の整形外科病棟に入院中なのです。彼女は週末には、そこにお見舞いに行ったそうです。友人は、10年前の肩の怪我でボルトを入れていたのを外して、人工関節を入れる手術を終え、快復中なのです。

ですから、快復したお二人と、入院中で不在の《ウンパー》と、退院1週間で快復途上の家内と、昨日は、まるで「獨協医大病院同窓会」のようでした。昨日は、わが家の上空を、救急患者を運ぶのでしょう、獨協医大病院の《ドクターヘリ》が、低空で航行しているのが見えました。縦横に働きを展開している《ヘリ》です。

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地名人名

 

 

ここ栃木県は、律令制の下で、「下野(しもつけ)」と呼ばれました。これは難読地名の一つです。「上野」ですが、西郷像や動物園や集団就職などで、名を馳せたのは「うえの」、群馬県を「こうずけ」と呼んでいました。そこは「上毛(じょうもう)」と言う別称もあります。これを「こうげ」と呼ぶ地名も福岡県にあります。

千葉県市川市周辺を「下総(しもうさ)」と呼び、千葉県市原市周辺を「上総(かずさ)」と呼んでいました。地名と言うのは、ややっこしいもので、正確に読むのは至難のわざです。

関東周辺の五県以外に住んだことがないので、日本全体の地名には、私は疎いのですが、「福生(ふっさ)」とか「青梅(おうめ)」と言う地名は知っています。栃木県下に、「小山(おやま)」とか「足利(あしかが)」と言う街がありますが、これもまた正確に読むのは難しいにちがいありません。

川上、上川、中川、下川、川下と言った地名、そこに住む人の苗字があります。結局、人の姓と言うのは、多くの場合、地名に基づいて、明治以降の苗字になったようです。しかも納税や兵役に就くのに、姓が必要になったと言う、行政上の実際的な必要があって決められたわけです。

元々は、「和今泉」だったのが、いつの間にか「今泉」と姓が変わってしまうこともあったようです。『いいな!」と思った苗字は、「武者小路」、「長曾我部(ちょうそかべ)」でした。若い頃に会った方が、「四郎兵衛(ひろうのひょうえ)」と言う名でした。これも自分だったら「三郎兵衛」かななどと思って見たりしたものです。

北欧や移民先のアメリカ合衆国には、“Johnson ”,“Jackson”,“Michaelson ”と言った、〈誰々の息子」と言った苗字があるのが面白いと思ったことがあります。“Smifth”は、〈鍛冶屋〉のことでしたが、後に〈職人〉のことなのだそうです。「鍛冶師(blacksmith)や金細工師(goldsmith)、銀細工師(silversmith)、スズ細工師(tinsmith)、ブリキ職人(whitesmith)等、特に金属加工の職人を示すのだそうです。

私の苗字は、母方のもので、父は、自分の先祖伝来の姓に拘らなかったのでしょうか。歴史上の人物に、私は好意を寄せていて、その方の姓を、“Penname ”に使ったことがあります。でも、ある時、その苗字で呼ばれて、まったく気付かなかったので、『こりゃあダメだ!』と苦笑いをしてしまったのです。

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牧歌舞伎

 

 

東京・銀座四丁目の「歌舞伎座」には出掛けたことのない私は、初めての歌舞伎の観劇は、長野県の大鹿村で行われて来た、「大鹿歌舞伎」でした。その年の春の出し物は、「菅原伝授手習鑑」でした。1767(明和4)年に上演された記録が残る「地芝居」で、徳川幕府は上演をご法度にしていたのですが、御法度破りで継承されて来た、「農村歌舞伎」なのだそうです。

江戸の末期になりますが、栃木市の隣町の「佐野市」にも、この「地芝居」の、農村歌舞伎が残されています。次のように、「佐野の祭り」の案内にあります。

『栃木県佐野市北部の牧地区に伝わった「牧歌舞伎」は、江戸時代から現在まで受け継がれている地芝居です。江戸時代後期に江戸の歌舞伎役者・関三十郎により伝えられたのが始まりとされており、現在も「牧歌舞伎保存会」による公演活動が行われています。

かつては各地で地芝居が行われており、栃木県内でも明治期には24か所で行われていましたが、今では「地芝居」としての歌舞伎は栃木県内ではここしかありません。昭和35年に栃木県重要無形文化財の指定を受け、昭和52年に「栃木県無形民俗文化財」に指定変更されています。

