若者風情


九ヶ月ぶりの日本は、豊かな感じがしましたが、それは表面的なことだけなのでしょうか。アメリカ経済の破綻、ギリシャの国家的経済の困窮、そのあおりで世界経済が減速していると聞いていました。さらに、昨年の大震災の影響と円高で、日本でも中小企業が生き残りをかけて、東南アジアに新天地を求めて、安い人件費、特恵待遇をえて工場疎開をしていると聞いています。そんな動きの中で、国内の求人が減少し、景気低迷しているのだとの情報を得ていましたから、ちょっと意外な感じを覚えたのです。成田空港からJRエクスプレスの電車に乗って新宿に出て、中央線に乗り換えて、母のいる街の駅で下車しました。私の周りにいる人の様子、着る物、持ち物、表情、動きなどには、落ち着きがあり、豊かさや満足さが見られたのです。息子は、『見せかけ!』と言ってます。

この狭い国土に、多くの人が生活しながら、これだけの経済の繁栄を経験し、それを持続しているのは、やはり「東洋の奇跡」に違いありません。終戦後の焼土とかした国土荒廃、敗戦経験による戸惑いと無気力さの中で、朝鮮戦争の「特需」が、日本の経済界に勢いをつけたことを、小学校の社会科の授業で学びました。また、城山三郎の「官僚たちの夏」によりますと、戦後の経済界を鼓舞激励したのが通産省の官僚たちであったようです。占領国の悲哀を克服するために、国家主導の産業界の再編成がなされたのです。世界に通用する「物作り」に励み、さらなる改良を積み上げてきたのが、私たちの父の世代で、それを受け継いだのが私たちの世代だったのでしょうか。頑なまでのこだわり、愚直な努力、世界を『アッツ!』と驚かせ続けさせてきた極上の物の生産と提供でした。そして、その動きが、今日にいたるまで続いていることに、驚かされるのは私だけではないと思うのです。

幾たびも奈落の底に落ちそうな瀬戸際に立たされながらも、這い上がろうとする遡及力を忘れないで、奮い立った先人から、こういった心意気を継承したのにちがいありません。しかし日本の物作りにしても、その発端は、朝鮮半島から渡来し、帰化した韓民族にあります。さらに、この韓民族に知恵や技術をもたらせ、精神・思想を教えたのが中華民族になります。この歴史の事実を忘れたら、日本人の独りよがりになってしまいます。「謙遜さ」を徳とする日本人は、これを忘れずに、励んできた結果、この特性を身につけることができたのに違いありません。そうやって築かれた繁栄は、前の世代からの遺産であって、今の世代が、この恩恵への感謝を忘れてしまうと、見せかけの繁栄も潰えてしまうのではないかと、ちょっと心配です。

今、帰国時の宿を次男の家に決めて、都会のど真ん中で過ごしています。昼ご飯時に、次男と一緒に出て、あちこちと歩いたのですが、お上りさんと思しき老若男女が、そぞろ歩いてるのと行き合いました。華の都の名所の一つなのでしょうか、訪ねてきたみなさんには購買力があって、好いものを求める高級志向は衰えているようには見えません。しかし、義母を尋ねた先週、地方都市の中心街の街並みは、年年歳歳、シャッターの降りている商店が増え続けているのです。『ここにあった店が、駐車場に変わってる!』というケースが多くなっておりました。かつての羽振り好さを感じることができないのは、とても寂しいものです。東京はともかく、地方に活力がなくなっているのを感じますから、日本はアンバランスになって、周りの海に落ち込んでいってしまうのではないかと、とても心配になってしまいました。

どこででもみかける顔立ちも服装も整った若者なのですが、海外志向から国内残留、冒険よりも保身、アパートに住みながらも似つかはしくない高級新車を手に入れたいと願うマイカー志向から何ランクも下がってちょっと格好の好い自転車志向に転じているのだそうです。堅実といえばそうですが、「危うさ」は若い人の特許だったのではないでしょうか。アジア人蔑視のヨーロッパに勇躍乗り込んで行った彼らの父や祖父の〈野望〉をなくしてしまっているのは、なんといっても寂しいものがあります。背伸びをすることなく、小ぢんまり纏まっている覇気の無さが、将来の日本にとっては、心配の種ではないでしょうか。「ゆとり教育」の教育効果は、シッカリと上がっているのですが、〈人間力〉が弱くなっているのが、極めて心配でなりません。九ヶ月ぶりの日本の現実に、戸惑う2012年の年の初めであります。

(写真は、代官山の街角風景です)

