秋の遠足

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 線路の上の車両を人の力で動かす交通機関のことを、「人車鉄道」と言いました。建設経費の安さ、維持費の軽さ、運行の簡単さで、基幹鉄道への接続を目的とした小規模な地域密着の路面交通機関を、そう呼んでいたそうです。明治から大正初めにかけて、とくに東日本を中心に運行されていたそうです。

 栃木市の北部には、石灰石を産出する「鍋山」があって、江戸時代から採掘されていました。それを輸送するために、「鍋山人車鉄道」が、1900年(明治35年))に敷設され、運用が開始しました。質の良い石灰を運ぶため、鍋山の門沢(かどさわ)と両毛線栃木駅間にできたのです。全長15.9キロ、貨車30両、客車8両で鍋山門沢の海抜150mと栃木駅の海抜42mとの勾配を活用しての運行だったそうです。

 この石灰石の鍋山の奥に、出流山(いづるさん)があります。ここで、明治維新の前年の1867年に、尊皇討幕をかかげる志士と幕府軍との間で戦闘が行われたと、歴史が伝えているそうです。それを、「出流山事件」と言います。栃木県下でも、かつては、薩長軍と幕府軍との戦いがあったそうで、その志士たちは、下総や上野などからもに集まっていたようです。

 そんな歴史のある、「出流山」に、市営の「ふれあいバス」に乗って、紅葉を観るのと蕎麦を食べるために出かけてきました。去年の秋に、この近くの「星野遺跡」を訪ねたのですが、その沢違いの集落でした。昭和45年に発会したとおっしゃっていた「宝壽(ほうじゅ)会(老人倶楽部)」に、家内と二人で入会した記念だったのです。「勤労感謝の日」の今日、14名で出かけました。90歳の元県職員の方を筆頭に、会長の床屋さん、元洋服屋さん、現役の土建屋さん夫妻、その他ご婦人方とご一緒しました。

 先ごろ奥様を亡くされた、85歳の床屋さんは、お父さまが、都会からの疎開児童の散髪で、その出流の近くの村にでかけて来たことがあったのだそうです。ご婦人たちも、ラジオ体操を一緒にしている方たちが何人も一緒でした。利根川、渡瀬川、永野川の源流の出流川の美味しい水で、近くで採れる蕎麦を打っていて、こちらでは名物なのです。

 秋晴れの一日を、まさに小学校の頃のように、《遠足気分》で過ごせて感謝でした。外に出て、人と交わろうとする家内の心意気が、素晴らしいなと思ったのです。余所者の私たちを、暖かく迎え入れてくださって、バス代も蕎麦代も、会費の中で賄うのだそうです。地域で孤立してはいけないので、地域積極参加型の今を生きております。

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mentor

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 私には、mentor  (日本語で「師匠」と訳すのが一番好きです)がいました。この方の好物は、コーヒーでした。しかも高級品種の《ブルーマウンテン》だったのです。彼といるときには、必ず私の分もミルで挽いて淹れてくれました。生活が安定してきたら、ブレンドや特売品でなく、『俺も、《ブルーマウンテン》を、いつか飲もう!』、これが夢で、今日まで生きてきました。

 8年間、一緒にいて、様々なことを教えていただき、その後、この方が、神奈川や京都、札幌などに移られてからも、訪ねたり、招かれたり、交わり会に共に集って、相談相手になってくださった方です。どう妻を愛するかも教えられたのです。

 アメリカのジョージア州の出身で、ジョージア工科大学を出て、空軍のパイロットをされていた経歴をお持ちでした。テキサス州から、日本宣教に出かけた方と出会って、彼も献身して、日本宣教を志し、二十代で来日されたのです。

 日本語が上手で、日本語で教理や神学を、聖書から教えてくれました。九つ違いで、今日「勤労感謝の日( Thanks giving day )」は、この方の誕生日でした。病を得て、67歳で主の元に帰っていかれました。お元気でしたら、86歳になっておられるのです。

