来客

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 日本と中国の関係の悪化で、苦しんでいるのが、日本語専攻の学生のみなさんです。将来は、『日本に留学をしたいと思っています!』、『日本の文学作品などの翻訳をしたい!』、『日系の企業で働きたいのです!』と願って、日本語を学んでいるからです。9月15日以降、卒業生で、日系企業に就職した方たちは、仕事の量が激減してしまった人もいたようで、『週休3日になってしまいました!』と、話をしていました。それでも、その会社の社長(総経理)さんは、日本の本社に掛けあってくれて、給料は現状維持の状況なんだそうです。これは好い方で、中には解雇されたりで、就職浪人になっている人たちもいるそうです。

 学生のみなさんが書き上げた「作文」を読んでみますと、異口同音に、彼らは、平和を願っているのです。少なくとも、彼らは高校で、日本の「侵略戦争」を教えられてきましたが、教師たちからは、「平和教育」を受けてきたことが書かれていました。ある学生は、祖母の戦争体験を記しています。日本軍が自分の村にやってきて、その襲撃から逃れるために、故郷を追われて、家族を失い、幼い日に家族の中で話していた方言も捨てなければならなかった辛さを、おばあさんは、孫の彼に話したそうです。故郷が、戦場にならなかった方たちもいますが、一様に、戦争の悲惨さを伝え聞いているようです。それだからでしょうか、彼ら自身が願うのは、「平和」なのです。日本が、「軍隊」を持ち、国境警備のために、一個中隊を進駐させたりしたら、また、あの時代のような悲惨なことが起こるのは必至ではないでしょうか。母が泣き、妻子が苦しまなければならないのです。

 昨日も、卒業生が二人訪ねてくれました。一緒に昼食をとって、交わりを持ちました。ふたりとも、日系の企業に納品している中国企業で働いています。社会人として頑張っているようでした。そうですね、中国の華南の地から、平和のシンボルである「ハト」を飛ばせてたいと思っています。日本でもそうしたいと願っている、在日の中国人のみなさんがおいでのことでしょう。「平和」と「友好」の思いが通じるように、そう願う週の初めの日であります。

(写真は、中国と日本の友好の証の「遣唐使船(復元)」です)

実力伯仲

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 「実力伯仲」、この「伯仲」を、goo辞書で見てみますと、『1 兄と弟。長兄と次兄。2 力がつりあっていて優劣のつけがたいこと。「実力が―する」「保革―」』とあります。同じ時代に活躍してたライバル同士が、力を競う合ったことを言うようです。プロ野球では、セ・リーグで長嶋茂雄が活躍していた時に、パ・リーグに野村克也がいました。この二人は同学年です。スター性は長嶋がはるかに勝っていましたが、実力や達成した記録の上では、野村が上だったのではないでしょうか。長嶋は、名門巨人軍のプロ野球選手で、大学時代から、将来を嘱望されて、マスコミに追われていました。ところが、京都府下の無名の府立峰山高校で野球をしていた野村は、南海ホークスに「テスト生」として入団した選手でした。戦力外通告を受けながらも、辛抱して入団4年目にパ・リーグのホームラン王に輝くのです。そして大選手になっていきます。

 この野村克也が、『長嶋が向日葵なら、俺は日陰に咲く、月見草!』と自分を卑下し、自虐して語るのを聞いたことがあります。その形容は、正しかったのですが、野球通には、長嶋よりも、野村びいきの人が多かったのではないでしょうか。天覧試合でホームランを放つといったような派手さは、野村にはなかったのですが、面白い野球をした方でしたし、引退後は、幾つもの球団の「監督」を歴任して、好成績を残しています。今では、辛口の《ご意見番》といった役割を演じておいでです。長嶋の出るジャイアンツの試合はテレビ中継されていましたが、野村のいたパ・リーグの試合は、金にならないとのことで、テレビ局は、その試合は放映していませんでした。天性の野球センスのあった長嶋と、地道にコツコツと歩んできた野村は対称的だったのです。

 この「実力伯仲」ですが、銀盤を滑る《フィギュアスケートの世界》にも、ライバルと言われる二人がいます。日本の浅田真央と、韓国のキム・ヨナです。昨今、日韓の関係が思わしくないのですが、スポーツの世界は、政治色や外交色抜きで、楽しむべきではないでしょうか。この二人とも、甲乙をつけがたい稀代の名選手です。同じ時代に、ほぼ同じ世代で、競いあうというのは、素晴らしい機会だといえるのではないでしょうか。『相手がいるから励む!』ということが、彼女たちの能力を、さらに引き上げているわけです。

