アネハヅルの飛翔を

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 『神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」 夕があり、朝があった。第五日。(創世記12023節)』

 姉羽鶴が、上昇気流の発生の時を読み、隊列を組んで飛ぶ、あのヒマラヤの高峰を飛び行く「飛翔力」を備えているというのは、創造者である神さまが与えておられに違いありません。動植物が、危険や安全を察知する能力は、生まれながらに備えられているわけです。このアネハヅルを、詠んだ茨木のり子の詩に、「鶴」があります。

鶴が
ヒマラヤを超える
たった数日間だけの上昇気流を捉え
巻きあががり巻きあがりして
九千メートルに近い峨峨(がが)たるヒマラヤ山系を
超える
カウカウと鳴きかわしながら
どうやってリーダーを決めるのだろう
どうやって見事な隊列を組むのだろう

涼しい北で夏の繁殖を終え
素だった雛もろとも
越冬地のインドへ命がけの旅
映像が捉えるまで
誰も信じることができなかった
白皚皚(はくがいがい)のヒマラヤ山系
突き抜けるような蒼い空
遠目にも賢明な羽ばたきが見える

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なにかへの合図でもあるかのような
純白のハンカチ打ち振るような
清冽な羽ばたき
羽ばたいて
羽ばたいて

わたしのなかにかわずかに残る
澄んだものが
激しく反応して さざなみ立つ
今も
目をつむればまなかいを飛ぶ
アネハヅルの無垢ないのちの
無数のきらめき

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 駅伝がブームで、とくに大学選手権のかかった箱根や出雲のレース、高校や一般、女子にまで行われています。母校や所属の市や県や企業団体の栄誉を襷に結んで、懸命に疾走しています。かつては地味な運動競技で、駅伝コースには、まばらな応援者しかいませんでした。

 それは孤独との戦いばかりではなく、自身の走力の限界ギリギリを、苦難の行者のように、走者はぎりぎりで、まかされた区間を走るのです。襷を渡して倒れ込む姿を見て、『もう二度と走らないだろうな!』と思うのは、傍観者の私たちだけで、彼らは、翌年または走るのです。車で、あの駅伝コースの箱根の山を走ったことがあります。足で走る難儀が、それで分かったのです。

 群れの先頭をゆくアネハヅルは、限界を迎えると、次に先導鶴が代わるのだそうです。群全体を見守り、その飛翔する群れは整然とし、統率されているのです。彼らには、母校などありません。誇りもないのです。神から賜った《いのち》を繋ぐために、励まし、支え合って飛ぶのです。創造者に信頼して、賜った本能を働かせて、群れで飛んで行くのです。

 私たちも、ヒマラヤのような高い山の経験があり、フィリピン海溝などの深みの体験がありながらも、激励者、慰籍者、先導者なる神さまに導かれて、己が人の道を生きるのです。肉親や指導者や友、家族に励まされ、様々があって、それらすべてが益でした。救いに預かった者の幸いをかみしめている今です。

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感謝な朝を迎えて

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 氷が溶けて、水がぬるみ、木々の梢が茶色から淡い桃色に変わってくると、待望の春が感られると思い出すのが、孟浩然の五言絶句の「春暁」です。

春眠不覚暁(しゅんみんあかつきをおぼえず)
処処聞啼鳥(しょしょていちょうをきく)
夜来風雨声(やらいふううのこえ)
花落知多少(はなおつることしるたしょう)

 この作者の孟浩然は、それほど出世欲が強くなかったそうです。泰然自若な生き方をした人だそうです。当時は、「科挙」に受かることで、人の価値とか任官の地位も収入も、決まっていました。この人は、それほど強欲に合格を願わなかったようです。「詩聖」と言われた、同時代人の杜甫が3回も受験しても、合格しなかったように、この人も三度不合格だったようです。

 困っている人を看過ごすことができないで助けたり、金品に対してはきっちりと生きた人だと言われ、総じて大らかな人だったのです。李白たち、同時代の詩人たちに尊敬され、今流、日本流に言う、『孟先生!』と呼ばれ敬意を受けていたようです。