 いつでしたか、turkey を手に入れられたとかで、grill して、お裾分けをしていただいて、食べたことがありました。それ以来、華南の街の Subway で、sandwich に入ったものは食べたことがありましたが、あの味が忘れられなくて、『今度!』と言っているうちに時が流れてしまいました。

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 この方が、街中の burger shop で、美味しそうに hamburg を食べてるのを何度か見かけたことがありました。家内もそうだったので、けっこう頻繁に通っておられたのでしょう。まさに American taste ですから、異国で奉仕してる間の束の間、祖国の味を、ホッとしながら楽しんでいたのでしょうか。apple pie も好きでした。

 田舎の大きな電気屋さんの息子だったそうで、大学から帰省すると、お父さんは、地下の冷蔵庫に行って、吊るされている牛肉を、knife で切って、steak にしてくれたと、唾を飲み込みながら、そのお話を聞いたのを思い出します。日本で住んでいた借家は、弟さんと二人の遊び部屋の方がはるかに広かった、とも言っていました。

 大きな犠牲を払いながら、日本人に仕えてくださったのです。2年に一度帰って行かれ、support  してくれている諸教会を訪問し、宣教報告をしておいででした。この方の弟さんは、家内の姉と結婚していたので、姻戚関係でした。

 雲間から秋の日が輝き出てきて、あたりが明るくなってきました。今日は、老人会の遠足で、誘われて、山の奥のお蕎麦屋さんに行くのだそうです。カタクリや名水で有名な地なのです。お小遣いやオヤツは、いくら持っていったらいいのか、と思案中です。

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肩書き

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 出掛ける時に、必ず持って出る物がありました。財布、免許証、筆記具、名刺入れ、携帯電話、家の鍵、事務所の鍵などがあったでしょうか。退職後の今、運転免許証も失効したままですし、現金を使わない時代になったので財布も持って出ません。携帯電話も家の電話を置いていないので、家内と共用で、ほぼ家に置いたままでにしてあります。

 人に会わなくなったので、もう名刺も必要なくなって持っていません。何しろ肩書きがなくなってしまったので、必要のある時には、裏白の広告や広報を、名刺大に切って、そこに、名前、携帯電話番号、email address を手書きで書き込んで、人に渡すくらいの今です。

 まさか帰国することなど考えていなかったのですが、急遽、家内の病気治療のために帰国したのですが、その2ヶ月前ほどに「名刺」を200枚ほど印刷したのですが、持ち帰った荷の中にあったのを、処分してしまいました。交換した名刺も、もう会うこともなさそうなみなさんのものを、先日処分してしまいました。

 【ナイナイ】の今は、ちょっと寂しさを感じることがあります。よく昔は、「◯◯さんの弟さん。』、その後は『◯◯さんのお父さま。』と言われ、今では『◯◯さんのお爺ちゃん!』と呼ばれています。人には、社会的に〈所属の欲求〉があって、それが満たされないと不安になってしまうのだそうです。

 それででしょうか、ある方は、昔使っていた名刺の、会社名や役職名などの印字に二本線を入れて、いただいたことがありました。日曜日の朝に、近所のみなさんと、「ラジオ体操」をしているのですが、顔を覚えているだけで、名前を覚える必要もなくて、おばあちゃん、おじいちゃんですみそうで、お仕事をしている方は、〈床屋のわか◯さん〉、近所の方は、苗字ではなく、『◯◯ちゃん』と呼ぶ仲なので、一度聞いただけでは覚え切らないでいる今日この頃なのです。それに、みなさん〈マスク〉を開いてますので、新参な余所者の顔も覚えてもらえない実情です。

 日帰り入浴施設に行って、何も身につけない裸になると、ホッとします。そこは〈黙浴〉がきまりで、みなさんダンマリと湯に浸かっておいでで、ネクタイも背広も名札もつけていない裸同志で、過去の立場や緊張した顔つきなど不要な場で、会釈だけが交わりの手段で、時々体が触れて、『すみません!』というくらいでしょうか。そこのよさは、〈マスク不要〉で、素顔や表情が見えることです。

