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『子たる者よ、なんぢら主にありて兩親に順へ、これ正しき事なり。 『なんぢの父母を敬へ(これ約束を加へたる誡命の首なり)。 さらばなんぢ幸福を得、また地の上に壽長からん(文語訳聖書エペソ書6章1-3節)』
「汽水湖(きすいこ)」とは、海水と淡水とが混ざり合う湖のことで、有名なのが「宍道湖(しんじこ)」です。山陰の島根県の県都・松江市と古都・出雲市との間にあって、日本海と奥出雲から流れ下る斐伊(ひい)川の作り出す湖です。
この湖の特産が、「蜆(しじみ)」で、父の家での味噌汁の具では、これを具材としたものが、母の手で作られて、夕食に供されていたのです。母自身が、このしじみ汁で育ったからでしょうか、母の四人の子は、よく飲みました。
華南の街の超市(chāoshì/スーパーマーケット)で、このしじみが売っていて、さっそく買って、上海から仕入れた日本味噌で、家内に作ってもらったことがあり、それ以来、何度か飲んだのです。ところが、勤めていた大学の横を、一級河川が流れていて、授業の合間に、昼食に出た時に、その川で、しじみ漁をしてるのを見たのです。その川に流れ込む、生活排水、ドブ水に悩まされていた私は、それ以降、しじみを買うのをやめたのです。
このしじみですが、今は、お隣の茨城県の涸沼(ひぬま)産が、この街のスーパーで売られていて、時々、青森の十三湖産もあります。この2つとも汽水湖なのです。そして、出雲の宍道湖産も、店頭で見かけるのです。飼い慣らされた《お袋の味》は、とくに男の児にとっては、母亡き後になってしまったからこそ、忘れえぬ味なのでしょう。
また母の故郷は、蕎麦が名物なのです。江戸時代初期に、松江藩主になった松平直政が、前任地の信州から松江へ移ってきた際に、そば職人を連れて来たことによって、この「出雲そば」が誕生のきっかけとなったと言われています。中国山地の奥出雲で、蕎麦が栽培されて普及したようです。
「割子(わりご)」と呼ばれる丸い漆器に、三から五段作りで、そばを盛り分けて、何種類もの薬味で、蕎麦つゆで食べるのです。二十代の始めの頃に、鳥取に出張した折に、母が弟のようにしていた方、予科練から生還して、父のもとで働いていた方を訪ねたのです。歩かないで駄々をこねた私を、泣きながらおんぶして、山奥の家に運んでくれた方なのです。
そんな話を、母や兄たちから聞かされ聞かされ育って、社会人になり、近くに行きましたので、表敬訪問をしたわけです。この方の家の近くのお蕎麦屋さんで、ご馳走してくださったのです。信州そばに馴染んできた私でも、弟分出雲そばは格別な味でした。
この方を連れ、父が、その出雲の街の小川で、泥鰌(どじょう)獲りに、『よく連れ出されて獲ったのです!』と言っておいででした。そう言えば、出雲の安来(やすぎ)には、「安来節」という民謡があって、和手拭いでほっかむりをし、笊(ざる)をかかえ、腰にカゴをつけて、ひょうきんに「泥鰌獲り」をするのです。
ここ栃木から、東武線の終点が浅草、いや、始発が浅草と言うべきでしょうか、その浅草には、泥鰌を食べさせる老舗の店があるのです。『準,駒形へドジョウを喰いに行こうな!』と、何度か言ったまま、逝ってしまった父を思い出すのです。それで浅草に行きかけるのですが、いつも遠慮してしまって、時が過ぎております。
この辺りの人は、年に一度くらいは、浅草に出て行くのでしょうか。浅草名物の「志゙満ん草餅」を、家内のために、下の息子が来るたびに買って持参してくれるのです。それを隣家にお裾分けした時に、この草餅を知っておいででしたから、やはり、この辺りのみなさんの浅草行きは、江戸行きの目的地だったのが分かったのです。
明日は、しじみ汁にでもしましょうか。生鮭の切り身が冷蔵庫にあるので、それを焼いて、栃木産のお米を炊いて,夕食に供しましょうか。
(ウイキペディアによる宍道湖、十三湖、涸沼、割子蕎麦、泥鰌踊りの服装の写真です)
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