漢字を思い故郷と人を思う

.
.

 古代の中国の「四大発明」は、羅針盤、火薬、紙、印刷だと言われます。この中で、紙と印刷に関わって、忘れられないのが、「漢字」です。私たちの国には、文字がありませんでしたので、口承で意思を伝えていましたから、何が起こったか、どんなことを考えていたかの伝達や記録を残せませんでした。ところが大陸との交流の中で4世紀後半に、朝鮮半島の百済(古代の韓半島西部にあった国)から日本に、論語や千字文を記す「漢字」が伝えられてきたのは画期的なことでした。

 この漢字伝来の担い手が、王仁(わに)でした。この人が、儒教の教えなどの学問を伝えてくれ、その教えが漢字で記してあって、文字がもたらされたのです。王仁は、十五代の応神天皇の招待によって、日本に来た時に中華思想をもたらしました。私が、若い頃に出会った研究者は、この「千字文」の研究をされた方でした。

 お隣りに、高校で国語を教えておいでの先生が住んでいて、交流があります。わが家に食事にお招きした時に、国語教育の話題があって、「義」と言う文字の成り立ちについて、門外漢の私が、お話したのです。これは「羊」を頭に戴いた「我」の合字であり、人が義とされるのは、「我(私)」が、頭に羊を戴く時、神の前に「義」とされると言うのです、と。少なくとも、漢代に、漢字が作られ、編集された折には、漢民族はこの意味を知っていたと言うことになります。

 また、「北」と言う文字は、次のように国語学者が、図表で解説しています。

画像.png

 この「北」の文字は、人と人とが、背中合わせでいる様を描いていると言うのです。意見や思想や生き方の違う二人の人が、相反して、離れていくことなのでしょうか。そして人は、失恋や喧嘩別れなどによって、相手と別れて、北に逃れて行くのでしょうか。作家の五味康祐が、次のように言っています。「逃げる」を、「北げる」と表記しているのです。『通常、人は南から北に逃げるのだ!』そうで、だから「北げる」で好いのだそうです。

 また、「背く」と言う意味も、この「北」を含めての合字になっています。顔の向く方向が、正面ですから、背は、敵となって背く側、逃げて行く方向になります。そう言った行為を、「背信」と言います。「乖離(かいり)」と言う言葉がありますが、この「乖」も、「北」が文字を形成していているのです。小説や映画は、南にではなく、北の北海道を逃亡先に、よく選ぶようです。

 渡り鳥に、「北帰行」をする鳥が何種類かいます。白鳥は、暖かくなると、北の故郷に帰っていく習性があり、食糧を求めたり、次の世代を産むために、想像を絶するほどの距離を行き来をするのです。その道を誤ることなく、ほとんど同じ飛行経路を繰り返してたどるのです。次の世代も、その次の世代も同じようなサイクルで生きるのです。 

 わが家の脇を流れる巴波川に、かつての舟運で係留した「河岸(かし)」の跡が残されていて、荷を運んだと同じ「都賀舟」が、遊覧船として観光客を乗せるのです。最近は、とみに観光客が増えてきていて、週末は、とてものにぎわいです。この時期、観光客の投げ与える餌を求めて、鴨が賑やかなのです。彼らも渡り鳥で、たまに留鳥がいますが、北帰行の時期には、川面にいなくなってしまうと寂しいのですが、また戻ってくるのが楽しみになっています。

.
.

 文字が渡来する以前から、この鴨たちも、幾く世代にもわたって、故郷とこことを行き来していたわけです。その習性を、創造者が与えたのは、自然界の神秘でもあります。危険を伴う渡りをする彼らは、あんな小さな体で、よくするなあと思うのです。私にも帰っていく故郷があります。生まれ故郷ではなく、古来、そこへの帰還の約束に励まされて、創造者なる神さまを信じ続けてきた人が多くいて、そう願ったのです。聖書に、次のように記されてあります。

『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(新改訳聖書 ヘブル11章13~16節)』

 私たちの死は、人生の旅を終えて、この故郷への帰還だと信じています。どこか暗く不安な世界を彷徨うのではなく、本物の「故郷」に帰ることなのでしょう。独身の頃から、何かあると週日や、夏期や冬期の休みに訪ねてきて、色々と出来事を話してくれ、感謝な交わりをしてくれた兄弟がいました。桃やさくらんぼを栽培している実家から、時季の果物をよく持参してくれた方でした。昨秋も美味しい桃を送ってくれたのですが、一週間ほど前に、召されたと知らされたです。この約束の故郷にお帰りになったに違いありません。あの時々の素敵な交わりに感謝している夕べです。

(“ウイキペディア”による牛骨に記された漢字の原型、巴波川のカモです)

.

蠢動の季節の到来が

.

.

 「陸蒸気(おかじょうき)」と、わが国で呼ばれた蒸気機関車は、1814年、イギリスで、鉱山で採掘した鉱石を運ぶために、リチャード・トレビシックによって、産業革命期に発明され、工業用の資材の輸送に活用されています。1830年には、リヴァプールとマンチェスター間に、人を乗せて運ぶ「旅客鉄道」が開業されています。

 人車鉄道や馬車鉄道などに替わる、新しい動力が使われて、世界は一大変化を遂げていきます。輸送の量も質も格段の差が見られ、瞬く間に世界大に開ろげられていきました。栃木県下、とくに、ここ栃木市でも、鍋山から産する石灰が、人力によって鉄路の上を運ばれる貨車があって、私たちの住むそばを通っていたのだそうです。

 日本では、明治5年(1872年)に、お雇い外国人の指導を得て、明治維新政府の肝入りで、新橋と横浜(桜木町)間で、この蒸気機関車が、明治天皇を乗せて走って、華々しく開業しているそうです。これに端を発して、瞬く間に日本全土に鉄道網が増え広げられていきます。

 作詞が、大和田建樹、作曲が多梅稚の「鉄道唱歌」が、機関車が牽引する列車が、日本全国の町々を結んでいく様子を唄っていくのです。

汽笛一声新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕(あたご)の山に入りのこる
月を旅路の友として

右は高輪泉岳寺
四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる
名は千載(せんざい)の後までも

窓より近く品c川の
台場も見えて波白く
海のあなたにうすがすむ
山は上総(かずさ)か房州か

鶴見神奈川あとにして
ゆけば横浜ステーション
湊を見れば百舟(ももふね)の
煙は空をこがす

.
.