 きっと以前は、社長さんや部長さんや教授や校長だったかも知れません。名刺交換もないし、威嚇も睨みも飾りもいらないし、実に平等な世界だなと思うのです。手術痕の多い私は、驚かせないために、そこを隠しながら入浴をしています。

 ところで、今の私の最高の「肩書き(Title)」があるのです。《神の子》、《義》、《聖》であります。稼いだのでもなく、恵みによる三重の「賜物( gift )」なのです。神の御手で印字されていて、決してだれも消せないのです。

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御翼の陰

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♯ なが瞳のように守り 死ぬことのないように  

御翼の陰に われをかくまいたまえ ♭

 昨晩、想いに中に、ずっと繰り返されていた chorus  でした。聖書のみことばに、melody をつけたものです。

 『私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。(詩篇178節)』

 これは、旧約の聖徒、ダビデの祈り、賛美です。どんな堡塁も、砦も、人の作ったものの中に、自分は守られないことを知っていたダビデは、万物を創造し、保って、支配しておられる神、主なる神が自分を守ってくださることを確信していました。その絶対的な信頼を、そう告白したのです

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争い、そして和解

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『これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。(2コリント5章18節)』

 華南のわが家のベランダの真下に、バス通りに垂直に交差する「T字路」が見えました。ある朝、一台の自転車が、信号で止まっていた車と車の間から飛び出して、バス通りから交差点から右折して入って来た車と接触事故を起こしたのです。自転車の荷台の積荷が投げ出されただけで、人身事故にはなりませんでした。それで、路線上に、車と自転車を止めて、大きな声を張り上げて、自己主張と相手を非難する声が上がっていました。

 こういった光景を、よく見たのですが、南に住む人たちは、どんなことがあっても、手を出して殴り合うことをしなかったのです。実に激しい口喧嘩だけで済ませてしまいました。ところが、天津に一年いた間に、男対男、男対女、女対女が、殴り合いをし、路上や菜市場(market)の中などで、組んず解(ほぐ)れつ、上になったり下になったりして喧嘩をする様子を、何度も見ていました。そして南に越して来たのでが、そう言った巷間の争いを一度も見たことがなかったのです。ですから、その南北の地域性の違いに驚いていました。

 言い合っている言葉が、華南の方言ですから、内容は分からないのですが、あんな風に激しく言い合うと、日本人ですと、きっと手が出てしまうに違いありません。よく、『かヤロー!』という言葉が使われると、『何おー!』と、瞬間的に殴り合いになる傾向が強い様です。よく喧嘩というか、殴り合いを、自分がしたことが、若い時にありましたが、いつもそう言った風で、血気盛んだった過去を恥じます。

 アメリカ映画を見た時にも同じでした。もちろん、西部劇では、酒場で殴り合いが必ずあって、酒瓶を投げたり、椅子を持ち上げて使う場面が、見せ場としてあるのですが。題名は忘れたのですが、長い航海に乗り合わせた船客同士が、船内の狭い世界で、ストレスが溜まるのでしょうか、政治信条の違いでしょうか、時々揉め事が起こるのです。そして激しく詰(なじ)り合うですが、鼻と鼻を擦り付け、肩と肩をぶっつけ合うのですが、「拳(こぶし)」は、体の後ろの腰あたりで、両手を結んでいて、拳を握らないし、使わないで、言い合うだけだったのです。

 中国人(南方の人)とアメリカ人、これに対する日本人の違いや似たことは、「言葉」に対する捉え方の違いなのでしょうか。「自己主張」の上手下手なのでしょうか、状況を言葉で言い表して、上手に相手の過失を非難し、自己弁護をする、「言葉の使用能力」の違いなのでしょうか、そんなことを考えてしまいます。

