ペン

 
 『「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言えり・・』 で有名な福沢諭吉(1835年1月10日~1901年2月3日)が、24歳の時に、アメリカを訪問しますが、その折の逸話が残っています。彼がアメリカ滞在の思い出話として、「福翁自伝」の中に記しているものです。それは、

 『私が不図(ふと)胸に浮かんである人に聞いてみたのは、他でもない、今、華盛頓(ワシントン)の子孫は如何(どう)なって居るかと尋ねた所が、其の人の云うに、華盛頓の子孫には女がある筈だ、今如何なって居るか知らないが、何でも誰かの内室になって居る様子だと、如何にも冷淡な答で、何とも思って居らぬ。是れは不思議だ。勿論私も亜米利加(アメリカ)は共和国、大統領は四年交代と云うことは百も承知のことながら、華盛頓の子孫と云へば大変な者に違いないと思ふたのは、此方(こっち)の脳中(のうちゅう)には源頼朝、徳川家康と云う様な考があって、ソレから割出して聞いた所が、今の通りの答に驚いて、是れは不思議と思ふたことは、今でも能く覚えて居る。』

です。人への関心の濃淡が、日本とアメリカでは、これほど違っていることに、諭吉が驚いたわけです。私の父の唯一の自慢話は、『源頼朝から地領を戴いた鎌倉武士の末裔になのだ!』ということでしたから、頼朝の家来と言っても、900年もたった末裔なのに、そんな誇りを覚えている、これが日本人なのでしょうか。諭吉も、『大統領の子、孫、曾孫なら、相当なもので、未だに関心の的に違いない!』と思って質問したのでしょうけど、その《冷淡な答》を不思議がり、驚き、期待を裏切られたのではないでしょうか。今だって、人気のある映画俳優やスポーツ選手などの行動や活動の一挙手一投足に関心を向け、影響されやすい人のことを、《ミーちゃんハーちゃん》というのですが、日本人の《ミーハー》ぶりには、ちょっと恥ずかしく思ってしまいます。実は、『どうでもいいこと!』なのですから。

 欧米人は、今の自分が、どのように生きているかが大切なのであって、《親の七光り》の特恵を被って、政治的な、企業的な立場を受け継ぐことが当然視され、学閥、門閥が闊歩している日本社会とは、全く違うことを知って、諭吉は欧米理解を深めたのではないでしょうか。彼が、1887年に著した「学問のすすめ」の冒頭にある、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、《アメリカ独立宣言》からの引用で、こう言った考え方を、日本に紹介した点で、「富国強兵」の当時の国家施策とは違った点で、日本を近代化していく大きな働きをしたことになります。


 聞くところによりますと、諭吉は、豊前中津藩(現大分県)の下級武士の子として大阪で生まれます。相当な剣の使い手(免許皆伝だったそうですが、明治維新の廃刀令の折には、未練なく剣を捨て、ペンに持ち替えたのです。そのペンの力で、日本の近代化を推し進めたわけです。維新政府は、欧米に劣る軍事力の強化、近代化された産業を起こすために躍起になりましたが、諭吉は、教育事業こそ、日本の近代化の要であると見抜いて、それに生涯を捧げていくのです。慶應義塾の校章には《ペン》が描かれているのは、このためです。

 この諭吉が真の教育者であったというのは、26歳で同じ中津藩士・土岐太郎八の次女・錦 と結婚しますが、生涯、妻以外の女性を知らなかったとの生き方から、そう言えるのではないでしょうか。郭遊びや愛妾を持つことは、男の甲斐性のように言われた日本の社会、とくに幕末や明治期では、実に稀な人格高潔な家庭志向の人格者であったことが伺えます。

 うーん、明治人の生き様は、とても魅力がありますね。明治生まれの父には申し訳ないのですが、私には、鎌倉武士の誇りなど、全くないのです。私の誇り、何でしょうか・・・・・・・・・・・・、そう、弱さでしょうか!

(写真下は、鎌倉武士の長谷部信連 以仁王見送りの図(部分)です)

死生

高校生の兄が読み終えた「足摺岬」 を、『待ってました!』とばかりに、中学生の私は読んだのです。『早く大人になりたい!』と願って私は、体だけではなく、心も頭も思いっ切り背伸びして兄のようになりたかったからです。この本は、高知県の南端にある岬で、東尋坊(福音県)、青木ヶ原樹海(山梨県)、白浜(和歌山県)に並ぶ、実は「自殺名所」が舞台なのです。案の定、主人公も死に場所を求めてここを訪ねます。念のため、私はこの本を読んで自殺を誘発されたのではなく、黒潮踊る男っぽい海に突き出た岬に立ってみたかっただけです。この四月に高知に行きましたときに、室戸、大山、そしてこの足摺の岬巡りをしたかったのですが、時間とお金の都合で、高知の東側の室戸と大山だけを訪ねただけで終わってしまいました。室戸岬は、昭和34年に、ペギー葉山が歌った「南国土佐を後にして」の歌詞の中に、