 日本では、浅田真央だけが応援されていまして、キム・ヨナを酷評する傾向があります。偏見や行き掛りでではなく、同時代のライバルの二人として、両者にエールを送りたい、私は、そう思っております。まだ一度も実際の競技を見たことがありません。ただテレビのニュースで見たくらいですが、機会があったら観戦してみたいのです。あの硬い氷の上を、刃物を履いて滑るスリルと、シューシューという氷上を駆ける音は、小気味良いからです。だれも観ていない所で地道に練習している二人が、次のオリンピックの晴れ舞台で、素晴らしい伯仲戦を見せて欲しいと思うのです。その影で、韓国と日本の関係が、改善されていくことを願いたいのです。

 初めてソウルを訪ねた時に、『あなたのバス代を払わせ下さい!』と言ってくれた韓国人青年のことが忘れられないのです。自分が所属している会社を誇りに思って、その会社を訪ねようとしていた私と友人のバス代を払ってくださったのです。私の同級生にも、韓国籍の方がいて、講義ノートを写させてもらったり、彼女の友人が作ってきてくれた弁当をごちそうになったこともありました。みんな、今は何をしているのでしょうか。ちょっと知りたい思いがしてくる、師走の中旬の宵であります。

(写真は、「月見草」です)

華南の巷、歳末

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 近くの大型商業施設の入り口の広場に、歳末商戦の呼び込みでしょうか、巨大なモニュメントが出来上がりました。樅の木に似せた鉄製の「クリスマスツリー」で、大きめの色つきのボール(中に電球が入っています)がつ吊り下げられています。建物の入口には、サンタクロースがソリを引いた色鮮やかな絵が壁一面に描かれています。「ジングルベル」や「ホーリーナイト」の音楽が流れているのです。さながら日本の年末のデパートやスーパーマーケットの中国版といった感じです。今日、わが家のポストには、いくつかのスーパーのチラシが入っていました。

 このモールの前は、片側3車線の道路があって、そこから右に入った道路から、もう一本野道に入った所に、私たちの住んでいるアパートがあります。歩いて7~8分の所に、ハーモニカと言うよりは、〈もろこしの豆〉のように縦横に、小さな店が出店している「菜市場」という区域があります。中国中の街に無数にあるのですが、野菜、果物、雑貨、乾物、肉などが売られていて、大賑わいです。私が中学の頃に、よく出かけた御徒町の「アメ横」のような雰囲気で、雑多に並んで商売をしているのです。やっと冬になったからでしょうか、土日には、この「菜市場」に行く通り沿いに、簡易テントがところ狭しと張られて、「冬物の衣料」が売られています。ものすごい人盛りで、近づけない感じがしてしまいます。

 物の豊かさは、年々増え続けているのを感じます。地味な色が主流でしたが、色彩も豊かになってきて、7年前の中国の街の様子とは雲泥の差を感じてしまいます。それでも昨日、私たちがお会いした方は、四川省の出身で、いわゆる「農民工」と呼ばれ、毎日10時間働いておられるのだそうです。日曜日が定休日なのでしょうか、普段は掃除婦として病院の床掃除をなさっておられ、小ざっぱりした身なりで、毎週やって来られるのです。昔の日本のように、低賃金で働いておられるようで、これから、こういった労働に従事される方の生活も、きっと向上していくのではないかと思ったりしていました。

 とにかく、こちらの方は、よく働かれるのです。日本人が勤勉だと言われていたのは、昔のことで、今では、こちらの方に、そのタイトルを奪われてしまったのではないでしょうか。くよくよしないのです。さすが冬場にはみられませんが、夏には、道路の脇の木陰のコンクリートの上で、大の字になって仮眠しているように、おおらかなのです。生命力が旺盛で、首をうなだれているような方は、ほとんどいません。どんな身なりをしていても、胸をはって、堂々と歩いている姿は、小気味がいいものです。男性も女性も同じです。そんな華南の巷(ちまた)の歳末の様子です。

