「天晴武士(あっぱれもののふ)」という言葉が、山本周五郎の作品の中に出てきます。武士の家庭では、男子を育てることが、武家に嫁した女性の主たる務めだったのだそうです。私情の入り込む余地などのない、母性の心の動きを制した育児が、日本の封建時代の武家社会には求められていたようです。
主君のための子、やがて主君に仕えていくわが子のために、天晴れな家臣となって生きることを願う、いわゆる滅私奉公だったのでしょう。だからでしょうか、『武士道とは死ぬことと見つけたり。』と言われた、「葉隠」が鍋島藩にあって、かつての武士の世界で、高く評価されて、近代国家になりつつある軍隊の中にも、その精神が引き継がれて行ったのでしょう。
無敗の神国日本が、開国以来の「負け戦」を体験し、「土性骨(どしょっぽね)」を打ち砕かれて、民主的な社会が生まれた、いえ与えられたのですが、それからもう八十年になろうとしています。新渡戸稲造が著した「武士道」には、日本の精神や社会の仕組みなどにとって、この「武士道(もののふのみち)」には、大きな意味があったと記しています。
明治維新以降、欧米に立ち遅れた日本の現状で、自分の国を、国際社会に紹介し、訴えるにあたって、この書を著したことになります。彼自身が、陸奥の盛岡藩の藩士の子として、1863年に盛岡城下で生まれています。彼の家には、父親が江戸藩邸から持ち帰った「舶来品」が多くあって、そんな中で物心がついたので、「西洋への憧れ」が強かったのだそうです。稲造は、英語も習い始めていました。
十五歳の1877年9月に、札幌農学校に学びます。在学中に、クラークの導きで基督者となった上級生との交流の中で、彼も信仰を告白し、宣教師のハリスから洗礼をう受けます。その後、東京大学で学び、母校の札幌の農学校の助教授になります。その後、ジョンズポプキンス大学に私費留学しています。その動機が、東京大学の入学の面接試験の折に語った、『太平洋の架け橋になりたい!』だったのです。
1900年に、病気治療中の稲造が英文で執筆した「武士道」を、アメリカで出版したのです。好評を得て独訳、仏訳とされ、ヨーロッパでは Best seller になっていきます。東洋の小国日本への関心が、欧米社会に高まるという結果を生んだのです。
日本人の「心の拠り所」、精神の支柱、道徳的な根拠になっていたのが、この「武士道」であると言う主張が、この本でなされています。ある学者との交わりで、『(日本の学校に宗教教育のないのを知って)道徳教育はどうして施されるのですか?』と問われ、驚いた稲造が、子どもの頃のことを思い返すのです。自分の道徳教育は「武士道」だったと気付いています。
また、稲造の妻であった Mary が、夫との生活の折々に感じていたことなのでしょう、『日本では、なぜそういった考えをするんですか?』と何度も、その説明を求められることがあったのです。これが執筆の最も大きな動機だったようです。そのようなことが、本書の「序文」に記されてあります。
武士が生きていくのに求められたことが、形を変えて女性にも、『芸や、もっと穏やかな人生の優雅が求められていた。』と、男らしいこととともに、女性に求められていたことにも言及しています。
『過去の日本のサムライは、国民の花であっただけでなく、国民の根でもあった。』と言っています。『サムライ以外の民衆に道徳的標準を示し、民衆をその手本で導いた。』、『民衆に娯楽と教育の無数の通路ー芝居、寄席の小屋、講釈師の高座、浄瑠璃、小説ーは、その主な題材をサムライの物語(*義経と弁慶、曽我兄弟などです)から取っている。』、『やっとヨチヨチ歩きを始めた子どもさえ、桃太郎の鬼ヶ島征伐の冒険談を、回らぬ舌で語るように教えられた。・・・女の子でさえ、武士の武勇と徳の愛にたっぷり浸り切って・・・』、など、侍の武勇伝を好んで聞かされてたのです。
そのような「武士道(もののふのみち)」の中に育った稲造は、キリストの福音に触れて基督者となっています。稲造によると、武士道を否定しないのですから、聖書の説く教えと近かい部分もあって、共鳴していたに違いありません。彼は、信仰的良心を持ち続けて、教育界や国際社会で活躍したのです。内村鑑三も新島襄も武士の出であり、ホーリネス運動に中田重治は足軽の子であり、孤児救済に人生を捧げた石井十次も高鍋藩の下級武士の子、救世軍の山室軍平は農民の子でした。
武人の子も農民の子も、福音に触れて、大きく社会に貢献して生きたことになります。だれも倒(さかの)ぼるなら、「アダムの子」でありますが、キリストを信じるなら、「神の子」とされるのです。
嫌われ差別されて蔑称で蔑まれた人々でも、博徒でも、河原乞食でも、どんな身分でも、階級でも、人種でも、福音は「同じ罪人」だと言います。ところが、罪を認め、その罪を悔いて、心の中で信じて、口でキリストを告白するなら、何と、だれもが「神の国の住人」とされるのです。驚くべきことであります。
神に、神の語られたことばに、従って生きていくことこそが、私にとっては真に生きていく「道」であり、「従順」は義務ではなくて、心から湧き上がってきて従うことができるようにされます。無批判に、主君や指導者、暴君の言いなりに生きていくなら、大変な間違いをしてしまいます。「否(いな)」と、勇気を持って言える市民でありたいものです。
(竹久夢二の「曽我兄弟」です)
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