# 故郷(くに)の父さん 室戸の沖で 鯨釣ったという便り・・・♭

と聞いた時から、『行ってみたい!』と思っていましたから、何と50年ぶりに夢が実現したことになります。ただ鯨のカゲはなかったのですが、幕末に、京都四条・近江屋で、龍馬と共に襲撃されて果てた中岡慎太郎の大きな銅像が、海の彼方を眺めるようにして立っているだけでした。

大山岬は、私の恩師の研究対象の一つが「万葉集」で、江戸末期の萬葉研究者・鹿持雅澄についての学術書を著しましたが、その雅澄が大山勤務をしたときに読んだ和歌の碑があるので、どうしても訪ねたかったからです。病弱な妻を高知に残して、単身赴任していた折に、遥かな菊子を詠んだものでした。

あきかぜの 福井の里に いもをおきて 安芸の大山 越えかてぬかも

「福井」とは、高知城下の町の名で、そこに家があったからです。「いも」とは、妹のことではなく愛妻のことです。どの時代も、妻を愛し、夫に仕える夫婦の姿は、その人や家庭の安定や祝福、二人から生まれてくる子たちの将来に希望を持たせるものです。菊子亡き後、四人の子を男手ひとつで育て上げるのです。

さて、この「足摺岬」は、田宮寅彦の青春回顧録でした。宿の主人や家族、四国の霊場を巡る巡礼者との出会い、語らいを通して、自殺を諦めて東京に戻る青年が主人公で、十代前半の私には強烈な印象を与えられたのです。生きることで一杯で、死ぬことなぞついぞ考えたことのなかった私ですから、『十代の後半には、そんな危機だってありうるのだろうか!?』と思わされたのを覚えています。

ところが、足摺岬に死にに行って、死ぬ理由よりも、生きる理由を見出した寅彦だったのですが、77歳の時に、脳梗塞が再発して、『もう書けない!』と悲観して、今度はマンションの11回から投身してしまうのです。書くことが命だったのでしょうけど、失ってしまったものに心を向けるよりも、どうして残されたものに目を向けて生きていこうとしていかなかったのでしょうか。あんなに繊細な青年期の思いを綴ることができる、人間理解の深い人だったのに、残念でなりません。彼の死には、ガンで死別した妻への思いが深く、死んだ妻との間で往復書簡を交わすといった内容の、「愛のかたみ」を、45歳の時に著していますが、ここに彼の自死の伏線があるのではないでしょうか。

雅澄は妻亡き後、子育てと萬葉研究に励みます。寅彦も、妻と死別しますが、《人が人であることへの絶望感 》といった彼の考えが災いになって、死を選ぶのです。同じ高知、《土佐っぽ》なのに、愛する者との死別をどう捉え、どう超えていくーどう生きていくかの方法が違ったのは残念なことであります。しかし、この本は、読むべき一冊かと思います、日本人の心を理解し、その上で生きていくために。

(写真は、「足摺岬」です)

「津浪と人間」


 近代の日本語の確立に大きく貢献した一人が、「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」や「三四郎」で有名な夏目漱石だとされています。以前は、「千円札」でお目にかからない日がないほどの人物でしたが。学校を出た彼は英語教師として松山に行きますが、後には、熊本の旧制五高(現・熊本大学)、東京帝大などで教え、朝日新聞社にも務めます。英文学者というよりは、小説家として名を残した、明治大正期の文豪と称されています。この人の門弟に、寺田寅彦(1878年11月28日~1935年12月31日という方がいました。東京帝大で地球物理学を教え研究し、昭和のはじめには、東京帝国大学地震研究所の所員もされていました。

 この寅彦は、学者でありながら、文学の世界でも、多くの随筆を書き残しているのです。聞くところによりますと、「吾輩は猫である」や「三四郎」に出てくる人物のモデルであったようで、親しく漱石と交わりを持ち続けたようです。科学的な知識は、この寅彦から教えを請いながら漱石は著作に励んだそうで、弟子というよりは友人だったことになります。この寅彦の随想に、昭和八年五月、『鉄塔』に掲載した「津浪と人間」というものがあります。最後に次のように言っております。

『それだから、今度の三陸の津浪(昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙(な)ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った)は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。

 しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然方則であるように見える。自然の方則は人間の力では枉(ま)げられない。この点では人間も昆虫も全く同じ境界(きょうがい)にある。それで吾々も昆虫と同様明日の事など心配せずに、その日その日を享楽して行って、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという棄(す)て鉢(ばち)の哲学も可能である。

 しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は人間に未来の知識を授ける。この点はたしかに人間と昆虫と でちがうようである。それで日本国民のこれら災害に関する科学知識の水準をずっと高めることが出来れば、その時にはじめて天災の予防が可能になるであろう と思われる。この水準を高めるには何よりも先ず、普通教育で、もっと立入った地震津浪の知識を授ける必要がある。英独仏などの科学国の普通教育の教材には そんなものはないと云う人があるかもしれないが、それは彼地には大地震大津浪が稀なためである。熱帯の住民が裸体(はだか)で暮しているからと云って寒い国の人がその真似をする謂(い)わ れはないのである。

 それで日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくも毎年一回ずつ一時間や二時間くらい地震津浪に関する特別講演があっても 決して不思議はないであろうと思われる。地震津浪の災害を予防するのはやはり学校で教える「愛国」の精神の具体的な発現方法の中でも最も手近で最も有効な ものの一つであろうと思われるのである。』


 このたびの、「東日本大震災」は、過去にも繰り返し地震や津波が襲った地域でありますから、百年前の寺田寅彦の警告や助言に耳を傾けるよい機会かと思います。今朝のMSNの記事には、帝都東京の地震対策についての石原都知事の提言が載っていましたが、何年も前に、イギリスから来た専門家が、東京に起こりうる地震について警告し、備えるようにとの講演会を聴きに行ったのを思い出します。いつでも起こりうるのですが、寺田寅彦は、『天災は忘れたころにやってくる!』という言葉を残しています。まだまだ忘れてしまうような時期ではありませんが、時の経過は、怖さを徐々に奪っていくのですから、政治の駆け引きやソロバン勘定ではなく、この提言に耳をしいかりと傾けたいものです。『備えあれば憂いなし!』という諺もありますから。
(寺田寅彦著「津浪と人間」は、「青空文庫〈http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/4668_13510.html〉)で読めます)

(写真上は、昭和8年3月3日の「昭和大津波」で被害を受けた釜石市の被災状況を写したもの、下は、十銭切手の「寺田寅彦」です)

高尾紀行


江戸時代には、宗教的な理由で山に登ることはありましたが、それとても「女人禁制(にょにん)」で、男だけが許された行事の世界でした。上高地・梓川の河畔に、慶応大学の英語教師をしていたイギリス人宣教師ウエストン(1861年12月25日~1940年3月27日)の碑があります。家内の友人夫妻が案内してくださって、一緒に訪ねたことがあります。ウエストンは27歳で初来日し、明治の日本人に、登山の楽しさ、山や自然を愛することを紹介してくれたのです。生涯に三度日本を訪ね、その人柄も地元の人たちに慕われたと聞きます。日本には、北アルプス、中央アルプス、南アルプスがあり、山梨県には「南アルプス市」までありますが、この「アルプス」の命名者が、このウエストンだそうです。

彼の影響でしょうか、明治の文人たちの中にも、山をこよなく愛した方々がおいでです。俳句の

柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺

で有名な正岡子規も、そのような一人でした。彼は、「高尾紀行」を残しています。その冒頭に、『旅は二日道連は二人旅行道具は足二本ときめて十二月七日朝例の翁を本郷に訪ふて小春のうかれありきを促せば風邪の鼻すゝりながら俳道修行に出でん事本望なりとて共に新宿さしてぞ急ぎける。』とあります。「例の翁」というのは、21歳年長の内藤鳴雪で、この方の俳句の師が子規であったのです。新宿駅で甲武鉄道(今の中央線です)に乗り込んだ二人は、高尾登山に出かけます(まだ八王子までしか開業されていなかったかも知れません)。車窓から風景を眺めながら、子規の指導を受けながら、鳴雪は「俳道修行」をします。彼がこんな句を詠んでいます。

荻窪や野は枯れはてゝ牛の聲

荻窪あたりでは、農耕用の牛の鳴き声がしていたようですが、私は、仕事でこの荻窪駅に2年間、通勤で地下鉄に乗り換えたことがあり、家内は、高校に3年間通いました。うん、モー昔日の感なしの今ですね。

汽車道の一筋長し冬木立


沿線は、今日日、軒を連ねた住宅が続き、どこの駅前も銀行や予備校やデパートやスーパーマーケットが林立していて、「木立」など、つとに見たことがありません。かろうじて国分寺か国立あたりまで参りますと、櫟林が残されているでしょうか。