 それに引きかえ、日本に帰って街で見かける青年たちが、背を丸めて、うつむき加減に歩いているのとは対称的です。『胸を張って歩け!』と、喉まで出かけるのですが、なかなか言い出せないもどかしさを、いつも感じるのです。寒波襲来で、太平洋側の街でも雪が降ってると、ネットニュースが伝えていました。師ならずも、追われて走りだしている日本の街中の様子が、瞼に浮かんでまいります。

(写真は、「茉莉花」です)

華南の初冬の佇まい

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 しばらく平地でばかり生活していましたから、私たちの住んでいる町を見下ろせる山に、先日、連れていってもらって、じつに清々しい気持ちを味合うことができました。都会から離れるといった点で気分転換になったからでもありますが、山には、独特な空気が漂っているのではないでしょうか。昔人間が吸っていた空気のことです。化学物資によって大気が汚染されていないもので、光合成が活発に行われている木々の中で、懐かしい自然の匂いが立ち込めている、そん中で吸った空気のことです。山里に行くと、自分の居場所に戻ったようなやすらぎと、原点回帰の落ち着きを感じてならないのです。生まれたところが、鬱蒼と木の生い茂った山と山がせめぎ合った山村だったからかも知れません。

 残念だったことは、舗装された山道を車で登っていくといったことでした。登山は、息を弾ませながら、急峻な登りの道を、一歩また一歩と歩むところの醍醐味があるのですから。そんな山行きの正道からは離れてしまったのは、物足りなかったのですが、それでも車を降りて、山の裾野を眺めていると、スーッと吸い込まれてしまいそうな感覚に陥って、山の気分でした。やはり、『山はいいなあ!』の心境だったのです。新緑のころも、紅葉のころも好きですが、一番は、冬の枯れ草や枯葉を踏みながら、山道を歩くというのが最高に楽しいのです。葉が落ちていますので視界もいいし、葉の枯れかわいた臭いがしますし、空気が美味しくて、「森林浴」に身をひたせるのは最高です。

 もう何年も前に登った「入笠山(にゅうがさやま)」は、頂上の展望が360度のパノラマでした。その日は秋晴れでしたから、青い空が抜けるようでした。山梨県と長野県の県境にある山で、二度目は、12月の週日に、家内と登ったのですが、危なく、『山を見くびった初老の夫婦、凍死、遭難!』と言ったニュースになりそうでした。その週に、平地で降った雨が、山では雪だったのです。何度も転倒しながらの下山で、泣きたくなってしまったほどでした。でも無事に帰宅しましたので、今、生きておられるわけです。

 もう12月も半ばに入っているのですが、街路樹には、黄色や淡い桃色の花をつけた木の梢が、初冬の陽をうけてじつに綺麗な、華南の冬の佇(たたず)まいです。その一つ、薄桃色の花は、「紫荊花」とか「羊蹄花」と言われ、もう一つの黄色い花は、「黄槐花」です。一年中、花が咲き、木々の葉が青くしげる、ここの自然は、「創造の美」でしょうか、美しいの一言につきます。

〈写真上は、「黄槐花」で、下は、「紫荊花」、日本人は「香港桜」と呼ぶのだそうです)

大陸の空の下で

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 人工衛星に関わる人も、人口問題にあたる人も、食糧問題の対策を考える人も、共通して必要としている人材は、「専門知識」を持ち、実務経験があることです。決して素人は、関わることができない分野ではないでしょうか。私たちが、どうしても手術をしなければならないとしたら、医学を学んだことのない者から受ける患者は皆無です。ですから長く学び、研究してきた専門職が従事しなければなりません。もちろん、一般の人たちに、意見や要望を求めたりはしますが、実務には、プロの専門知識に長けた経験者が当たるのが本筋です。

 小泉元首相が、2005年の衆議院選挙で、いわゆる「小泉チルドレン」を選挙戦に投入し、86人が当選したことがありました。その時に、学校のクラス委員や地域の役員や会社の役職でさえも就いたことのないような、若者を、国会に送ろうとしたことを知った時に、驚いたのです。それに真似たのでしょうか、その後、「小沢チルドレン」と呼ばれた人たちが、選挙で選ばれて、国政にあたっていきました。選挙戦に勝つためには、手段を選ばないような候補者を選出し、その素人たちを国民が選んでしまったという愚かさに、唖然としたのです。

