千葉県

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 あんなにおいしい牛乳、しかも1合(180ml)のガラス瓶入り、ビニールとボール紙の蓋がついていて、蓋と牛乳の間に、1.5cm ほどの厚さのバターのようなものが浮かんでいたのです。蓋を舐め、一気に飲んでしまうほどでした。あの三日間の中学1年の臨海学校で飲んで後、二度と味合うことがないほどの濃厚な牛乳だったのです。

 そこは千葉県の館山(たてやま)でした。近郊の農家が搾って出荷して、街の牛乳工場で瓶詰めしたのでしょうか。大手の牛乳会社が major になる以前は、各地に牛乳工場があったようです。小学校の遠足、潮干狩りでも、千葉に出かけたことがありました。弁当を食べる昼頃、いい匂いがしてきたのです。なんと引率の先生たちが、地元の漁協か、協同組合に招待されたのでしょうか、よしずの小屋の中で、炭火の上に貝をのせての壺焼きで、美味しそうな醤油のにおいがしてきたではありませんか。幼心に、『先生っていいなー!』、それが教師になりたい《動機付け》になったのです。

 これらが千葉県の子どもの頃の強烈な印象です。長男が結婚して住み始めたのが、千葉県でした。その頃、中国に留学が決まって、住まいを、息子との同居を予定していました。それで、私たちの法的な住居を、千葉県船橋市の息子の住所に移して、千葉県民になったのです。帰国時には、1週間ほどいたでしょうか。また、すぐに中国の華南に戻ったり、住んだと言うよりも、逗留気分の市民でした。

 「大宝律令」が交付され、日本の律令制が確立した西暦704年に、この千葉県は「上総国(かずさのくに)」と言われた地です。東京に寄った千葉県市川市に、「真間(まま)」と呼ばれる地域があります。
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勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思にい(「万葉集」高橋虫麻呂)

 万葉集に詠まれた、「真間の手児奈(てこな)」の井戸の跡のある寺院があって、その住職が、私の職場においででした。機関紙の編集をされていて、その一欄を担当していた私は、記事を持っては、一週に一度、JR中央線で市ヶ谷まで出かけたのです。なかなか捌けた方で、赤坂に連れて行かれて、ご馳走になったことが、何度かありました。

 『日本書紀』に、

知麼能 伽豆怒塢彌例麼 茂々智儾蘆 夜珥波母彌喩 區珥能朋母彌喩(千葉の葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ)(訳)千葉の葛野を眺めると、数多くの富み栄える民の家々も見える。国の中でもっとも繁栄したところにもみえる。

 自然にも、作物にも恵まれた地、と言うのが「千葉」だったようです。今では、首都圏・京葉地帯は、京浜(神奈川)に続く工業地帯、消費地帯となって、人口集中や富の集中がなされているのです。〈九十九里(くじゅうくり)〉も海岸線が続く太平洋岸は、実に美しく、何度か出かけたことがありました。

 4人の子どもたちを乗せては、何度、〈Disney land (今は、ディズニー・リゾート)〉に行ったことでしょうか。開門前に着いてしまって、だだっ広い駐車場で、開門を待ったりし、楽しい思い出があります。人が作り上げた American  amusement の遊園地でしたが、実に面白かったので、高い入場料を払っても損をした思いがありませんでした。

人口627万人もの大きな県です。『明るくおおらかで、さばさばとして謙虚な性格が千葉の県民性です。そのため、男女双方から好感をもたれる有名人が多いのが特徴です。』との県民性が言われています。海岸線も広く、奥行きもあり、利根川や江戸川という河川が他都県と分断されている地理的環境があり、東京に対しても対抗心がないので、己が道をいける県なのでしょう。

 すぐ上の兄の義姉も、下の息子のお嫁さんも、千葉県人ですから、少なからず縁がある県なのです。華南の街の公認教会で「日本語聖書研究会」をさせていただいていた時に、我孫子市のご婦人が訪ねて来られました。師範大学で日本語教教師をされていた方で、教え子を訪ねて来られていたのです。基督者で在任中に祈りを積んでおいででした。嬉しい出会いでした。今もお交わりがあります。

