「情」

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 とても親しくしていただいた中国人のご婦人がおれました。地方の国立大学の大学院に留学をされていたのです。大学院で研究する合間、あるスーパーマケットでアルバイトをされていたのです。お金が足りなかったのではなく、父親の負担を軽くするために頑張っていたのです。彼女の職場におられた年配の女性が、『これを上げます!』と言って、洋服を彼女に渡したのです。ところが、それが使わなくなった古着だったわけです。『中国人の苦学生だから、これ使ってくれるだろう!』とのことで上げたのでしょう。ところが、彼女は怒ってしまったのです。実に柔和で、争いを起こしたり、激しい言葉を使ったりしないで、流暢な日本語を話す婦人だったのですが。しかし、その時は、プライドを傷つけられてしまったのです。お父様は、去る省の政府高官でしたから、お父様にお願いすれば、何でも与えられたのです。父の援助を固辞しながら、一生懸命に学んでおられたわけです。

 それで、相談されたことがあったのです。私も、『父が着なくなったので、このセーターを!』とか、『兄が使わなくなったネクタイですが!』といって物をくださった方がいましたが、悪意はなかったので受け取りましたが、決して使いませんでした。貧乏はしていても、私にもプライドがあったからです。私は彼女を通して学んだのは、中国人が大切にしている「面子」のことでした。中華民族の一人であるという誇りと、伝統ある一族の末裔であるということ、私が私であるという「面子」は、財産よりも何よりも貴いことなのです。

 日本の外交は、このように、中国のみなさんが大切にしている「面子」を傷つけているのではないでしょうか。配慮が足りないのではないでしょうか。自分の国を、軍靴で踏みにじられ、多くの命を奪った過去を赦そうと精一杯の努力をしてきている中国と中国人を、真に知らない、理解しようとしないのです。私たち日本人は、戦時下に、主要都市が焼夷弾で爆撃され、広島や長崎に原子爆弾を投下されても、マッカーサー司令官が進駐軍の責任者としてやってくると、何万通もの親愛の情のこもった手紙を書き送れる国民なのです。8月14日以前には、『鬼畜米英!』と言っていたのに、15日には、ホッとして、「親米家」に豹変できる国民なのですね。中国のみなさんは、日本人のようには決してならないのです。

 中国は、「合情理法」の社会です。「理」、中国のみなさんには大切なものなのです。「理」にかなわないことは承服できないのです。それ以上に中国のみなさんが大切にしてるのが、「情」です。今回の領土問題で、強引に国有化をしてしまったことは、中国のみなさんの「感情」を大きく傷つけてしまったわけで、それで「反日デモ」が、この週末、主要都市で起きています。領事館から、「外出注意」との情報がありますので、家の中にいることにしていますが。では日本はどうかといいますと、「合法情理」で、「法」が大切なのです。『法律的には正しいのだから!』というので、相手国への配慮とか近づく努力をしないで、「法」を盾にして国有化てしまったのです。中国の社会では、日本人が大切にしている「法」は、無視はしませんが、最下位に置くのです。で、在華邦人の私を、妻も子どもたちも友人たちも、遠くから、成り行きを心配しているのです。

 今朝、教え子から、『・・・ちょっと微妙ですね、気をつけて!』とのメールが来ました。心配してくれているのを知って、励まされました。この「情」は、国境を超え、問題を越えて働くことを知らされて、とても安心した次第です。この大課題を、「合理法情」の欧米の国の指導者に仲介に立ってもらう以外にないのかも知れません。外交の「が」も知らない私ですが、『下手だ!』と思うことしきりです。

(写真上は、「美しい中国 美しい日本–日中友好40周年記念写真展」、下は、周恩来首相と田中角栄首相の乾杯風景です)