 一国の政(まつりごと)を、責任をもって担っていかなければならない立法府の国会議員、代議士が、こういった形で選ばれる日本の政治の可笑しさを誰もが感じているのではないでしょうか。そういった人たちを選んだのが、わたしたち国民だったのですから、愚かなことではないでしょうか。

 小泉純一郎の祖父に当たる、小泉又次郎は、横須賀海軍の荷役をになった沖仲仕の頭領でした。労務者たちに睨みを効かせるために、満身に刺青を入れていたそうです。しかし彼は、滞り無く海軍から委託された仕事を果たし、労務者たち束ねる能力を持った親分肌の人だったと言われています。そして人の面倒をよく見たので、人に慕われました。やがて横須賀市長を務め、国会議員にも選ばれ、ついには、逓信大臣(郵政大臣のことです)、衆議院議員副議長までも務めたのです。勲一等瑞宝章の栄典に輝いています。人を、生まれ育った町を、祖国を愛した人が、国会に送られるのは好いことです。

 ところが、政治を知らない素人が、頭数を満たすだけで、国会に送られるというのは、国政への酷い侮辱です。政治を、まったく知らない私は、立候補しようなどと考えたこともありません。全くの門外漢だからであります。市町村議会で地方政治を学び、県議になり、そして国政に寄与する、そういった段階を踏まない人は、国政を担う資格はないのではないでしょうか。真に国を憂え、国を導くに値する主張をしっかり持つ人が、国政にあたっていただきたいと、海を隔てた大陸の空の下で願っております。そうでした、私の好きな政治家は、「廣田弘毅」です。

〈写真は、http://ameblo.jp/htarumから、大陸/黄河に沈みゆく落日です)

『コツ、コツ、コン、コン!』

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 子どもの頃の遊び場が、国鉄(現JR)中央線の引込線や保線区や踏切の近くだったので、鉄道業務の裏方の仕事を見聞きすることができました。踏切番の小父さんと父が仲良かったり、弟が可愛いがられていたせいで、踏切の遮断機の上げ下ろしを手伝わせてもらったことが、何度もあります。また、同級生のお父さんが、職員だったので、保線区の作業場の中に入っては、仕事に用いる機具を触らせてもらったりしました。懐中電灯がなかったからでしょうか、カーバイドでアセチレンガスを作って、それを燃やして明かりにしていたのが、何とも不思議でなりませんでした。あの燃える匂いが独特で、あの匂いがまだ鼻腔の中で感じられるようです。

 その道具の一つに、柄が長くて、鉄の部分の細くて小さい「ハンマー」がありました。釘を打つハンマーとは違っていたのです。それは、線路の留め金や、列車の車輪やその周辺の金属部分の「ひび割れ」を、そのハンマーで叩いた音で判断するためだったのです。それを借りては、金属部分を叩いて回ったことがありました。難しい構造でできている車両の鉄製の部分を、「音」で故障箇所を見つけるという職人技が面白かったのです。みんなができないような経験させてもらったのに、国鉄に勤める願いがなかったのは、今思うと、少々残念な気がします。そういえば、父の会社の一つは、国鉄車両のブレーキの部品のメーカーだったのを思い出しました。

 今朝の〈YaHooJapanニュース〉で、「笹子トンネル事故」の記事に、このトンネルだけが、金属の〈打音検査〉をしなかったとありました。この検査に使うのが、「打音ハンマー」なのです。国鉄だけではなく、あらゆる金属製品やコンクリートのひび割れ個所や不具合を見つける作業のために使われているのです。ところが、この笹子トンネルだけ、検査を実施していなかったのだそうです。〈手間のかかる作業〉を嫌う、そういった傾向が現代人にあるのではないでしょうか。友人のお父さんの給料は、父に比べてずいぶん少なかったのでしょうけど、自分の仕事への責任や使命感にかけては、父よりも優っていたに違いありません。利用者の〈命に関わる業務〉だという意識が強かったのではないでしょうか。

 一見して、つまらないような仕事に、プロ意識をもって当たる、そういった〈職人気質〉が、起こりうる過失事故から、この日本全体を守り、防いできたのです。今、日本中の鉄やコンクリートの橋脚、コンクリートのダム、鉄塔、いや日本人の生き方や意識や組織や関係も、この〈打音検査〉、総点検を必要としているのではないでしょうか。何か基本的なものが、日本の社会全体、欠落しているのを、この事故が指摘してるに違いありません。