「牧歌舞伎」は江戸の昔から佐野市北部の葛生町牧地区において地域の住民によって伝承されてきました。牧歌舞伎は後継者不足で一時中断していた時期もありましたが、昭和56(1981)年に当時の青年団が「牧歌舞伎保存会」結成し見事に復活しました。

保存会の皆さんは地元の自営業者や会社員、商工会職員などで、仕事をするかたわら、芝居の稽古に励んでいます。近年は2年に一度稽古の成果を地元の牧地区で披露しています。最近はこの定期公演の他、佐野の祭りや行事の際に臨時公演なども行われています。また、平成23(2011)年10月9日には「牧歌舞伎保存会結成30周年」の記念公演が、「葛生あくとプラザ」において開催されました。』

娯楽のほとんどない農村にも、江戸期には、文化の息吹がふき、素人の演出と出演で農閑期に楽しんだのでしょう。私の小学校時代、旅回りの芝居が、神社の境内で小屋掛けしていて、観た覚えがあります。出店で食べ物を買って、口にしながら観たのです。

カーバイド“と水によって発生するガスの「アセチレン」を燃やして明りにした匂いが、懐かしく漂って来そうです。江戸期には松明(たいまつ)だったのでしょうね。

(「牧歌舞伎」の一幕です)

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ポッカポカ

 

 

春の陽を浴びて、庭先の物干し竿の下に咲く花です。見落として、踏みつけてしまいそうな、小さな花ですが、今までなかった《新しい春》を見つけたようで、嬉しくなってしまいました。この花の一つほどに着飾ることのない自分の人生を思って、小石の間に生い出でた花を、しばらくかがんで眺めていました。

春に呼び起こされたのでしょうか、春の到来を告げるのでしょうか、咲く花に、恩師が、『野の花の如く生きなむ!』と書き残して下さった「ことば」を思い出してしまいました。食事の用意も、洗濯も、掃除も、ほとんどの家事を、家内に任せっきりで、時々手伝うだけでしたのに、その日々を償うかのように、家事の責任を負うこの頃なのです。

来週早々に、訪ねて来られる中国の「好朋友haopengyou」を迎えるために、洗濯したシーツや枕カバーやタオルケットを、取り込もうとして、ふと足元に見つけた花です。除草剤をまいてきた庭なのに、小さな命を輝かしていたのです。

〈年中〉に昇級した友人の孫娘が、『◯子さんに会いたい!』と言ってると、お嬢さんを幼稚園に送った帰りに、彼女のお母さまが、家内を見舞ってくれて話しておいででした。ポッカポカの春です。

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昨晩、配信くださった、[HP「里山を歩こう」]に、広島県呉市の灰ケ峰に咲いている花を撮影された写真がありました。まさに《春爛漫》、このことばが一番似合う花盛りの「今」です。

この「花の写真」ですが、栃木にやって来て出会った、新しい友人が、花好きだと聞いて、入院中の家内のために、《花写真集》を手作りされて、「ことば」も写真に印字してくださって、プレゼントしてくださったのです。

花写真の、撮影が趣味でいらっしゃって、春になって、あちこちと出掛けては写真を撮っておいでです。先日も写真を届けてくださいました。入院中一人で家にいる私には、出先の野菜即売所で、旬の無農薬野菜を買って届けてくださるのです。昨日は、退院した家内にと、葉物やトマトや、取り寄せた柑橘類など、二袋も届けてくれました。“デイサーヴィス”に家内が出掛けていて、お会いできませんでした。

ユダヤ人の英雄のエリヤを、カラスが養ったという逸話がありますが、まさに「エリヤのカラス」のように、私たちに《愛》を、毎週運んでいてくれるのです。一度は、そうしてくださる方は多いのですが、こんなに忠実にしてくださる方は珍しく、多くの〈昨日の友」と、〈今日の友〉が与えられて、感謝でいっぱいです。

この方は、私たちに、住まいを提供してくれ、転居先の許可もしてくださった友人夫妻を通して知り合ったのです。その友人が、一昨日、手術をされました。10年ほど前に、バイクで転倒されて怪我をされて、肩に幾つものボルトを入れて、骨を固定されていたのですが、それを散り出す手術で、当初の2時間を、5時間もかかる大手術をされたのです。

