千葉県

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 あんなにおいしい牛乳、しかも1合(180ml)のガラス瓶入り、ビニールとボール紙の蓋がついていて、蓋と牛乳の間に、1.5cm ほどの厚さのバターのようなものが浮かんでいたのです。蓋を舐め、一気に飲んでしまうほどでした。あの三日間の中学1年の臨海学校で飲んで後、二度と味合うことがないほどの濃厚な牛乳だったのです。

 そこは千葉県の館山(たてやま)でした。近郊の農家が搾って出荷して、街の牛乳工場で瓶詰めしたのでしょうか。大手の牛乳会社が major になる以前は、各地に牛乳工場があったようです。小学校の遠足、潮干狩りでも、千葉に出かけたことがありました。弁当を食べる昼頃、いい匂いがしてきたのです。なんと引率の先生たちが、地元の漁協か、協同組合に招待されたのでしょうか、よしずの小屋の中で、炭火の上に貝をのせての壺焼きで、美味しそうな醤油のにおいがしてきたではありませんか。幼心に、『先生っていいなー!』、それが教師になりたい《動機付け》になったのです。

 これらが千葉県の子どもの頃の強烈な印象です。長男が結婚して住み始めたのが、千葉県でした。その頃、中国に留学が決まって、住まいを、息子との同居を予定していました。それで、私たちの法的な住居を、千葉県船橋市の息子の住所に移して、千葉県民になったのです。帰国時には、1週間ほどいたでしょうか。また、すぐに中国の華南に戻ったり、住んだと言うよりも、逗留気分の市民でした。

 「大宝律令」が交付され、日本の律令制が確立した西暦704年に、この千葉県は「上総国(かずさのくに)」と言われた地です。東京に寄った千葉県市川市に、「真間(まま)」と呼ばれる地域があります。
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勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思にい(「万葉集」高橋虫麻呂)

 万葉集に詠まれた、「真間の手児奈(てこな)」の井戸の跡のある寺院があって、その住職が、私の職場においででした。機関紙の編集をされていて、その一欄を担当していた私は、記事を持っては、一週に一度、JR中央線で市ヶ谷まで出かけたのです。なかなか捌けた方で、赤坂に連れて行かれて、ご馳走になったことが、何度かありました。

 『日本書紀』に、

知麼能 伽豆怒塢彌例麼 茂々智儾蘆 夜珥波母彌喩 區珥能朋母彌喩(千葉の葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ)(訳)千葉の葛野を眺めると、数多くの富み栄える民の家々も見える。国の中でもっとも繁栄したところにもみえる。

 自然にも、作物にも恵まれた地、と言うのが「千葉」だったようです。今では、首都圏・京葉地帯は、京浜(神奈川)に続く工業地帯、消費地帯となって、人口集中や富の集中がなされているのです。〈九十九里(くじゅうくり)〉も海岸線が続く太平洋岸は、実に美しく、何度か出かけたことがありました。

 4人の子どもたちを乗せては、何度、〈Disney land (今は、ディズニー・リゾート)〉に行ったことでしょうか。開門前に着いてしまって、だだっ広い駐車場で、開門を待ったりし、楽しい思い出があります。人が作り上げた American  amusement の遊園地でしたが、実に面白かったので、高い入場料を払っても損をした思いがありませんでした。

人口627万人もの大きな県です。『明るくおおらかで、さばさばとして謙虚な性格が千葉の県民性です。そのため、男女双方から好感をもたれる有名人が多いのが特徴です。』との県民性が言われています。海岸線も広く、奥行きもあり、利根川や江戸川という河川が他都県と分断されている地理的環境があり、東京に対しても対抗心がないので、己が道をいける県なのでしょう。

 すぐ上の兄の義姉も、下の息子のお嫁さんも、千葉県人ですから、少なからず縁がある県なのです。華南の街の公認教会で「日本語聖書研究会」をさせていただいていた時に、我孫子市のご婦人が訪ねて来られました。師範大学で日本語教教師をされていた方で、教え子を訪ねて来られていたのです。基督者で在任中に祈りを積んでおいででした。嬉しい出会いでした。今もお交わりがあります。

 九十九里浜で、潮騒を聞きながら、美味しい海産物を食べながら、老を生きたらユッタリと気持ちが良さそうです。 

 県花の「菜の花」です)

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