大将


 昨日、「親バカ」の次女からメールが来ました。小学校1年の息子の近況を、ジイジの私に知らせてきたのです。

『・・・毎日膝と服を泥だらけにして帰ってくる。どうも休み時間はお決まりの”フットボール”をしているようです。年上の子たちと一緒に走っているみたい。休み時間の先生と話をすると、校庭に3人ぐらいの大将(chief)がいて彼はその1人だそう。彼以外は2年生、3年生。この先生は思ったことをはっきり隠さないで言う人で、3人の性格を言っていたよ。
 彼はどんな大将かあててみて。
  1.ずる賢い大将(自分の良いように人を動かす)
  2.暴力大将(すぐ人をたたく)
  3.素直な大将(注意をされると二度としない)
ちょっと親ばかだけど、彼は〈3〉だそう。驚いたけど、彼はそんな子らしいよ。”本が書ける”ほどドラマがあるよう。子供の世界はシビアだからね。上手にできる子とできない子がいるんだよね。では彼のお弁当つくらなきゃ。じゃ、☆ちゃんによろしくね。・・・』

それで、私は、こんな返信をしました。

『・・・そう、3種類の「大将」がいるんだね。子供の世界を、そういった目でしっかり見ている先生がいるんだ。彼の大将ぶりは、そうだろうと思うよ。策略計略大将や強圧暴力強引大将でないんだね。公平で、みんなに好かれ支持される大将になってほしいね。ドラマを記録しておいて、教えてね。小学校の5~6年まで、クラスの番長だったけど、ある時、世代交代されて、没落したことがあったよ。三日天下だったけ、彼みたいな「好い大将」ではなかったからだね。今は、反省してるけどね。Sくんという同級生だけが、お父さんの味方になって、休み時間はいつもSくんと一緒で二人きりだった。◯◯◯の消防署に、お父さんが勤めていたけど、どうしてるかな。・・・彼のリーダーシップを、養い育てたいね。◯◯、頑張ってね。◯◯ちゃんは、そんな兄貴を見てるんだね。◯◯◯◯オジ(家内の長兄)も、番長だったようです。すごく正義感があったようです。彼らのお父さんとと◯◯◯◯オジに似たんだね。・・・』

 中学を出て、ハワイの高校に留学して、夏期休暇で親もとに帰ってくると、近所のスーパーのレジのアルバイトを、姉と一緒にするのを常にしていました。彼女の兄と弟も、そのスーパーで働いていましたが。高校を出ると、西海岸の大学に進学し、卒業後の1年を大学付属の幼稚園で働いて、帰国間近に、その街にあった学生宿舎で出会った一人の青年と結婚したのが、この次女です。ある時、『お宅は、どんな躾をしてるんですか!』と、電話が入りました。行動派で目立って、いつもみんなの真ん中にいた彼女を、目立たない子のお母さんに妬まれたのでしょうか、子育てまでも干渉されたことがありました。4人を育てさせてもらいましたから、ちょっとやそっとの非難で落胆することはありませんでした。家内と私は、好いところや自然性を大事にして育てようと決心していましたから。今、この次女には二人の子が与えられて、子育て真っ最中です。〈だれにも愛される子〉であるように、そんな子育てをして欲しいと、メールの返信をして思う今朝であります。どんなドラマがあるんだろうか?

(写真は、ライオンの母子です)

和の里の湯

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 昨年の暮れに、一つの買い物をしました。新聞配達をしている友人が紹介してくれたものです。田舎の道路際に、作業場兼展示場があって、店頭に並べて販売していた物です。前もって、『あったら紹介してくださいね!』とお願いしていたのです。しばらくたってから、『廣田さん、おそこで売っていました!』という知らせをしてくれたのです。それで自動車を持っている友人に乗せていってもらって、買いました。自動車の後ろのシートに積み込むことができて、家まで運んだのです。力仕事を禁じられていましたので、アパートの門衛をされている若い方と交渉して、15元(200円弱)で、5階の私たちの家に運んでもらったのです。そして、シャワールームに入れてセットしたのです。もう何かお分かりと思いますが、「風呂桶」です。木目があって、まさに日本で昔使っていた風呂桶と、ほとんど同じような形と感触です。 

 小学2年から20歳まで住んだ街の、私たちの家から甲州街道に下ってくる途中に、風呂桶屋さんが二軒あり、暖簾分けしたのでしょうか、同じ屋号でした。その作業や道具が面白くて、学校の帰りには、よく覗き込んだことがありました。独特な鉋(かんな)で、『シュッ、シュッ』と丸みを帯びて削ったり、その木を接着剤を使わないでつなぎとめる技術は圧巻でした。水をいれると、しっかりと膨張して、一滴の水も漏れることがないのです。乾いていても、タガが外れることがなかったから、驚くほどの技術だったのでしょうか。しかも木の材質が、「檜(ひのき)」でしたから、何とも言えない木の香がしていました。大人になって、有名な温泉場の浴場が、この檜で出来ていたことがあって、子ども頃を思い出されてとても懐かしかったのを思い出しました。買った風呂桶は、ニスが塗ってあり、木と木とは接着剤て合わせてあって、子どの頃に眺めた、桶屋さんのような緻密さはないのですが、大満足です。