 この日本国有鉄道の勢いは、大陸中国でも、旧満州の大連と奉天(現在の瀋陽です)間で、撫順の石炭の輸送のために、南満州鉄道が敷かれていきます。その鉄路の上を、当時、世界最速と言われた「ハシナ号」と呼ばれた蒸気機関車が牽引した「亜細亜号」は、満鉄の誇った、日本の中国大陸進出と支配の大動脈となったのです。

 そのように大陸支配を続けましたが、戦争に負けて、一切のものを残して日本は、大陸から引き揚げることになったのです。王道楽土の夢は潰(つい)えてしまいました。当時の若者が夢を求めたのでしょうか、私の父親も、若い時に玄界灘を越え、外海を渡って、満州の地で過ごしています。

 敗戦のつらい経験を通った日本は、戦争の終わった後、平和憲法をいただいて、平和産業に従って、復興していきます。その際たるものが、1964年に開催された「東京オリンピック」の年に、それに併せて開業された、「東海道新幹線」でした。夢の超特急は、敗戦から立ち上がった標(しるし)のような思いを担って、東京と大阪を結んだのです。

 「禊ぎ(みそぎ)」と言う言葉があります。過去の罪や穢(けが)れを洗い清めるための神道(しんとう)の行事で、白装束で水ごりをとることを言っています。新幹線の車両を設計したのは、三木忠直さんでした。戦時中、「桜花」と言う戦闘機を設計した人で、多くの若者が、それに搭乗してアメリカの軍艦に体当たりをさせたことへの悔いの思い、禊の思いを込め、平和利用の化身のように、新幹線の車両を設計したのだそうです。

 自分は、61才で責任を負っていた教会を退職し、隣国の学校で日本語を教える機会を得たのです。出掛けて行って出会った方の推薦で、『日本語を教えて欲しいのですが!』と、言われてでした。そこで、またとない機会を頂いたのです。日本語の文化・政治・経済の講座と、作文指導を担当させて頂きました。日本人を「日本鬼子ribenguizi」と蔑(さげす)んだ反日教育を受けてきた中国の若い人に、侵略の過去をお詫びして、教壇に私は立たせていただきました。そして日本が開発し、その技術を導入して始まった中国新幹線の背景にある、日本新幹線の車両の設立者の戦後の思いを伝えたくて、三木忠直さんを、みなさんに紹介したのです。



 父も戦時中、戦闘機の防弾ガラスの原料の石英採掘の国策事業に携わって、侵略の一端を担った過去がありました。父が軍からの俸給で、ミルクを買い、産着を着せられて育てられた私の思いに、中国の町々に爆撃機が爆弾を投下して、夥しい数のみなさんを死なせ、街を破壊したことへのお詫びの思いが、強く若い頃からありました。それで、いつかそれを実現しようと思っていたのです。それが、まさに叶ったわけです。

 学生さんたちは、『你没有責任nimeiyouzeren(先生には責任がありませんから、ご自分を責めないでください!)』、と言ってくれました。でも自責の念が私には強かったのです。その教えの学生さんたちからの反響は、かなり大きかったと思います。それは、大学のクリスチャンの先生方の秘密裡に行われた聖会でもお詫びしたことでもありました。

 そんなことをさせて頂いた大陸の13年を、今朝、思い出しています。春になって、芭蕉のように「漂白の思い」が、フツフツと湧き上がってまいります。ポッポーと汽車に乗って、と言っても汽車ではなく電車でしょうか、県北においでの同世代、同業の知人を訪ねたいとの思いが長く温められています。また、子どもたちの住む街も訪ねたいな、と思う、人や虫や電車でさえも動き出す「蠢動(しゅんどう)の季節」になったようです。

(“ウイキペディア”による車両の写真です)

.

麗な春がやってきて

.
.

 晴れやかで美しいという意味の「麗(うらら)の春」、弥生三月の始まりです。やけに寒く、日本海側や北海道には、例年にない降雪の多さで、難儀された年末年始でしたが、もう春です。月末に始まる甲子園の時期にさえ、雪が降ったこともありましたが、やっとの春でしょうか。

 父も母も上の兄も、早生まれのこの月に生まれています。望まれなく生まれた両親でしたが、それぞれの定められた時に、主なる救い主に出会って、永遠のいのちの書に、その名を記されることが叶ったのです。兄は大きな期待のうちに、この両親から生まれたことでしょうか。いのちの創造者、支配者、付与者には間違いがありませんので、父と呼ばれた神さまに期待されての誕生だったのです。

 もうすでに家内は、春をみつけに出掛けて、探し当てて帰って来ました。13年、共に過ごした隣国は、春待望の強烈な人たちの国でした。火薬を発明したこの民は、それで「鞭炮bianbao🧨(爆竹)」を作り出し、まだ春には遠い時期に、それを打ち鳴らして、貧しさや寒気を追い払ったのでしょうか。あの炸裂音は、春待望の叫び声なのです。

 北の街で、気象台への道を歩いていた時に、足元で、爆竹の炸裂音で驚かされるとともに、真っ赤な紙片が飛び散り、火薬の匂いが立ち込めていました。夕方、外国人アパートに帰ると、今度は路地で、今度は花火を打ち上げに直面したのです。高度を取れない花火は、七階の窓の真横で、破裂音と共に炸裂して、火花が飛び散るのです。『こんな所で、花火を上げないで!』と言えないままでいたた思い出です。

 この春節の時期には、花火や爆竹を売る店の周辺で、爆発事故が起こり、火が燃え移って延焼してまう事故が、中国中で起こるのが常でした。それでも売って、買って、火をつけて春を喜ぶのです。長女が10年ほど住んでいたシンガポールで、この春節を迎えたことが、一度ありました。中華街の周辺は、大きな太鼓を積んだ車が練り歩いて、それを打ち鳴らして爆竹の代替にしていたのです。

.

