いけない

 

 

男が生きて行く上で、〈明治男〉の父が、私たち4人の息子に願ったのは、《男であること》でした。それで、《男らしさ》を、自分で培おうとしたのです。自分の子がメソメソすることを、父は強く嫌ったのです。男は闘いながら男になっていくので、〈腕っ節〉が強くなくてはなりませんでした。よく言っていたのが、『泣いて帰ってくるような奴は家に入れない!』でしたから、どうしても喧嘩が強くなくてはなりませんでした。

身体が大きな相手でもひるまないで、果敢に攻めなくてはいけません。痛くっても泣いたりできません。歯を喰いしばって、反撃するのです。ある時、一級上のマコトに、組み伏せられたことがありました。病欠児で小さい身体の私の上に、両手をつかんで跨っていたのです。手を振りほどいた私は、右手で土を握り、目潰ししたのです。ひるんだ彼は泣いて家に帰って行きました。

その後、二度と私を、彼が組み伏すことはありませんでした。拳で仕返しができなかったので、やむなくそうしたのですが、本当は拳で殴り倒したかったのです。それ以来喧嘩をしても負けることはなくなりました。中学の同級生に、後にN大の応援団の幹部になる、大男のYがいました。何かのきっかけで殴り合いをしたのですが、一発で殴り飛ばしました。

進学して、同級生が、『廣田、お前喧嘩が強いんだってな!俺の同級生がN大の応援団員に聞いたそうだ!』、負けたYが、そう漏らしたんです。それで、変に有名になってしまったわけです。でも、ある一件から、暴力は私はやめたのです。生乳工場でバイトをしていた時のことです。配送の運転助手が、言いがかりをつけてきたのです。保冷庫の中にいた私に、『出て来い!』と言うので出たら、『ついて来い!』と言って林について行くと、上半身裸になって、刺青を見せたのです。

見慣れていた私は、そんなことでひるまなかったのです。隠した丸太を取って殴りかかってきました。それをもぎ取って、ノックダウンしました。それ以来、その相手は、私の目の前から消えてしまい見なくなりました。19の時でした。いかなる理由があっても、《暴力はいけない》と、その時、分かったのです。

でも今は、拳ではない、言葉や記事による〈暴力〉が罷り通る世の中ではないでしょうか。よその国では銃殺されたり、仕事を失い、獄屋に送られたりするのに、私たちの国では、「言論の自由」、「表現の自由」をいいことに、誹謗や中傷や虚偽で、人を槍玉に上げ、揶揄する言論が、表現の自由を逆手にとって許されているのです。

有る事無い事、勝手に憶測で物言う輩がいます。あれって、〈暴力〉なのです。言い返せない相手に、勝手なことを言っているのです。どれほど傷ついているか、想像に絶します。どうしても《暴力反対》な、2019年、令和元年の初夏であります。

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カラス

 

早朝は、小鳥のさえずりが聞こえて、『あっ、朝だ!』と思わされるのですが、8時過ぎると、今度は〈からす〉が、しわがれた大きな鳴き声を発して、ちょっと騒音な感じがするのです。

『東京で住み難くなったカラスが、疎開して来ているに違いない!』と思ったりしてますが、隣の群馬県の赤城山で、『カア!』と鳴いてていたと、国定忠治が言ったとか言わなかったとか、そんなことを聞いていますので、長く住み着いた群れが、ここにもいるのかも知れません。東京弁の鳴き声か、ちょっと栃木訛りの鳴き声かは、私には判別できません。

『カラスの鳴き声は、餌の有る無し、所在、良悪などを知らせている!』と聞いたことがありますが、然もありなんで、仲間との情報交換をしているのでしょうか。ともかく、このカラスが賢いのは有名です。

〈胡桃〉を路上において、通る車に引いてもらうのは聞いたことがあるのですが、交通量の大き道路上ではなく、たまにしか通らない、「自動車教習所」のコースで、それをするカラスもいると言われています。車に引かれないで住む算段ができるのですから、安全のための交通指導員になってもらいたいほどです。

〈針金製ハンガー〉を使って、深い入れ物の底にある食べ物を、餌にすることもできるのだそうです。鷲と同じ様に、眼力があって、高い所から生ゴミ袋の中にある、餌になりそうな食べ残しを見つけることもできる様です。きっと人類が滅びた後、次の地上の主役はカラスのなるのでしょうか。

(「イラスト素材パラダイス」より)

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群れ

 

 

この写真は、2、3日前の朝日新聞に掲載されていたものです。『日本海の孤島「竹島」で戦前に盛んだったアシカ猟の様子をとらえた写真が、朝日新聞大阪本社に保存されていた。1934年6月、島根県・隠岐の島の漁師らに同行ルポした際に撮影された計13枚。研究者は当時の生業を伝える貴重な記録と評価している。』とありました。