(写真は、蒸気機関車の打音検査の作業の様子です)

『同じだとは思えない!』

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 昨晩、一組のご夫婦、この方たちと一緒に働いているご婦人、そして私たちの友人と、六人で食事をしました。『日本料理を!』と言ってお招きしたのですが、結局、私の母が、よく作ってくれたハンバーグのレシピに従って、それにアレンジを加えたものと、サラダ、それに「オックステール」のスープ、純和風の煮しめ(牛蒡と大根とコンニャクとサヤエンドウなど)、さらにヨーグルトを使ったデザートでした。結構好評でした。

 この方は、青年実業家で、機材や材料を卸す商事会社をしながら、好きなパンを売る店を三軒、市内で展開しておられるのです。奥様も一緒に働いておられます。『ここのパンが美味しいんです!』と家内の茶飲み友たちが紹介してくれて、ときどき買いに行ったり、店の横のテーブルについて、コーヒーとサンドイッチなどを食べに行っていた店の経営者なのです。もしかしたら、日本のパンよりも美味しいのではないかと思うほどです。フランスからパン粉を輸入し、日本から機材を買って、職人さんたちに作らせているのです。

 先日、店にお会いしに行って、奥様と交わりをしました。ラテ・コーヒーとケーキとパンで歓待してくれました。私が驚いたのは、自分で経営している店の製品ですから、自分の裁量で持ってこさせてテーブルに並べても、ある面では当然なのですが、きちんとご自分でレジに並んで、カードで支払いをして、ご馳走してくださったのです。「公私混同」のない会社での振る舞いを見て、すっかり感心させられてしまったのです。いつでしたか、日本の大手のデパートの社長が、奥さんの下着まで会社のものを持ち出していたことをニュースで聞きましたので、経営者とは、そういったことが許されるのだと思っていたので、意外だったのです。結局、経営者がそうですと、社員も公私混同してしまって、示しがつかなくなるわけです。

 この方は、これまで30数回、日本に出かけておられ、日本支社も開設の準備をされておられます。昨晩の話の中で、こんなことを言っておられました。『東京の街で仕事で出会ったり、街で行き交う今の日本人と、戦争で蛮行をした日本人と同じ日本人だとは思えないのです!』と。おとなしくて、折り目正しくて、気配りがあり、紳士的な現代版の日本人を高く評価しているので、そういった言葉が出たのだと思います。

 「窮鼠猫を噛む」という言葉があります。ネズミは天敵の猫の前では、為す術がないのですが、切羽詰まると小さな牙を向いて、猫に噛みつくこともあるという意味なのです。アジアの植民地化を画策していた欧米諸国の前で、日本は富国強兵で対抗しようとしました。しかし、欧米の圧力に徐々に追い詰められて、武力と産業力を、さらに強大化していきます。対抗したり、伍(ご)して行こうとしたのですが、容積以上に肥大化していった軍隊や産業界が、それを維持していくために、朝鮮半島や中国大陸の東北部を植民地化していくのです。そういった野心的な動きに、『ノー!』と言ったアメリカの思うつぼで、太平洋戦争を始めてしまい、国力の雲泥の差で、結局敗戦の憂き目にあったわけです。まさに、日本な追いつめられたネズミで、筆舌に尽くしがたい戦争犯罪を犯して、抗(あら)ったのですが、結局、猫の爪の前に、打ち倒されてしまったわけです。

 私が、ここ中国に来て、日本人だとわかると、戦時中の日本人のイメージで、自分が見られているのだと感じることがありました。しかし、穏やかな物腰て交わっていくうちに、『父や祖父に聞いた、あの時の日本人とはちがう!』と言った意識で接してくれるようになったのです。それはソウルに行った時にも感じたことでもあります。戦争が終わって、70年近く経つのに、そういった〈過去の物差し〉が生きていることを感じて、マイナスイメージを払拭するのはなかなか難しいのだと思わされたのです。知日派の夫妻は、二人の子どもさんに、日本名でも通用する名をつけておられました。じつに楽しい宵でした。