「春眠」を、躊躇もしないで楽しめる、自然を愛し、その自然の季節の動きに応じて生きていける人だったに違いありません。当時の役人は、朝早く起き、夜遅くまで働いていた中で、任官しなかった孟浩然は、自然人のようにして生きていたのです。

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もう早寝、早起きが身についてしまって、朝寝坊など人んどしたことがない私ですが、たまには、ベッドの中でグズグズしてみたいこともありますが、なかなかできません。父親が、そういった朝を迎えていたのをみたことがありませんので、父譲りの寝起きなのかも知れません。

先日も、起き抜けに、ガタッつと地震がありました。茨城県南部が震源でした。ああ言うのが、春眠を打ち破る自然界の働きなのでしょう。磐石だと言われる建物も、耐震装置があってもなくても揺れるのです。人が積み上げ、築き上げた物を、揺らしてしまうのです。12年目を過ぎた東日本大震災の記憶が、まだ消え去りません。

建物も持ち物も、自分を支えているのではなく、「巌なる主」とおっしゃる神さまがお支えくださるのを確信し、今朝も目覚めて、新しい日を、感謝して迎えております。昨日、わが家を訪ねてくださったご婦人と、一緒に私たちは外出をして、お昼を一緒にしました。そのご婦人のお宅に咲く木蓮の花の写真を送ってくださいました。

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あ な た

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 日本語クラスで、「作文」の前期後期の講座を指導を、主にさせていただきました。教科書はありませんでしたので、一コマ一コマの教材を準備したのです。どう展開するかのヒントを、同じ街の師範大学で教えておいでの日本人教師から教えていただきました。旭川の高校で英語教師をされ、退職後、その職を得ておいででした。

 ある時、どうしようかとを思い巡らせていた時に、映画俳優の渥美清が、アフリカのロケ先から、お母さまに書き送った手紙があると言うことを知って、探したのです。ありました。

『拝啓、おふくろさま。僕、元気。』

 コメディアンだからでしょうか、文才に長けていたからでしょうか、実に簡潔な手紙を書かれていたのです。こんな無事の便りを書くことのできることを知って驚いたのです。さらに、南極探検隊にご主人を送り出された奥さまが、書いた手紙もありました。

『あ な た!(文字ひとコマ空きもquotation mark はありませんでした)』

 この方が、夫婦愛の極致、具現とも言うべき文面には、度肝を抜かれたのです。離れている距離や期間が遠く長いほど、たくさんのことばで綴りたいはずなのに、それを押し殺して、「ひらがな三文字」の手紙を書いた情愛に驚かされました。

 当時、福井県坂井市丸岡町の「丸岡文化財団」が、「日本一短い手紙」を募集していたのです。それで、私のクラスの履修者に、「短い手紙」、「三行ラブレター」などを書いてもらったのです。三年学んでいる学生への挑戦でした。その作文資料は、引越し、引越しでどこに入り込んだか消失してしまいました。ずいぶんと傑作がありました。

 1993年に、日本一短い手紙」の第一回の募集があって、今も、この手紙の募集が続いているようです。次のような文章が、受賞されています。

父さん、老人病院でも

また窓際族だね。

でも今度は、神様がよく見える

特別席だよね(お父さんへ)

 

どうせ大好きなんだから

お母さんに「愛してる」って言ってあげなよ。(お父さんへ、17才男)

 

迷ったら

笑顔がうまれる方へ、

進んで下さい。(こどもたちへ、52才女)

 

てんきんってわるもんが

せんせいをつれてった。

やっつけるから、もどってきて。(せんせいへ、4才)

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[旅に行く] 海山を渡って飛ぶ

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 身長173cm(最長期のもので今は?)、体重69.5kg(今現在)の私にとって、[体長 10cm、体重 0.5g足らず]のアサギマダラ(浅葱班目)の飛行距離が、2500kmだと聞いて驚嘆しています。もうこれは、創造主の傑作の一つだと思わざるを得ません。鶴がヒマラヤの山を超えて飛ぶと言うのも驚きですが。それよりも、この私が、まだ自転車でスイスイしてることが不思議でしょうか。