このアザラシを、アメリカのノースウエストコーストの海岸線を案内してもらっていた時に、娘婿が連れて行ってくれて、身近で初めて見たことがありました。大きな岩場の洞窟に、おびただしい数のアザラシがいて、ひときわ高い岩の上に、一頭のボスが、王の様に君臨し、家来でしょうか、妻たちでしょうか、取り巻きが囲んでいました。

大きな鳴き声が洞窟に響き渡り、悪臭が立ち込めてていて、長く止まることができないほどでした。群れをなす動物たちには、群れを守る頭が必要なのでしょうか。猿山も、アザラシ洞窟も、子孫が生き残るためには、群れの争いを治め、仲間を餌場に導く指導者が必要なのでしょう。

人間も群れをなして生きてきたのでしょう。でも、群れを嫌う孤高の人もいて、群れを離れる自由が、人は選び取ることもあります。群れるのが好きではなかった私ですが、今は、《小さな群れ》に加わって、落ち着いていられるのです。とても落ち着いていられるが感謝です。

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マーガレット

 

 

駅から我が家までの道端に咲く花を、先週末のやって来た次男が撮った写真です。この花の名前の“Marguerite”は、次女の娘婿の父方のおばあちゃんと同じ名前です。私の母と同じで、4人の男の子のお母さんで、女手一つで育て上げたのだと聞きました。

《女は弱し母は強し》、いずれの国のお母さんも、同じで、その手で作ってくれた食べ物を食べて、洗ってくれた着物を着て、掃除をしてくれた部屋で休み、その笑顔とことばに送り出されて、子は成長するのです。

このマーガレットの原産国は、アフリカ大陸の西岸にあるカナリヤ諸島だそうで、明治の末期に、わが国に伝わっています。そうしますと、この道端の花は、長い旅をしてやって来て、そこで花開かせて、行く人を楽しませてくれていることになります。

そういえば、マーガレットを訪ねた時に、美味しいお茶をご馳走になったことがありました。

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出自

 

 

この絵は、「かやぶきの里」と言う題の絵で、出雲出身の絵師・堀江夕聲(ほりえゆうせい)が描いたものです。子どもたちが、嬉々として遊ぶ様子を描写したものです。この夕聲を、次の様に紹介しています。

「出雲国大東(現在の雲南市大東町)に森山勇兵衛為春の第四子として生まれ、後に母方の堀江家を継ぐ。幼名は善三郎豊信、青年期に雲峯・盛伯と号し、京都で海北家の養子となった折に名を海北斎宮介精一、字を友聲とした。ほかに斧巖・豈楽斎・遷喬などと号す。

 幼少より絵を描くことを好み、文化十四年(1817)に京都で山本探淵に師事。また四条派の柴田義董に私淑した。二十代で伯耆、備後、美濃など諸国を遊歴し、萩の毛利家で多くの作品を描く。天保元年(1930)、海北友徳の懇請を受けて海北家の養子となり、宮中・社寺の御用を勤めるが、翌年、養子縁組を解消され、出雲へ帰国した。天保七年(1836)からの数年を丹後国宮津で過ごし、宮津藩お抱えの話が挙がるほど当地で高い評価を得ている。嘉永五年(1852)に広瀬藩九代藩主・松平直諒の下で御用絵師となり、以降はl広瀬を中心に活動した。

 友聲は近世島根における数少ない職業画家であり、様々な筆法を駆使して多種多様な画題を手がけた。中でも膨大な数の写生を基にした、緻密な描写と鮮麗な色彩による花鳥画が名高い。横山雲南(後の黄仲祥)・上代 英彦ら多くの門人を指導し、堀江家からは養子の友節(二代)以降も有聲(三代)・和聲(四代)と画家を輩出した。」

この夕聲の出身地である「大東」に、私は行ったことがあります。母の親族が住んでいて、鳥取に出張した折に、出雲市と、この大東とを訪ねたのです。その大東の親戚の家で、石川五右衛門の様な〈釜の風呂〉に入れてもらったのです。大きな鍋の中に木製の簀(すのこ)を入れて浮かせ、それに載って湯に体を浸すのです。木の風呂桶しか知らない私にとって、異文化、異習慣の体験でした。

こんな田舎が、母の由縁の地であることを知って、以外だったり、驚きであったのを思い出します。日本の神話のふるさとである「出雲国」と母、そして自分との繋がりもまた、意外に感じてなりません。この街からは、長崎に落とされた原子爆弾で被爆した、長崎大学医学部の永井隆医師が住んでいたことがあったそうです。

こう言った名のない土地との繋がりがあって、自分がある方が、けっこう多いのでしょう。もっと昔は弥生人や縄文人だったわけで、もっと昔はシベリヤ、さらに昔には、どこに繋がるのでしょうか。チグリスやユーフラテスの流れの源辺りに、私たちの出自(しゅつじ)をたどれるのでしょうか。