ハグ

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 領土問題を、庶民生活に影響させない努力が必要です。庶民は庶民で、底辺の交流を続けるべきです。「不買運動」や「排斥運動」は、やがて戦火を交える戦争への導火線となってしまうからです。優れた芸術性のあるタレントをボイコットしたり、スポーツの対外試合をやめたり、旅行計画を取りやめたり、韓国製品や中国製品の不買の流れに流されてはいけません。両国政府が机を挟んで、冷静に話し合い、互いの主張を聞き合って、感情的にならないで、解決に向かって鋭意努力すべきです。

 親の喧嘩を、子や孫がし、江戸の仇を長崎で討つ様なことにしてはいけません。責任を政府に委ねましょう。昔、経済封鎖をされ、在留日本人を差別され、市場から締め出されたので、日米が戦争に突入してしまった、ということを聞いて来ました。感情を傷つけられて、堪忍袋の緒を切ってしまって、『ニイタカヤマノボレ!』になってしまった過去があるではありませんか。冷静な現状判断を怠ったのではないでしょうか。また子どもたちに剣や銃や手榴弾を握らせるのですか。この美しい祖国を、再び焼け野原にするつもりですか。

 「大日本」でなくていいのです。小日本主義でやっていこうではありませんか。そのほうが大国になってしまって、枕を高くして眠れない「不眠症」になるより、好いからです。子や孫たちに、この美しい国土を残してあげましょう。『日本人たれ!』と言って脅されて、素晴らしい個性を殺してしまったのが、私たちの父や祖父の時代でした。世界制覇の野心、八紘一宇の世界の実現など、二度と再びスローガンにしてはいけません。

 放射能も怖いのですが、「戦争」の方が、はるかに悲惨ではないでしょうか。火の用心、お母さんを泣かさないで、馬を肥やしていきましょう。握手をしてハグをして行きましょう。次男の家で観た動画に、日本人の青年が、ソウルの街中で、『ハグしよう!』と呼びかけると、何人も何人ものソウルの青年たちが、彼にハグしてきていました。さあ握手してハグを交わそうではありませんか!

サーカス

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 1933年(昭和8年)に、西条八十の作詞、古賀政男の作曲、松平晃が歌った「サーカスの唄」も、一世を風靡した名曲でした。3月28日、東京・芝浦で開かれた「万国婦人子供博覧会」に合わせて、ドイツのハーゲンベック・サーカスが招かれることになりました。その宣伝のために作曲されて、歌われたのだそうです。日本とドイツの関係が緊密になっていく中でのサ-カスの開催でした。団員総勢約150人、動物182頭は、日本人が初めて見る本格的なサーカスだったのです。

旅のつばくろ 淋しかないか
おれもさみしい サーカス暮らし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た

あの娘(こ)住む町 恋しい町を
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴(さ)えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ

朝は朝霧 夕べは夜霧
泣いちゃいけない クラリオネット
ながれながれる 浮藻(うきも)の花は
明日も咲きましょ あの町で

 子どもの頃に、田舎町にテントが張られて、「サーカス」が行われていました。動物園以外で、動物がみられたり、様々な曲芸を見せてくれ、道化師(ピエロ)の無言の所作に笑わされたものです。鳴り止まない拍手が、いまだに耳の奥に残っております。

 テレビや大きな劇場がない時代の田舎で行われるのは、金儲けの興行だったのは事実だったのですが、子どもたちには夢を与えてくれたものだったのではないでしょうか。旅芸人一座が、テントを張っては「チャンバラ」の股旅ものや母ものを観せてくれました。決して豊かではなかった時代、大人たちは、私たち子どもに夢を与えようとし、遠くから夢を運んでくれたことを強く思い出しております。母に、わずかなお金を手に握らされて、小屋に走り込んでは観た日がありました。