 九十九里浜で、潮騒を聞きながら、美味しい海産物を食べながら、老を生きたらユッタリと気持ちが良さそうです。 

 県花の「菜の花」です)

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ヤケボックリ

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 『阪急ブレーブスの投手、山田久志は「リーダーとは?」という問いに「だろう」と答えた。「心情と書いて情けもあるし、心配といって心配りもある。選手の心を動かし、自身の心を貫いた。西本さんは育てながら勝つ人だった、悲運の名将といわれる西本行雄だが、あまたの名選手を育て上げた功績は輝き続ける(日刊スポーツ「監督」から)。』

 燻銀のようなプロ野球選手の中に、巨人軍に、与那嶺、柏田、藤尾などがいた時代がありました。私は、「野球小僧」ではなかったですし、テレビ以前のラジオでしか中継を聞けなかった時代の野球フアンでした。Pro wrestler には体格的に無理でしたが、プロ野球の選手だったらできそうに思えたのです。あの時代の子どもの「夢」でした。

 子どもの頃の「遊び」と言えば、2塁のない、グローブなどの道具もない、ゴムマリでする〈三角ベース野球〉でした。夢中で打って、捕って、走って、投げては、日没まで遊んだ日のです。学校でもしましたし、近所の空き地や広場でもしました。向こうの家の窓ガラスを割ってしまって、ガラス屋に行って寸法通りに切ってもらって、自分たちで、窓枠にはめ込んだのです。

 父が、沢村やスタルヒンを知っている世代で、家の前の道路で、キャッチボールをして遊んでくれたのです。そんな背景で、すぐ上の兄は、高校では、甲子園を目指して野球をし、その夢を叶えられなかった「野球小僧」でした。

 そんな野球で、川上、長嶋、王、原などのような、輝かしい脚光を浴びた、スター選手とは違って、目立たなかったのですが、貢献度の高い選手が魅力的で、贔屓(ひいき)だったのです。自分がスター選手にはなれそうにありませんでしたが、子どもらしくない〈選手観〉を持っていたのかも知れません。

 よく聞くのは、2リーグ制の日本プロ野球で、《華のセ・リーグ》に対して、〈日陰のパ・リーグ〉の方が、野球は面白いのです。パ・リーグで、関西圏の鉄道会社が経営した、「阪急ブレーブス」と言う球団がありました。今の「オリックス」の前身です。冒頭に紹介して、お名前が出てきた、「西本幸雄」の監督としての采配した球団でした、この方が好きでした。「名将」だったのです。

 その後に、同じオリックスの監督だったのが、「仰木彬(おおぎあきら)」でした。この方も、いまだに話題になっていて、多くの選手、報道陣に慕われていました。テレビを持たない我が家で、時間ができた私は、プロ野球の面白さの「ヤケボックリ」に、子どもの日のごとくに、火が付いたようです。

 昨晩、ジャイアンツが負けて、ヤクルトが、「日本シリーズ」に進出が決まって、「オリックス」と戦うことが決まりました。そして、上の息子と同い年の「新庄剛志」が、来季の「日本ハム」の監督にになり、この方が、どんな選手を育て、用いるかが楽しみです。

 父が、テレビ中継が終わった後、耳にイヤホンをして、ラジオ中継を聴いていた姿が懐かしく思い出されます。〈巨人フアン〉でした。昨晩、一日の家事が終わって、シャワーを浴びてから、父に真似て、非常時用のラジオに、イヤホンをつけて〈ニッポン放送〉を聴いてしまいました。

(「イラストAC」からです)

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両毛気質

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 「江戸っ子気質(かたぎ)」は、「火事と喧嘩は江戸の華!』と言われた如く、短気で、おっちょこちょいで、サッパリしていたのでしょうか。江戸日本橋、人形町の「世界湯」の風呂通いをした日々がありました。江戸っ子は、熱い風呂をグッと我慢して、真っ赤になって飛び出してしまうのだそうで、世界湯も、江戸前の熱さでした。