 さて、風呂桶を入れたシャワールームを、実は「和の里の湯」と命名しました。というのは、このアパートに「和」の漢字が使われていること、家内と「和やかに暮らすこと」を願って、そう呼ぶことにしたのです。将来は、三保の松原から富士を仰ぐ絵を浴室の壁に描いてみたいなと思うのです。今晩、つまり元旦の晩も、この風呂桶に湯を張って、「伊香保温泉の素(入浴剤)」を入れて、「八木節」と、永六輔作詞、いずみたく作詞、デユーク・エイセスが歌った「いい湯だな」を、一声、二声うなりました。湯気は天井からポタリとは落ちませんでしたが、ひと時、中国にいるのを忘れて、群馬県の山奥にいるような錯覚を楽しんだのです。

 これまで中国での生活に何も不自由を感じなかったのですが、ただ一つ、『これに加えて、風呂に入れたら天国なのだがなあ!』という願いを消すことができなかったのです。その切なる願いが叶えられて、満満足な元旦を過ごすことができております。ある日本人の友人の家を、昨晩訪ねて、ごちそうになりましたが、彼の家には、「畳」の部屋があるのです。次は「畳」かなと、ちょっと日本情緒に恋心を感じている、2012年の年頭であります。風呂桶は日本円で6000円ほどでしたから、夢を叶えるにはずいぶんと投資がすくなくてすみましたのも、満足の一つであります。今、家内が、『極楽、極楽!』と言って出てきました。

(写真は、木曽さわらの風呂桶です。こんなには立派ではありませんが!)

笑顔で!

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 2012年の初めにあたり、心からのご挨拶を申し上げます。
 昨年の年頭には、誰もが明るい一年を願ったのですが、3月には、歴史にもまれな地震が列島の北、東北地方を大きく揺さぶり、甚大な被害をもたらしました。この地震に伴って発生しました津波が、美しいリアス式の三陸海岸を襲ってしまいました。また、この津波は、福島の海岸線にあった原子力発電所を襲って、壊滅的な照射線漏れを起こし、日本ばかりではなく、隣国にも世界中にも、不安と怖れを引き起こしてしまいました。結果論になるのですが、もし周到な備えがなされていたら、的確な初期処置がなされていたら、これほどの被害は起こらなかったのだと、どうしても思ってしまい、悔しさが湧くき上がってきます。それほどに危険だということを、しっかりと認識した上で、安全対策がこうじられていたら、これほど多くの人々の人生を狂わることはなかったのに、と大変悔やまれます。でも、これほどの困難に出会いながらも、願わなかった現実を受け入れて、その上にしっかりと立ち、生き方を変えていこうとしている、被災された多くのみなさんがいらっしゃって、その柔軟さに本当に励まされております
 
 この新しい年の元旦、六度目の正月を、ここ中国で迎えました。澄み切った青空が、なんとも言えない希望を胸の中に広げてくれるように感じております。しかし、晴れの日ばかりではなく、日本でも、どこの国でも、決して願わない何かが、今年も起こりうるのではないでしょうか。幸福も、そうでない不幸も、私たちは受けなければならないのでしたら、安易な考えは持つことはありませんが、起こりうる可能性をしっかりと認識しながら、どちらにでも対応できるように生きていきたい、そう思わされております。

 
 陸上競技でも野球でもサッカーでも、『走者が走るのは、、どうしたら良いのか?』という、〈スポーツの調査〉の結果を聞いたことがあります。〈笑顔〉で走るほうが、苦しい表情で走るよりも、速く走れるのだそうです。私たちの人生が、80年ほどだとしますと、そんなに早く走ることは要求されないのですが、人生の意味を満喫したり、有意義に生きたりするのは、やはりこの調査結果から学んで、〈笑顔〉で生きるのがいいということになりそうです。2012年、相形(そうぎょう)を崩して、微笑んだ顔、笑顔で生きていきたいと思っております。
 
 人生の困難に直面して、どうしても避けられない事態に直面したときに、そのただ中で、次のような思いで心を満たすのがいいのだそうです。『この事態が好転したら、この国土の美しい自然の中に出かけていって、その景色を満喫しよう!あの美味しかった◯◯を食べよう!愛する人や懐かしい人と会おう!』との思いを持つことなのだそうです。明日の危険におびえるよりも、明日に希望や夢や幻をつないで生きて行くほうが、はるかに素晴らしい生き方となるに違いありません。
 