 この歌は、よく「チンドン屋」が演奏しながら、商店街を練り歩いていたので、よく聞きました。時代劇の衣装を身につけて、ビラを配りながら、鐘と笛とアコーデオンで宣伝して歩いていたのです。もう全く見られなくなってしまった街中の光景ですね。そんなに豊かではなかった時代でしたが、夢があり希望があり、みんなが一生懸命に生きていて、逞しい活力のある時代だったのです。今頃は、「秋の大運動会」の準備に明け暮れていました。本番には、母が海苔巻きや稲荷寿司を作り、おかずをこしらえ、飲み物やくだものをもって応援に駆けつけてくれました。みんなで分け合いながら、食べた昼食の味は何とも形容しがたく美味しいものでした。秋の青空が、今よりも、ずっと高く近く感じられたように思い出されます。

 思い出が、光景ばかりではなく、色がついていたり、匂いや味が残っていたりして、五感で感じられるのが不思議でなりません。『今日日の子どもたちには、こういった子供時代が与えられているのだろうか?』と考えてしまうのですが。四角い箱のテレビ、パソコンやゲーム機の世界に、心が泳がされているように思えてしまうのですが。「情緒」の欠落した世界の中に、心がさまよっているのかも知れません。彼らを、思いっきり走り回れる野原に、登り下りする崖や谷に連れていってあげたい気持ちがしてなりません。

(写真は、サーカスの余興を演じるピエロ(道化師)です)

もう一つの原宿

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 今回の帰国で、家内から買物を頼まれていました。「純綿の肌着」を好んで着用してきている家内の唯一の拘りをでした。彼女の持っている服は、娘のお下がりや、友人たちに頂いたものを、何年も大切に着続けていて、『もう少し新しいスタイルの物を、たまには買ったら!』と勧めるのですが、返事を濁してしまいます。

 肌着は毎日着用し、くりかえし洗濯をするので、消耗が大きいのです。それで、買物を頼まれたわけです。前回彼女が帰国した時に、渋谷の街を探したのですが、彼女が求めるものを見つけることができませんでした。そうですよね、渋谷といえば、「若者の街」ですから、年配の女性好みの洋品を陳列してる店などありようはずがありません。『どこに行ったら帰るかな?』と次男に言いましたら、『お父さん、巣鴨に行ったら買えるんじゃあないの!』と言われて、そうすることにしました。

 山手線の巣鴨で下車して、中山道沿いを歩いて行きますと、道路の向こう側に、「巣鴨駅前商店街」と看板が出ていました(ここは旧中仙道です)。歩道橋を渡って、その道をそぞろ歩いていますと、両側に様々な店が連なっていて、呼び込みの声が聞こえてきました。ここぞと思って入店した店で、年配の商店主が、『いらっしゃい!』と迎えてくれました。『実は・・・』というと、『こちらに!』と案内してくれました。家内好みの肌着のコーナーに、遠慮がちに並べてありました。店主が話すに、『最近のご婦人は、若い方が着用するようなものを好んでいまして、お求めのような婦人肌着は、ほとんど人気がなくて、こんな売り場になってしまったのです!』と言っていました。

 肌触りの好いものよりも、〈カッコウ〉や〈はやり〉や〈若さ〉が優先する時代なのでしょう。『生産の量も激減してしまいました!』と、残念そうに語っておられたのです。そういった時代の流れの中で、家内のような、昔から〈好い物〉と定評のある物に拘る人が少なくなってしまったことになります。買物をザックに入れて商店街を歩いていて気づいたのは、年配の女性が、圧倒的に多いのです。甘味処、蕎麦屋、日本的な贈答品、芋ようかんなど、やはり〈純和風〉な街なのです。そんなことを感じながら歩いていて感じたのは、『こういった商店街も、もう十年もしたら消えてなくなってしまうのではないか!』ということでした。

 そういえば、去年帰国した時に、通院のための乗換駅が巣鴨でしたので、駅の周りを歩いて和菓子を買ったと思いますが、その頃、次男が、『巣鴨はね、〈おばあさんの原宿〉っていうんだよ!』と教えてくれたことを思い出したのです。今回、巣鴨商店街を歩いていて、〈おばあちゃんの原宿〉の意味が、はっきりと分かったので、ニヤリとしてしまいました。古い東京の街が消えて行く中で、わずかに残っている街並みなのでしょうか。