.

 〈所変われば品変わる!〉で、さすが治安の良いシンガポールならではの春節だったのです。その街に、甘粛省の「蘭州拉麺」の手延べ実演を、店主が見せてくれる有名店がありました。娘の贔屓の店で、美味しいのです。初めて行った時に、両親だと紹介してくれて、その店長が撮ってくれた写真が、店の壁に貼られていて、来店記念にしてくれているのです。

 その商店街の中には、広東省や福州省などからの移民の歴史館があって、「苦力kuli」のみなさんの生活ぶりが、振り返られて展示されてありました。その出稼ぎや移民のことについて、一人の姉妹の親族の「兄弟愛の話」を聞いたことがありました。もう退職をしていた元大学の先生が、教会の姉妹の故郷に招待してくださって、私たちを暖かく迎え入れてくださって、食事会を催して親族の交わりの中で、その会食中に、こんな話をしてくれたのです。

 「打工dagon出稼ぎ」先のシンガポールから、お兄さんの送金で、大学に行くことができ、大学院にも進んで、大学教授になれたという美談でした。激しい労働に耐えて、得た収入を送金し続けてくれたお兄さんに、とても感謝して、そう話してくれました。そう言った話が、教会の他の愛兄姉に幾例かあったようです。

 春が来ると、この爆竹や花火、シンガポー風の春節の様子が思い出されてまいります。日本とは違った春を愛でる様子は、とても新鮮でしたし、ある面では羨ましくも思えたのです。貧しい過去があって、民族民族の歴史性があって、春待望の様子の違いがあるのでしょう。私たちにとっても、家族が与えられて、いっしょに寒い季節を越えて、やってきた春の思い出は、新しい決心を持って、それぞれの世界に出立していった、四人の子どもたちの姿が、懐かしく思い出されてまいります。

 多難な世界情勢の様相を見せております。希望に溢れる、いのちの再生と躍動の弥生三月、春の始まりを期待して迎えたいものです。祝福をお祈りいたします。

(“いらすとや”の爆竹、“ウイキペディア”のシンガポールの中華街です)

.

明治の世のボランティア

.

画像.png

.

  私たちの住む建物の西側に、明治初年に、写真館を始められて、今では五代目が営業をされておいでの写真館があります。初代は、日光東照宮を警護する役割を担った、日光勤番の武士だったそうです。明治の維新で、職を失った初代は、写真技術を学んで、初めは宇都宮で開業したのですが、県庁が栃木に移ったのを機に、ここ栃木に店を移したのです。

 幕末に、日光東照宮を守るために、命をかけて攻めくる薩長の官軍に、勇敢に立ち向かった一人が、この館主の片岡如松さんで、明治維新後、巴波川の河岸で、写真業を始められたのです。日露戦争が勃発して、ここ栃木からも、何人もの兵士が出征して行ったそうです。その兵士の出征記念の写真を、この方が撮影しています。その他にも、栃木の街の様子を、代々受継いだ館主が撮り続けてきました。

 明治期に、この街で、社会的な弱者に対して、国家施策としての援助が、今のようになかった明治期に、「喜捨函(きしゃばこ)」という箱をリヤカーに載せて、篤志家が街中の各戸を訪ねて歩いて、紙や布を求めて歩いたようです。その集められた物をお金に換えて、生活に困窮した貧窮者や寡婦や孤児のみなさんに配って支えていた方が、ここ栃木においででした。

 初代の片岡如松さんご自分が、戊辰戦争で戦った武士でありましたから、出征兵士の武運長久を願って、精いっぱいにシャッターを切って撮影したのだそうです。この写真館に一様の写真が残されています(片岡写真館蔵)。「栃木婦人協会 喜(七を三つの漢字です)捨函」と木製の箱に墨書された箱を載せて、リヤカーで曳く男性が写っているのです。その方が穏やかな目をした、冒頭の写真の平岩幸吉氏でした。

 この平岩幸吉さんは、安政三年(1856年)に、江戸の日本橋の裕福な米問屋の子として生を受けましたが、13才の時の明治維新の激変にあって、家業がつぶれてしまいます。その変化について行かれずに 、生活が定まらずにいて,とうとう23歳で家を追い出されてしまいます。それで知り合いのいる,ここ栃木に移ったのです。心を入れ替えた幸吉は、巴波川の辺りで料亭を始めます。

 商売は順調で、39才の時に結婚をし、養子をとります。落ち着いた44才で塾に通い、学問をし始めるのです。塾頭の久松義典から、「窮民救護」の考えを学び、その教えを実践し,救済団体を興し、栃木婦人協会も興すのです。あの「喜捨函」のリヤカーを曳いて、遠くまで出掛けるようになるのです。

 明治22年になると、両毛線が開通すると、それまで盛況だった舟運が斜陽になって、栃木の町の景気が悪くなり、病気をしても医者に診てもらえない人や老人や寡婦などの生活が急に悪化して、問題が生じ始めたのです。そこでやち上がって,困窮者を助け始めたのです。郷土栃木の誇る逸材の一人が,弱者救済に奔走したにが、この平岩幸吉です。この写真を撮られた方から五代目の後継者が,私たちのラジオ体操仲間です。昨秋,岩魚を釣られて届けてくださいました。美味しかったのです。

過去が変えられる秘訣が

.
.