麥蒔やたばねあげたる桑の枝

「富国」政策で、絹糸の輸出が盛んだった頃には、沿線には桑畑が広がっていたのでしょうか。私が育った町の桑園に「蚕糸試験場」があって、そこに廃棄されたサナギがあって、拾って桑の葉の餌を与えて育てたこともありました。高尾山に着いたときには、次のように記しています。

『高尾山を攀ぢ行けば都人に珍らしき山路の物凄き景色身にしみて面白く下闇にきらつく紅葉萎みて散りかゝりたるが中にまだ半ば青きもたのもし。』、子規も鳴雪も、共に伊予松山(今の愛媛県です)の人ですが、高尾を「田舎」、自分を「都人」というのですから面白いですね。

帰りには、私の育った日野駅で降り、「百草(もぐさ)」の寺や「高幡不動」を訪ねています。その時、鳴雪は、

朝霜や藁家ばかりの村一つ

と詠んでいます。二十歳まで過ごした街が、麦わらばかりの農家の農村だったのですから、級友たちのおじいちゃんたちの家も、二人は眺めたことでしょうか。ここから多摩川を渡って、国分寺、府中を経て新宿に戻るのです。蒸気機関車に乗り、馬糞と石ころだらけの道を歩いたふたり旅だったようです。初夏の高尾、明治の森を過ぎて相模湖に下っていく道を、何度歩いたことでしょうか、二十代のはじめには、標高599メートルを走って登ったことがありますが、先週、広西壮族自治区の白雲山に登りましたが、息が切れて、なんども休んでしまいました。二つ違いの弟が、山歩きが好きで、山男・強力(ごうりき)をしてたこともありますが、今では、陸に上がった河童、麓に戻った何でしょうか?日常から離れた山歩きって、いいものです!


(写真上は、上高地の朝の「河童橋」、下は、多摩川を渡る「中央線〈?〉の蒸気機関車」です)

牧水


 宮崎県日向市東郷町(旧・東郷村)に、1885年(明治18年)に生まれ、「酒の歌人」と称されたのが、若山牧水でした。寺の住職で中1の国語を教えてくれた教師が、牧水の歌を教えてくれました。この先生の担任する一学年上のクラスに、牧水の孫がいて、私のクラスに、「白鳥くん」がいました。この牧水が、

   白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ

と詠んでいたので、随分、彼がからかわれていたのを思い出します。本名は、若山繁、延岡中学、早稲田大学に学びます。同級に北原白秋がいて、結婚後は、神奈川県や 静岡県沼津に住みます。牧水は、漂白の歌人として、全国を旅しながら和歌を詠みます。長男を「旅人たびと)」と名付けたほどです。とくに「酒」を詠み込んだ歌は、約三百首もあるそうです。その牧水の歌に、

  若竹の 伸びゆくごとく 子ども等よ 真直ぐにのばせ 身をたましひを
  子供等は 子供らしかれ 猿真似の 物真似をして 大人ぶるなかれ

という歌があります。ここに彼の教育論があり、「富国強兵」の世の中に、自然を愛し、その自然に触れるために旅を愛し、その旅の途上で杯を干すといった生き方をした人ですから、おおらかな自然派の教育論だったことになります。

 みなさんは、毎日欠かさずに食べるものがあるでしょうか。私にはあります、トマトです。ほとんど欠かさずに、毎食といっていいほど食べているのです。近くの菜市場に、近隣の「闽侯(ミン・ホウ)」産の物が売っていて、なくなると買出しに行くのです。日本の八百屋に売っているような、皮が薄くて果肉の柔らかな種類のトマトです。ただ昔のような、あの独特な匂いがしないのが残念ですが。牧水は、

  舌に溶くる トマトの色よ 匂ひよと たべたべて更に 飽かざりにけり
  葉がくりに あるはまだ青し あらはなる トマトに紅の いろさしそめて
  トマトの くれなゐの皮に ほの白く 水の粉ぞ吹ける この冷えたるに

と、「トマト」を詠んだ歌が多くあります。トマトの効能について、『☆リコピン このトマトが今、リコピンという成分で注目されています。リコピンはトマトの鮮やかな赤い色のもとになっている色素で、体内の活性酸素を消去するカロテノイドの一種です。活性酸素は、体内に侵入した細菌などを死滅させる働きがありますが、増えすぎると正常な細胞や遺伝子までも傷つけてしまい、その細胞を癌化させることがわかっています。リコピンは、カロテノイドの中で最も活性酸素の消去能力が強く、βカロテンの2倍以上、ビタミンEの100倍以上の効果があるといわれています。米国の研究では、前立腺ガンの患者にリコピンを投与したところ、ガン組織の成長が抑制されたという報告があります。また、リコピンがLDL(悪玉コレステロール)の酸化を阻害することから、動脈硬化の進展予防効果が期待できるとする研究報告もあります(http://www.bl.mmtr.or.jp/~shinjou/tomato.htm) 』とあります。中国語では、「西紅柿(xihongshi)」とか「蕃茄(fanqie)」といいます。