 ちょうど昼時でしたので、ここにふさわしい食べ物をということで、「蕎麦屋」に入り、蕎麦をすすり、〈蕎麦湯〉もお願いして飲んだのですが、『日本だ!!!』としきりに思わされたことでした。こちらに戻ってきてから、『次回、帰国したら、巣鴨に一緒に行ってみようね!』と、家内と約束してしまいました。覚えておかないと。

「あご」

 私たちが住んでいる街の食料品店に行きますと、「かまぼこ」のように、板の上に載せらてはいませんが、魚のすり身を加工したもので、丸くて一口で食べられたり、様々な形をしたものがあります。また、それを油で上げた「薩摩揚げ」の様なものもあります。魚肉の加工というのは、華南の海辺から始まっているのか、それとも薩摩藩や紀州藩の加工品が伝わったのか、食文化の交流があったことだけは確かです。

 私たちが小さい頃に、5月になる前に、決まって母の故郷から、「ちまき」が送られてきたのです。『大きく育て!』との祖母の願いが込められていて、母がふかしてくれ、砂糖醤油をつけて食べた味、それが「こどもの日」、「端午の節句」の記憶の中にある味なのです。私が世帯をもってから、毎年年末になりますと、母の故郷から2種類の贈答品が送られてきました。母がいたすぐ上の兄の家だけではなく、私の兄弟全員に、律儀に送られてきて、『アッ、もうすぐ正月が来るんだ!』と思わされたものです。それは、年越しそば用にと、「出雲そば』、それに、母が「野焼」といっていた、「あご野焼」でした。母の弟のようにしていた方からでした。戦争中には、「予科練(海軍予科練習性)」に行っておられ、戦後は、山奥にあった父の会社の手伝いをされたことがあった方で、私は、母が呼ぶように、『シゲちゃん!』と呼んでいたのです。

 長い山道を泣きながら私をおぶって、連れ帰ってくれたことがあった、いまだに頭の上がらないのがこの方なのです。父によく聞かされた話で、何年も前に、その時のことを詫びて手紙を出したことがありました。母の故郷には、何度か行ったことがあるのですが、母をよく覚えてくれるのは、もうこの方くらいになったのではないでしょうか。なぜ、この方や、「あご野焼」を思い出したのかといいますと、上海に向けての帰路の航路から、ひっきりなしに飛び去っていく飛魚が見えたのです。東シナ海の鳥も通わない大海原の中ですから鳥ではなく、そう「飛魚」でした。船の進路から逃れようとして無数の飛魚が、陽を浴びてキラリと飛んでいるではありませんか。海上でしか見ることのできない美しい光景でした。

 この「飛魚」を、私の母の故郷では「あご」と呼ぶのです。私が目撃したのは、五島列島を、だいぶ進んだ海上だったので、長崎でも、そう呼ぶようですから、九州や日本海側では、こういった呼び方をするのでしょうか。『このあごの白身をすって作ったのが、野焼よ!』と母に教えてもらったことがありました。故郷とは、どこなのでしょうか。自分が生まれた村には、親戚も家もなく、ただ思い出だけですし、育った隣村にも、だれも何もありませんから、自分は「無故郷」なのかと寂しく思うこともあります。ですから、母の故郷こそが、自分の故郷のような気がして、とても懐かしく感じられるのです。殊の外、この「あご野焼」の味は、目と舌と胃袋で感じ取れる「故郷の味」、「故郷」そのものなのです。