家内の入院していた、獨協医科大学病院の整形外科ででした。奥様によると、手術後の経過は良好だとのことで、安心しているところです。2週間の入院生活をされされようとしておいでです。2年前、札幌の整形外科病院に入院手術、リハビリをしたのを、私は思い出しております。新しい友の愛に感謝し、友の手術の無事も感謝し、家内の退院も感謝する「四月中旬」です。

(上から「クロモジ」、「春蘭」、「エドヒガン」です)

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アカチン

 

 

私たちの世代の《家庭常備薬》は、「アカチン」と「正露丸(戦前〈征露丸〉と表記されていました)」だったでしょうか。御多分に洩れず、父の家にも、この2つがありました。しかし、いつの間にか消えてしまい、所帯を持ってから、私の家の薬箱には、この2つは見当たりませんでした。なぜかと言いますと、アカチンは〈水銀〉、正露丸は〈防腐剤〉が原料だったことを分かってからです。

怪我の多かった私は、家に帰ると傷口を、母が水で洗って、この赤チンを塗って、消毒してくれました。そう言えば「オキシフル」という泡立つ消毒薬も、その薬箱にあって、これを先に傷口に塗ってくれたのです。わが手をジッと眺めると、その頃の無数の傷跡が残っているを数えることができるのです。

私たちの事務所を手作りで立ていた時に、基礎の上の木材の部分に、この防腐剤の「クレオソート」を、しっかり塗った覚えがあります。まさに、あの正露丸の強烈な匂いでした。木材を腐敗から防ぐために使われて来た物と、同じ物を飲んだ記憶が、『大丈夫だったんだろうか?」との思いと共に蘇って来たのです。

中国の知人たちは、この日本製の正露丸を、お腹を壊してしまった時に、好んで「食べる(吃chi/食べるという意味の言葉/日本人は〈飲む〉のですが)」ために、買って持ち帰っています。街の薬屋さんに行くと、中国製の同じクレオソートを原料にした薬があるようです。

かつては、植物の樹液を飲んだり塗ったりしていたのですが、「ドクダミ」の葉を揉んで、おできに塗り込んだこともあります。「ゲンノショウコウ」を茶葉にして煎じたのを飲んだこともありました。そのように、以前は、西洋薬ではない、「民間薬」が、よく使われていたわけです。

その民間薬の筆頭格の〈アカチン〉の製造が、近々終わるとのニュースにありました。それで懐かしく思い出したのです。現在、私の《愛用薬》、旅行する時に、必ず持ち歩く薬があります。娘が買って送ってくれた「消毒クリーム」と「メンターム(近江兄弟社製)」です。そして、外出時には、財布の中には、薬付きの「傷絆創膏」もあります。手などを怪我をした人に、『ちょっと待って!』と言って、何度か貼って上げたことがあります。

(「ドクダミ」の花です)

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退院

 

 

「葉桜」になった、東武宇都宮線の「おもちゃのまち駅」の近くの桜です。咲くのを待ち望んでいて、寒波や花寒の中でやっと咲き始め、満開になり、もう散り始め、今や葉も出てきています。この花は、淡くて、散り際が潔く、日本人の感性そのものなのでしょうか。私もまた、桜を愛でる一人です。

病院の病棟と、通院の治療棟と、医学部や看護学部をつなぐ庭に、桜並木があって、家内は、看護士さんに連れて行かれて、何日も観桜の日を過ごしてきました。省立医院に入院し、獨協医科大学に転院し、四月も中旬、明日は退院することになりました。これからは外来に通院して、治療が継続されて行きます。

入院中に、友人、親族、家族の多くの愛するみなさんが、お示しださった愛と親切と犠牲に、心から感謝いたします。ありがとうございました。感謝してお礼を申し上げます。来週には、中国華南の街の友人たちが、どうしてもと言って、見舞いにやってくると連絡がありました。抱きかかえるようにして、寄り添いながらお世話してくださったご婦人たちです。

『果たして咲く桜を見れるかな!』と、思うほどの病状の中からの起死回生でした。これからも予断を許せませんが、覚えてお支えくださいますようにお願いいたします。

(次男夫婦が見舞いの帰りに撮った写真です)

