それでも

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 小学校にも中学校にも、薪を背負って、歩きながら書を読む「二宮金治郎像」がありました。これから学ぶ子どもたちに、倣うべき模範の人物が、農政改革、農業の改善や増収のために、その果たした功績の多大な人物として訴えかけ続けてきたわけです。教育者の中には、この人を挙げるのに異議を唱える人などいません。

 わたしも背負子(しょいこ/弟が山小屋の仕事で使うために小屋主に作ってもらった物でした)に薪や荷物をつけて、金次郎のしたことに真似たことがありましたが、漫画を見ていただけで、その精神に倣うことはありませんでした。でも、その門をくぐった校舎の教室や、その他の教室で、多くの忍耐強い良き教師に教えられたことには感謝が尽きません。

 わたしの学んだ小学校の校歌に、『鏡と見まし山と川と』と一節がありました。遠望する逞しく聳える富士山を仰ぎ、多摩川の押し流す清流を見ながら、切磋琢磨して、奮励努力して学んで欲しいという願いが込められていました。

 今朝の新聞に、県下のある小学校の校門の脇に、その二宮金治郎ではない、一人の人物の像が置かれているのだと掲載されていました。わたしは、これを読んで、この街の大人たちは、この人を鑑にして、小学生たちが、その人から学んで、生きていって欲しいと願ったに違いありません。

 その人は、野口英世です。福島県の猪苗代の人で、郵便配達を仕事としていたお父さんの子として生まれ、幼少期に囲炉裏に落ちて手に傷を負います。その負った手の傷を治してくれた医師に倣って、医師を志して学び、後に細菌学者として生きた人でした。

 黄疸や梅毒の研究による業績によって、多くの賞を国外から贈られいます。でも、これから学ぶ小学生が、模範としていく人物としては、どうしても首を傾げたくなっているわたしなのです。人が生きていく方便があり、それを上手に使って生きていく才が、この人にはあったようですが、それはいいのです。一番気になるのは、梅毒のスピロヘーターという細菌の研究、ワクチンの開発のために、何をしたかが問題なのです。

 研究の被験者に、ついての記事が、次の様にあります。「571人の被験者のうち315人が梅毒患者であった。残りの被験者は「対照群」であり、彼らは梅毒に感染していない孤児や入院患者であった。入院患者は既にマラリア、ハンセン病、結核、肺炎といった様々な梅毒以外の病気の治療歴があった。対照群の残りは健常者であり、ほとんどは2歳から18歳の子供であった(ウイキペディア)。」

 そして、被験者から、〈同意を得ていない点〉が一番の問題なのです。人間の弱さは、誰もが持ち合わせていますが、若い頃の行状は、不問にふされてもいいのかも知れません。でも、1928年、51歳で死んだ時に、黄疸病に感染したことが原因だとされますが、亡骸の解剖によって、若い頃に罹患した梅毒が直接の原因だとも判明されています。自堕落に青年期を過ごしていたのです。

 偉くなったし、その勇名を世界に鳴り響かせたこと、多くの褒賞を得たことは、驚くべきことです。命懸けで生き、人間性も何もかもがごちゃごちゃとした人間像は、小学生の model には、相応しくないのではないでしょうか。

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 業績だけが大切で、そのためにやった非人間的なことには目をつぶるなら、結果だけが人間評価の基準なのでしょうか。人生のすべての中で、どんな人間観、患者観、研究者の理念、在り方などで、疑問視される様な人物は、自分の孫たちに、『鑑としなさい!』とは言えません。

 街の桶屋のおじさんが、良い桶を作ることだけに専心して、鉋を使って作り上げ、それを喜んで使ってくれるお客さんの必要のために生きて、ただの桶屋さんで一生を終わった人の方が、小学生の模範になるのではないでしょうか、誠実さや勤勉さなどの方がいいからです。もちろん若気の至りを悔いているなら、いいのでしょうが、それでも、なのです。

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都上り

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 『主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。 「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。 わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。 その祭司らに救いを着せよう。その聖徒らは大いに喜び歌おう。 そこにわたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。わたしは、わたしに油そそがれた者のために、一つのともしびを備えている。 わたしは彼の敵に恥を着せる。しかし、彼の上には、彼の冠が光り輝くであろう。」(詩篇1321318節)」

 イスラエルの民は、年に三度、民族的な行事として、「都上り」を励行していました。「過越の祭り」、「七週の祭り」、「仮庵の祭り」に、エルサレムの神殿に、捧げ物を携えて、それぞれの町や村から、青年男子は上るのです。

 彼らは、黙々と苦行者の様にして道を歩んだのではありません。神への讃歌を喜び歌いながらシオンに入ったのです。その歌は、「詩篇」の「都上りの歌」と呼ばれる、120〜134篇のダビデの詩でした。実は、この詩篇にmelody をつけた賛美chorus があり、よく礼拝の折に賛美したことがありました。