 そんなことを思い出していたら、しきりに食べたくなってしまいました。しばらく買い物に行っていませんので、これから近くのスーパーに、食料品を買い出しに行こうと思っています。今日は、目を凝らしながら、「野焼」のような練り製品を見つけてみようと思っています。この月初めに、私の弟が、「シゲちゃん」を表敬訪問したと知らせてくれました。3月末に母が召されたことの報告と、感謝をするためだそうです。兄たちと私の記した手紙も持参してくれました。彼が高校生の頃、父の客人が我が家に来ますと、彼は、必ずその客人の靴を磨き上げていました。父や母への恩義を忘れないで、感謝する弟の律儀さに頭が下がってしまいます。
(写真上は、「飛魚」、下は、この飛魚で加工した「あご野焼」です)

太っ腹

帰りの船に乗ろうと、大阪国際港で税関手続きを待っていましたら、私と同じ学校で日本語を教えている同僚と、偶然会ったのです。二人のお孫さんの手を引いて、奥さまとご一緒でした。京都でのお仕事を退職されて、中国にやって来て、奥さまの息子さん夫妻の子育てをしておられ、その余暇に、学校で日本語を教えておられるのです。夏と冬の休みに、決まって帰国されておられ、夏期休暇を終えて中国に帰るところだったのです。偶然だったのですが、『最近は、いつも船を使っているのです!』と言われていましたから、『もしかしたら、同じ船かな?』と思っていましたので、〈もしか〉が〈たしか〉になったわけです。

ご自分の子育てを終え、二度目の子育てをしているのを、端から見ていて、『自分にはできないなあ!』と思っていましたが、よくやっておられるのです。中国の家庭では、おじいちゃんとおばあちゃんが、学校への送り迎えをされていて、この同僚夫妻のように、100%の子育てをしている方も少なくないようです。お母さんとお父さんは出稼ぎといったケースが多いのです。

上海からバスか新幹線で帰ろうと思い、上海港に着いてから、バスターミナルか駅に行って、チケットを手に入れようと算段していたのです。ところが、彼の奥さまが、『孫たちの席があるので、これを利用して一緒に帰ったらいいですよ!』と言ってくれました。それでご好意に甘えることにしたのです。忙しく孫を追い回していて、大変だと思ってみていましたが、かえって結構、楽しんでおられるのを見て、孫が近くにいない私には、少々羨ましくも感じたのです。奥さまが叱り手、彼が慰め手、お二人のバランスがいいのか、良くしつけられていました。

上海に着きましたら、一足先に日本から帰ってこられていた、奥さんの息子さんのお嫁さん、つまりお孫さんたちのお母様と、おばあちゃんが出迎えておられました。美味しいお昼をご馳走になってしまい、上海駅の隣のバスターミナルに向かったのです。途中もう一人のおじいちゃんが入院されている病院に寄られたのですが、早期の退院と病状の恢復を願わされました。お孫さんの席を私にということでしたが、バスの担当者とすったもんだの交渉を奥さまがして下さり、やっとのことでバスに乗り込むことが出来たのです。『この時期、学生が多くて、新幹線も長距離バスも空席がないので、ちょうど良かったですね!』と奥様が言ってれました。きっと、その日には帰れなかったのに、席を譲ってもらったおかげで、無事に自宅に帰ることができ、大変に感謝した次第です。

やはり、『持つものは友!』だなあと思わされたことです。自分でチケットを求めていたら、1~2日遅い帰宅になったのではないかと思って、このご夫妻に心から感謝した次第です。狭い寝台席にお孫さんと二人で横になって、大変な目にあわせてしまったのですが、私だったら、『ちょっと迷惑だな! 』と思ったに違いないのですが、『構いませんよ!』と、大らかに言ってくださったのは、やはり中国人の太っ腹なのでしょうか、ありがとうございました!

雲南省で地震!

