『「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言えり・・』 で有名な福沢諭吉(1835年1月10日~1901年2月3日)が、24歳の時に、アメリカを訪問しますが、その折の逸話が残っています。彼がアメリカ滞在の思い出話として、「福翁自伝」の中に記しているものです。それは、
『私が不図(ふと)胸に浮かんである人に聞いてみたのは、他でもない、今、華盛頓(ワシントン)の子孫は如何(どう)なって居るかと尋ねた所が、其の人の云うに、華盛頓の子孫には女がある筈だ、今如何なって居るか知らないが、何でも誰かの内室になって居る様子だと、如何にも冷淡な答で、何とも思って居らぬ。是れは不思議だ。勿論私も亜米利加(アメリカ)は共和国、大統領は四年交代と云うことは百も承知のことながら、華盛頓の子孫と云へば大変な者に違いないと思ふたのは、此方(こっち)の脳中(のうちゅう)には源頼朝、徳川家康と云う様な考があって、ソレから割出して聞いた所が、今の通りの答に驚いて、是れは不思議と思ふたことは、今でも能く覚えて居る。』
です。人への関心の濃淡が、日本とアメリカでは、これほど違っていることに、諭吉が驚いたわけです。私の父の唯一の自慢話は、『源頼朝から地領を戴いた鎌倉武士の末裔になのだ!』ということでしたから、頼朝の家来と言っても、900年もたった末裔なのに、そんな誇りを覚えている、これが日本人なのでしょうか。諭吉も、『大統領の子、孫、曾孫なら、相当なもので、未だに関心の的に違いない!』と思って質問したのでしょうけど、その《冷淡な答》を不思議がり、驚き、期待を裏切られたのではないでしょうか。今だって、人気のある映画俳優やスポーツ選手などの行動や活動の一挙手一投足に関心を向け、影響されやすい人のことを、《ミーちゃんハーちゃん》というのですが、日本人の《ミーハー》ぶりには、ちょっと恥ずかしく思ってしまいます。実は、『どうでもいいこと!』なのですから。
欧米人は、今の自分が、どのように生きているかが大切なのであって、《親の七光り》の特恵を被って、政治的な、企業的な立場を受け継ぐことが当然視され、学閥、門閥が闊歩している日本社会とは、全く違うことを知って、諭吉は欧米理解を深めたのではないでしょうか。彼が、1887年に著した「学問のすすめ」の冒頭にある、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、《アメリカ独立宣言》からの引用で、こう言った考え方を、日本に紹介した点で、「富国強兵」の当時の国家施策とは違った点で、日本を近代化していく大きな働きをしたことになります。
聞くところによりますと、諭吉は、豊前中津藩(現大分県)の下級武士の子として大阪で生まれます。相当な剣の使い手(免許皆伝だったそうですが、明治維新の廃刀令の折には、未練なく剣を捨て、ペンに持ち替えたのです。そのペンの力で、日本の近代化を推し進めたわけです。維新政府は、欧米に劣る軍事力の強化、近代化された産業を起こすために躍起になりましたが、諭吉は、教育事業こそ、日本の近代化の要であると見抜いて、それに生涯を捧げていくのです。慶應義塾の校章には《ペン》が描かれているのは、このためです。
この諭吉が真の教育者であったというのは、26歳で同じ中津藩士・土岐太郎八の次女・錦 と結婚しますが、生涯、妻以外の女性を知らなかったとの生き方から、そう言えるのではないでしょうか。郭遊びや愛妾を持つことは、男の甲斐性のように言われた日本の社会、とくに幕末や明治期では、実に稀な人格高潔な家庭志向の人格者であったことが伺えます。
うーん、明治人の生き様は、とても魅力がありますね。明治生まれの父には申し訳ないのですが、私には、鎌倉武士の誇りなど、全くないのです。私の誇り、何でしょうか・・・・・・・・・・・・、そう、弱さでしょうか!
(写真下は、鎌倉武士の長谷部信連 以仁王見送りの図(部分)です)