 イギリスでもドイツでも、欧州リーグで、女子サッカーが大人気のようです。ことに157cm、47kgの長谷川唯選手は、マンチェスター・シティ・ウィメンズ・フットボールクラブManchester City Women’s Football Club)のMFでチームの中心の動きを担っているのです。もう二十代後半で、驚くのは、黄色や赤色のカードのペナルティーがないことです。

 このサッカーに「PK」とか「GK」があるのをご存知と思います。サッカーのペナル・ティーキックやゴール・キックのことではありません。「パスターズ・キッヅ」の略で、「牧師の子」と言う意味で、「PK」があります。また「宣教師の子」のことを、「MK(ミッショナリーズ・キッヅ)」とも言うのです。

 これらの呼称は、教会用語の隠れた一部で、時には皮肉や軽蔑や非難を込めた言い回しで用いられることもあるようです。牧師さんや宣教師さんは、教会で高い所から説教をするけど、『家庭での子育てでは失敗者だ!』と言う酷評が込められているのです。でも、多くは、そのままでは終わらないのです。

 アメリカ大陸の太平洋沿岸部の大きな街の牧師に、3人の息子がいました。その十代だった長男は、その街の札付きの悪だったのです。自動車は盗むし、ありとあらゆる悪をしていて、警察に捕まえられては留置されることを繰り返していたそうです。地元の警察からは、厳重な監視をされていた少年だったのです。

 「ウエストサイド物語」は、ニューヨークのポーランド系とプエリトリコ系の非行少年の両グループの抗争の物語を、ミュージカル風に映画化したのですが、アメリカの社会問題を取り扱ったものでした。十代の少年たちの非行は、西海岸にもあったのです。東京にも大阪にも、そんなことがあったお話をよく聞いたことがあります。

 ところが、太平洋戦争に従軍して、帰還してから、彼は、急激な心の変化を見せて、悔い改めて、信仰が恢復されたのです。幼い日には、可愛い教会の子でしたが、心に植え付けられた良い芽は、温存されていて、この若者を恢復させたのです。.

 牧師の子は、自動的にクリスチャンにはならないのです。この方は、死線を超えて、生死の危機の中で、さまざまな心の葛藤を経て、主のみ前に謙らされた時、札付きのヤンチャさは消えてなくなり、元の鞘(さや)に収まったのです。

 最善な恢復の業がなされるのです。そして彼は宣教師となって日本に来ました。「選び」とか「予定」を信じない人は、そんな十代を生きた者を、宣教師に選ばれる神に、轟々の非難をぶつけて、躓いてしまうことでしょうか。それとも、神の恵みや憐れみの驚くべき深さを認めることでしょうか。どうも「放蕩息子の物語」は聖書の中にあるだけではなさそうです。

 ご家族にも、そして私たちにも、十代の所業の影一つ見せなかった謙遜さに溢れていたのが、この方でした。柔和そのもので、長年付き添った奥さまも、もちろんお子さんたちも全く気づかなかったほどだったのです。そんな宣教師さんは、私たち家族を招いてくださって、祝福の交わりをさせて頂いたのは、二度や三度だけではありませんでした。お宅のテーブルを囲んで、食事をしたり、交わりの中で、至福の時を過ごさせて頂いたのです。

.
.

 この方が、天のふるさとに帰られ、アメリカに亡骸が軍の飛行機で戻って、母教会で、改めて葬儀が行われたのです。その時に、一緒に十代の時を過ごした弟さんが、この方の過去を、そう語られたのそうです。熱心な宣教師やよい夫を、彼が演じたのではないのです。すっかり変えられたわけです。この方に5人のお子さんがいます。異口同音、『素晴らしいパパだった!』とお父さんを懐かしんで言うのです。

 みなさん、牧師になったり、教会の中心的なメンバーとなっておいです。素晴らしいことであります。あんなに柔和だったけど、『パパは、とてもいたずら好きだったのです!』と、ご子息が言っておられました。

 人は変えられるのです。神さまに、変えられない人はいません。それが、神さまのお仕事だからです。どんな過去があってもいいのです。虐待されてもレイプされても、指を詰めても刺青をしても、警察に目を付けられでも、どんな過去があっても、イエスさまは、すべてを赦し、傷跡でさえも消して、快復させてくださるのです。

『・・ご自分の血によって民を聖なるものとするために(新改訳聖書 ヘブル13:12)』

  イエスさまは十字架で血を流してくださったのです。どうしようもないほどの汚れた私たちを、「聖なるものとするために」でした。感謝なことです。さあ、すべてのPKもMKも、そしてだれでもが、「GK」になることが出来るのです。「GK」って、ゴール・キーパーのことでは、もちろん違っていて、「ガッズ・キッズ(神の子)」のことです。

 人が救われるのは、ただ恵みによるからです。ただ赦され、恢復された人に残るのは、感謝なのです。救いの喜びです。栄光化への望みです。なんと驚くべき恵みではないでしょうか!〈長谷川唯も、最近よくスタメンなどで出場してる、若干20歳の藤野あおばも、直向きさがいいね。男子にない素直さ、隠れた闘志がいいね。反則や凶暴さがないのがいいかな。〉

(“いらすとや”のGK、ミモザです)

.

春の陽光に誘われて

.

.

 京都の同志社大学を起こした新島襄は、江戸の上屋敷で誕生していますが、お隣の上州安中藩の武家の出でした。子どもの頃から、街中や田舎にある神社に祀られている神が、神だとは思わないでいたそうです。蝦夷の函館からアメリカへの密航を果たして、香港に行く途中、中国船の中で、漢訳聖書を読みます。その巻頭に、『起初神創造天地』とあるのを読んで、『神いるとしたら、この方が神だ!』と思ったのだそうです。

 この新島襄は、在米中にキリスト信仰に預かり、帰国してから、同志社を開学します。彼の伝記の中に、その開学の経緯が述べられています。当時の文部大臣の森有礼の目指した教育方針は、《軍隊式の徳育教育》でした。やがて日本が軍国主義化していく発端となるのですが。そういった動きの中で、一人の青年の思いに、危機感を覚え、そう思いの中に働かれたのは、主でいらったに違いありません。

 アメリカのアマースト大学で学んだ新島は、私立学校を建てる必要性を強く感じたのです。『青年は天真爛漫であるべきである!』との信念から、青年の自主性や能動性を育てる《自由教育》をしていきます。彼自身が、自由と自治の国、アメリカで学んだからでした。私は、この新島襄の大学に入りたかったのです。