 昨日、9月7日、中国雲南省昭通市彝良県で、M5.7の地震が起き、大きな被害に合われてると、中国のマスコミが報じています。死者も出ており、倒壊した建物の瓦礫の下にも、被災者がおられるようです。被災者が、70万人とも報じられており、一日も早い救出と、援助物資の送付、復興とを心からお祈りいたします。

 温家宝首相も、早速、被災地の現地入りをされ、救出の陣頭指揮をとっておらるようです。余震も頻発しておりますので、これ以上の被害がないようにと、願っております。

(写真は、中国雲南省昭通市彝良県で被災した子どもたちの救出に励む救助隊員です)

『これが日本の文化だ!』

 『気をつけ!』、『前にならえ!』、そして『休め!』という先生の号令をかけられて、運動場で整列した日がありました。 これから私が号令をかけますから、みなさんやってみて下さいますか。『休め!』、みなさんはどうされますか。今でも、立っていて、少しつかれてくると、学校で身につけた、『休め!』をしている自分に気づきます。ところが今どきの子どもたちと、私たちの時代の『休め!』とが違うのです。今の子供たちは、両足を開いて、歩幅をとって、腰の後ろの手を回して組んでいます。ところが、私たちがした『休め!』は、右足を斜め右前に出すのです。どちらかで、世代の違いがわかるのです。

 私たちは、校庭に並んで全校朝礼が行われ、ラジオ体操が行われた時に、軍隊式の姿勢を求められたのです。兵士は、左肩に銃をかけていますので、その銃が斜めにならないために、右足を出すわけです。ところが、平和の時代の今日日の子供たちは、軍隊式の姿勢ではなく、スポーツマン式でしょうか、欧米式なのでしょうか、その『休め!』をしているのです。いつ頃、そういうふうに変わったのでしょうか、知りませんでした。

 戦争放棄を掲げた「憲法」が交付されても、学校教育の中には、まだ軍隊方式が残されていて、同じように、していた時代に教育を受けたわけです。そういった点まで徹底して改められていなかった時代だったわけですね。私たちの年齢の人の行動を注意深く眺めていますと、男の人たちは、右足を右斜め前に出して休んでいるのを見かけるのです。

 としますと、我々の後の時代というのは、平和を希求した時代、平和を享受した時代だといえるのでしょうか。今回の帰国中に、欧米式の『休め!』の中で教育を受けてきた次男と話をしました。『これまでの戦争は、国の指導者が宣戦布告をして戦争が始まった時に、若者たちが戦場に駆り出されて、何も個人的に恨みのない相手国の、同じ若者に向かって銃器を用いたけど、それは不公正だと思う。これから、もし戦争が行われるとしたら、政治や軍隊の指導者たちが銃を撃ち合えばいいよね!』と彼が言うのです。実に面白い発想だと思ったのです。

 女子サッカーの「なでしこ」の宮間あや主将が、アメリカのジャーナリストから賞賛されている記事が、先ごろありました。今回のロンドン・オリンピック準決勝で、フランスと対戦して日本チームが勝った時に、「なでしこ」の中で、宮間主将だけが、その勝利を喜こぼうとしないで、フランスチームのカミル・アビリー選手に歩み寄り、彼女の肩を両手でそっと押さえ慰め、ねぎらいの言葉をかけていたのです。その様子を撮ったのが、このブログに貼りつけた写真です。この記事を掲載したのが、米NBCニュースのウェブサイトでした。同社のナタリア・ヒメネス記者は、『試合後に双方が握手やハグで互いに健闘をたたえることはあっても、相手側の選手を慰めるシーンはめったに見ることはできない・・・数分前まで死闘を演じた後、勝者は敗者をいたわり、敗者もまたそれを受け入れている。精根をかけて戦った後、このオリンピアン(宮間選手)は真のスポーツマンシップを見せてくれた!』と報じているのです。

