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『神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」 夕があり、朝があった。第五日。(創世記1章20~23節)』
姉羽鶴が、上昇気流の発生の時を読み、隊列を組んで飛ぶ、あのヒマラヤの高峰を飛び行く「飛翔力」を備えているというのは、創造者である神さまが与えておられに違いありません。動植物が、危険や安全を察知する能力は、生まれながらに備えられているわけです。このアネハヅルを、詠んだ茨木のり子の詩に、「鶴」があります。
鶴が
ヒマラヤを超える
たった数日間だけの上昇気流を捉え
巻きあががり巻きあがりして
九千メートルに近い峨峨(がが)たるヒマラヤ山系を
超える
カウカウと鳴きかわしながら
どうやってリーダーを決めるのだろう
どうやって見事な隊列を組むのだろう
涼しい北で夏の繁殖を終え
素だった雛もろとも
越冬地のインドへ命がけの旅
映像が捉えるまで
誰も信じることができなかった
白皚皚(はくがいがい)のヒマラヤ山系
突き抜けるような蒼い空
遠目にも賢明な羽ばたきが見える
なにかへの合図でもあるかのような
純白のハンカチ打ち振るような
清冽な羽ばたき
羽ばたいて
羽ばたいて
わたしのなかにかわずかに残る
澄んだものが
激しく反応して さざなみ立つ
今も
目をつむればまなかいを飛ぶ
アネハヅルの無垢ないのちの
無数のきらめき
駅伝がブームで、とくに大学選手権のかかった箱根や出雲のレース、高校や一般、女子にまで行われています。母校や所属の市や県や企業団体の栄誉を襷に結んで、懸命に疾走しています。かつては地味な運動競技で、駅伝コースには、まばらな応援者しかいませんでした。
それは孤独との戦いばかりではなく、自身の走力の限界ギリギリを、苦難の行者のように、走者はぎりぎりで、まかされた区間を走るのです。襷を渡して倒れ込む姿を見て、『もう二度と走らないだろうな!』と思うのは、傍観者の私たちだけで、彼らは、翌年または走るのです。車で、あの駅伝コースの箱根の山を走ったことがあります。足で走る難儀が、それで分かったのです。
群れの先頭をゆくアネハヅルは、限界を迎えると、次に先導鶴が代わるのだそうです。群全体を見守り、その飛翔する群れは整然とし、統率されているのです。彼らには、母校などありません。誇りもないのです。神から賜った《いのち》を繋ぐために、励まし、支え合って飛ぶのです。創造者に信頼して、賜った本能を働かせて、群れで飛んで行くのです。
私たちも、ヒマラヤのような高い山の経験があり、フィリピン海溝などの深みの体験がありながらも、激励者、慰籍者、先導者なる神さまに導かれて、己が人の道を生きるのです。肉親や指導者や友、家族に励まされ、様々があって、それらすべてが益でした。救いに預かった者の幸いをかみしめている今です。
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