 『生きていることを楽しみたい!』、今年はこんな標題を掲げてみたいと思っております。様々な出来事や人に出会うことでしょうから、その出来事を、その人を、心から笑顔で迎えて、楽しもうと思います。心が元気になる本を読んだり、話を聞いたりもしたいものです。
 良いお年をお過ごしください。また、どうぞよろしくお願いいたします。

(写真上は、荘厳なる大空、下は、岩手県岩泉町の秋の紅葉「美しい日本の風景」です)

静かに、そして激しく

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 今年の3月11日に発生しました、「東日本大震災」を思い返しております。被災され、ご家族を亡くされ、家屋も田畑も乗り物も、何もかも無くされたたみなさんのことが、まず第一に気になります。そんな突如として起こった自然災害の中で、世界中が注目した、あの「東北人の忍耐強さ」は圧巻でした。何もない、狭い国土に生まれた私たちですが、一朝ことが起きたときに、あのように振舞われたみなさんを、遠く中国の地から望みながら、「日本に生まれた幸せ」を、しっかりと覚えさせてくださったことに、心からお礼を申し上げ、心から感謝しております。しかし年の瀬を迎えて、ご不自由なことが、なおなお多いことかと思います。物の豊かさに代わる、「心の豊かさ」で、この災難を乗り越えて、新しい年に希望をつないで、越年されますように心から願っております。失ったものは甚大なのですが、残されたものの多さにも、目をおとめになられて、あらゆる面での復興が、迅速になされますようにと願っております。

 
 その復興のために、労を惜しまれず、命を賭してに、様々な分野で、お励みくださった、自衛官、警察官、消防署、公務員のみなさん、そして地元の消防団、被災者のみなさん、そのほかに他の地から駆けつけられたたボランテアのみなさん、本当にご苦労様でした。こういった一丸になって取り組む姿も、日本人の素晴らしい美点だということを改めて教えられました。また諸外国からの物心両面の援助や激励にも、大いに感動させられました。とくに生存者の捜索のために、駆けつけてくださった中国やアメリカなど諸外国からの救援隊のみなさんに、心からの感謝を覚えております。ありがとうございました。生きていることが、こんなに素晴らしいことであることも、悲しい出来事の中で学ばせていただいた大きなことでありました。かけがいのない国土が、いえ地球が、猛威を振るうこともありますが、そのようなさなかに、多くの愛が動くことを知って、「人」であることの素晴らしさも思わされております。多くの愛が、静かに、そして激しく動いた2011年でした。


 2012年が、起死回生の祝福の年となりますように、この大晦日の午後、衷心から祈り、切に願っております。「生きている幸せ」を、思い起こさせてくださって、一言お礼を申し上げます。ありがとうございました。

追伸;私の左手首には、『 Unite To  be ONE! がんばろうNIPPON 』のリストバンドが、いまだにはめられたままです。

(写真上は、中国の救援隊のみなさん、中は、自衛隊員のみなさん、下は、世界からの「祈り」です)

12月17日


 北朝鮮の公式な発表として、指導者・金正日が12月17日に死にました。その時に思い出したのは、1つの〈ブラック・ジョーク〉でした。

 1953年3月5日のことです。クレムリンに半旗が掲げられていました。何が起こったのでしょうか、それを見たある人が電話をかけて、その半旗掲揚の理由を聞いたのです。電話の向こう側から、『スターリンが死んだからです!』と答えが返ってきたのです。その意味が分からなかったのでしょうか、この人は何度も何度も電話をかけて問い直すのです。ついに電話を受け取った人が怒って、『なぜ、なんども同じことを聞いてくるのか?』と聞いたとき、その人は、『何度聞いても好い気持ちがするからです!』と答えたそうです。

 これは、ロシア版ですが、もし、北朝鮮版があるなら、抑圧されてきた国民や、拉致被害者や留守家族のみなさんは、平壌の人民政府の事務局に、『国中に半旗が掲げられているのはどうしてですか?』と、なんどもなんども電話を入れて聞きたいところでしょうか。

 この12月17日ですが、実は私の誕生日なのです。中部山岳の山奥で、村長さんの奥さんが、産婆役をかってくださって生まれたのだそうです。『早朝4時45分出生!』と、父のその年の手帳に記されてありました。この日を、かの北朝鮮では、〈生まれてはいけない日〉に決まったと、今朝のニュースが告げていました。つまり出生の届出をしていけない、笑うこともお酒を飲むことも不謹慎な日と定められるようです。私の生まれた「喜びの日」なのに、北朝鮮では「太陽が落ちた悲しみの日」として金正日を追慕するのだそうです。