 「五一五事件(1932年5月15日に起きた青年将校らによる反乱事件)」で、激した青年将校たちが、殺そうと銃を向けた時に、『話せば分かる!』と言ったのが、時の総理大臣の犬養毅首相でした。銃弾を受けた犬養首相は、『いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから!』と言って、最期まで「言葉」で説得しようとしたそうです。しかし、名相はその銃弾に倒れてしまったのです。

 この犬養首相は、福沢諭吉が始めた「慶應義塾」に学んだ方でした。この慶応の校章は、ペン先が二本交差する図案で、その意味は、「ペンは剣よりも強し」です。76歳で銃弾に倒れた犬養首相が言った、『話せば分かる!』と言った言葉は、若き日に学んだ、学校の建学理念や精神の影響なのでしょうか。

 もう百年も前の出来事ですが、21世紀は、もっと短絡的になって、衝動的になってしまっているのではないでしょうか。若者がキレるだけではなく、高齢者やご婦人がキレる事件が多くなっています。物が豊かになって、物を持つことで満足する人が多くになって、人対人が、物対物の無機質になったり、神経過敏になって、交わり方が下手になっているようです。昨今、〈切れる刃物〉を振るう者が多くなってきています。

 〈不正に対して事実だけを言う〉がいいのだそうです、責めたり、なじったりしては厄介なことが起こるから厳禁です。さまざまな争い、不和、喧嘩には、《和解》、《赦し》、《平和》が必要です。神と和解し、神に赦されても、人とも和解し、赦されなければなりません。

(「イラストAC」からです)

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神奈川県

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 父の出身は、神奈川県横須賀市でした。旧制の横須賀中学校に、『試験官の前で、教育勅語を暗唱したら、合格にしてくれたよ!』と、父一流の言い方を面白く話してくれたことがありました。旧日本海軍の技官を祖父に持つ、軍人の家庭で生まれ育っています。武士や軍人の家庭らしく、ずいぶん厳しく躾けられたのだ、と言っていました。曽祖父は、日本が、軍艦をイギリスから購入する時には、その使節団の一員だったのだそうです。

 その時、羊毛の毛布を買って来て、父の家にしまわれてあったのです。肺炎に罹って、死にそうになった私に、冷えないように体を温めるために、それを横須賀に行って持ち帰って、入院した私にかけてくれた父でした。父の義母の葬儀に、なぜかp三男の私を連れて行ってくれました。

 そんなで、父の生まれ育った横須賀、神奈川県は、生まれた県、育った県についで思い入れのある県なのです。すぐ上の兄と弟で、叔母と従兄弟の住む、父の生家を訪ねたことがあります。私が華南の街から帰国した時、兄たちに誘われてでした。叔母から、父の昔話を聞きたかったのですが、あまり聞き出せず、残念だったのです。帰りに、「三笠」と言う旧海軍の軍艦が停留されて記念館になっていて訪ねたり、お昼にお寿司をご馳走になったのに、名物の「横須賀カレー」、そして焼き鳥を食べたのです。

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 旧軍港を遊覧する船にも乗ったのです。父が中学生の時、その浦賀水道を遠泳したそうで、父の「垂乳根の故郷」が、本当に自分の故郷のような思いにもされたのです。かつて征夷大将軍になった源頼朝の家来だったとかでしたが、今になると、『それが何なの?』の父唯一の自慢話でした。この街に教会があって、『親爺が連れて行ってくれたよ!』なのだそうで、『主われを愛す 主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ・・・』を愛唱する父でした。

 高校の頃、県下の湯河原に海水浴で一夏遊んだことがありました。上の兄の同級生のお父さんの会社が借り切っていた家に、兄に連れて行かれて、食事やおやつや飲み物付きで、2週間も水泳三昧だったのです。早朝、浜で網にかかった小アジを買って、親指でお腹を裂いて、わさび醤油で食べさせてもらった味が、今も思い出されます。

