蝉時雨

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先週末、玄関の三和土(たたき/ )」に、小ぶりなアブラゼミがひっくり返っていました。『起きなよ!』と、そっと触ったら、起き直って、目を離した隙に、どこかに、最後の力を振り絞って飛んで行った様です。栃木で初めて見た蝉でした。

そういえば、もっと激しく鳴いてもよさそうなのに、蝉には気の毒な長雨と低温の七月でした。天津で0南の街で11度、夏を過ごし、今年も過ごすつもりでしたが、家内の病で帰国して、住み始めた栃木で初めての夏を迎えています。

子どもの頃に、蝉の賑やかな鳴き声を聞いたのですが、華南の街では、高い山に行かない限り、蝉の鳴き声は聞けませんでした。ここでは、まだ一度も耳にしていません。「蝉時雨(せみしぐれ)」と言われる様な、まるで夏の夕立が降る様に、“ ジージー ” 、“ オーシンツクツク、オーシンツクツク ” 、 “ カナカナ、カナカナ ”と聞こえて、子どもの頃に、夏本番を体感したのに、今夏は夏らしさを感じていないので物足りません。

この「蝉時雨」と言う夏を表現する言葉は、日本語の美しさを存分に伝えてくれます。俳句の「季語」にもなっています。

還(かえ)ります 人に故国の 蝉時雨

阿部みどり女の作です。勝手な解釈をしてみます。戦時下、外地で蝉の声を聞いたのでしょうか。今頃は故国では、子どもの頃に聞いた、あの蝉が、今も時雨が降るがごとく鳴いているに違いない。そこに今まさに帰ろうとしているのでしょうか。

ひぐらしや かつては兵の 征きし道

一木幸治の作です。同じ様に勝手に解釈をしてみます。戦争が終わって、平和になった今、あの日兵隊さんを見送った日に鳴いていた、ひぐらしが、同じ様に、何もなかったかの様に鳴いている。あの兵隊さんは、戦地から戻ったのだろうか。

そういえば、華南で住んでいた街の家から、戦前、外国人の避暑地であった山に行って、知人の紹介してくれた山荘で、家内と一緒に、友人たちと3日ほど過ごしたことがありました。夕方に、 “ カナカナ、カナカナ ”と蝉が、ちょっと寂しそうに鳴く声を聞いたことがあります。

今週は、酷暑になると、天気予報が言っていました。夏の好きな私は、あの子どもの頃に聞いた、「蝉時雨」を思いっきり聞いてみたいものだと思うのです。昨夕、遠くから、これも弱そうに、“ ジージー ” と鳴く声がしていました。もっと強く鳴いて欲しい七月の末です。
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朝顔便り/7月29日

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台風が熱帯低気圧に変わったのですが、大雨が降った後、真夏の到来です。三重県沖の震源の地震が、ここ栃木を、震度3で揺らして、目覚めさせられてしまいました。今日は酷暑の一日でしょうか、梅雨が明けたのでしょう。それを喜ぶかの様に朝顔が開きました。潮騒に誘われていますが、茨城の海に行けるでしょうか、の月曜日です。

(上は5時50分、下は8時半の撮影です)
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夕顔の里

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栃木県に住んで、7ヶ月になろうとしています。思いもよらず、県民、市民になった私は、《家内を支える》を、今為すべきことと決めて、これこそ、一生の総仕上げの任務として、友人や兄弟、子どもたちに激励され、助けられてつとめているところです。

忙(せわ)しさから解放され、ゆっくりと流れている巴波川の様に、過ぎゆく時を過ごしています。黒土だった田んぼが起こされ、そこに植えられた苗が、ずんずんと背丈を伸ばして、青々と成長しています。この地で採れた野菜を、農協の即売所に買い出しに行き、〈地産地消〉を原則に、県産品に拘りながら、料理も、皿洗いも、今までしてくれた家内へのお返しでしております。

住まいも、友人夫妻の愛と配慮とで備えられ、故障していた空調も、お見舞いの志で取り替えることができ、水道水の浄水器も息子に買ってもらい、その水を飲み水にしています。家内の回復を助けようと、良質な食材を見つけては、カラスの様に運んでくださる友人がいます。