 「アサギマダラは体長4〜6センチ。春には北海道や本州北部、秋には九州や沖縄などに長距離移動する。本県では奥日光でも個体が確認されている。県立博物館などによると、今年も6月下旬に県内で飛来が確認され、お盆明けごろには南下を始める見通し。」と、「下野新聞」の2022812日号で伝えていました。

 風に乗ってひらひらと飛ぶのでしょう。その飛ぶ力、Energie は、花の蜜なのだそうです。フジバカマ、テンニンソウ、コシアブラ、モンパノキ、コスモスなどの花から吸蜜しているのだそうです。花の純粋な蜜は、私たち人間にもよいのでしょうね。
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 聖書に、蜂蜜(honey )と ミツロウ(「ミツバチの巣の滴り」と訳されています/蜜蝋/ honey corn)が出てきます。

 『それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。(詩篇1910節)』

 蜜は、甘いだけではなく、身体には有益な食べ物であるようです。アサキマダラは、それを摂取して、長距離を移動できるのです。花の蜜を求めて飛び、吸蜜しては飛んで、長距離を移動するのだそうです。[0.5g]の体に、どれ程の量の蜜を蓄えられるのでしょうか。しかも、独特な種類の花の蜜をです。

 下の息子が、自分の母親の体に好い、回復に良いと言って、[マヌカハニー(manuka honey)]を持ってきてくれたことがあります。自然天然の中に、創造主は、驚くべきものを備えておいでです。人の知恵で科学的に生成したものも、神の与えられた知恵によって製造されますが、自然界には、未加工なままに、驚くほどの物質が備わっているのです。

 身体の中に、たぶん血液や体液の中に、外部から侵入してくる有害な物質を駆逐してしまう、自然治癒の物質があって、それを有効化するものが、自然界には多くあるのでしょう。

 それにしても、アサギマダラの長い旅には、驚かされます。それを風に乗せて運ばれる、創造者の方が、さらに、私を驚嘆させてしまいます。代を替え、子や孫が同じコースをたどるのは、神がくださる《いのち》の輝きでしょう。一緒に風にのって、2メートルほどしかジャンプしかできない私は、山を越え海を渡って、飛んでみたいなと思うのです。

(「下野新聞」に掲載された写真です)
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さらなる回復を願って

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 一時期、聖書を、共に学んだ同窓のアメリカ人がおいででした。試験があると、彼はほぼ満点で、半点ほどの私との差は歴然としていたのです。その時、気付いたのは、Christianity の社会で育った彼と、自分の霊的な理解力には歴然たる差があることでした。この方は、“ Jesus Movement ” の中で信仰を持たれていたのです。私はと言うと、長く信仰生活をしてきた母から信仰的感化を受けてきてはいましたが、雰囲気だけは分かっていたのでしょう。

 霊的だけではなく、アメリカの名門の大学を出ていた彼の知的な高さもありました。奥さまは北海道の出身で、アメリカぼ大学に留学中に、お二人は出会っています。素敵なヴァイオリン奏者だったのです。日本にやって来られて、仙台近郊の街に住んでいて、その街においでの宣教師の紹介で、私たちの世話をしてくれた宣教師を訪ねて、越して来られたのです。

 上のお嬢さんが、まだ幼かったのです。45年一緒に過ごしたでしょうか。月数回のスーパーマーケットの定期的床清掃の仕事を、スタッフとして関わってくれました。彼は、自然的なことにも忠実でした。週日は、YMCAで英語を教えておいででした。ここでも能力を買われておいでだったのです。ちょうどその頃、教会堂の建設に関わっていて、母教会の姉妹の息子さんが、一級設計士で、勤めていた優良建築会社を辞められて、14ヶ月間、彼の指揮の元、建設に取り掛かったのです。