 相模川の上流に、受験期に、四、五人で出かけて、川遊びをしたりで、受験の圧力から逃れた時がありました。結局、特別な受験勉強などしないまま進学してしまいました。今思うに、進学したから、どこどこ大学に入れたから、何をやってきたかなど、まるで大きな問題でも、決断でもなかったのだと思わされています。これからを思う日々に、様々に思い出しています。

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 横浜にある大きなデパートで、「鏑木清方(かぶらききよかた)展」が開かれた時、『会場警備のアルバイトがある!』と横浜在住の友人に誘われて、学生服を着て、展示場の警備をしたことがありました。優しい筆で女性を穏やかに描いていて、浮世絵師の流れを汲む、その高名な日本画家の絵に圧倒されました。鏑木清方は、晩年を鎌倉で過ごしています。

 私は、明治学院で学んだのですが、ローマ字を紹介し、医師であったヘボン(Hepburn )は、神奈川宿の成仏寺に、幕府の監視のもとに住みます。『毛唐を切り捨てる!』と、用人として紛れ込んだ暗殺者が、仕える内に、ヘボン、その人格の高潔さに、暇乞いをして去ったと言う逸話が残されています。その横浜に、男女共学の「ヘボン塾」を開き、それを母胎にして、築地に用地を得て、「明治学院」を開学しています。

 下の息子を連れて、小田原に行ったこともありました。北条氏の小田原城(改築)の天守閣に登って、「相模国(さがみのくに)」を眺め、相模湾に目をやった思い出があります。日本史を学んだ者として、明治維新を遂行した薩長軍が、徳川幕府を支持した藩の城を焼き払ったり、解体してしまったことは、愚行でした。歴史的な建造物を破壊してしまったのは、あの日のタリバンと同じで、組織は倒しても、歴史的な遺跡となるべきものを保護しなかったのは極め付けの愚かなことでした。

 そういえば、箱根で、親しく交わりをしていた諸教会の「聖会」が行われて、何度か参加しました。内村鑑三は、「夏季学校」で、「後生最大遺物」に説教を、大勢の若者に向けて語り、どう生きるかを説いたのです。『  ♯ 箱根の山は天下の剣』と歌われた東海道に関所付近は、素晴らしい経験の地で、何度行っても美しいと思わされました。小学校の担任が、江戸幕府の教えの中で、〈出女入り鉄炮〉を警戒していたのだと学んだのが、妙に印象に残っています。『関所役人が目を光らせていたんだろうな!』と思ったものです。

 人口924万人で、県民気質として、好意的であっても爆ても。次のような点が挙げられています。

1  かっこつけが多い  見栄っ張り  3  プライドが高い  4  出世欲があまりない  5  趣味や遊びが大好き  6  社交的  7  せかせかしていない

 父のことを思い出して、父もこの七点に近いのではないでしょうか。と言うことは、父に似た自分の優点であり、劣点であるかも知れません。これで生きて、他の人に迷惑をかけないように生きて来たので、人生及第ではないでしょうか。

(「横須賀カリー」、「鏑木清方」の絵です)

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老病

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 春間近かに「東風(こち)」、夏になると「いなさ」、『秋風が吹く!』と、よく言われ、夏が終わって、肌寒い季節の到来を告げる、風が運んでくる季節の詩的な描写です。もう「小嵐(木枯らしにおなじ)』も吹こうかとしている11月なのですが、暖かな日が続いています。

 季節の変わり目、腰痛が起こりました。中国語に、「老病laobing」という言葉がありますが、〈年寄りの病い〉を言うのではなく、「持病」のことを言っています。道路の角地に教会の建物がありました。その回りにある側溝の掃除が春先になると、自治会でいっせいに行われていました。毎年出ては、近所のみなさんと一緒になって〈どぶさらい〉をしたのです。側溝を跨いで、コンクリートの分厚い蓋を、手で上げた時に腰を痛めてからでしょうか、季節の変わり目に、この老病が出てくるのです。