 エコノミークラスでロンドンに出かけて行った「なでしこ」、その宮間あや主将の姿を、アメリカでは、『これが日本の文化だ!』と言って賞賛していました。チームメートの大儀見優季選手は、あやキャプテンのことを、『ただ単純にほっとけないなと思って。何も声はかけてあげられなかったけど、側にいる事しか出来なかった。まあそれをあやがどう感じたかはわからないですけど、側にいた事で自分自身の想いってのは伝えました・・・ あやがピッチにいなかったら、成長していく事も出来なかった。だからあやの存在自体そのものが、ん~なんていうか、自分にとっての宝物・・・大切なものです」!』と評しているのも圧巻です。

 こういった精神というのは、スポーツばかりではなく、社会全体が停滞しているかに見える日本が必要としていることなのでしょう。平和の時代に育った若者が、こんな素晴らしい心と態度を持っていることを知って、『まだまだ日本は大丈夫!』と思わされ、両足を左右に開いて、〈休め〉をすることにしました。

純情

 1936年(昭和11年)には、「二・二六事件」が起こり、ベルリンで「第6回オリンピック」が行われ、アジアでもヨーロッパでも戦争の足音が高まって、世界が飲み込まれようとしている前夜のようでした。この年に、佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、藤山一郎歌った、「男の純情」という歌が流行りました。

男いのちの 純情は
燃えてかがやく 金の星
夜の都の 大空に
曇る涙を 誰が知ろ

影はやくざに やつれても
訊いてくれるな この胸を
所詮男の 行く道は
なんで女が 知るものか

暗い夜空が 明けたなら
若いみどりの 朝風に
金もいらなきゃ 名もいらぬ
愛の古巣へ 帰ろうよ

 まだ生まれていない時の歌ですが、「純情」という言葉に惹かれて、この歌が大好きでした。勇猛果敢な「男気」が求められてる時代の只中に、「純情」な男の心が謳われて、一世を風靡したというのも、軍国化していく前夜なればこそ、許された歌謡曲だったのでしょうか。

 私の愛読書に中に、『男は、こうであってって欲しい!』と言って、『純真な心を奮い立たせよ!』、『純真な者となれ!』とあります。生まれてから、私の少年期や青年期には、『男は勇気、剛気、覇気がないといけない!』と言われて、学校でも運動部でも、上級生や先輩たちにハッパをかけられて生きてきたのです。しかも教師からもビンタを食わされて、規律を学ばされました。〈剛毅さ〉こそが、男の心や身につけなかればならないことだったのです。だから、巻藁に拳を打ち付けて、空手の練習をしたり、河原で大声を上げて、喉を鍛えたりもしました。

 この歌は一見、軟弱な男の歌のように思えますが、真の男の心には、〈優しさ〉も〈思いやり〉も必要なのだと歌うのでしょう。『金もいらなきゃ 名もいらぬ』との文句に、真の男の意気を感じてならないのです。多くの男が、〈金〉のためには手段を選ばないで得ようとするエゴを生きているのを見て、『俺は金に生きない!』と心の中で決めました。また多くの男が、「寄らば大樹の陰」と言って、尻尾を振りながら、名のある人のもとにすり寄って生きてる姿を見て、『俺は名のために真(まこと)を売らない!』と決心したのです。

 「男の純情」を好む、そんな主義主張のためでしょうか、金も名も家も財産もないまま、私は今日を迎えてしまいました。『老後のために蓄えをしなさい!』とたびたび、ある人たちに言われました。しかし、私に、〈真の男の生きる道〉を諭してくれた師たちは、妻や子たちに、何一つ残さないで逝きました。自分の墓さえも持たないで、共同墓地に埋葬されました。こういった生き方は、失敗者の最後なのでしょうか。いいえ、彼らの掲げた〈夢〉や〈理想〉や〈幻〉は、今も私の心の思いの中に、輝きながら生き続けています。明日は明日自身が思い煩うのですから、今日を満ち足りで生きていこう、そう決心している、「長月(夜長月)」の「白露(はくろ)」の宵であります。

(写真は、白露の頃、初秋のニューヨークの池の様子です)