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 京都からも、宣教師のもとで、聖書を学ぶために来られた、若いご夫妻も加わって、立派な会堂が竣工したのです。母教会や近い交わりの教会から、お手伝いのために来てくださり、実に堅牢な教会堂が建設されたのです。

 会堂が竣工後、しばらくして、宣教師さんの紹介で、アメリカの東部にある教会に、ご家族で戻って行かれました。それ以来、一度家内は、姉の住む街を訪ねるためにアメリカに行った時に、このご家族を訪ねて、良い交わりがあったようです。

 彼らの帰国以来、お会いすることはできないのですが、この2、3年、ネットで旧交を温めているのです。家内の闘病に応援を送ってくれたりで感謝でいっぱいです。今は、アメリカの東部の自然の綺麗な環境の中で、定年後を過ごしておいでです。ところが先日、ご主人が病んで、この度、入院手術をされたのです。奥さまから祈りの要請があって、お互いに祈り合える交わりが戻ってきています。

 4人のお子さんたちがおいでで、お嬢さんは、私たちの二番目の娘と、幼稚園の同窓で同い年です。あの年月が懐かしく思い出されます。奥さまからの連絡で、手術後の経過は良好とのことです。若い日の一時期を共に過ごした方で、短気な私の被害者の一人でもあります。さらなる回復を願って祈っております。

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「これが道だ。これに歩め」

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 ” World  baseball classic 2023 “ tournament戦が、ABCD4つのpoolで行われ、日本は “ pool B ” で、3月9日から、オーストラリア、韓国、チェコ、中国との対戦で、東京ドームを球場に開催されています。上位2チームが、4つのpools から勝ち上がって、準々決勝、準決勝、そして決勝が行われていくのです。。

 子どもの頃、一緒にキャッチボーをしてくれるほどの野球フアンだった父は、テレビで巨人戦を観戦し、放映時間が終わると、試合の続きをラジオで聞いていました。テレビを置いていないわが家なので、ネットの ” Radiko “ で、ニッポン放送の中継放送を、父の真似をして聞いているのです。

 面白いのです。野球を知っているので、映像に頼らなくても、プレーが分かり、目で観られない分、想像力を働かせることができるわけです。選手陣は、ほとんど知ならい世代の代表選手ですが、興味津々で、ear phoneで〈聞戦(観戦ではないので)〉していました。

 お母さんが埼玉県東松山市出身で、お父さんがオランダ系のアメリカ人のヌートバー( Lars Taylor-Tatsuji Nootbaar )が、日本代表で出場しています。MLBのセントルイス・カージナルスに在籍の25才のMajor leaguer です。なかなかの人気者で、好漢のようです。

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 私たちの外孫も、野球選手で、シーズンが来ると、娘がVideo映像で、その活躍ぶりを知らせてくれていました。来年は大学で、野球チームの年配のコーチは、大学推薦を考えていて、彼に推薦進学を勧めてくれているようです。ところが、彼はあまり乗り気ではないのです。もちろん、本人が決めるべきです。

 可能性を評価してくださる、” Mature(円熟した)な指導者の言も、聞いたらいいのではないでしょうか。ここまで育ててくれた二親の率直な思いも聞いたらいいのです。人生の祝福の秘訣は、よい、” Mentor “ を得ていることです。ドイツ系なのだでしょうか、その背景の父親と、日本人の背景の母親の子として、今World classicの野球で日本代表として活躍している、ヌートバーに似た背景の彼のmiddle nameの名の提供者の、このジイジは、そうも思うのです。

 若い頃に、何度か、Mentor の必要を挑戦されたことが、私にあります。どんな心の中の赤裸々な想いを分かち合える導き手の必要性です。親、教師、先輩、友人かも知れませんが、主が備えてくださる器です。一緒の祈ってさせてくれ、なんでも言ってくれる人です。年配者、先輩、親友、さらに親、教師、祈ってくれている人の助言は、聞く価値があります。