 高校で、groundや道路をずいぶんと走らされましたので、それもあっての腰痛でしょうか。また夜間の床清掃の仕事を長年しましたので、それも原因かも知れません。世に〈腰痛持ち〉ってけっこう多いのだそうで、〈季節の変わり目に〉が惹き起こさせるのです。

 立っていられないような時もありましたが、今は軽症、と言うよりは、やって来そうな時期になると、娘の買ってくれた《腰band 》を、箪笥の底から出して、巻くのです。今季は、家内の勧めで新手の対策をしています。。「ホッカイロ」を腹巻につけましたので、温められるので具合がいいのです。今冬は、酷くならないと信じております。


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 腹巻と言えば、映画の見過ぎでしょうか、六尺のサラシの白布を腰だかお腹だかに巻いていた時期があります。コツが必要なのでしょうか、慣れないもので、上手に巻けないのです。太っていませんでしたから、いつもづれ落ちいるうちに、しなくなってしまいました。

 一緒に働いた方の家を訪ねた時、腰痛に苦しんでいる友を見て、その酷さに驚かされたことがあります。私を迎えるために、玄関に這って出て来られたのです。若い頃に、「碍子(がいし)」の会社で、重い物を運んでいて腰を痛めたそうで、それで会社を辞めておいででしたが、四十過ぎても、まだ腰痛に苦しんでおいででした。電気の送電線の鉄塔に、絶縁のための白い陶器の部品がありますが、それを「碍子」と言います。

 きつい仕事や sport をした人は、加齢と共に、体の不調が出てくるのでしょうか。怠けて生きる方が、身体が長持ちするのかも知れません。でも春風が吹く頃になると、心だけではなく、体が喜んできます。その前には冬を過ごさねければなりませんが。

(「碍子」と「ファイテンサポーター」です)

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 家を出て、坂道を降って、踏切を渡って、左に緩やかに湾曲する道を下ると、道端に「桶屋」が2軒ありました。今ではステンレス製やアクリル製のものが多くなっていますが、やはり、風呂桶は「檜(ひのき)」が一番です。その檜の板を、様々な刃のついた鉋(かんな)を、換えながら削っているのを、飽きずに眺めていました。鉋屑が、紙のように捲れてヒラヒラと木の床に落ちてくる様が、懐かしく思い出されてきます。

 ボタンで温度調整ができるなんて便利なものがある今では、考えられませんが、薪の焚き口があって、火加減と加水で湯温を変化させていたでしょうか。風呂桶には、「上り湯」が仕切られてあって、工夫がされていました。もちろん、水は、井戸から 手動の pomp で汲み上げていたのです。

 中部地方の山の中に、町営の日帰り温泉施設がありました。月2度、真夜中のスーパーマーケットの定期の床掃除を終えて、一っ走り、そこに、年に二、三度行ったでしょうか。山懐にこんこんと湧き出でる温泉が、大好きでした。今でもあるでしょうか。

 そこの湯船は、石ではなく、「檜」で作られていました。出来たばかりだと聞いて、初めて行った時、山深い樹々の緑と、川のせせらぎと、風や小鳥の声の中に、檜の香りが立ち込めて、湯船の中で疲れていた私はまどむほどだったのです。

 貸切のような湯船の静寂なたたずまいは、20年経っても忘れられません。きっと車の運転ができたら、今頃は飛んで行ってることでしょう。家内の同級生が訪ねて来られて、お連れしたことがありました。この二人は、同じような生き方をしているご婦人で、教会での人間関係で疲れていたのでしょう。何でも話せるほど親い友と、湯船で、そして休憩室でお茶や駄菓子で談笑していました。


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 同じように四人の子育てを終えて、都会の教会の役員に気疲れしたようです。高教育を受けた役員婦人に、学歴の高くないこの方の立場は、きつかったようです。誰にも話せないようなことを、湯船で話したのでしょう。あだ名で呼び合うような仲の二人に、《女の友情》っていいなと思わされたのです。