 実は、中学の修学旅行で、京都と奈良を訪ねました。日本のことの佇まいは、関東とは違っていて、物珍しいものがあって、同じ日本でもその違いに驚いたり、強く惹かれるものがありました。二条城の広さや、龍安寺の石庭、清水の舞台、鴨川の流れ、古代建築の法隆寺の広大さなど、日光や鎌倉とは、また様子が違っていて、二、三日の歴史的な様子に、中学生ながら魅了されたのです。それで、『また来よう!』、中学3年、14才の私は、そう決心したほどでした。  

 ところが、中学生の感動は、日常生活に戻ると、すぐに忘れ去られてしまいました。なんとなく運動部に所属しながら3年が過ぎ、系列の高校に進学したのです。三年になって、進学を考える段になって、ギターを肩にかけて楽しそうに輝いた、B大に進学した2年先輩に久し振りに、駅で会って、その学校の様子を聞いたりしたのです。

 そのアメリカ人宣教師の設立した学校の入学案内を取り寄せて、読む内に、京都の同志社志向だった私の願いは、いつの間にか入れー変わってしまい、親元から通える、その学校に決めてしまったのです。その学校に、入学させてもらえました。けっこう、その4年間は、泣いたり、笑ったり、そして楽しく過ごさせてもらったのです。『猛烈に勉強をした!』と言うよりは、残念ながら、アルバイトをしての社会勉強をした年月でもありました。

 でも、本をよく読んだり、渋谷や新宿の喫茶店で、未熟な考えで自己主張のぶつかり合いや、新しく違った物の考え方に感心したり、議論したり、納得したりした時が楽しかったのです。同志社ではなかったのですが、それなりに心が高揚したり、落胆したり、将来に夢を繋いだり、意義深いものの有った4年間だったでしょうか。

 未熟で、何も知らなかった自分にとっては、世間の広さを知らされた時でした。思い出してみますと、その新しい人や考えとの出会いは偶然ではなく、基礎づくりの年月だったようです。どの時代の若者が通る道筋だったのでしょうか。人の考えや思いをはるかに越えて、そのすべての歩みに意味があったように感じるのです。青年期の仕上げに、創造主を信じることができて、自分が「神の子」とされたのは幸いでした。自分の生涯に起った、すべての出来事に、意味や価値のあったことが、今は分るのです。

.
.

 新島襄の青年期の転機が、彼の生涯を導き、祝福し、有為な青年たちを教育し、キリスト信仰へと導いたことは意味深かったわけです。明治の初期には、信仰の自由はありませんでした。切支丹伴天連、耶蘇教は、まだ江戸期に続いて、禁教だったのです。そんな中で、新島襄が、大胆にもキリスト教主義の学校を、京都に起こしたことは驚くべきことでありました。

 新島襄の夫人になった八重は、隣県の福島の会津藩の武家の家の出身で、父親は藩の砲術師範でした。日本を変え、欧米諸国に追いつこうとした官軍に対して、女だてらに、スペンサー銃と刀を手に立ち向かい、「幕末のジャンヌ・ダルク」と言われた武家の娘の八重でした。新島襄と出会って、キリスト信仰を共有して、同志社の建学の助け手となっていきます。明治期には、「日本のナイチン・ゲール」と称されたほど、日清・日露の戦争時には看護活動に奔走した、「赤十字精神」に立った明治屈指の女性でした。

 今も、教育の行方に、また若者の価値観や生き方やあり方に、大きな変化がありそうです。この21世紀にも、聖書の巻頭言を読んで、信仰を持つ信仰者たちが生まれて、明日の日本を変えていく人が起こり、二十一世紀の新島襄や新島八重が起こることを願う、2026年の早春です。

 その会津には、弁慶や義経がなめたと宣伝する「五郎米飴」が、今も名物としてあるのだそうです。そうしますと、八重もなめたのかも知れません。安中や京都へも、そして東武日光線、鬼怒川線、野岩鉄道線、会津鉄道線を乗り継いで、会津にも行ってみようかと誘われる春の到来です。

(”ウイキペディア“の会津若松市の市花の立葵、安中市の市花の梅です)

.

四代目もクリスチャンです

.
.

 『ぼく、イエスさま、だいすき!』と言った幼かった息子に、『お母さんもイエスさま、大好き!』と答えると、『じゃあ、イエスさまを半分ずつだよ!』と答えが返ってきました。

 大好きなイエスさまを、母親に取られたくなかったのか、何時でも分け合わなければならない、4人兄弟の中で育ちながら、学んだので、愛して大好きなイエスさまを半分ずつに分け合うことを提案したのかも知れません。子どもって、本当に面白いですね。

 聖書の中に、「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若いときの子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は・・(新改訳聖書 詩篇127・3~5)」とあります。

 私たちに、4人の子どもがあることを聞かれた方が、思わず『ブッ~!』と笑われたことがありました。その時の雰囲気からしますと、軽蔑したと言うよりは、意外だったことと、二人の子のお母さんの目からは、『ちょっと多すぎるんじゃあない!』と言った思いからの笑いだったと解釈しています。この方のご主人は、中堅企業の部長をされていて、重役でもありました。

 ところが、私はパートで働きながら牧師をしていたのです。『我が家では収入が少ないから、子どもを育てることが出来ないのです!』と言われる方がいて、子どもを持たないようにしておいでです。それででしょうか、昨年度、一人の女性が生涯に産む子供の数が、《1.15》だと、@ネットで報じていました。

 私たちは4人の子どもを与えられたと信じているのです。決して自分たちで計画して産んだのだと思っていません。詩篇の記者が言うように、子どもは「賜物」で「報酬」だと信じているのです。もちろん経済的な理由だけではないと思いますが、この少子化傾向は、さらに『加速していく!』と危惧されています。