 
 それで、ウィキペディアにあったブラック・ジョークをもう1つご紹介しましょう。『スターリンが死んだとき。フルシチョフら党幹部たちは、彼をどこに埋葬すればいいか悩んだという。なるべく遠くに葬りたかったのだ。でもどこの国も遺体の埋葬を引き受けようとはしなかった。困りきっていたところ、イスラエルから「建国に際し干渉しなかった恩があるので引き受けよう」との申し出があったが、フルシチョフはこれに対して丁重に断った。訳を聞かれると、フルシチョフはこう答えた。「だって彼の地では以前、一人復活しているじゃないか。」 』

 きっと体の中には、朝鮮民族の血が、滔々と流れているであろう私も、「そこに生まれなかった幸福」を感じながら、「北朝鮮に生まれた不幸」を感じているみなさんのことに思いを馳せながら、『どうして半旗が・・・』とピョンヤンに電話を入れたい衝動にかられております。言論統制の国だったら、こんなブログを書いたら、逮捕されて銃殺でしょうね。くわばら、くわばら!

(写真上は、国連旗の半旗掲揚、下は、結婚式に着る「韓服」で正装した新郎新婦です)

蚊難

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 今朝方、つまり真冬の12月の30日の明け方2時半のことです。左手の甲が痒くなって目を開けましたら、『ブーン!』と、聞き覚えのある音がしてきたではありませんか。ななんと蚊でした!昨日は暖かな日で、最低気温の予報が13度くらいでしたから、それで蚊が出没したのでしょうか。まあ、信じられないことで、想定外の「蚊難」でした。飛び起きて、夏の残りの痒み止めをすり込みました。かゆみはとれたのですが、眼が冴えてしまいまったのです。それで、読みかけの本を取り出して、ベッドの中で読み始めた次第です。

 だれも刺されなくとも、決まって蚊に刺されるのが私ですから、血か体質に問題があるのかも知れません。だいたい毎夏、蚊帳をつって寝ているのですが、ひとシーズンに5回ほどは、蚊帳の中で蚊に刺されてしまう私です。そうでなければ、蚊帳の外から、蚊帳に触れている手を刺されることもあります。5年目の華南の地での「蚊難」には、本当に参ってしまいます。来年は、〈体質改善〉をしなければいけないかなと思うのですが、根本的な対策などあるのでしょうか。特別に美味しい物を食べているわけではありませんから、食習慣との相関関係はないと思うのですが。

 夜明けにはまだ3時間程もありましたから、読書ができたことでよしとしたのです。しかし、来シーズンは強敵の蚊と停戦同盟を結ぶ必要も、真剣に考えている、2011年がもう一日の晦日であります。改めて美い年を迎えられますように!

(写真は、終の棲家にしたいと願っている岩手県・岩泉線「押角の森」(山岡 亮治氏撮影)です)

オッチョコチョイの鬱


私の愛読書に、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。」とあります。事がとんとんと運び、何をやってもうまく行き、みんなに褒められ、生きる意欲が充満し、満ち足りた日があります。そんな日には、単純に『喜べ!』と言っているのです。ところが人生、いいことばかりがあるわけがなく、困難に直面し始めると、何をしてもうまくいないことがあるようです。でも、〈逆境の日〉など、思い返しても私の過去の日々にはないのです。死ぬような目にあったというのは、落雷とか、台風の時に湯河原で波にさらわれそうになったこととか、自転車で横転した時とか、スピード違反の運転で渋滞の中に飛び込んですんでのところで車が止まって一命を取り留めたこととか、マンションの上の階の爆発事故で家の中にガスが蔓延していたのに引火しないで爆破と火災を免れたこととか、屋根から落ちてしこたま体を打ったとか、まだまだ数え上げると、十本の指では収まらないような、死にそうになった経験がありますが、それだけです。よく、事業が失敗したとか、仕事で大ミスをして会社に莫大な被害を与えたとか、大失恋をしたとか、中傷され貶められたとかして、死を考えたという人がいますが、そんなことは一度もありませんでした。

ただ悲しかったことは何度もありました。一番悲しかったのは、私を愛し期待してくれた父が、突然に死んだ時でした。退院する日の朝に、病院で亡くなったのです。結婚して、『親孝行をしよう!』と思っていた矢先の出来事でした。職場に母が電話で知らせてくれて、父の病院に駆けつけるまで、泣き続けていました。『いい男がなんで泣いてるんだろう?』など人の目など気にもせず、ただ泣いていました。また大失敗して泣いたこともあります。でも、私が流した涙は、嬉しくて流したことのほうが多いと思うのです。