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感謝のメール

 

 

◯村先生

先生に、2017年4月14日、左肩の腱板断裂を手術していただきました廣田です。仕事をしておりました中国の街から送信しました、MRIの映像で診断していただいて、要手術とのことで、帰朝早々の14日の最終で手術をしていただきました。「中国から来た日本人の患者」です。ちょうど2年が経過しましたが、快復し元気に生活をしています。

◯村先生とスタッフのみなさまに、心から感謝いたします。実は、家内が病気を得て、即帰国しまして、獨協医科大学病院に入院しました。内科系の病気ですが、今リハビリを受けております。病床から、今ではリハビリのトレーニングルームで、理学療法士の担当者から、家内は施療を受けております。

一昨々日、見舞いに参り、その部屋を訪ねて、リハビリの様子を初めて眺めていました。それで一昨年のことを思い出した次第です。

◯村先生や看護師さん、療法士の先生方、薬剤師や掃除や調理や警備のスタッフのみなさまを、懐かしく思い出しました。もう2年も経ったのだと、栃木の病院で思っていました。先生を始め、スタッフのみなさま、お元気でしょうか。

私の自慢の◯ヶ丘のリハビリの規模や施術の様子を、家内の担当療法士に話しましたら、驚いておられました今現在も、先生の病院では、多くの患者さんのために手術と理学療法が行われていることでしょう。

◯村先生のご健康、スタッフのみなさんの健康を願っております。

本当にありがとうございました。

                                                                                                               栃木の友人宅にて廣田雅仁

(札幌の羊ヶ丘の風景です)

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いのち

 

 

東京でも大阪でも上海でも華南の街中でも、そして東武宇都宮線の車中でも、一様に見られる現代の光景の一つは、<ケイタイ>を夢中で覗き込み、操作し、返信をしている姿です。十年前には見られなかった光景で、この分だと、マニラもメルボルンもベルリンも、同じような若者たちの姿が見られるのでしょうか。

時々見掛ける喫茶店での様子も同じです。テーブルを挟んで、コーヒーカップを前に、若い二人連れが座っています。彼らには会話がないのです。二人とも<スマホ>に熱中で、二人で共高いコーヒーを飲む意味が感じられないではありませんか。目前の<恋人>よりも、目に見えない線で繋がっている<遠く情報>の方が大切なのでしょうか。

『着たメールに、すぐ返信をしないといけない!』という強迫観念も、そう言った行動を取らせているのだそうです。<無視>と<仲間外れ>が、今日日の人には怖いのです。または、情報収集のために必要不可欠な手段になっているのでしょうか。<知らないほうが好い情報>が、きっとほとんどだと思われます。思いの中をゴミ情報で満たして、思考形態がうまくいかなくなっている時代で、常に心の緊張状態が続いているに違いありません。

<孤独>であることへの怖れが、現代人の心の中に溢れているのでしょう。時には、海や山に独り行き、瀬音や潮騒、鳥や木々を渡る風の音を聞き、遠くに目をやることが、人には必要です。時々行った、山の上の展望台から、眼下の山なみや沢を眺め、誰もいないのを幸いに、『ヤッホー!』と思いっきり叫んで見るのが、結構好きなのです。『変な爺さんが叫んでるな!』と思われても気にしないことにしてるのです。

一冊の本を懐に、山に登り、東屋に座って、読んだり「沈思黙考」するのは、人の精神活動に好いのです。煩(うるさ)い人の声を聞かなくても済むからです。もちろん、人の声を聞くことはありますので、ご心配なさらないでください。<孤立>は問題ですが、<孤独>でありたい気持ちは大事にしたいものです。    

アインシュタインが、次の様に言っています。

“ベルリンでも、何も変わりがありませんでした。その前のスイスでも。人は、生まれつき孤独なのです。”                                                                    

そんな孤独な経験が、驚くべき発明をもたらしたのでしょう。でも、悲観的になる傾向が、近頃大いにではないでしょうか。夢や幻や理想で心を満たし、無邪気さが売り物の子どもたちが、死に急いでいる傾向ほど悲しいことはありません。子どもたちが孤独を経験しながら、頂いた《いのち》を感謝して生きていって欲しいものです。

(栃木名産の「益子焼」のコーヒーカップです)

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