 何よりも、牧水の歌が8900首ほどある中で最も有名なのは、

  幾山河 こえさりゆかば 寂しさの  はてなむ国ぞ けふも旅ゆく

です。旅を愛し、旅を詠んだ牧水の歌碑は、日本全国に300基ほど建てられているそうです。静岡県沼津の千本松原に、牧水記念館があり、そこに、この歌の歌碑があります。狭い日本を行き巡り、三十一文字に自らの思いを表現した牧水は、自然や人、日本そのものを、こよなく愛した詠み人だったのでしょう。日本の良さを、ここ大陸の華南の地に住んで思い返し、更に故国の評価を高めている私であります。日本ガンバレ!!!

こい


 中学1年の時、18歳の神戸一郎という歌手が、「十代の恋よさようなら」という歌でデヴューしました。『俺、落合が好きだ!!』と男友達の間では言いながらも、メグちゃんの前に立って、直接そう言えなかったのが悔やまれますが、まだまだ恋なんて知らなかった純な中学坊主だったのです。『女の子を好きになる気持ちって、こういったことなんなのか!』と分かったのです。どんな歌詞かといいますと、次のようでした。

     好きでならない 人なれど 別れてひとり 湖に
     悲しく捨てる 男の涙  ああ 十代の恋よさようなら
     月の渚を さまよえば 帰らぬ夢を 慕うよに
     はぐれて一羽 なく水鳥よ ああ 十代の恋よさようなら
     恋の名残か 紫の りんどう風に 散る夜は
     瞼に沁みる ホテルのあかり ああ 十代の恋よさようなら
      (作詞:石本美由起  作曲:上原げんと 歌:神戸一郎  1957年)

 ところが、私の入った中学は男子校で、校庭の金網を境に向こうに女子部があって、男女別学の学校だったのです。同級生で女子部に入学した子がいましたが、顔を合わせても話しをしたこともありませんでした。お父さんは田舎町でしたが工場を持った社長さんで町の名士でした。その椅子を狙って近づくほど、まだ打算的ではなかったのです。バスケ部に入って、高校生や大学生と一緒にボールを追いかけていたころです。練習が終わって、駅までバスで帰ると、先輩がたびたびラーメンとかチャーハンをご馳走してくれたのです。北口の食堂に入ったときに、隣の席の若い客が、水を運んできた女子店員の手を、そっと握ったのです。そのモーションは実に見事でした。『ああやって握るんだな!』、『恋ってのは、こうやって始めるんだ!!』と実地訓練を受けたのですが、一度も握らず、実らずじまいだったのは残念なことです。はい。

 同じ駅から、女子部に通学する2年上の先輩がいました。この女性が、私の公称・初恋の相手です。ところが、朝一緒の時間帯に、電車に乗る高校生に横取りされてしまったのです。あっ、申し添えますが、これって遠くから指をくわえ眺めていた片思いでした。あんなに悔しかったことはありませんが、まだヒゲも産毛同然の子どもには、到底太刀打ちができずに、諦めざるを得ませんでした。神戸一郎が歌うように、湖畔で男の涙は流しませんでしたが。また女子部のバスケの高3に素敵な人がいて、これもまた遠くから眺めて憧れていました。何度か声をかけてくれましたが、卒業して、行ってしまいました。

 そんなこんなの散々の青春でしたが、私の一番好きな恋物語は、小倉の車曳き《松五郎の恋》なのです。酒、喧嘩、博打で、《無法松》と恐れられていた彼でしたが、竹馬から落ちて怪我を負った少年・敏雄を助けたことから、その父で、小倉連隊の陸軍大尉・吉岡小太郎と知り合います。吉岡大尉は、松五郎の男気(おとこぎ)に惚れ込んでしまい、身分を超えた友情の絆で堅く結ばれるのです。それ以降、彼のお抱え車夫となって連隊への送迎をするようになります。ところが、『俺に何かあったら、妻と子を頼む!』と松五郎に言って、大尉は急逝してしまうのです。その残された吉岡夫人と遺児を世話していくうちに恋をしてしまいます。一見荒くれ者に見える彼の切ない思いを告白するに至らず、内に秘めた恋が、私の中学時代の恋と繋がって、大好きなのです。この夫人も再婚話を断り続けるのですが、彼女も、また松五郎に心惹かれていたようですが。

 実らぬ恋で年老いた松五郎は、心臓麻痺で死んだ父と同じように死ぬのを恐れたのですが、彼も、また父の様にして亡くなります。その松五郎の行李の中の遺品を整理しますと、吉岡夫人と敏雄名義の貯金通帳が見つかるのです。素朴、純粋、剛毅、曲がったことが嫌い、これって明治の男の「質実剛健」の気質でしょうか。《男の純情》、うーん、《百年前の恋》、《明治の恋》っていいものですね!