窓の下に植えた朝顔も、東京の友人が見舞いにくださったプリンセス・ダイアナ、鉢植えで買った日々草もマリーゴールドも、先日買ったハイビスカス、一昨日買ったホットリップス、息子にもらった種で植えたコスモス、とても賑やかに散ったり咲いたりしています。

息子と友人の送迎で、病院も通院し、先週、第6回目のキイトルーダの投薬を終えて、3週間後の通院で、待機しています。家内は辛い闘病を、そのまま感謝して受けて、愛読書を読んだり、ハガキで感謝状を書いたり、遠近の友人知人を遥かに覚えたり、ピアノを弾き、歌い、車椅子で外出し、そこから降りて公園を散歩し、心と体のリハビリに励んでおります。時には、友人夫妻が連れ出してくれ、隣の足利に遠出もさせていただいたりしています。多くのみなさんの激励と支えに感謝でいっぱいです。

家内が入院し、今通院している獨協医科大学病院は、ここ栃木と県庁所在地の宇都宮の間に位置する、「壬生(みぶ)町」にあります。戦国時代には、壬生氏の所領でした。江戸期には、日根野、阿部、三浦、松平、加藤、鳥居の各氏が治めて、明治の廃藩置県で、「壬生県」になっています。そして、栃木県に吸収されて、今日に至っているそうです。
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ここに面白い逸話が残されています。幕末の長州藩の高杉晋作が、この壬生の城下町を訪ねているのです。江戸で剣術の修行をした晋作は、腕試しにでしょうか、壬生城下町の剣術道場で、地元の剣士・松本五郎兵衛(神道無念流)に何度も試合で挑んでも、一本も取れずに、その全ての試合に敗れています。それは若き晋作には、衝撃的な経験であったそうです。このことは黙して語らずだった様です。

そうしますと、柳生新陰流の免許皆伝の剣士(神道無念流も修行したそうです)を打ち負かした強者の子孫や親族が、東武日光線に同乗しているかも知れないとか、病院のロビーですれ違っているかも知れないと思うと、楽しくなってしまいそうです。若い日に、高杉晋作の生き方に感動させられた私には、くすぐったい様な逸話です。

(壬生町花の「夕顔の花」、下野壬生城の城郭です)
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歓迎

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今朝の我が家の第一玄関のようすです。マリーゴールドが、来客を待つ様に咲いています。と言うよりは来客のために、外に置いていた鉢を玄関の下駄箱の上に、今朝置いたのです。綺麗なのに、誰も気づかなかったのは、ちょっと残念ですが、歓迎はしていたのです。
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コスモス

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昨日咲いていた「コスモス」です。34℃の気温の中、色鮮やかに咲いていました。中国に行く前でしたが、テレビで、信州に〈コスモス街道〉があって、『花が見頃です!』と言っていました。それで、親元に帰って来ていた子どもたちと一緒に出掛けたのです。ところが、畑の一区画が〈コスモス畑〉になっているだけで、数キロの街道筋には咲いていなかったのです。

レポーター、取材陣の誇大宣伝でした。でも、テントが張られて、食べ物で接待していたので、胃袋は満足して、その夜は、宿泊施設に泊まったのです。昨日咲いたような鮮やかさは、あの時はありませんでした。これから暑くなりそうですが、もう暦の上では、秋になりつつあるのでしょうか。
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千年

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今年が、2019年ですから、〈千年前〉と言うのは、1019年になります。その年に何があったかを、日本史で調べてみますと、

3月、藤原道長(太政大臣だった人)が出家する
4月、「刀伊の入冠(といのにゅうこう)」があった
「刀伊の国(高麗〈こうらい〉」の蛮族で、とくに「女真族〈じょしんぞく〉」を指して用いた語。「女真」は大陸の沿海州地方に住み、後に「金」を建国するツングース系の民族であり、後に「満州族」に改称する。高麗の北辺に接して海から侵入したりしていたが,平安中期の1019年、対馬・壱岐・北九州を襲った。この「入寇」は、太平に慣れた朝廷・貴族を驚かせた。賊徒五十余船、太宰権帥・藤原隆家らによって撃退するも、太宰府管内に甚大な被害を受ける」