 どこにも、〈◯◯気質〉とよばれるものがあるようで、上野国も下野国も、関東の北端に位置し、とても似た〈気質〉がありそうです。これまで、甲斐国(山梨県)、武州(東京都多摩地区)、上総国(千葉県)、武蔵国(埼玉県)、そして下野国(栃木県)、と住んできましたが、それぞれに似たようなものと、独特なものがありそうです。

 ほとんど縁のなかった群馬県ですが、平野部と山寄りの地ではだいぶ違った気質がありそうですが、それほど厳しくない自然風土の中で、育まれたものがありそうで、今夏、水上で二日を過ごして、好い印象を得ましたので、上州贔屓(びいき)になってしまったようです。

 この上州は、織物の産地でもあり、特に桐生は、その名が有名です。西日本の〈西陣〉、東日本は〈桐生〉と言われるほど、奈良時代の昔から有名です。京の織物の技法が、桐生に伝えられ、昔から絹織物の名産地なのです。父は、「大島(薩摩国の奄美大島特産の絹織物)」で作られた着物を持っていて、凛々しく着ていました。母がそれを縫い直してくれて、着させてもらったことがありました。まさに〈馬子にも衣装〉で似合っていたのでしょう、母が眩しそうに、私の着姿を見ていたのです。

 お隣の県の影響で、栃木県佐野市も絹織物の盛んな地で、同じ桐生織物が織られていたそうです。この「桐生織」の近代化に尽力したのが、森山芳平(18541915年)でした。1895(明治28)年、京都で「第4回内国勧業博覧会」の審査員をしたほどの方でした。この方の逸話が残されているのです。
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 博覧会の途中で、この方は桐生に突然帰ってしまったのです。その審査で、地元京都の審査官の不公平さが赦せなかったのです。上州気質なのでしょう、黙っていられなく激高してしまったのです。森山自身、織物の指導者、研究者として、公平を旨として研鑽してきて、だれにも分け隔てなく教えていた方だったそうです。今では険悪な日韓関係がありますが、森山は、朝鮮半島から学びに来ている若者を、差別なく教えたのです。

 激しやすさだけではなく、不正に対する怒り、分け隔てなく人の能力を評価でき、正義感に立つのも、〈上州人気質〉なのでしょう。私は、下野人ではありませんが、この地が、明治期に、「自由民権運動」が盛んな地だったと、ものの本で読んだことがあります。

 『板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ(『有喜世新聞』明治15(1882)411号)!』と言った板垣退助の主導した運動は、栃木県でも盛んで、県議会の多くは自由党員だったそうです。それを嫌った、維新政府から派遣されていた大島県令(長州人)は、県都を栃木から宇都宮に移してしまったのです。

 上州群馬も、同じく自由民権運動が盛んで、妙義山麓でも活発だったようです。上毛自由党の旗揚げもあって、自由を求める精神風土、政治気運が、この「両毛の地」には残されているのでしょう。もう少し、地域史、両毛の地の風土などを学んでみたいものです。

 「上州カルタ」の「き」は、『桐生は日本の機(はた)どころ』で、その歴史性も品質の高さも、上州人自慢なのでしょう。良い物とは、妥協やヘツライや差別のない人や風土の中で生まれ、育ってくるのです。

(「妙義山(安中市)、「桐生ふくれ織」の生地です)
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三県境

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 “ collector(コレクター/蒐集家)がおいでです。子どもの頃、コウバイとかカバヤの飴の箱の中に、野球選手やすもうの力士のカードが入っていて、それを集めるために買いました。あまり美味しくない飴でしたが、カード欲しさにだったのです。

 この蒐集家で悪どいのは、マンホールの蓋、橋脚のname plate 、列車の行先 plate などを持ち去ることで、それがニュースになったこともありました。埼玉県と群馬県、そして我が栃木県の3県には、接点があります。それを「三県境」と呼んで、渡良瀬遊水地に、plate が設置されています。それが、今夏8月末に『盗まれた!』とニュースになったのです。

 collector は、集めたものを、人に見せては自慢するわけです。とくに、たくさん持ってること、価値の高いものを持ってることが自慢の種なのです。でも〈三県境plate〉なんか自慢して見せられないでしょうね。見せたら通報されて、お縄になってしまうのです。