 もう大分前になりますが、私の「矢筒」の中にある子どもたちで相談したのでしょうか、親を心配して、長男からは、e-mailで長々と問い合わせてきました。また長女が代表して電話をくれました。『お父さん。これからは、もっとリラックスして生きたらいいよ。私たちはお父さんが分かっているんだ。』と言ってきました。そして最近では、老いて病気がちになっている私たちの終わり方についていろいろと、子どもたちが言ってくれています。

 彼らには、とうの昔から、私の弱さが理解されているのでしょうか。『可愛い子には旅をさせろ!』と言われたように、彼らを遠くにやって、生活させたことは、よかったのだと思うのです。でも一番の喜びは、彼らが、主を恐れて生きることを知って、主が、いまだに大好きなことであります。 

 片道の燃料だけで飛んで行って、復路の可能性を断ち切った神風特攻機のような生き方ではなく、十分な燃料を積んで、帰って来ることも、他の土地に移動することも自在に出来るような、柔軟性のある生き方を、私の老後にして欲しいと願ったのだと思うのです。私が憧れた生き方が、まだ続いているのでしょう、それを心配しているようです。

.
.

 本当に、『そうだ!』と思いました。これまで、だいぶ肩を張って頑張り過ぎて、生きて来たかも知れないからです。娘は、『お父さん。人にお願いすべきことは、謙ってお願いすべきだと思うわ!』、と自分の責任だけで立とうとしている私に忠告してくれたのです。『負った子に教えられ』ています。

 『みんなで大好きなイエスさまを分け合うことにしよう!』と、今度は、この私が願わされ、提案しているところです。もう、今では私たちの話題n中心になってきているのは、孫たちのことなのです。大学生になって今年、彼らは、4年、3年、2年、1年になるのでしょうか。

 それよりも何よりも、双方のひいおばあちゃんから「四代目」になるのでしょうか、孫たちが教会での奉仕に励んでいて、信仰が確かに据えられているのを知って、大満足の今なのです。学生会で証詞をしたり、教会のジャニターを有給でしていたり、CSの教師をしたり、礼拝での賛美リードや楽器演奏したりしているのを聞いて、感謝でいっぱいの今であります。

(“ある信徒”さんのチャットからです)

.

二様の燃える火に

.

.

 ずいぶん冬場にしたのが、焚き火でした。落ち葉や枯れ落ちた小枝を集めて焚き火をし、燃え終わった灰や小枝の燃えかすの中に、濡らした新聞紙にくるんだサツマイモを入れて、焼き芋にしたのです。焼き上がるまで大人が火の番をしながら、みんなでゲームをしたのです。その間に焼き上がった焼き芋を、美味しく食べるのが、みんな好きでした。そう教会学校のハイキングで、よく山の中でやったのです。

 今時だったら、山火事になってしまう危険性があって、許されないのでしょうけど、まだ、そんなことができた時代でした。火を作る前に、大きなバケツに何杯も水を入れて、燃やす火の脇に、消火のために置いておくのが常でした。

 新聞紙をむいて、燃えかすの中から出てきた焼き芋を子どもたちに渡して、食べ始めると、みんなニコニコして、食べ急いでいたでしょうか。自然がイッパイにあふれる中で、加工して砂糖ばかりの甘いお菓子ではない、自然食のサツマイモを食べるのは、大喜びでした。いつ頃からか、バーベQが流行り出して、肉を食べることが多くなって来ましたが、祖父母の時代からの、冬場のおやつの定番の味は、子どもたちに覚えさせたかった味覚の一つだったのです。

 今住んでいます家の南の方に、渡瀬遊水池があって、毎年、芦焼きが行われ、その煙がたなびくならいいのですが、押し寄せてきて、煙だけでは無く、燃えかすが飛んでくることもあるのは、遊水池の保全にpのために違いありません。でも北側に住む者には困ったものです。今年も、3月の初めに行われるとの知らせがありました。

 作詞が巽聖歌、作曲が渡辺茂に「たきび」です。

1 かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
きたかぜぴいぷう ふいている

2 さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
しもやけ おててが もうかゆい

3 こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
そうだん しながら あるいてく

 大人たちの間で、焚き火倶楽部があるのだそうですね。焚き火愛好家たちのサークルで、互いに情報交換をしているのでしょう。もう40年もしていませんが、メラメラと燃え上がる炎は、いのちの躍動を感じるのですが、この火には別の意味もあるようです。

.

 ゴスペル歌手の岩淵まことさんの作詞作曲の賛美に、「父の涙」があります。この方をお招きして特別集会をもったことや、国会で行われていた朝祷会のゲストに、この方が招かれて、  この歌を賛美してくださったこともありました。

1.心にせまる父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎていく

十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛

2.父が静かに見つめていたのは
愛するひとり子の傷ついた姿
人の罪をその身に背負い
父よ彼等を許して欲しいと

十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛

 この賛美には、最愛のお嬢さんをご病気で亡くされて悲しみの中で、御子を十字架に死なせた父の神の悲しみに合わせて、娘を、ガンの病で亡くした父として、 岩淵さんが作詞作曲されたものであったと聞いたことがあります。罪なき清いイエスさまが、信じる者たちの罪を、その身に負われて、罪となられて、身代わりの死を遂げられた、最愛の御子を失った神さまの悲しみは、どれほどか想像もできません。

 人の罪が、燃える火のようだと言いますが、今季は、太平洋側は雨が少なく乾燥していて、山火事がちらこちらで発生して、収まらないでいるとニュースが伝えていました。まさに焼き尽くす火は、人の罪のようだと歌われている、この賛美を思い出したのです。まさにその通りで、一度罪に身も心も任せてしまうと、燎原の火のように燃え広がって、消しようがなくなってしまうのです。

 そんな罪深い私たちをを救うために、神の怒りの火の中に、イエスさまは飛び込んでくださったのです。また、聖霊は火の炎ように、五旬節の日に、弟子たちの上にくだられ、聖霊のバプテスマを受け、その圧倒的な力をいただいて、教会が誕生していきました。(使徒行伝2章)。人を罪から救い贖うためでした。これを、火のバプテスマと言うのでしょうか。今も世界中の教会の中に、聖霊なる神さまは臨んでおられるのです。

(“ある信徒”のチャットから、“いらすとや“の焚き火です) 

.