細かな記録が残っていない時代です。この十数年前に、「枕草子」や「源氏物語」完成しています。その数年後に、「万寿地震」があって、石見国(島根県)で、日本海沖を震源とする大地震と津波が発生し、多くの死者を出しています。千年も前のことは、歴史にも残らないで、うやむやになってしまうのかも知れません。

それでは、今から〈千年後〉は、どうでしょうか。内閣府に、「国立社会保障・人口問題研究所」があるそうです。将来の日本の人口の予測が発表されていて、驚いてしまいます。何と総人口が、2000人にまで激減すると予測しているのです。来年の東京オリンピックの主会場が、68000人を収容すると聞いていますから、どれほど少ないかが分かります。


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その私たちの子孫、2000人の中から、総理大臣、衆議院議員、参議院議員、検察長官、警視総監、防衛大臣、幼稚園長、小学校長などなどが選ばれるのでしょうか。みんな役付きになって、お百姓さんも漁師もスーパーの店長もいるのでしょうね。新幹線なんか走らせられるのでしょうか。栃木から、東京に行くのに、東武日光線は走れるのでしょうか、心配です。桃やリンゴの生産者はいるでしょうか。『千年前には、丸い果物で桃があったそうだ!』と言うのでしょうか。

宇宙や地球は、千年後を迎えることができるように、保たれ続けるのでしょうか。地震や火山爆発、温暖化などの異常気象は、もっと頻繁に、さらに激しくなって行くのだとしたら、難しそうですね。

(上は「女真族」、下は「川中島白桃」です)
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夕陽

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以前のブログを見ていて、一葉の写真を見つけました。天津の外国人用の「公寓(gongyu)/アパート)」の七階のベランダの窓を開けて、私が撮影したものです。いやー懐かしくて堪りません。そこから自転車で、紫金山路を、気象台の方に向かって走った所にあった、中国語学校まで、家内と並走しながら、週日5日間、通ったのです。

学校の帰り道は、復習で、道行く人に話しかけては、その日習ったことを使うのです。けっこう勇気がいることでしたが、おかしな中国語を使う老人の夫婦に、受け答えをしてくれました。それから「菜市场caishichang」で食材を買って帰ったのです。習いたての中国語を駆使して、ここでも復習をしたのです。

お陰様で、日常会話ができる様になって、知人の招きで華南に越したのです。その街中は、方言の世界でした。標準語を話すと、『北京語ですね! 』と言われて、ちょっと得意になってしまいました。日曜日の朝は、いくつもの通りを越えて、自転車で出掛けたのです。その目的場所も、中国語の歌を歌ったり、標準語の話を聞いたりし、 出店したばかりの「吉野家」などで昼食をとったのです。

でもベランダから眺めた大陸の落日が、実に荘厳でした。日が落ち切るまで眺めていました。あの頃一緒に学んだ同級生や上級生は、今どうしているのでしょうか。私たちも、病気治療で帰国しているのですが、多くは、同じ様に、それぞれの国に帰ってしまったことでしょう。その学校の担任教師のお父さんが作ってくれたおかずをもらったことも何度もありました。そういえば、直接お礼を言わないで、越してしまったのです。

その教師が華南の家を訪ねて来てくれた事がありました。今、どうされておいででしょうか。懐かしい日々と人との出会いが思い出されてまいります。
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朝顔便り/7月25日

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曇りの朝ですが、蒸し暑く感じられます。今日は、家内の通院日で、友人が車で迎えに来てくれます。感謝でいっぱいです。車で30分、隣りの壬生町にあります。かつて壬生氏の所領地で、城跡も残ったり、豪族たちの遺構もあって、北関東の古い街です。京都にも同じ、壬生があります。
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甘え

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〈◯◯自慢〉、力の強い人は〈力自慢〉、我慢強い人は〈我慢自慢〉、盆栽の世話上手は〈盆栽自慢〉と言うのでしょうか。自分には、何か自慢できる物や事があるのか、考えを巡らしていますと、いくつか出てきました。育ての責任のない孫が、水泳大会で活躍し、野球のピッチャーで三振を取り、試験で100点を取り、絵画展で表彰されたりされたと聞くと、〈マゴ自慢〉している自分がいます。