 松五郎が車を曳いた小倉に友だちがいて、泊めてもらったことがあります。あれからもう何年も何年も経とうとしていますが、いまだに青いレモンの味が口の中に広がってくるのです!

(写真は、往年の銘映画スターの阪妻(阪東妻三郎)の演じた「無法松」です)

庭の花


 今、我が家の庭は、花が競って咲いています。三葉草(知り合いの学生が”san ye cao”と教えてくれました)、百合の一種、名の知らない小さな白い花が、遠慮がちに花を咲かせています。これに加えて、垣根の上の隣の家の庭に、真っ白な「天使のラッパ」が咲き始めました。もう大音響を響かせるのではないかと思うほどにです。別名「チョウセンアサガオ」とも言うのだそうです。初夏の風物詩でしょうか、毎年見慣れて、咲く花に季節を感じさせてくれます。また、左隣の家の小藪の木にも、真っ赤な花がつくのですが、名前を失念してしまいました。先日、郵便局に手紙を2通出しに行きました道筋にも、紫色の桐の花が満開でした。日本の花よりも、亜熱帯だからでしょうか、どの花も色が鮮やかで、強烈なのです。

 
 聞くところによりますと、関東甲信越は梅雨入りだとか。しばらく鬱陶しい季節が続きますが、大自然は感謝と喜びの声をあげることでしょう。私たちも心だけは晴れ晴れとしていたいものです。私の恩師が、〈野の花の如く〉と色紙に書いてくださいました。『大輪の牡丹やひまわりのようにでなくていいから、小じんまりと毎年毎年、忠実に花を咲かせる野の花のように、清楚に着飾って生きて行きなさい!』と励ましてくれたのでしょうか。


 男だからと、大きな花を咲かせたい願いも、若い時にはなくはなかったのですが、技量が小さくて、根が小さく、茎が細い者には、大輪の花を咲かせてしまったら、支えきれないで、ただただ崩れ落ちるだけだったことでしょう。でも、誰にもほめられたり、愛でられたりしなかったとしても、天に向かって咲く野の花のようには、生きていきたいと思わされてきました。


 裏庭に小さく可憐は花を見るにつけ、もう一花咲かせたいなと思うのです。もちろん、恩師が私たちに願ったような花をつけたいのですが。大津波を受けた桜が咲いて春の到来を告げ、塩水をかぶった花壇の花が命を蘇られせたとニュースで聞きました。ときどき良いニュースが、祖国から伝わってくるのは感謝なことです。


 もう一人の恩師の家の玄関に、春になると真黄色の花をつけて咲き、訪ねるたびに歓迎してくれた花がありましたが、家内に毎年聞くのですが、咲き終わると花の名を忘れてしまって年を重ねています。今年は、聞く相手が、まだ次男の家にとどまっていますので、今夕、スカイプが入ったら、聞いてみることにします。


(写真は、昨日と今日撮った裏庭の「花々」と「葉っぱ」です)

書と筆


 「一函の書に千古の智恵あり 」と内村の詩にあります。書籍だけではなく、和歌や俳句や詩、日記や川柳や民謡や紙芝居だって、人は自分の思いを、様々に書き、詠み、歌い、語りながら表現してきました。有名になりたかったり、生活の糧にしたいからだけでなく、ただ単純に、自分の考えていること、思っていること、感じていることを表現したかったからではないでしょうか。それは人間が人間だから、そういった願いが自然にあるのではないでしょうか。中学一年の時に、「漢文」を高等科の先生から学びました。悪戯小僧の私を、殊の外、気にかけてくれた先生でした。とくに、李白や杜甫の漢詩の「五言詩」や「七言詩」を、日本語読みして覚えたのですが、言葉の歯切れのよさと簡潔さが気に入って、国語が大好きになったのです。韻を踏むというのが、日本語で学んでも分かることに、二つの言語の近さと違いの中で、意外さを感じたりしたのを覚えています。

 趣味なのでしょうか、本を読むのが好きで、酒もタバコも飲まない代わりに、私は、新刊書から古書まで、随分とたくさん買い求めたのです。中毒にはなりませんでしたが、家内をハラハラさせたことだけは事実です。もしかしたらコンプレックスのなせる業だったのかも知れませんね。この内村は、「一茎の筆に奇異の力あり 」とも言いました。彼もまた書を読むのを好み、読んで黙想しては、自分の思想を築き上げ、更には、その思想的な感化を多くの弟子たちに与えて、よい人材を育て上げました。

