時々、「新聞コラム」を読むことがあります。毎朝、配達されてくる新聞の紙とインクの独特の香りを嗅ぎながらではなく、ネットで読むことができるのです。全国紙や地方紙、夕刊や外国紙などが、自社の立場にたって、独特な所見を述べています。「コラム」を、gooの辞書で調べてみますと、『新聞・雑誌で、短い評論などを掲載する欄。また、囲み記事。 』とあります。どの新聞にも、「コラムニスト」と呼ばれる記者がいて、毎朝欠かすことなく書き上げておいでです。
高校の三年間、担任をしてくださったN先生が、新聞のコラムから答礼で話をしてくれたのを覚えています。慶應ボーイで英語を教えてくれました。あの頃、一番人気は、朝日新聞の朝刊の一面の広告とニュース記事の間に掲載されていた「天声人語」でした。いつ頃からでしょうか、まとめられて本として刊行されていました。わが家は、父の「巨人贔屓」によって、「読売新聞」を読んでいましたから、「編集手帳」というのがコラム名でした。友人の息子さんが、「毎日新聞」の記者になられて、そんな関係で、その新聞を購読するようになりましたが、コラム名は「余録」でした。各社のコラムを読み比べることができますし、大きな出来事があった翌日は、全国紙が一様に、同じテーマで書き上げているのが分かるほどです。それでも各社の強調点の違いが、興味深いと思ったこともありました。先月の29日の「東京新聞」の「筆洗」に、次のようなコラムがありました。
<遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし>。昭和十五年、日中戦争の報道写真を見て、新聞記者で歌人の土岐善麿がつくった歌である▼命を二つ持つ者はいない、と生命の尊さを詠んだだけなのに右翼から攻撃され、戦時下は隠遁(いんとん)生活を送る。敵国の兵士に同情したと思われ ると、袋だたきに遭う時代だった▼その時代に戻ることはないと信じているが、「嫌中・嫌韓」が声高に語られる風潮には危うさを感じる。それを政治家があ おっているのだから尋常ではない▼閣僚の靖国参拝に対する中韓両国の抗議を安倍晋三首相は「わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない」と突っぱね、「侵略の定 義は国際的にも定まっていない」と過去の侵略戦争や植民地支配を正当化するような発言を重ねた。経済優先の「安全運転」に徹してきた首相の「地金」がむき出しになってきた▼その歴史認識に米国側から反発も出てきた。米紙ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズは「歴史を直視していない。これまでの経済 政策の成果も台無しにしかねない」「敵対心を無謀にあおっているように見える」と社説で批判した▼<あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ>。戦時中は好戦的な歌もつくった善麿の昭和二十一年の歌だ。戦争は遠くなり、勇ましい声が再び戻ってきた。
とです。記事の中に引用された「短歌」を詠んだ土岐善麿は、読売と朝日に勤務した新聞記者で、短歌を詠んだ歌人でもありました。このコラムの記者は、最近の「嫌中・嫌韓」の傾向に、警鐘を鳴らしています。かつて日本の社会は、『ノー!』と言えなくなかった時代があリ、《言論統制》が行われていたことがありました。二月の帰国時に、息子と話をしていて、『ネットに流す意見も、取締まられる傾向があるんだ!』と言っていました。何でも自由に表現できない時代になってきているのかも知れません。もちろん表現する人にも責任があるべきですが。闘って勝ち取った「自由」ではないので、ちょっと危ういのかも知れませんね。「筆洗」の記者は、隣国と、より好い関係を築くことを願っているのでしょう。
(写真は、復元された「朱印船」です)