内弁慶

 『お前は〈内弁慶〉だ!』と、よく父に言われました。「内弁慶」を、yahooの辞書で調べてみますと、『[名・形動]家の中ではいばりちらすが、外では意気地のないこと。また、そのさまや、そういう人。陰弁慶。「―な子供」 』とあります。私は、家の中では、兄たちよりも威張ってるけど、外に出ると、からっきし元気がなかったからです。就学前に肺炎にかかり、街の国立病院に入院し、死ぬ様は重症の中から生き返ったからでしょうか、父や母に甘やかされたのです。小学校の入学式にも出られませんでしたし、3年生頃までは、欠席が多かったのです。そんなことで、家の中にいることが多く、病弱な子であるというので過保護にされ、父の特愛の子だったのです。それでも父からは拳骨を食わされたこともありましたが、まあ我が世の春でした。父が味方だったからです。

 それでも4年生になって元気になってからは、体育の時間には、『廣田、跳んでみろ!』と言われて試技を演じるほどになったのです。クラスの遊びのリーダーになったりしましたが、みんなのことを考える余力がなかったので、三日天下だったのですが。そんな我が儘な私を、兄たちがからかったのです。味の素という食品が出てきた時に、〈アジノモト〉と言えないで、〈あじももと〉としか言えない、舌っ足らずだったのです。そんな劣等感に苛まれたり、複雑な心の動きで、引っ込み思案になっていました。

 中学には、兄たちが街の中学に行ったのに、私は電車通学の私立中学に通わせてもらいました。特別扱いだったのです。入学して間もなく、担任が私に、『廣田くん、電車通学で隣りに座ってるおじさんに、話しかけてごらん。きっと何か学べるから!』と言われて、素直な私は、それを実行していったのです。社会性が育っていなかったのでしょうか、そんなことを切掛に、積極的な生き方が身についてきたのでしょう。

 今回の船旅の乗船客を眺めていますと、独りポツネンとしている人が意外といらっしゃるのですね。そういった方は、他を受け付けないで、拒んでいる雰囲気が立ち込めているのです。それで、無理に話しかけるように、日頃しているのですが。奈良の大学を卒業し、故郷でアルバイトをした学生に話しかけました。佐渡の出身だとのことで、寡黙な青年でした。聞き出しますと、一生懸命に、自分の夢を語ってくれました。『これから1年、中国語を学び、日本に帰ってきたら、大学院に行って、専攻を学び続けようと思っています!』と言っていました。彼の将来をはげまして、上海で別れました。

 大阪の地下鉄に乗っても、甲子園に行くにも、中学の担任が勧めてくれたことを、〈三つ子の魂百までも〉で、まだ実行している、いえもう、それが私の生き方になっているのかも知れません。一人ひとりは、生まれてきた環境も、育った情況も違い、多種多様な生き方をしてきたわけです。違っていていいのですが、交わりを通して、自分を語り出す時、何かほっとしたものを感じるのです。二度と会わないような方と、しばらくの時と場所を同じにして、語り合うときに、たくさんのことを学ぶことができるようです。

 ゆっくり父とも母とも話し合うことが少なかったと思うのです。山陰の出の母は、じっと泣き言を言わないで生きた女性でしたし、男の子の私たち四人には、語りたくても語れなかったのかも知れません。父にしろ、『男は黙っていて、多くをしゃべるな!』と、昔気質の男でしたから。機会が少なかったのかも知れません。そんな時を持たないまま独立して、家庭を持ってしまったからでしょうか。そんなことを思い返して、父が語った言葉や、母の話してくれた少しの記憶を思い出そうとしております。

 そういえば、私の四人の子どもたちとも、膝を付き合わせて、ゆっくり話すことが少なかったのを思い出します。まあ、『話そうよ!』と言って話せるものではないのですが、話さなくても分かり合えることもあるのかも知れませんね。

(写真は、勧進帳の「武蔵坊弁慶」の像です)