 何年も前に、一冊の本を読みました。著者の半生が、その本の中に記されてあり、15歳の冬の、この方の体験には衝撃を受け、それを超えて生きてきた彼の精神的な強さなどを感じさせられて、極めて印象深い経験をさせていただきました。この方は、青森県弘前市出身の方で、戦時中、お父さまが特高警察に捕まって、未決囚で、弘前刑務所に収監されていました。お父さんがいなくなった彼の家族は、食べる物に窮してしまいます。それでお父さんの同僚のところに、お母さんは彼を使わして、かぼちゃでもジャガイモので少し分けてもらえないかと訪ねます。しかしけんもほろろに玄関で追い返されてしまいます。犯罪容疑者となった者と関わりたくなかったのでしょうか。そんな留守家族の実情を知ってか知らないでか、彼のお父さんは、栄養が足りなかったのでしょうか病んで獄死してしまうのです。その知らせを受けた彼は、リヤカーに棺桶を載せて、お父さんの亡骸を引取りに行くのです。まだまだ舗装のされていない道をリヤカーせ曳いて帰ると、棺の中でお父さんのゴツンゴツンとぶつかる音を聞きながら、涙を流し流し帰ったのだそうです。多感でまだまだ未熟な15歳の経験としては、どれほど辛かったことでしょうか。

 平和な時代がやって来て、東京の叔父を頼って上京します。どう生きるかを模索していた彼は、お父さんの道を歩もうと決め学び始めるのです。ところが、功なり名をなした彼の晩年に記したその本には、思春期に経験したことへの恨み言や、憎しみが、まったくないのです。父親の無念を知っている彼でありながら、そういった職業選択をし、父の歩んだ道に歩を進め、生きてきたことに、私は驚かされたのです。もちろん辛い経験をした人を、私は沢山知っています。逆境を逆手にとって、人生の強力な鋼のようなバネを培うというのは、可能なのだということを教えられたのです。そういった心を培った、お父さんの生き方、お母さんの育て方もありましたが、どうも彼自身が親しんだ書があったからなのです。「一函の書」、「一茎の筆」に力があるのです。この力の強大さこそ、憎しみや恨みから、人を赦しに連れ帰ることができるのです。素晴らしいことであります。

(写真は、満開の桜の中の「弘前城」です。)

山桜


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 小学生の時に、一駅電車に乗った隣町に、毎週のように映画を観に行った時期があります。南口を出て、すぐの交差点を左に曲がって5分ほどのところに「東映南座」という映画館があって、予告編を見ると、どうしてもまた観たくて行くのです。毎週、週替わりの二本立ての時代劇が上映されていました。同じ時期に、松竹や大映は、文芸作品を上映していたのですが、それにはまったく関心のなかった私は、チャンバラ映画が贔屓だったのです。父が、月形龍之介を知っていて、『彼の本名は門田(もんでん)と言うんだよ!』というのを聞いて、彼のような脇役の悪役スターに、何故か憧れたのです。そんなことで、父は、映画代と電車賃をくれたのですが、よく、そんな私の我儘を許してくれたものだと思い返して、自分で稼ぐようになって、半分恥じています。そうしてくれた父は、映画好きな私に何を期待していたのでしょうか。門田のような映画俳優になるように願ったかも知れませんね。

 勧善懲悪、最後に正義が、弱者が、きっと勝つのがお決まりの筋書きだったでしょうか。奉行所の役人が、『御用だ!御用だ!』と提灯を片手に登場すると、一斉に拍手喝采が起こって劇場を満たしたのです。ほとんど同じような筋書きなのに、観客一堂が感情移入していたわけです。テレビのない時代でしたし、じつに面白かった、ほんとうに上手に観客心理を掴んで作られていたのです。

 「海坂藩(うなさかはん)」、どこにあったかご存知でしょうか。山形県下にあることは確かですが、私が子どもの頃に観た映画にはありませんでした。それは藤沢周平が書きました小説の中に出てくる架空の藩なのです。いつでしたか、「山桜」を映画で観たことがあります。東映の時代劇とは全く違うのです。仇討や、正義のために剣が振るわれ、人が切られる場面もありますが、それは一部分なのです。武士の義とか忠義とは何か、妻や子や親や友人とどう関わるのか、領民の難儀をどういった目で見るか、どうしたら藩の政治や財政の窮状を救えるのか、剣や書や学問や農業、手工業、内職などが取り扱われるのです。藤沢周平自身、社会科や国語科の中学教師でしたから、歴史だけではなく倫理も踏まえて、それを世に問いたくて、江戸時代の自然の過酷な山形県下の海坂藩に起こる出来事を、詳細に描いたのです。人間味というのでしょうか、人情が豊かで、彼の作品の贔屓は多いのです。


