y
この写真に写った個所は、小学校二年生から、大学三年まで住んだ街の懐かしい場所の新旧二葉の写真です。上の写真には、東京と高尾の間を結ぶ中央線の踏み切りがあります。高尾行きの電車が、日野駅を出たところで撮影されています。右に見える三角屋根の建物は、地蔵堂で、ここで、地域の寄り合いをしていました。
この踏切を開閉する番をしていたおじさんと父が懇意で、この踏切から線路伝いに、改札を通らないで、駅のホームに上がって通勤していました。弟が、よく父の感謝を届けていて、おじさんに可愛がられていました。旧国鉄の電車の部品を作っていた会社の経営陣だっので、そんなことができたのでしょう。
実は、この坂から上がってくる道路は、江戸の内藤新宿から、甲州路を通って、信州の下諏訪宿で、「中山道」に繋がる「甲州街道」の旧道なのです。多摩川の渡しを渡って、丘陵に上がっていく道の途中を、南北に「甲武鉄道」が敷かれ、これがやがて「中央線」になっていくのです。同じ箇所の下の写真は、日野駅の区画整理で、踏み切りをなくして、線路と丘陵との間の向う側に、新しい道を敷設した後の写真です
その踏切から50mほどの坂の途中に、父が家を買って住み始めたのです。この電車は、立川駅から多摩川を渡って来たもので、豊田駅、八王子駅へと向かって進んで行きます。電車の後方には、甲州街道、国道20号線が走っていて、住み始めた当時の駅の写真が、下の写真で、国道と交差する様に、高架で中央線の電車がみえます(この下の写真です)。
こんな写真を見つけることができ、とても懐かしく眺めています。電車の形式が、いかに古いかを伝えています。このコンクリートの道路が、国道20号線で、右上の方に、日野坂が続いていて、登りきった所に、トラック製造で有名な日野自動車の工場がありました。その正門の近くに、私たちが結婚して一年ほど住んでいたのです。見える電車の後ろ側の丘陵の麓に、アメリカ人起業家が住んでいて、この方の事務所がありました。
バス停のサインが、駅の真ん前に置かれているのも、交通量や駅の通勤客が少なかった当時だったからできたのでしょう。この駅舎の作りは、民家造りで、造られれた当時と同じ形を、今でも維持していて、JRの駅舎としては有名なものです。父母や兄弟が、よく利用した駅ですから、実に懐かしいのです。郷愁の街と駅です。
.