 この春に、東武電車線に乗って、板倉東洋大学前で下車して、その遊水池の周りを散歩した時に、そのプレートを見かけました。そこにあってこそ意味のあるものを、自分の家の机の引き出しなどの中に入れて、時々開いては見ては、ほくそ笑んでいる姿ってのも、ずいぶん根暗な輩ではないでしょうか。

 『きっと、返そうと迷っている間に時を失してしまったのだ!』と、普通は思いますが、欲しい者には、そんな甘ちょろさでは収集家にはなれないのでしょうね。今は、新しい「三県境」が、再設置されております。また散歩に行って見ようと思っております。

冬支度

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 華南の街で十数年過ごしたのですが、亜熱帯気候の冬場は、雪も氷もないのですが、寒かったのです。黄河以北は、石炭を燃やして作った「温水」が、街中に送水管で送り届けられていて、暖房が完備していました。一冬過ごした天津では、室内ではTシャツでも大丈夫でした。ところが南の中国は、各自が暖房を考えていたのです。

 それで、冬場、家の中で、外で着ていた暖房着を脱がずに、みなさんが生活されていたのです。それには慣れなかった私たちは、超市 chaoshi で、電気暖房機を買ったのです。灯油ストーブは売っていませんでしたし、エアコンも、ほとんどが冷房機能だけでした。それだから、なおのこと「春節 chunjie 」の到来が、中国のみなさんに喜び迎えられていたのです。

 北関東の街に住み始めて、中部山岳の街で使い続けていた、oil heater を息子の家に預けていた物が、里帰りして来て、エアコンの他に、暖かな部屋作りができそうです。まだ、寒くはないのですが、間も無く使い始めるのでしょうか。

 この11月7日は、「冬至」でした。日中は20以上の日が続いていますが、暦の上では「冬」がやって来たわけです。

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 けさの冬 よき毛衣を 得たりけり

 江戸中期の俳人の与謝蕪村は、立冬の朝に、この俳句を詠んでいます。炬燵(こたつ)や火鉢や囲炉裏が、暖房器具の時代、江戸の冬って寒かったことでしょう。子どもの頃に、やっと石油ストーブが普及し始めてきて、『暖かいなー!』と思ったものでした。冬の毎朝、母が炭で火を起こしてくれて、それを炬燵に中に入れてくれ、そこに潜り込んだ記憶がありますが、みんな寒さにも暑さにも強かったのかも知れません。

 蕪村が手に入れた「毛衣(けごろも)」とはどんな物だったのでしょうか。貧しい人たちは、冬はどうされていたのでしょうか。子どもの頃、母は、真綿製の「綿入れ寝巻き」、「ちゃんちゃんこ」を作ってくれました。当時、「真綿」だって、普通の綿に比べたら高価だったのでしょう。

 もう冬支度をしたのですが、今持っている冬用の外套も、この十数年、子どもたちが家内と私に買ってくれて、それを着ているのです。下の息子は、毎年着ていて古くなった、私の冬服を見て、自分が着ているのを、サッと脱いで、『これ着てね!』と言っては、寒そうに自分の家に帰って行くことが何回かありました。春先に、箪笥の中を整理したすぐ上の兄に、「毛皮のジャンバー」をもらったのです。まさに「皮衣」なのです。

 ポンポンのついた毛の帽子も、息子がくれましたので、〈冬支度〉は整っているのです。家内も、やっと冬物を出して、日陰干しをしていまして、『宇都宮に出かける時に、これ着て行こうかな!』と目を輝かしています。お洒落を考えられるようになったのは、素晴らしいことなのです。なんだか、冬の到来が待ちどうしくも楽しみの今です。

(天津で住んでいたアパートの七階から見たい温水を送る施設の煙突です)

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秋と学校と給食

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♭ 秋の夕日に照る山もみじ
濃いも薄いも数ある中に
松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は
山のふもとの裾模樣(すそもよう)