それも、人に言ったりしないで、秘かに思っているだけです。まあ自分も例外なく、〈マゴバカ〉なのが分かります。今朝、30分ほどの所に出掛けている間に、娘から “ FaceTime ” の電話があったのだそうです。夏休みに、兄が参加した倶楽部のキャンプで、娘が皿洗いの奉仕をしたのだそうです。その奉仕振りを見ていたリーダーから、『アニーはリーダシップがあっていい。将来・・・』と褒められたと言ってきたそうです。

父親にあまりほめてもらえなかった娘は、自分の〈子自慢〉をし、ババは〈マゴ自慢〉をし、その話を聞いたジジも〈マゴ自慢〉を重ねています。褒められる事が、ほとんどなかった私も、孫が褒められていると聞いて、ちょっと羨ましくなってしまうのです。私には関係がないのですが、もし褒められたら、《有頂天にならない事》なのだそうです。

褒められなかったのですが、〈煽てられた事〉が、かく言う私のはよくありました。そして〈有頂天〉になっては、転がり落ちて鼻っ柱をへし折られる経験を繰り返してきたのです。

さて自慢話ですが、もう一つあります。肺炎になって、死ぬ経験を何度かした私は、小学校三年くらいまでは病欠児童でした。それで、死なせまいと母は、私をかばいながら、隣街の国立病院や、国家公務員共済組合病院に連れて行ったのです。決まって、錠剤や水薬をもらって帰って来て、朝昼晩と、枕元に置かれた薬を飲んだのです。いやって言うほど飲んでいました。

それででしょうか、元気になってからは、腹痛とか頭痛などで苦しむことはほとんどなく、薬を飲まなくなったのです。大人になっても、薬嫌いもあり、健康になったのでしょうか、薬はほとんど飲みません。実は私は、長く〈薬を飲まない自慢〉でした。兄達も友人たちも、決まった薬を飲んでいるのに、自分は飲まないできたのです。

ところが、血圧が高くなって、町医者にかかったのです。それから、飲むべきを、飲み忘れてては思い出した時に、飲むを繰り返していました。ところが高血圧が180になって、ちょっとふらついてからは、処方された薬を、毎朝食後の一錠を飲み始めて、今日までの4週、きっちりと飲んだのです。

もう〈薬飲まない自慢〉ができなくなってしまいました。エコー検査と血液検査で、脂肪肝と高中性脂肪が見られるとかで、今日、掛かりつけの医師から、〈甘い物禁止令〉を下されてしまいました。こちらの駅前の団子屋の「かりんとう」が美味しくて、つい手が出てしまうのですが、「糖尿病」になりたくなから、『やめよ!』と言われて帰って来ました。団子屋の前の道を避けての帰宅でした。これで、〈普通の人〉になったのでしょうか。

そう、マゴたちの成人式や、結婚式を見届けるまで、生きようと思い始めている、この頃です。でも、「かりんとう」が、もう食べられない “ アーア!” の夕べで、〈月一〉くらいいいかなの甘えた私です。
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赦し

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「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」、「江戸の仇を長崎で」、「恨み骨髄に至る」、人の感情の中で、過去の仕打ち、近親者への不正や騙しなどでもたらされる、「恨み」の及ぼす影響力は大きく、人の折角の一生にとって、ずいぶんとマイナスになっているのです。

幸い、自分は、加害者で恨みを買われても、被害者で恨みを被っても、一晩寝て仕舞えば、忘れることができて、けっこう都合よく生きてこれたかなと思ってしまいます。傷ついた人には、迷惑な話でしょうか。

同じ「うらみ」を表す漢字に、「恨み」、「怨み」や「憾み」があります。

“ 漢字の使い方ものしり辞典 (宇野義方監修・大和出版刊)”には、

○「恨み」
<人や物・状態を、憎いと感じる心理>をいいます。その動詞が「恨む」で、「人を恨む/金を恨む/相手のやり方に恨みを懐く/恨み続けて20年」などと使います。【「恨」 漢語辞典には、「hèn ①怨,仇视:怨~。愤~。仇~。痛~。② 为做不到或做不好而内心不安:~事。悔~。遗~。抱~终天。]☞これはブロガーが付け加えています】