 愛媛県に、Mentor を求めて出掛けたことが、私にはあります。人には、それが必要な時があるです。もう何年も何年も前のことでした。今は、ただ《知恵あることば》を聞いたり、また語れるように願っております。よい「選択」と、明確な「決断」があれば、『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳のうしろから、「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。 (イザヤ30:21)』と、背後から語られる主のことばを聞きわけることができます。

( "キリスト教クリップアート “ の語りかける主です)

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見つけた春

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 今日は、巴波川沿いの土手を下って歩き、市の浄化センターの脇を曲がって、県道に出て、JR両毛線の高架橋を越えてみました。キョロキョロしながら、春を見つけながらの散歩でした。

春が来た 春が来た どこに来た
山に来た 里に来た 野にも来た

花がさく 花がさく どこにさく
山にさく 里にさく 野にもさく

鳥がなく 鳥がなく どこでなく
山でなく 里でなく 野でもなく

 ウグイスの声は聞こえて来なかった代わりに、カラスが、センターの林の中で、にぎやかに鳴いている声が聞こえてきたのです。カラスだって、春を歓迎して楽しんでいるのでしょうか。素晴らしい季節の到来です。

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道すがらの春です

 

 29日に、怪我をしてから、一ヶ月が経ちましたので、昨日、整形外科医に出掛けました。治癒とのことで、〈散歩解禁〉で、今朝は総合運動公園まで出掛けてきました。

今頃、まだ小さかった子どもたちが、『春、見つけに行ってきまーす!』と出掛けて行ったのを思い出して、ジイジも、道すがらに《あった春》を見つけて帰ってきました。

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あのことのあった日米に

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 『憧れのハワイ航路!』と言った歌詞の歌がありました。終戦から3年後に流行った歌だそうですが、真珠湾攻撃をしてから10年も経たないのに、日本人が、ハワイ観光を考えることが出来たことに、日本人の不思議さを感じてならないのです。ちょうどドイツ人が、ポーランドのアウシュビッツに旅行することを、しかも憧れて観光したいと願ったことと同じに考えたらたらいいのかも知れません。ほとんどのドイツ人はしなかったでしょうに。

 それまで鬼畜米英だと言っていた日本人が、敗戦後、何年も経たないうちにアメリカ映画を観て、洋モクを吸って、アメリカ製のウイスキーを飲むことに、何の抵抗もなく、心を翻すことができるのですね。適応力がいいと言えば、それですみますが、感情が平気でついていけることが不思議でならないのです。

 新聞小説の「氷点」で一躍、売れっ子作家となった三浦綾子は、戦後、大きな心の葛藤を覚えたことを語っておられます。戦時下、小学校の教師をしていた時に、多くの小学生に、戦争を肯定したこと、そして何人もの生徒を予科練に征かせたことを悔いたのです。国の教育政策に従いながら、自分が間違ったことを教えたことに、痛恨の念を覚えたことを明かしていました。

 でも多くの人たちが、そっと口をぬぐって、平気で主張も思想も変えてしまったのだそうです。支配者や指導者が変わると、上手に追従できる日本人のことを考えますと、徳川300年の鎖国下に、『長いものには巻かれろ!』とか『寄らば大樹の陰!』と言った処世術を身に付けたからなのではないか、と考えてしまうのですが。

 数年前に、息子の結婚式がホノルルで行われた時に、それまで避けていたアリゾナ・メモリアルの戦艦アリゾナの見学を、息子の結婚を機に、実現したのです。この息子が、ハワイ島ヒロの公立高校で学んでいた時に、級友から、『真珠湾の奇襲攻撃を、どうしてくれるのか?』と責められたのです。とっさに16才ほどの息子は、『では、広島をどうしてくれるんだ?』と返したのです。50年近くも経っているのに、おじいちゃんの世代の出来事を、双方が引きずっていたことになります。

 さて、戦後の子なのに、特攻隊や予科練に憧れた軍国少年魂に燃えていたことのある私は、加害者だという意識があったので、何度もハワイを訪問しながらも、行けなかったのですが、意を決して家内を伴って息子と訪ねたのです。アリゾナ・メモリアルのステージの上に立った時、『申し訳ありません!』と言った気持ちで涙が流れて仕方がありませんでした。