溪(たに)の流に散り浮くもみじ
波にゆられて はなれて寄って
赤や黄色の色さまざまに
水の上にも織る錦(にしき)♯

 もう一度、学校に通えるなら、小学校に行ってみたいな、と思っています。教室の後ろや廊下、ついには校長室まで立たされたわりには、〈苦味〉など全くないからでしょうか。担任は歓迎してくれなくとも、学校に行けるのは嬉しかったのです。肺炎をぶり返さないように、母は細心の注意を払って育ててくれましたから、熱や咳が出ると、死なせまいと、すぐに国立病院に連れて行ってくれました。病欠児童の私は、学校に行けると嬉しくてはしゃいでは叱られたのです。

 6年になっても、私の通った小学校には、「給食」はありませんでした。次の年度から始まったようです。その給食を食べたのは、卒業した小学校の庭に、住居跡の遺跡があるとのことで、私の入った中学校と高等部の考古学研究部が、その発掘をした時に、誘われて参加して、その間、給食を食べさせていただいたのです。きっと校長先生のいきな裁量で、そんな機会が与えられたのでしょう。

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 とても美味しかったのです。ですから、当番が配膳してくれて、みんなで、『いただきまーす!』と言って食べた経験はないので、その給食を食べに、もう一度小学校に行ってみたいのです。私たちの四人の子どもたちは、授業計画表は見ずとも、給食表だけは見て、登校していきました。よく歓声を上げていたのは、〈きな粉パン〉でした。親ながらも、それが羨ましかったのを覚えています。

 そして、今度は、しっかり椅子に座って、立ち歩きをしたり、隣の女の子にちょっかいを出さないようにするつもりです。そんな私を、担任が見たら、ビックリギョウテンしてしまうことでしょう。あの小使いのオジさんの打ち鳴らす鐘の音が聞こえてきそうです。秋には、「紅葉(もみじ)」を歌ったのを思い出します。これからの季節、冬には、石炭ストーブが真っ赤に燃えていたのです。溢れる想いが湧き上がって来てしまいます。秋って想い出がいっぱいです。

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群馬県

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 私たちの家族が、東京に出て来て、二度目に住み始めた家の向かい側が丘陵になっていました。そこは一面桑畑だったのです。生まれ故郷の渓谷の中には田んぼがありましたが、桑畑などなかったので、珍しがって、小刀で桑の木を切って、皮を向いて、チャンバラの刀にしていました。

 そんな遊びのための桑の木ではなく、後に、蚕(かいこ)の餌となる葉っぱを育ててる木だったのを知ったのです。ですから、学んだ小学校から、そう遠くない所に、「桑園(そうえん)」と呼ばれた地域があって、そこに、旧農林省の「蚕糸試験場」があり、「蚕室」がありました。まだ養蚕業が盛んだった頃のことです。

 友だちに、『さなぎ(蛹)を拾いに行こう!』と誘われて、規格外で使われない虫が、窓の外に捨てられていたのです。モゾモゾと動くのを、気持ち悪かったのですが、素手で拾ったのです。家に持ち帰って、紙の箱に入れて、丘の上に行って桑の葉を摘んで、さなぎに与えると、パチパチと音を立てて、食べていました。中には繭(まゆ)になったのもあったのです。その飼育の面白さを経験させてもらいました

 日本の近代化のために、この「養蚕」、これによって産出する「絹糸」が、ヨーロッパ諸国に輸出され、外貨を稼ぎ、それを資金に工業国化が進み、もう一面では軍国主義化していく基幹産業となりました。そのために、群馬県に誕生した「富岡製糸場」は、現在では世界遺産にも登録されるほどの役割を担ってきたのです。
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 今夏、「水上」に出かけましたが、その県南にあって、長野県寄りにある「富岡市」が、日本近代化の金字塔とも言える製糸業の牽引工場のあった街なのです。「あゝ野麦峠」で、信州岡谷の製糸工場で働く女工さんたちが、岐阜などから、峠を超えてやって来た話は読んだことがありましたが、政府主導の製糸業の牽引は、まず群馬県だったのです。