隠れた善行の行方が

.

.

『人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(新改訳聖書マタイ6章1〜4節)』

 もう何年前になるでしょうか、1970年代の初め頃だったでしょうか、山陽線の姫路駅で乗り換えて播但線で、生野駅で下車し、近くの宿舎を会場に、夏季聖会がもたれました。それまで関西方面に行くことは、母の故郷の出雲に行っただけでしたが、その生野で4日ほど過ごしたのです。もう60年も前のことになります。この生野は、平安期に始まった、銀の採掘がで有名で、江戸期には、徳川幕府の有数の財源でした。銀鉱脈が尽きると、錫や銅の採掘が行われた、佐渡や石見に並ぶ有名な鉱山町でした。

 この町の出身で、一人の映画俳優の話を最近聞きました。自分の父親よりも少し年配の方で、映画産業の隆盛の頃に、名優として活躍されて、主に脇役として、主役を盛り上げ支えた稀代の映画スターだったのです。その名が、志村喬でした。1905年(明治38年).に、この生野で生まれておいでです。お父さんは、その生野で働いた鉱山技師だったそうです。だからでしょうか、燻し銀のような演技をされて、大向こうを唸(うな)らせ、若かった自分も唸った一人でした。

 東宝の二十周年記念映画「生きる」で主役を、この志村喬が演じたのです。それは名作映画の一つとして有名で、主人公は、何と30年もの間、無欠勤で、その生真面目さのゆえでしょうか、抜擢されて市民課長となっていた渡辺勘治でした。来る日も来る日も、山積みにされた書類に、判を押し続ける公務員の姿を演じ、無気力で、惰性で、バカ丁寧に職務を行う初老の男を、志村は演じていました。

 勤務先の用があって有楽町にあった旧東京都庁に、二十代の初めだった自分は 行ったことがありました。その時に、待たされている間に、そんな映画に似た、判を押したような光景を、事務所で見た覚えがあるのです。市役所で、課長になれる平均的な年齢は、50歳前後ほどなんだそうです。渡辺は、市役所で30年間、よく揶揄される言い方で、「怠けず・休まず・働かず」と言われる地方公務員役を演じ、それは志村47歳の時 の出演でした。老け役を演じ切ったのです。

 ある日、市民から、「小公園建設に関する陳情書」がありました。渡辺課長が、その案件を担当することになるのです。市民の苦情処理に、日夜煩わされていた彼は、医者からガンの宣告を受けていた身でした。きっと、生涯最後のご奉公と思ったのでしょうか、街角の公園を建設する仕事に専念、市民のために、そして自分の最後の奉公に奔走します。

♭ いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、
朱(あか)き唇、褪(あ)せぬ間(ま)に、
熱き血液(ちしほ)の冷えぬ間(ま)に
明日(あす)の月日(つきひ)のないものを。

いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、
いざ手を取りて彼(か)の舟に、
いざ燃ゆる頬(ほ)を君が頬(ほ)に
こゝには誰(た)れも來(こ)ぬものを。

いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、
波にたゞよひ波の様(よ)に、
君が柔手(やはて)を我が肩に
こゝには人目ないものを。

いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、
黒髪の色褪(あ)せぬ間(ま)に、
心のほのほ消えぬ間(ま)に
今日(けふ)はふたゝび來(こ)ぬものを。♯

(作詞が吉井勇、作曲が中山晋平です)

 映画の最後の場面でしょうか、渡辺課長が、この「ゴンドラの唄」を口ずさみながら、公園に設置したブランコをこぐのです。公園の完成を喜び、笑みを交えながら、幼児になったように静かに唄う、生涯最後の仕事を成し終えた、初老の男の満足そうにする姿は圧巻でした。この映画の一場面を思い出しながら、近所のうずま公園のブランコを何度こいだことでしょうか。

.
.

 この男を演じた志村喬は、質素に生きた人だったそうです。想像を絶するほどのお金を得られた名優でしたが、あばら家に住んで、一切の贅沢を避けて、生涯を終えたのです。彼には隠された生活があって、その収益をどのように使ったかは、奥さまだけはご存知でした。聖書的な見方をすると、右の手で志村喬が成したことは、左手にも知らせないように、生涯を終えたのです。ただ没後50年が経ったら、明らかにするように遺言して、76歳で召されました。まさに、クリスチャンたちを恥ずかしく思わせるように生きた人だったのです。

 イエスさまは、この記事の冒頭に引用した、「山上の説教」で語られたもので、偽善者とならないための「私」の生き方、在り方にふれています。「隠れた善行」の勧めと言うべきかも知れません。人は、自慢したり、誇ったりしたいのですが、それを、神の国に生きる人はしないようにと、イエスさまはおっしゃっているのでしょう。真に誇り高く、神と人のために生きる勧めです。

 人の善行も、愚行も、父なる神さまは隠れた所で、そっと見ておられるお方だと言っています。隠れた生活の中で、善行に励み公明正大に生きることです。また、隠れた生活の中に、愚行がないように、白日のもとに、注意深く生きることの勧めなのです。神と人の前で恥じないで、誇らないで生きたら、どんなに素晴らしいでしょうか。志村喬は、周りの人々に、その高潔な生き方を認められた人だったのです。彼の演技を導いた映画監督の黒澤明は、志村喬の高潔な人格、高い品性を賞賛しています。

(“ウイキペディア”の「生きる」の一場面、生野の街の風景です)

.

一枚のメモ書きに

.
.