この失敗の常連というのは、失敗の免疫ができるのでしょうか、束の間は、シュンとさせらるのですが、ものの20~30分もしますと、次の目標に向かって立ち上がって歩み出したり、走り出したりしてしまうのです。言い換えると反省が足りないのでしょうか、それでまた同じことを繰り返すのです。そうやって生きてきて、孫を持つような年令になりました。家を建てることも、老後の備えもしないまま、今日を迎えてしまいました。『不安ではないですか?』と聞かれても、つまされてしまうようにはならないのです。私の父は、亡くなったときに、若干の借金があったようですが、私にはそれもありません。それだけ信用がないから借金もないのだと思いますが、借金をしてまで気取った生活をしようとは思ったことがないのが本心です。私が学んだ人生訓に、『だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。』があります。一度、お金を借りたことがあって、借りた人の奴隷になったように不自由で、惨めな失敗経験があったからです。その借金を返済したとき、『人に貸すときは上げよう。ただし、人には金輪際借りまい!』と決心したのです。


『あなたのような人は絶対、精神病になりませんね!』と太鼓判を押してくださる方がほとんどでした。あにはからんや、そんな私が、〈鬱〉になったことがあったのです。山の向こうの街に、孫を宿した娘がいて、その山を見ているうちに、涙が、ホロリとこぼれ落ちたのです。『ヤバイ!』と、咄嗟に思いましたが、その感情を抑えることができなかったのです。もう怖くて外出ができないのです。もちろん車など運転したいとも思いませんでした。人にも会いたくないのです。中国に行く夢も、もう諦めなければならないほどでした。右腕の腱板を断裂する事故をして、縫合手術を受けて、腕をプロテクターで釣っていた時でした。腱板の断裂が、過去の楽しかった生活と、将来の生活とを繋ぐ事ができなくなってしまって、糸でしょうか、帯でしょうか、それが同じように断たれてしまった、そう思いの中で感じたのです。『左の腕の腱板が、切れたらどうしようか?』、『左腕を守るためには、道路のどちらを歩いたらいいのだろうか?』、『車や自転車に追突されたら左腕が・・・』といった思いが、めくるめく去来するのです。手術は、苦しかったのです。術後も苦しかったし、リハビリも思うようにいかなかったのです。そんな時に、次男が東京から帰ってきました。娘たちもいて、『みんなでお好み焼きを食べに行こう!』と、連れ出そうとしてくれたのです。私は、外出ができなくて、『行かない!』の一点張りでした。ところが次男が、『お父さんが行かないなら俺も行かない!』という声を聞いて、腰を上げたのです。食べたお好み焼きが、食いしん坊の私には、やけに美味しくて、その日から、プツンと欝が消えてしまいました。2週間ほどでしたが、「逆境体験」といえば、この時でしょうか。これは自分の弱さを知らされた、よい時でしたが。

多動性の私が、〈オッチョコチョイ〉に生まれたのは、先天的なのでしょうか、後天的なことなのでしょうか、それをよく考えています。母が子どもの頃は、〈お転婆〉だったと、本人から聞きました。母の故郷に行ったとき、幼い日の母と一緒に遊んだ同年輩のおばさんに会いましたら、『たかちゃんは、とてもお転婆だったんですよ!』と聞かされましたから、疑う余地はないのだろうと思います。落ち着いて生活しているようで、案外とオッチョコチョイな面を見せていた母を思い出すのです。そう見せないために、落ち着こうするのですが、付け焼刃というのでしょうか、もろくも実態が暴露されてしまうのです。そんな母似の私も、初老から中老でしょうか、そろそろ落ち着こうと思っていますが、前途は・・・・。まあ来年は、そんな年になることを願っております。でも、先天なのでしょうか、それとも・・・・どうも反省が足りないようで。

(写真上は、長野県家の入笠山に群生する「スズラン」、下は、BOSSの自転車です)

よい年を!

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 私たちの住んでいる地域は、中国の行政区画によって、かつては「◯◯县◯◯镇◯◯村」と呼ばれていた地域です。現在は大きな地方都市が、近隣を合併させているのです。公共交通網が張り巡らされている現在は、中心街に行くのに、ものの20分か30分ほどの至便さにあります。そんな開発地域に、大きなスーパーが3つほどあります、台湾系とイギリス系、地元のチェーン店で、それぞれ大量仕入れで価格を三店で競争しているようです。12月初旬に、この街最大の商業施設としてもう一店舗開店しました。週末には、驚くほどの人だかりがしていますし、周辺の道路は、大渋滞になっております。先日バスに乗っていましたら、運転手と乗客が、この商業施設のオーナーが、有名な政治家の「女婿」だと言っていました。全国展開の〈ショッピングモール〉で、さながら、ホノルルにある〈アラモアナショッピングセンター〉思わせるほどの充実ぶりで、日本にも珍しいほどの規模ではないでしょうか。