 ここは、律令制がしかれてから、「上毛野国(かみつけぬのくに)」、「上野国(こうずけのくに)」、「上州」と呼ばれて来ました。『その徳性を涵養し、その品行を高尚ならしめ、その精神を正大ならしめんことを勉め(る)』と言った新島襄ゆかりの県です。青年期に、その伝記を読んで啓発された新島襄は、上州安中藩士の子で、江戸は神田で生まれています。京都に「同志社」を起こして、青年教育にあたった人でした。高二の頃、「同志社大学」に一緒に行こうとして、友だちと決めたのですが、二人とも行かなかったのです。〈上毛カルタ〉の「へ」に『平和の使徒(つかい) 新島襄』とあります。

 もう一人は、『もし全世界を手中に収めようともそのために自分の魂を失ってしまえば一体何の意味があろう。人生の目的は金銭を得ることではない。品性を完成することである。』と言い残した、内村鑑三で、この方は、高崎藩士の子、江戸の小石川の武家長屋で生まれています。この方の薫陶を受けた人は、数多くおいでです。上州は、『雷とからっ風、義理人情!』とか、〈かかあ天下〉でも有名ですが、貧しい山岳部の農家の次男、三男の耕す土地がなく、博徒になる人も多かったそうです、でも立派な人物を輩出している県なのでありかます。〈上毛カルタ〉の〈こ〉に『心の灯台 内村鑑三』とあります。

 この群馬県は、わが栃木県に似て、広大な関東平野の背後には山岳が聳えていて、登山家にとって有名な谷川岳(三国山)、あの ski boom の時期には、首都圏に近いということで〈ski Mecca〉でもありました。溢れるほどの人だった上毛高原駅は、今夏利用した時に、広すぎた駅で閑散としていたので、ときの移ろいを覚えたのです。

 人口200万弱で、栃木県の宇都宮とは、JR両毛線で高崎と結ばれています。また、この高崎は、旧国有鉄道で、八王子まで八高線、そこから横浜線で横浜につながっていて、生糸の輸送が行われていたのです。人の移動だけではなく、産品輸送のための鉄道は、日本中に広がって行ったわけです。

 東京に住み始めた小学生の頃、話しことばの最後に、「べえ」がついてて、それが面白くて口真似をしていました。この言葉は、神奈川県の一部、群馬県、栃木県でも使われています。知人の家具店の元店長さんが、栃木弁の方で、「べえ」を話しておられて、つられて使いそうになってしまいました。方言の連鎖というのは、人の交流があったということでしょうか。

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 農業県であることは、一大消費地の東京圏の台所を賄ってきたことは間違いないのですが、京浜の工業地帯の工場疎開で、たくさんの企業が工場を開拓して生産に励んでいますから、工業県でもあります。創業者の出身県であったりすると、工場が誘致されることが多くて、東京近県には、そういった大企業が進出する経緯があるようです。

 昨春、足尾銅山に行ったのですが、日光経由か、群馬県の桐生経由かで行くことができますが、その日は、両毛線で桐生で、「わたらせ渓谷鉄道」に乗り換えて、足尾に行き、そこからバスで、東武日光駅に出て一周しました。新緑が綺麗でした、今頃は紅葉が美しいことでしょう。

 家内の祖先は、上州から信濃にかけた武族だそうで、その家屋敷の前には、「下馬」という札が掛けられていたのだとか。有力な家系だったそうです。わが祖先は、馬から降りて通り過ぎなければならなかった立場だったのでしょう。でも馬に乗らない時代になって、家内の前で、そうしないで済むので、ホッとしている私です。

 (養蚕農家、両毛線の古写真、県花のレンゲツツジ〈写真AC〉です)

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遠足

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 東京都内に、「愛宕山(あたごやま)」があります。標高25.m、都内(23区内)《最高峰の山》なのです。1925年7月に、ラジオ放送を開始するための放送塔が、この頂上に作られ、私たちの国のラジオ放送の原点、記念碑とも言われています。