 会社員には「平(ひら)」、商人には「丁稚(でっち)」、相撲には「序の口」、落語には「前座(ぜんざ)」という、初めの立ち位置、立場があります。みなさんが「半人前」の初歩から始まりで、「一人前」の係長、番頭、関取、二ツ目に、そして「頭」の取締役、大番頭、横綱、真打ちとなっていくのです。

 学校の教師や、教会の牧師は、多くの場合、はなっ(端)から「一人前」になってしまいますので、初めから「親方」扱いになるのです。もちろん担任や主任にはなりませんし、補教師の立場の場合もありますが、新人も40年のキャリアもない世界であって、新入のまま一国の主(あるじ)の座に着く場合がほとんどです。まだ未熟なのに、背伸びをしなければならず、一年でも半年でも先に、就職していると、どうも先輩風を吹かせているケースが往々にしてあるようです。

 立場があって、聞くに聞けないので、進歩や変化がないまま年をとってしまって、世間に通用しなくなってしまい、お山の大将化してしまって、融通も応用も効かない人になって終わるようです。プライドが高くて世の中でなかなか通用しないと言われているそうです。

 三年間、研究所勤務の後に就職した学校で、同年代卒の同僚が、先輩風を吹かしていました。有名大学卒業と、このかたの学んだその大学の学科長や研究所長をされた方の推薦で転職してきた私の間に壁を置きたかったようです。私を、「ナカニシ君」と呼んで、呼び続けたのです。また、この教員間の「先生呼称」ほど、教員同士の自己肯定の強さを含んだ呼称はありません。生徒や学生からは、自分たちが先生であるのはよいですが、教師同士は、どうも胡散臭くて仕方がありませんでした。

 キリスト教系の学校では、Misterで、教師も学生も呼び合う習慣があっのだそうで、立場の高低はなく、horizontal(水平)の関係が保たれていて、互いが尊敬し合っていたのです。双方が、さん付けで呼び合っても、何の軋轢もありませんでした。敬意が互いの間にあったからです。

.

 NHKに入局して、アナウンサーとして活躍し、後に引き抜かれて、45歳で、TBCの名キャスターや司会者をした森本毅郎さんが、ご自分の職場での歩みや経験、出会いや思い出を語っておられます。

 アナウンサー、今ではキャスターと呼ぶようですが。10年経った時に、彼は、自分の仕事に対する、足りなさや未熟さを覚えたのだそうです。そのまま突っ走ることもできた十年選手でした。それは「壁」で、面壁九年には一年多い年数でしたが、彼は、その壁を越えるために、先輩アナウンサーに助言を求めたのです。どう自分の壁を超えていくかの知恵を求めたわけです。

     ニュース・アナウンスから、新企画の「新日本機構」という番組のナレーターで、原稿を読むことになったのだそうです。その第一回目を担当した後でした。どうもう上手くいかなくて落ち込んだのです。その時、ディレクターから、未熟さや欠点を指摘されてしまいました。それでも、ギャフンとしないで、経験豊かな先輩に、聞いたのだそうです。はじめは何人もの方に、方法論、テクニックを聞いたりしたのですが、それよりも、ある方から「メモ」をもらって、それが実に大きな助けになったと言っておられました。

 後輩の森本氏の放送を聞いて、一人のマチュアーなアナウンサー歴の長い方が、〈気付きのメモ〉をとっておられたのです。けっこう踏み込んでくる彼を相手に、やっと机の引き出しに中に入れていたメモを取り出して、手渡したのです。そのメモには、『あの場合、こう読んだ方が自然ではないだろうか、私だったらこういう時は、こんなふうに読む。』とあって、具体例が書かれていたそうです。

 以降のナレーションに、その助言が大きな助けになるのです。教えたのではなく、率直に感じたことのメモでした。そういった助言をする、多く経験を積んだ方が、なおも、ご自分で研鑽しようとしてのメモだったのです。その謙虚さが、この名アナウンサーの秘訣だったわけです。それを読ませて頂いて、得心した森本氏は、85才の今も、なお現役で、ご自分のラジオ番組を持って活躍しているのです。驚きですね。

.
.

 どうも高いところから、話すことが主要な仕事の立ち位置で、教員や、伝道者として、私も生きていました。それで子どもたちを養い、愛兄姉とともに、ほとんどの生涯を、礼拝を守り続けてきたのです。説教での声が大き過ぎる、ダミ声調だ、ジョークや冗談は要らないと、私を具体的に導いてくださった宣教師さんは、よく注意してくれました。自分でも、試行錯誤しながら、好きな説教者を遠くに訪ね、噺家の噺を聞いて「間」を身につけ、スポルジョンやロン・メルや竹森満佐一や山室軍平の著書を読んで学びました。

 教師を二度した年月も、百科事典や図書館から借り出した関連書籍を読み、教師用参考書に頼らずに、一授業40分ほどの教案を、放課後と家に帰って毎日作りました。60才を過ぎてから再び、お隣の国でも、そうして作成した教案で話しますと、他学科の何人かの学生が、『先生の授業に出ていいですか?』と言って、やって来たのです。真似ではなく、心や姿勢や品性を読んで、それで教壇にも講壇に立ちました。あの日々が懐かしいのです。

 どなたも、前座の未熟さを超えて、自分のものを作り上げるのでしょうか。でも、教師も説教者も、いきなり表舞台に立つので、どうしても独りよがりになるのです。そして助言者を持たずに、独走してしまう傾向にあるようで、社会性に欠けてしまいます。でも謙虚なら、誰からでも何からでも学べます。名人も、一日にしては成らず、一歩一歩でローマに至るのでしょう。叱責者や助言者やmentorがいましたから、大きな助けになりました。それでも、まだまだon the way の自分なのです。

 そう言えば、母教会には、説教者のための高い壇がありませんでした。聞かれるみなさんと同じ床の上に立たれて、聖書からお話をしておいででした。中学の担任の先生は、朝礼でも授業でも終礼でも、教壇から降りて挨拶をしておいででした。私は、そう言った教会で救われ、そう言った担任から教えを受けたのです。

 それが学んで、習慣化した生き方でした。イエスさまも、民衆と同じ高さに立ち、座し、眠られました。それが私の居場所でもありました。そこが僕として生きる立ち位置だと学んだからです。ただに赦された罪人に過ぎないのですから、師に倣うは当然であります。

(“いらすとや”のイラストです)

.