優先順位

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 この2日の日曜日の朝、中央自動車道の笹子トンネル内で、コンクリート製の天井板が崩落して、9人の方がなくなったとのニュースを聞いて、驚きました。何百回となくハンドルを握って通ったトンネルでしたから、人ごとではなかったのです。自分が走っていた頭上に、そんなに重いコンクリート板がはられていたことを、この事故のニュースで、初めて知ったのです。30数年前の工法では、そういった材質の仕切り版が必要だったのでしょうけど、『最近では、軽量で硬質のプラスチック製の板もあるのに!』、と思うことしきりです。

 『高速料は高い!』と思いながらも、速さを選んで、国道を走ることをやめてしまっていました。その料金の収益は、相当なものがあったのでしょうけど、それを安全性を考えて、道路保守の整備のために、十分に使わなかったのではないでしょうか。収益の最優先の使途は「安全」が第一なのにです。私の30数年の支払った高速料金の総額で、あの板の一枚くらいの交換代金は賄えられたのではないかと、皮算用をしてしまいました。

 『1つの大事故の前に、29の小事故があり、そして300の予兆がある!』というのが、〈ハインリッヒの法則〉です。どんな事件、事故でも、急に起こることは稀です。必ず予兆があるのですから、それを見過ごしてきたことに、今回の事故の原因の一つがあることになります。いつも思うことですが、悲惨な事故が起こってから対策がなされる、病気になってから、やっと健康管理を始めるというのが世の習いです。しかし、収益を上げているのに、それを「安全」のために使わなかった功罪は実に大きいと思うのです。

 まだ中央自動車道が、大月までしかなかった時に、国道20号線の笹子トンネル(正式には〈神笹子隧道〉というそうです)を利用して甲府や諏訪の方に出かけていました。このトンネルが長くて、空気が悪くて、気味が悪かったので、ある時、笹子峠を越える旧甲州街道を走ってみたことがありました。曲がりくくねった山道で、やはりトンネルを利用したほうがいいことが分かったのです。やがて、中央道が勝沼まで伸びました。『長いトンネルだなあ!』というのが、高速道の笹子トンネルを通った時の印象でした。

 日本中に数えきれないほどのトンネルがあり、陸橋があり、地下鉄が地下を走っています。便利になればなるほど、危険度が増してくるのですから、その危険度を軽減するために、繁栄の日本が歩んできた年月の総決算として、もう一度「列島総点検」が必要ではないでしょうか。都内を走る「首都高速」ですが、道幅は狭く、老朽化が進んで、何年も前から、なんとなく、走るときに怖さを感じていました。ここだって大事故が起こりかねない状況下ですから、早期の対策を講じなければならないのではないでしょうか。

 子育て支援をしても、その育っていく生命が危険な目にあったのでは何もなりません。「優先順位」をもう一度再考して欲しいと、一国民として、4人の孫の爺といて、心から願っております。『命あってのモノ種!』です。

(写真は、甲府市から大月に向かう中央道「笹子トンネル」です)

吐く息が白くなりました!

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 さすが12月、バス停でバスを待ちながら、『ハー!』と息を吐きましたら、白くなり始めています。さしもの華南の地にも、冬が訪れてきたようです。雪も氷もない冬ですが、北から吹いてくる風が、だんだん冷たく感じられてきています。それでも日中、陽が出ていますと暖かく、若者たちの中にはTシャツの人もいるのには驚かされます。2006年から1年間過ごした天津の街では、もう、ずいぶんと寒いことでしょう。でも部屋の中には「暖機(nuanji)」という温水の循環式の暖房があって、近くの施設で石炭を燃料にわかされた温水が、送水管でアパートというアパートに供給されて、室内では暖かく過ごすことができるのです。薄着で生活していた、あの年の冬が羨ましく感じられてきます。

 広大な中国大陸、長江より南の地域には、この「暖機」がありません。それで、みなさんは、外で着用している厚手のコートやジャンバーを着たまま、室内で生活をしているのです。その様子を初めて見て、ちょっと驚いたのですが、私たちは、電気ストーブで暖房していますので、結構温かな冬を、室内で過ごすことができています。それでも、最近出店した外資系の大型スーパーなどでは、空調設備が整って、従業員たちは薄い仕事着で立ち働いているのを見かけます。もともと冬の寒い日本の地で生まれて育ちましたので、案外と寒さには強いと自負していましたが、年々、寒さが身にしみてきおります。