 近くまで行ったことがありましたが、登山はまだしておりません。都内には山があっても、その程度の標高なので、昔、都内の小学校の「遠足(山登りや校外学習)」は、どこに決めていたかと言いますと、ある学校は、栃木市(かつては都賀郡大平町)の「太平山(おおひらさん/標高341m))」だったそうです。

 小学生が、浅草駅から東武線に乗って、1931年3月に開業した「新大平下駅」で下車して、登山をしたのだそうです(両毛線の大平下駅は、もっと早く開業しています)。都内から近い山といえば、中央線の高尾山か、この太平山だったのでしょう。戦後、東京の西部にある小学校の遠足の定番、《太平山登山》だったのでしょうか。

 今日も、散歩で太平山に行ったのですが、車の通う道路のコースで登ったのですが、帰りは、石段があって、それを踏んで下りました。すると途中、『こんにちはー!』と元気良く、小学生の一段が上がってきたので、『遠足?』と聞きましたら、『いえ。自然観察と研究でーす!』と答えてくれました。

 日本の小学生は、横断歩道を渡る時も、手を挙げて、『ありがとうございます!』と感謝するので、中国の人にも有名で、ハキハキして元気で、礼儀正しいし、年長者への敬いもあって、素晴らしいなと思いながら、『ガンバってね!』と言って行き違いました。

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 真っ青な秋空の下、福青夜風は冷たかったのですが、山なのでマスクを外し、手ぬぐいをねじり鉢巻で頭に縛り、枝を杖にして、登って来ました。『秋はいいな涼しくて、おこめは取れるし、柿も甘いし・・・』と歌いながらの小遠足でした。家内が作ってくれたお昼ご飯が、殊の外、美味しく頂けました。

 歩いて行ける山は、山の中に住んでいたような生まれ故郷を除いて、初めての街に住めて満ち足りています。奥深い関東平野を、電車の乗って帰って来て、この山が見られるようになると、なんとも言えない、落ち着きを感じてしまいます。木々に囲まれ、枯葉を踏むと。生まれた村に回帰している感じがするのです。

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余暇

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 『なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言6911節)』

 怠け者になったのではないのですが、社会的責任から解かれて、時間が溢れるほどあって、もう残り時間は、そんなにないのだと思っています。でも子育て中の忙しさが嘘のように思い出されたり、忙しく働いた日々の出来事に追い迫られている夢を見る時があります。

 今の時間を、〈持て余し時間〉とするか、〈ご褒美〉にするか、〈余暇〉にするかでだいぶ違います。もう何年も前に報告された記事を思い出しています。「余暇と死亡率」の調査です。その調査は、アメリカのもので、あ50〜75歳へのものでした。男性53,440人と女性69,776人、合計12万3216人を対象に行なわれました。14年間にわたる追跡調査結果で、男性11,307人、女性7,923人が死亡しました。

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 『男女共余暇時に座っている時間が1日3時間未満と、6時間以上について調査され、3時間未満の場合と比較されました。6時間以上座っていると、男性の場合1・17倍総死亡率が高く、女性の場合1・34倍総死亡率が高かったそうです。次に座っている時間が6時間以上で、運動時間が週24.5MET、週7時間未満ですと、男性は1.48倍総死亡率が高く、女性は1.94倍総死亡率が高かったそうです。心臓血管病死の場合に、最も関連性が強かったとあります。論文全体が見られたわけではありませんが、座っている時間の長さは、運動時間の長さの如何を問わず、総死亡率と関連があったそうです。結論としては余暇時に活発に運動をし、出来る限り座って過ごす時間を少なくするのがベストで、肥満解消になるという事でしょうか。(「朝日新聞記事)』

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 今散歩途中で、私の万歩計派の歩数は、〈6483歩〉です。昨日も家内が、『ずいぶん痩せてスッキリしてきたのね!』と言っていました。朝食を準備し、食べ終わって、後片付けをし、洗濯機を回し、掃除機をかけたり、モップをしたり、時には水モップしたり、洗濯が終わるとベランダに干すのです。それから、ただの散歩、買い物ついでの散歩、これが pattern です。