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母の日に

 

 

これらの写真は、「母の日」に、家内に贈られた花です。多分、今年が一番多くの鉢花屋や花束をいただいた年ではないでしょうか。『元気になって!』の思いが込められています。一つは、家具店を経営しています友人のご長男の事務所の上に飾る様にと、家内が差し上げました。とても喜んでくださったのです。

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花々

 

 

この〈ハイビスカス〉は、長女が撮って送信してくれたものです。もう私たちの住んでいた華南の街の側道の植え込みなどには、このハイビスカスで花盛りでしょうか。〈ブーゲンビリア〉も、私が勤めていた学校の工業路に面した門から入った道の脇にも、いたる所に溢れかえる様に咲いていることでしょう。

 

 

そう言えば、ここら辺りでは、亜熱帯植物は見当たりません。観葉の鉢植えは、そろそろ売り出されているのでしょうか。先日見舞ってくださった友人夫妻が、「プリンセスダイアナ(一番下の写真です)」という花の鉢植えを持ってきてくれました。あのプリンセスに因んだ花です。花の命名って興味深いものがありますね。

 

 

花盛りの季節に、わが家の部屋の中にも、多くの花が咲き誇っていて、時間が、ゆっくりと過ぎていくのを感じさせられている今です。

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私たちの住む華南の街に、日系企業に出向されておいでの邦人がいらっしゃいます。また中国の方と結婚されたご婦人もいて、「奥様会」という交流のグループがあるのです。一時の様に隆盛ではありませんが、継続した交わりが行われていて、私の家内も誘われて、よく参加させて頂いていました。

よく食事会が行われていました。その〈女子会〉のメンバーで、現地法人で責任を執られておいでのご主人をお持ちのご婦人の家に招かれて、お茶会などが行われていました。この方は、任期を終えられて、数年前に帰国しておいでです。またご子息が、日本の大学に進学されたのを機に、東京圏にお住いの方がいます。また、帰国子女として再来年には、日本の大学に進学予定の息子さんをお持ちのお母さんが、その進学準備のために、一足先に帰国されたりしておいなのです。

その3人のご婦人が、この日曜日に、家内をご一緒にお見舞いしてくださっいました。華南の街にいらっしゃるご婦人たちの代表として、花や和菓子やお見舞い金をお持ちくださったのです。家内のことを考えて、一時間の滞在でお帰りになられました。楽しそうに思い出話もされておいででした。

一月の初旬に、省立医院に、家内が入院中、ほとんど毎日おいでくださって、細々としたことをお手伝いし、助けてくださったご婦人は、この3月に帰国したばかりです。下の娘と同世代で、ご主人も、難しい医療用語が分からない家内のために通訳をしてくださったり、息子さんが一緒に華南の家に来られて、食事をしたこともあります。

そう、私たちは、《人に恵まれている》なって思うのです。人生の窮場で、いつも訪ねて下さり、助けたり、激励したりして下さる方々がおられるのです。こちらでも、退院後の家内に、《体に好い》と思われる食材を見つけ出しては、それを持たれて、毎週水曜日に訪ねてくださる方がいらっしゃいます。この水曜日には、ウド、アスパラ、トマト、サヤエンドウ、ハトムギなどを頂きました。日曜日には、倶楽部後に、この方が昼食にのサンドイッチまで作って下さるのです。フルーツ付きです。

何だか、《カンナの地(約束の地)》に、満ち足りて住んでいるのかと思うほどです。住む家が備えられ、その大家さんは、一昨日は、〈筍(たけのこ)〉を煮たと言われて、お昼前に届けてくださったりです。受けるばかり、そんな北関東の古都での生活です。その一人のご婦人は、小物や和菓子を作る名手で、茶会の後は、私の分まで、家内に持たせてくれて、日本の味を楽しませてくれた方です。

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見様見真似

 

 

『《最後の食事》に何を食べますか?』と問われて、どう答えるかを、今考えています。大体、どなたも答えは決まっている様です。《おふくろの味》と、ほとんどの人が答えるはずです。いえ、家内の料理が美味しくないのではなく、感情的な《郷愁》が、そう答えさせるのでしょう。

「かた焼きそば」かな。中華麺を油で揚げて、それに独自の「かけ餡」をかけてくれたものでした。「ハンバーグ」かな。肉屋さんで牛肉を挽いてもらって、人参と玉ねぎとニンニクをみじん切りにして、パン粉と卵で形を整えて、フライパンで丁寧に焼いてくれたものでした。