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 藤沢時代劇の主人公は、貧農や下級武士です。読み心地というのでしょうか、観心地がいいのです。きっと最後に、《義》が勝つからです。父や母への正しい子の態度、家族への互いの労り、暖かな家庭、篤い友情、剣の達人で義を愛する先輩への憧憬と敬意、主君への忠義、貧しい農民への同情、不正を憎み、富ではなく愛を優先し、淡い恋、美しい自然、季節の移り変わり、そういった描写がいいのです。東映時代劇にない、しっとりした心や休まる自然があり、いぶし銀のような人間がいて、実に落ち着くのです。標準語しか話せない私には、海坂弁でしょうか、東北弁がいいですね。時代考証もいいのだと思います。人情の深さや機微を感じさせてくれるのも感動ものです。もう感情移入はしませんが、時代劇の観劇で義を学ばされてきた私にとっては、義に立つ人に感動が来て、涙さえ流れてきました。
 
 何時か海坂藩の城下町に行ってみたいと思っています。時期は、桜の時期がいい。近くに温泉があったら、もっといいのですが。ああいった山並み、野面、川、池、田畑は、大震災の後も残っているのでしょうか。人も自然も被害を被ったのですが、きっと岩手や宮城や茨城や福島の海坂藩の城下町も、美しく復旧されることと信じております。ガンバレ海坂藩!

(写真上は、海坂藩・下級武士の「食膳」、下は、「山桜」です)

右者


 「甃」、この漢字は読めませんでした。「秋」+「瓦(かわら)」の合成漢字ですが。秋の瓦って何でしょうか?学校では習わなかったのです。1955年05月25日に、「広辞苑(岩波書店)」が売り出されますと、父はその一冊を買って帰ってきました。息子たちが、辞書を引いて言葉を覚えるように願ってでした。父は、漢字や言葉の意味を尋ねると、『辞書を引け!』と口癖にしていましたので、『そうか言葉を覚えるのは辞書を引くことなんだ!』ということが分かって、「広辞苑」をめくりめくり漢字遊びをよくしました。そんな遊びの中でも覚えられなかった、この「甃」ですが、辞書で見ますと「いしだたみ」と読み、当用漢字では「石畳」と書くのだそうです。私たちの国の漢字の母胎である中国漢字を調べてみましたら、名詞で〈井戸の内壁の煉瓦〉、動詞で〈敷石を積む、石畳にする〉と出ていました。中国漢字の辞書だと、「いしだたみ」は、「石板小路」とありました。

 漢字が読めないで恥ずかしい思いをしたことが何度もあります。次男の家にいましたとき、学生服を着た芸能人の回答者が、難しい漢字をスラスラと読んでいたテレビ番組を見て、本当に驚かされました。この人たちに比べて、『自分の語彙力はなんと劣っているのだろう!』と思わされ、恥ずかしくなってしまいました。どこかの家に「難読漢字」という本がありまして、パラパラと見ましたが、なかなか何回読んでも難解でした。

 この『右者全日本健康優良児童表彰会規定ニヨリ健康優良ナル者ト認ム仍テ之ヲ表彰ス 』の文章は、昭和20年7月25日 に、全日本健康児童表彰会が健康優良児を表彰したときの表彰状の文面です。『右の者・・・』と読む人がほとんどですが、正確には、『右は・・・』と読むのです。卒業証書を読むときも、『右は・・・』なのです。思い違いをしてしまう方が多いのですが、なぜか(自慢のつもりはありませんが)、私は、正確に読めたのです。どなたかが、そう正しく読まれたのを聞いて覚えたのだと思います。そういえば、長らく住んでいた県下に、「忍草」、「右左口」、「黒平」、「百々」などという地名がありました。『しぼくさ』、『うばぐち』、『くろべら』、『どうどう』と読むのです。かな読みの地名が先にあって、それに漢字を当てたからなのでしょうか。または、大陸から渡来し、帰化した人たちとも関係がありそうですね。本当に、何度読んでも難読なのには閉口してしまいます。
 
 そういえば、「駒場」、「高麗川」、「狛江」、「南巨摩」は、すべて『こま』と読みます。朝鮮半島の「高句麗」と深く関係があって、日本の地名や川の名になっているそうです。「畑」、「秦」、「羽田」、「幡」も、『はた』と読んで、中国から渡来した一族「秦氏」の名にちなんで姓や地名とされた漢字のようです。うーん、漢字の世界は深淵ですね。