 〈余暇〉の過ごし方ですが、下野国の国庁跡や、国分寺跡、古代の豪族の墳墓、集落後などにも出かけたりしますが、行ってみたいのは、網走の「モヨロ貝塚」、「吉野ヶ里(佐賀県)」、「三内丸山遺跡(青森県)」、「稲荷山古墳(埼玉県行田市)」など、古代の浪漫や夢を追いかけてみたいのです。これって、〈三つ子の魂〉なのでしょうか。小学生の頃の強烈な探究心が、今も残っているのも不思議です。TULLY’Sでのブログ作成です。

(時を刻み続ける「北大の時計台」です)

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セラ

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 『それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。 (詩篇275節)』

 『あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。 3120節)』

 『あなたは私の隠れ場、あなたはから苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を囲まれます。セラ(詩篇3120節)』

 隠れ家、秘密基地、逃れ場(英語ですとmy sheltermy refuge and my portion in the land of the living hiding place などでしょうか)、言いたいのは、《ホッと一息つける空間》のことです。聖書の中に「セラ」と言うことばが、とくに詩篇の中にありますが、「小休止」の意味だと教わりました。すぐ上の兄が、押入れの中に、その秘密基地(?)を作っていて、自分も真似して、別の部屋の押し入れを開拓したことがありました。

 近所の遊び仲間と、林の中の木の間に、葉っぱや草や枝で基地を作ったり、空き地に穴を掘ったりして、自分たち専用の空間も、よく作りました。まさに秘密基地でした。きっと、雪国の「かまくら」も、そんな空間だったのでしょうか。空き家にも入って、そんな遊びをしたこともありました。

 日常から離れて、ボーッとしたい時や場所を、どなたも持ちたいのではないでしょうか。家内は、「蔵リハ」と呼ぶ介護施設に、1週間に1日、2時間の時を、七人、八人の同世代のご婦人との交わりに通って、帰って来ては、『ああ、楽しかった!』と、毎回言っています。


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 一昨日は、スダチを手にして家内が帰ってきました。ちょうど夕食の献立が、〈メカジキの餡かけ〉でしたので、半分に切って、それに添えてみました。格段に美味だったのです。group 内での物のやり取りは禁止なのだそうですが、『庭にできたので!』と言って頂いたそうです。

 彼女のもう一つの出掛け先は、「市立図書館」なのです。最近は杖も使わないで大丈夫になって、出掛け先の路上で、推しぐるまの老婦人に、『どうして杖や押し車で歩かないの!転倒したら大怪我をするので、気をつけて!』と言われたそうです。散歩で出会う、散歩仲間からです。

 私のは、ちょっとお金がかかるのですが、この写真の空間を持っている喫茶店がお気に入りで、たった一人の世界ではないのですが、二人掛けの簡易 sofa  に、深く座って、その日その日の coffee  を飲むのを、月にニ、三度ほどしているのです。あの空間とあのひと時は、今の《わたし固有の空間》、《秘密基地》、《隠れ場》なのでしょうか。

 家に居づらいことなどないのですが、気分転換には、とてもいいのです。日常から、そっと離れて、散歩途中に、その時間を設け始めて3ヶ月ほどになるでしょうか。《一杯三百円珈琲》は、心の潤滑油になっているかも知れません。《本日のコーヒー》が美味しいのです。

 コロナ禍のお陰で〈黙浴〉を促されている、入浴温泉が市内にあって、ここにも時々出かけています。誰とも話すことなく、雲や木々の葉っぱや湯の動きを眺めながら、子どもたちや兄弟たちや友人たちを思いながら、また過去を振り替えながら過ごすひと時も、かけがえのないものになっています。

 〈子ども帰り〉なのかも知れませんが、課せられた仕事を終えた今、と言っても、でも継続していて小休止か、見えない勤務についているのかも知れませんが、これまでのthrilling な経験も、出張も、訪問なども少なくなって、けっこう狭い世界の中にいるのでしょう。それでも年齢なり、社会的な立場から、けっこう変化を持たせて生きているのでしょう。とても感謝なことです。

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