先日、「ちらし寿司(母のふるさとでは「バラ寿司」と呼んだでしょう)」を作ったのです。干し椎茸、高野豆腐を水に戻し、貝柱、小竹輪を細かく切る。それをアゴ入りだしと醤油とみりんに日高昆布で煮たもの。黒酢を日高昆布を入れて蜂蜜で煮て、寿司飯を作る。そこに煮た具材を入れて混ぜ、シラス、サヤエンドウ、錦糸卵、刻み海苔をかけたのです。

これって、団扇(うちわ)で寿司飯を冷ます手伝いを母にさせられて、何度も見ていた具材と手順と同じなので、昨日が二度目の料理でした。家内は、『紅しょうががないわ!』と注文するほどになっています。見様見真似で作ってるのですが、お袋の味には程遠いようです。

カレーも独特の味でした。石油コンロを使って、手際よく料理していたお袋は、割烹着を着ていたでしょうか。五人の子(親爺も入ってです)の三食の世話を、一言も文句を言わないで、喜んで世話をしてくれたのです。洗濯機のない頃は手洗いで、六人分を洗って、すすいで、干して、畳んで、仕舞ってくれていました。梅雨時はどうしてたんでしょうか

娘時代に、「今市小町」と言われるほどだったそうで、甲州街道沿いの時計屋のオジさんが、仕事をする手を休め、口をポカンと開けて、道行く母に見惚れていたほどです。様々な思い出の光景や味は、いまだに鮮明です。華南の街の最高級のホテルの名食飯店で、ご馳走になった料理も、アメリカの知人が接待してくださったディナーよりも、やっぱり《おふくろの味》に勝るものはなさそうです。

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安心

 

 

天野貞祐(ていゆう)、吉田内閣の文部大臣をした人で、「獨協大学」の初代学長を歴任された教育者で、政治家です。この大学は、学校法人の「獨協学園」に属しています。この他に、「獨協医科大学」を経営していて、家内は、この大学の病院に入院していたのです。

この学園の歴史は、「西欧の文明文化との積極的交流を図るために明治14(1881)年に設立された獨逸学協会を母体として、ドイツの文化と学問を学ぶ目的のもと、明治16(1883)年に獨逸学協会学校(旧制獨協中学校)が開校しました。これが本学園の源であります。」と、学園の案内にあります。

医科大学に開校については、「昭和48(1973)年、明治初期の学校設立の経緯、並びにその後医学界へ多くの人材を輩出してきた実績や伝統などから医学、医療の原点にかえり医学の進歩や社会の変化に対応し得る医学教育を念願して獨協医科大学を設立いたしました。その後、付属施設として獨協医科大学病院、附属看護専門学校、獨協医科大学越谷病院(現・埼玉医療センター)、更に附属看護専門学校三郷校を順次開設しております。」とあります。

この1月初めに、この病院の「総合診療科」で診察を受け、「呼吸器アレルギー内科」で検査や治療を受けている家内に付き添い、入院した家内を、毎日見舞いながら、受付、会計、投薬、病棟での治療の様子を、つぶさに見ながら感じたのは、患者の家族としての《安心感》と《満足感》でした。家内は、これまで順天堂大学病院、日赤広尾病院、朝霞台病院、板橋総合中央病院で診察を受けてきていますが、長期に関わって、治療を受けてきたのは、この獨協医科大学病院なのです。

 

 

『この病院は何かが違う!』と考えてみましたら、《ドイツの合理主義》なのではないかと思ったのです。営利だけでも、名誉のためだけでもない、置かれた地域の医療の《使命感》、治癒を願って、やって来る患者に施す医療の果たすべき《責任感》が明確なのではないかと感じるのです。徹底して、医師も看護師もリハビリの療法士も医療技師も、事務職も掃除をされる方から守衛さんに至るまで、患者に仕える姿勢が好いのです。

最先端の医療機材、ドクター・ヘリとともに、『心がある』のです。家内の主治医は、31歳でしたが、仕切りに《カンファレンス》の意見を聞きながら、治療判断をしていると言われていました。個々の患者さんの病状を、会議をしながら、経験豊かな医師陣の意見を求めているのです。『素人なんだから黙っていなさい!』なんて言いません。自分の母親への治療について、自分の意見や願いを熱く語る子どもたちの声に聞いてくれていました。

友人のお孫さんの早産、今に至るまでの未熟児のケアー、そのお母さんのお病気に、治療とケアーに当たってくれて、大きな感謝があって、家内の加療と入院を勧めてくれたのです。友人自身も、10年前の肩関節のボルトの除去と人工関節をつけるために、その治療と手術のために、先ごろ入院され、今は退院されておいでです。そのお孫さんは、健康で、幼稚園の年中さんなのです。何か、この病院の《ファン倶楽部》が、ここにある様です。

そんな病院で、今、外来の担当医に、家内は診て頂いているのです。家内が安心して受診しているのが、また、私の安心でもあります。多くの友人、家族、親族が支え、激励し、見舞ってくれています。人に恵まれた家内が、ここにいます。

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