 この一画には、「MUJI」と看板を掲げた店がにあり、何かと思いましたら、「無印良品」とありましたので、日本の企業だったのです。三日ほど前に、このモールに行ってみました。店に入りまして、「MUJI」の商品を手にとってみましたら、日本円と「人民币(renminbi)」の価格が併記されてあったのです。『うわー、高い!』、これが第一印象でした。日本では高級品ではない、この店の商品ですが、隣にあった中国の老舗の価格よりも高いのですから、最高級品になるに違いありません。だからでしょうか、客はまばらでした。もう、中国のみなさんの目線にたってしか、物の価値を判断できなくなりましたから、われわれ庶民にとっては、高嶺の花の商品になります。ところが、日本に帰ると、そんな抵抗は全くなくなってしまうのですから、不思議なものです。そんなことで、手ぶらで出てしまいました。

 九州の熊本にある「味千」というラーメン店が、中国で大きく展開していまして、その店もこのモールの中にあります。私たちの街には、「卤面」と呼ばれる名物の麺類がありますが、これが6元ほどで美味しく食べられるのです。ところが、この日本ラーメンは、30元ほどもします。5杯はゆうに食べられる勘定になるでしょうか。それでも日本製品は人気があります。お菓子を買いましても、その袋には日本語がひと言ふた言書きこまれているのです。時々間違って記入されていたりしますが。日本風シュークリームもあって、先日、友人が買ってきてくれました。街中では、新車がさっそうと走っていて、トヨタ、ホンダ、三菱、スズキ、マツダが、ひときわ多く見られるのです。『日本製品は、抜群に良いですね!』というのが、嬉しい評価です。最近、家にチラシが入っていました。何かといいますと、「温水の洗浄機付きの便座」の広告でした。そういったものが歓迎される、豊かな社会になってきたということでしょうか。『東京のホテルの泊まったとき、トイレの便座が暖かくて、誰か、前に座っったのかと思いました!』、と、天津で一緒だったドイツ人の友人が、冗談を込めて言っていたのを思い出します。こう言うのを、「微に入り細を穿つ」というのでしょうね、日本製品は。驚きと感嘆の的、これが日本製品でしょうか。


 今後、私たちの地域では、激しい販売合戦が展開されそうです。日本と同じように、チラシがポストに定期的に投げ込まれて集客を図っています。この地域には、昔から〈菜市場〉という青物、乾物、肉、タマゴ、雑貨などを商う小さな店の集まった地域があります。野球ができるほどの屋内練習場のような作りで、驚くほどの集客がみられます。魚屋の水が土の通路を泥にして、靴が汚れてしまいますが、とても便利なところです。天津で過ごした一年間、私たちのアパートのすぐ近くにも、この〈菜市場〉がありましたので、スーパーでは特殊なもを買い、生鮮品は、ほとんどここで買いました。「パン粉」だってありましたし、お願いするとミンチの肉も売ってくれました。日本にも、地方には残っている風情なのでしょうが、今はもう見られなくなった光景でしょうか。

 クリスマスセールが一段落し、すでに正月用品が、「春節」に向けて売られ始めているようです。日本の昔の暮れの風景、正月用品を売る店に集まる人並み、よくテレビで、上野の御徒町が放映されていましたが、どこの街も実に賑々しかったのを思い出します。今は、「通販」の時代なのでしょうか。『廣田さん、ネットで買うと安く手に入れることができますよ!』と、教えてくれる友人がいます。家内が、〈USB〉をスーパーで買ってきました。140元ほどしたでしょうか。念のため、中国版のamazonで検索しましたら、同じ容量の製品が40元ほどでした。もう中国も、通販の時代なのだと思わされて、ちょっと損をした感じがいたしました。
 
 日常を、このように生きて、年の瀬を迎えています。六回目の師走、再び「師」になる機会が与えられましたが、私は、ここで走りまわることはありません。「師走」ということばは、Wikipediaによりますと、『日本では、旧暦12月を師走(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用い、その由来は僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさ(平安後期編『色葉字類抄』)からという平安期からの説がある。また、言語学的な推測として「年果てる」や「し果つ」等から「しわす」に変化したなどという説もある。』とありました。坊主ではない(!?)のですが、気持ちはわかります。


 よい(好い、善い、良い、佳い、嘉い、美い)年をお迎えください。心から幸福と平安と喜びを願っております。

(写真上は、中国切り絵の「福」、中は、天津古文化街、下は、大賑わいの菜市場前の路上風景です)