 『関係ない!』と言えば、そうかも知れません。しかし、侵略の被害者の中国や韓国の人たちのことを考えますと、靖国神社を参拝する日本の首相の無配慮な心に対して、『関係ない!』と、私たち加害者の国の国民には言えないのではないでしょうか。

 戦時下に、中国大陸や朝鮮半島や真珠湾で、どんなことが行われたかを知ったら、靖国神社の前で、心の踵を返して、『本当に申し訳ありませんでした。赦してください!』と謝罪して当然ではないでしょうか。私たちの世代は、アメリカのキリスト教会から贈られたLALA物資の脱脂粉乳を飲んだ時代の子だったのです。加害者の国の善意によって、生かされたのです。 あれから何年も何年も経っています。

 忘れる努力をしていてくださる中国や韓国のみなさんの前で、国家的な過去の罪を、真に知るべきではないでしょうか。そして、心からの謝罪をすべきだと信じるのです。たいへん遅過ぎるのですが。 

(写真は、ハワイのパール・ハーバーの「アリゾナ・メモリル」) 

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[旅に行く]天なる都を目指して

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 『真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。(使徒162533節)』

 中学生の時に、「足摺岬(田宮虎彦著)」を読みました。主人公は、死場所を求めて旅に出るのです。肺病に罹った大学生が主人公でした。世をはかなむのでしょうか。失恋でしょうか、自己嫌悪でしょうか。絶望するのでしょう。死が問題解決をもたらせたり、苦悩から解放してくれると錯覚するからなのでしょうか、ある人は死を選ぶのです。

 若い人が死に急ぐ、重大な社会問題があります。特に、日本の場合は深刻なのです。自分には自殺願望はなかったのですが、時折聞く、自殺のニュースで、無関心ではいられなかったのを思い出します。小学校の遠足で訪ねた日光、その華厳の滝から、これも旧制一高(東大)の学生の藤村操が、「巌頭之感(がんとうのかん)」と言う遺書を残して、1903年、投身自殺をしたのです。16歳でした。

『悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの晢學竟に何等のオーソリチイーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨をいだいて懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巖頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀に一致するを。』

 この人の死後の4年間に、185名の人が、巌頭に立って、華厳の滝に身を投げて自殺を図っています。自殺が美化されて、後追いのようにして真似て死んでいくのも、日本的な特徴かも知れません。

 あの田宮虎彦は、1988年、76歳の時に、脳梗塞で倒れて、右半身不随になってしまうのです。大学生の頃に、死場所を求めて、土佐は足摺岬にまで行きました。土佐は、両親の出身地でしたから、特別な意味を持っていた地だったのでしょう。でも自殺を思い止まったのです。お遍路さんや薬の行商人たちの泊まる宿で、諭されて、自殺を思いとどまり、学校に戻ったのです。

 16歳の青年ではなく、七十路で老成すべき、超越すべき、全てを身に受けて生き続けるべき年齢になって、田宮虎彦は自死を選んだのです。死の問題を解決していないなら、どんなに社会的な名声を得て、大成しても、その一生に意味がなくなってしまうのではないでしょうか。

 『死んではいけない!』、これは、聖書が一貫して語っていることです。いのちの付与者にとって、それは耐えられないことなのです。苦悩しながら、煩悶しながら、懊悩しながら人は生きるのです。その中で、創造者、いのちの付与者、救い主、助け主に出会って、生きる意味を発見していけるのです。

 また聖書は、私たちを、「旅人」、「寄留者(ヘブル1113節)」と呼んでいます。この旅には到達点があることも記します。

 『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル111316節)』

 主の御名を高く上げながら、主に栄光を帰しながら、輝いて生き抜こうと願っています。生き抜いて、天(あめ)なる永遠の都に凱旋する日までです。人は、生きなければならないのです。

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