 昨日も、家内の勧めで、市内の温泉施設に出かけたのです。われわれ世代と中年、若者がチラホラでした。散歩で出かけ、お昼を挟んで二度入浴したのです。ジグゾー浴、炭酸泉、自噴温泉、露天と繰り返しながら入る温泉に、季節の変わり目で痛む腰を温めてくれ、何とも結構な湯でした。あれで、檜の湯船だったら、グッと好いのですが。あの桶屋の鉋屑を、鼻で嗅いだあの日々が思い出されてきました。
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弱虫の祈り

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 「弱虫」、神に祈るなんて、弱虫に違いないと思われるでしょうか。でも、生死の絶対的な場面で、どんな人でも、《神頼み》をします。信じていても、信じていなくても、助けを呼び求めるのです。なぜかと言うと、人は進化して、原子から、人になったのではないからです。人は「人」として、意図されて、最高傑作として、神と人格的な交わりができるように造られているのです。

 有名な祈りがあります。それはイギリスの首相をした、Stanley Baldwin(スターリン・ボールドウイン)の「祈り」なのです。

  『イギリス議会の歴史の中で、「ボールドウィン首相の祈祷演説」と呼ばれている出来事があります。一九二五年、当時の首相ボールドウィンは、議会における長い演説の真っ最中に、祈りを始めました。「天の父なる神さま・・・・」。数分間続き、祈り終えると、また演説の続きに入ったというのです。国は、第一次世界大戦を越え、しかし立ち直る間もなく、第二次世界大戦へと動いていくのです。彼は、二つの世界大戦の期間を、三期首相を務めます。国が危機的な状況にあるのを痛感し、自分がいかに非力であるかを認めて、議会の集団を前にした首相が演説の途中で遜って祈りに入っていきました。

 その不安げな首相の姿に、議会と国民は失望したのでしょうか。いいえ。神の御前に遜って自らの非力を認め、神の導きと力を祈り求めることは、指導者の情けない姿ではなく、また聞く人々を不安におとしめるものでもありませんでした。それは、指導者の神に対する信仰の現れであり、その真実な姿に人々は心動かされ、その祈りに自分たちの祈りを重ねたのです。

 神の御前に遜って自らの非力を認め、神の導きと力を祈り求めることは、指導者の情けない姿ではなく、また聞く人々を不安におとしめるものでもありませんでした。それは、指導者の神に対する信仰の現れであり、その祈りによって人々は平安を得たのです。』

 私は、その「祈り」を、祈りながら育ててくれた母から学んだのです。『今度肺炎にかかったら死にますから、絶対に風邪を引かせないようにしてください!』と医者に言われた母は、病院に、私を連れて行きました。医者や薬も、神様の福々の手段だと信じていたからです。それで医者に行き、処方された薬を飲ませてくれました。狂信者ではなかったのです。カナダ人宣教師に、子どもの時に教えられた通り、岐路に立たされたり、迷ったりして、重大な事態に、「祈り」を忘れませんでした。

 それで、76才の今まで、私は生きることができ、神に仕えてきました。そして、人のために祈りをしてきました。今も祈っています。神さまはお聞きくださるからです。祈りには。すぐに聞かれる祈り、待たなければならない祈り、聞かれない祈りがあります。これは詭弁や誤魔化しではないのです。

 神の子である、イエスさまは、父なる神に祈られ、祈るように命じました。ですから、イエスの弟子である私は、祈るのです。また人に、「祈り」を勧めてきました。

 『あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ66節)』

 この《単純な信仰》を母に教えられて、いまだにそれを守って生きています。《祈る子》を育てることは、母親の最高の母業に違いありません。本当は、弱虫なので、神により頼まずにはいられないからです。さあ神に祈ってみませんか。《イエスの御名によって》です。驚くべきことが起こるに違いありません。たとえ何も起こらなくても、神に出会えるかも知れませんから。

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