男の締めくくり

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 先日、「象の背中」という映画を見る機会がありました。2005年1月から6月まで産経新聞に連載された秋元康の原作で、2006年に単行本として出版され、2007年の秋に公開上映されています。渋い中年男性を演じて抜群の演技力を評価されている役所広司の好演でした。その内容は、マンションを企画販売をする会社の部長である主人公が、癌に冒されされていることを主治医に告げられます。『どのくらい生きられるんですか?』との彼の問に、『一概にはいえませんが、半年が一応の目安かとも思います。』と、48歳の彼に応えます。他に転移している肺ガンでしたから、治療を勧められますが、それを拒否します。妻と娘には極秘にし、長男に事実を告げます。男同士ということでしょうか、『昨日までと同じ生活をする・・・一緒に背負(しょ)ってくれ!』と、男の決意を告げます。小説や映画の技法かも知れませんが、もう一人、愛人にも末期のガンであることを告白するのです。一緒に見ていた家内に、『あなたは誰に告白します?』と聞かれて、ことばを濁してしまいましたが、きっと私も愛人にだけ告白することでしょう。しかし「愛人」は、中国語ですと、夫に対する妻、妻に対する夫を、そう呼びますから、中国式の「愛人」ですので念のため。そんな彼が、残された日々を精一杯に生きようとするのです。どう生きるのかといいますと、過去に出会った人々、例えば中学時代のクラスメートを訪ねて初恋を告白します。また、ぎくしゃくとした関係にあった高校時代の野球部の同級生、仕事上で倒産にまで追い込んだ経営者、父親の死後から疎遠だった兄を訪ねて、過去の精算の努力をしていきます。

 主題となった「象の背中」と、この主人公の藤山幸弘のガン宣告と、どう関わりがあるのかと思っている間に、『アッ、そうか!それでこんな題にしたんだな!』と象の習性を思い出したのです。死期を悟ったゾウは群から独り離れていきます。そして断崖から流れ落ちる滝の後ろにある洞窟にわけいって、そこで死を迎える、そんな話でした。象の背中を見たのでしょうか、あるいは象のように独りになるのではなく、残された時間を治療のために奔走することをやめ、男の生の締めくくりをしていくのでしょうか。あるいは、死に逝く象の背中に乗って運ばれようとするのでしょうか、そんな話に、なんとなくつまされてしまったのです。きっと同期に入社しただろう部長仲間の同僚も、長く連れ添った奥さんも、平然と振る舞いながらも、ガン宣告以降の彼の言動の異変に、何かを感じている、映画では、そう演じられていたようです。


 「一生の不覚」という言葉があります。中国語で言いますと、「遺恨終生」と言うそうで、一生涯、遺恨を残すという意味なのでしょう。小学校6年の時に、社会科の授業でライバルだったKくんと、週末に、立川に遊びに行く約束をして、駅で待ち合わせをしました。ところが、すっかり忘れてしまった私は、その約束をすっぽぬかしてしまったのです。なんと約束不履行です。翌日、学校に行ってから、そのことが分かって、それ以来、Kくんの怒りを買って絶交状態になりました。地元の中学に進まなかった私は、彼との接点が断たれれてしまって、取り返しのつかない「一生の不覚」で、今日に至っています。半世紀以上、それを修復をしないままなのです。このことを思い起こされてしまったのです。

 実は先週、こちらでお世話になり、ご家族の必要で帰国なさった方が、久しぶりに仕事で中国に来られて、我が家にも寄って下さる約束をしたのです。その日の3時に、果物を買い、あべかわ餅を作り、美味しいお茶の用意をしていたのですが、待てど暮らせどおいでにならないのです。なにか急用があったのかと思って、5時頃までお待ちして諦めました。実は、アパートの下においでになられていて、呼び鈴を押し、携帯にメールを送っていたのに、私と家内は、全く両方とも気づきませんでした。一階の玄関でベルを押すと聞こえるはずなのに、聞こえませんでした。それに、何と携帯電話が充電切れだったのです。充電を始めたときに、メールの着信を記憶していたコールがあって、この方がメールをしておられたのを知ったのです。『しまった!』、それこそ、50数年ぶりの不覚を再犯してしまったのです。このことを、なんどもメールでお詫びしましたら、忍耐強いこの方は、『帰国したら渋谷で会いましょう!』と言ってくださったのです。こんなに嬉しいことはありませんでした。来春の帰国時に、渋谷で再会しましたら、改めてお詫びしようと思っております。

 さてKくんは、今どこで何をしているのでしょうか。彼にも会って謝罪をしなければいけないと思わされています。アッ、この藤山幸弘のように、医者に癌だと宣告されているのではありません、今のところは。なんとなく未精算のことごとが思い起こされているのです。どうにかして、お詫びの行脚をしないといけないようですが、今は中国にいて動きが取れません。来春の帰国時に、街で床屋をしている同級生がいるので、彼なら情報を持っていると思うので、訪ねて聞いてみることにします。脚のスネ、指や腕にある傷跡を数えたことがあります。傷の上に傷もありますから、親にもらった大事な肌を傷つけてしまった不幸を詫びました。それ以上に、人間関係のキズも多くあって、この映画の主人公のように数え上げなければならないようです。不覚を心から詫びなければならない人の多さに愕然としていますが、その残された機会を失わないようにと決心している「圣诞节(降誕節)」の夕べであります。

(写真上は、主演の役所広司、下は、「象の背中」のDVDです)