○「怨み」
「怨念(おんねん)」などと使われるように、<自分に対して害を及ぼした人間への強い憎しみ>を表し、
「怨み言を言い続ける/恩も怨みも忘れて再出発する」などと使いわれますが、現在では「恨み」と代用表記されています。【「怨」漢語辞典には、[発音yuàn ①仇恨:~恨。恩~。宿~。~仇。~敌。~府(大家怨恨的对象)。~声载道。②不满意,责备:埋(mán )~。抱~。~言。任劳任~]ー】

○「憾み」
<思ったとおりにならず残念だ・・・・・・>の意を表します。
「今回の人事には公平を欠く憾みがある/表現しつくせなかった憾みが残る」などで、謝罪会見などでよく耳にする「遺憾(いかん)に存じます」(残念に思います)の「憾」です。
「遺憾」の「遺」は「のこる」だから、「憾み」が「遺(のこ)る」で、「残念に思う」という意味になるわけです。【「憾」 漢和辞典には、[hàn ①失望,心中感到不满足:遗~。缺~。~事。~恨。抱~终生。②怨恨:私~。“请君释~于宋”]】

最も強烈な「うらみ」は、「怨み」の様です。朝鮮語の「恨han」は、日本語と、日本人の理解とはだいぶ違います。そこで、“ SAPIO ” に次の様な記事がありましたの で、ご紹介します。

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 個々の人間が育った環境や受けた教育によって個性の違いが生まれるように、民族にもそういう個性の違いはある。
 そして韓国人に最も顕著な、他の民族にはあまりない特徴といえばやはり「恨(ハン)」の精神であろう。
 日本でも同じ漢字を使った「恨(うら)み」という言葉があるが、「恨(ハン)」と「恨(うら)み」は似て非なるもの、いや全く違うものと考えた方がいいのかもしれない。
 この「恨(ハン)」という言葉を一言で説明するのは非常に難しいので、韓国の歴史に沿って説明しよう。韓国というより朝鮮半島の国家と言った方が正確だが、これは新羅にせよ高麗にせよ大変に「辛い」国家であった。中国という超大国がすぐ北側に存在し、隙あらば朝鮮半島の国家を隷属させ中華文明に呑み込もうとしていたからである。
 古代において、百済や高句麗というライバルを圧倒し、初めて朝鮮半島に統一国家を打ち立てた新羅が選んだのは、中国大陸の国家に政治的には屈辱的な服従をする代わりに、直接の統治は免れて民族としてのアイデンティティーをかろうじて保つという方法であった。具体的に言えば、朝鮮半島の国家の首長である国王は常に中国大陸の国家の首長である皇帝の家臣という形をとったということだ。朝鮮半島の歴史は「中国をご主人様とする」歴史だったのである。
 もちろんそれに対しては強い不満も激しい怒りもくすぶっていたに違いないが、中国という巨大な軍事国家の前では、それを現実に解消する事は不可能であった。だからこそ、それを封じ込めて、逆に生きるエネルギーに変換させようとした。
 国内においても国王や貴族など上流階級は徹底的に庶民を絞りあげた。圧政に苦しんだ庶民も、やり場のない怒りをそうした生きるエネルギーに変換させるしかなかった。
 このような「恨み辛みや不満を、生きるエネルギーに転換した状態」を「恨(ハン)」という。
 理不尽な支配や暴力に対する怒り、あるいは恨みといったものは、確かに人間のエネルギーの源になる事は事実である。しかしそれを活用しようとすることは、長い目で見て決して有効なやり方とは言えない。なぜならそれは、憎悪という最も非理性的な感情を人間活動のモチベーションにするということだからだ。そういう人間は、いやその人間の集団である国家も必要以上に攻撃的になり非理性的にもなる。
※SAPIO2013年12月号

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菊池寛の作品に、「恩讐の彼方に」があります。江戸の仇を、豊前国の耶馬渓で、討とうとするのですが、中川実之助は、怨みを昇華して、親の仇、市九郎(了海)を赦してしまう物語があります。

こう言った話は例外にあるのですが、赦しは、仇を打とうとする人を《救うこと》になるのです。怨み骨髄で生きるより、「赦し(ゆるし)」を生きる方が好いに違いありません。

(秋の耶馬渓の様子です)

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