 最低気温が4度くらいにはなりますが、やはり、寒さを感じてしまいます。もう2週間ほどで、「冬至」になります。寒ければ寒いだけ、「春節」の到来が待ちどうしく感じる中国のみなさんが、『春よ来い!』と願う、「春待望」の心境が分かり始めて参りました。それでも、黄色や淡い桃色の花が、木々の梢で咲いてるを見て、華南の地であることを感じさせられている師走の朝であります。

〈写真は、長江上流、雲南省の金沙江の「虎跳峡」です)

日本留学

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 天津のアパートから、自転車に乗って、人工池の端にあった、「周恩来記念館」に家内と行ったことがありました。どうして周元総理(江蘇省淮安出身)の記念館が、天津に建てられたかといいますと、この方は「南開中学校」の卒業生だったからなのです。清朝に代わって中華民国が健国された翌年の1913年に入学し、1917年に卒業していますから、4年間学んだことになります。中国の大学の中でも名門の一つと高い評価を得ている「南開大学」の前身なのです。卒業後日本に留学をし、法政大学と明治大学の前身の学校で学んでいます。東京にいた間、浅草や上野や日比谷公園などに、しばしば出掛けては、日本をつぶさに見聞したので、周恩来氏は知日派であったのです。1919年に帰国して、開学された南開大学の文学部に入学しています。 

 神戸から船に乗って、中国に帰国する前に、京都の嵐山を訪ね、一遍の詩、「雨中嵐山」を残しています。1920年には、パリに留学もしているのです。1920年に、鄧穎超(江西省南寧の出身)と結婚し、「おしどり夫婦」と人が羨むような結婚生活を生涯共にしています。このお二人が出会ったのが天津で、そこに記念館が建てられており、この記念館には、「鄧穎超記念館」とも掲げられてありました。このお二人は、何人もの孤児を育て上げており、その中には、後に首相となる「李鵬」がいます。

 中日国交正常化の共同声明ため、1972年9月、北京を訪れた田中角栄元総理と、周恩来氏とが一緒に撮った写真が残っています。実に温厚な周総理に比べ、土建屋の親方のようなぞんざいで脂ぎった顔をした田中総理とは対照的であったのを覚えています。この周総理を、『・・・周恩来氏は文人の家柄の養母に育てられ、幼い頃から穏やかな愛情に包まれて育ち、江浙文化の薫陶を受け、人となりや処世は温良で慎ましい儒家的色彩を帯びていた。』と言っていますから、忍耐強く長い間、中国の政治を任されてきたわけです。

 前にもブログに書きましたが、この記念館を訪ねました時に、何組ものカップルがいたのです。結婚を誓い合った男女は、周、鄧夫妻の「おしどりぶり」にあやかろうとして、この記念館を訪ねてくるのだと言っていました。膀胱ガンを患っていた周総理は、1978年1月8日に亡くなられます。80年の生涯でした。亡くなった時に、預金は殆ど無く、持ち物もほんの僅かだったと言われています。実に清廉潔癖な人であったかがわかるのです。この中国にななくてはならなかった人材であったのです。

 終戦の4日前、1945年8月11日に、ソ連軍が「不可侵条約」を破って、旧満州に進駐しました。そこには、満州の奥地から多くの開拓民が避難してきていいました。その時、数千人もの人がソ連軍によって虐殺されたのです。当時、総理だった周恩来氏の指示によって、これらの犠牲者を弔うために中国方正県政府に指示し、「方正県日本人公墓」を作らせています。そして、ある時、この「日本人公墓」が破壊されそうになったのですが、周恩来氏は、『彼らも日本軍国主義の犠牲者であり、破壊してはいけない!』との指示したのです。地元住民の努力もあって、そのまま残されていると言われています。

 我が国では、衆議院選挙が間近に迫り、また新しい総理大臣が選び出されるのですが、この周恩来氏のような政治指導者が立つことを切に願うのです。『嘘はいけない!』と周りの人に言い、それを自ら実践してきた周氏、「不倒翁」とも呼ばれたこの方のような指導者が出てこないと、若い人たちの心に、夢や幻や理想を与えることができないのではないかと思うからであります。

(写真上は、日本留学時の周恩来〈後列右端)、中は、周夫妻、下は、京都・嵐山にある「雨中嵐山」の碑です)