 イスラエル人、ユダヤ人にとっては、生ける神、エホバとかアドナイと呼ばれる神を礼拝するための「都上り」でした。流浪の民ユダヤ人は、世界のどこに居留しても、エルサレム、シオンを、故郷の様に思い、「シオンに住まれる主」への礼拝、感謝、賛美を捧げたのです。その離散した地から、19世紀になると、Zionism と言われる民族的な動きが起こり、世界中に散っていたユダヤ人たちに、「シオンに帰ろう!』とする思いが湧き上がって、ついに、1948年5月14日に、建国に至るのです。

 東京に遷都されるまで、京都が日本の都でして、「京に上る」という言い方で、位置付けられていました。ところが明治維新以降、東京が都に定められてから、鉄道網が敷かれていき、全国を網羅する様になるのですが、どの列車も、東京に向かって走る列車は、「上り(のぼり)列車」になっています。
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 昨日、上の息子が出演するという「レイアロハ・フェスティバル」が行われる「新小岩公園(東京葛飾)」に、急遽行ってきました。まさにわたしにとっては、下野栃木からの久々の「都上り」だったのです。貰ってもいけないし、上げてもいけない「コロナ」のことを考えたのですが、春の晴れた晴天の下、野外で行われる festival ですので意を決したのです。

 東武日光線、東武亀有線、JR総武線と乗り継いで、新小岩駅で降りて、荒川の流れの端の広大な区立公園で行われた、Hawaiian  festival に参加したわけです。招かれてお話や司会をする息子の応援でした。15でハワイのヒロの高校に入学して学び、ハワイの教会で奉仕をした経験がありますので、挨拶語もシャツも、『Aloha!』が、彼には似合っていました。

 主催者の方の賛美も、フラダンスも、お話もみんな素晴らしかった週末の土曜日でした。そこは、まるでハワイでしたが、フラダンスや模擬店やお店の賑やかさ以上に、フラで賛美をした最後のステエジは圧巻でした。一時、生ける神が崇められたのが最高に有意義な時だったのです。都のはずれ、下総国の境の片隅で、主が褒め称えられたのは素晴らしいことでした。こんな「都上り」だったら、毎週出かけてみたいものです。
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介入

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 他民族や他国家に、どの国も民族も優しくありません。それで人類は戦争を繰り返して、21世紀を迎えています。今も、同じ東スラブ民族のロシアが、ウクライナに攻め込み、戦争状態にあり、驚くべき犠牲があって、悲しくて仕方がありません。

わたしたちの国も、かつては、「五族平和」とか、「大東亜共栄圏」と言ったslogan を掲げて、大陸に軍事侵攻を繰り広げていった歴史があります。

 その侵略を阻止するために、欧米列強は、ABCD Line (米国America,英国Britain,中国China,オランダDutchの頭文字)を敷いて、経済封鎖で、日本の暴挙に介入しました。ガソリンなどの石油類を、輸入に頼っていた日本は、その供給源を絶たれるなど経済制裁をされたのです。それで国際連盟を脱退し、米英に宣戦を布告して、真珠湾を攻撃して、太平洋戦争に突入してしまいました。

 経済的な面だけを見るなら、不公正に思えますし、その報復として宣戦を布告し、奇襲したのを是としたいのですが、もとはというと、大陸進出に問題があったわけです。そもそも日本は活路を開くために、中国の東北部、満州に開拓団を送り、その防備のためにとぼ名目で、軍隊を配備したことに問題があったわけです。

 ドイツは、第一次世界大戦の敗戦で、莫大な賠償を強いられました。疲弊した誇り高いゲルマン民族は、強いドイツの建国を掲げたのです。そして、ナチスが台頭し、国家巣権を握り、ヒットラーは、「第三帝国」の建設に牙を剥きました。

 その帝国建設のために、教会を支配下に置こうとし、ユダヤ人を虐殺し、優秀民族を作ろうと、生命操作までしたのです。日本も、中国大陸で、人道に反する犯罪行為を働きました。神は、その日本やドイツの侵略や暴挙を許しませんでした。人命軽視や戦争犯罪を許さなかったのです。神の鉄槌が降り、大きな犠牲を払うかたちで、その野望は潰えたのです。

 そう言った歴史の動きの中で、一人の人物のことを思い出すのです。神学校教師をし、ドイツ告白教会の若き牧師であったデートリッヒ・ボンヘッファーです。その横暴を許さない、軍関係者や政治家などによって、「ヒットラー暗殺計画」があって、ボンヘッファーもそれに名を連ねたのです。

 ヒットラーが自殺する三週間ほど前に、その暗殺計画に、ボンヘッハーが加わっていたことが、一人の暗殺団員の日記で露見し、捕えられ、処刑されてしまうのです。キリスト者で、福音主義の教会の一人で、牧師であった人を、教会の主であるイエスさまが、39才の彼が殺人者となることを未然に防いで、その罪から守るためだった様に、わたしには感じてなりません。彼が信じ、仕えた神は、『汝殺すなかれ!』と命じられたお方だからです。

 「暗殺計画」、悪の元凶を打ってしまおうとする働きが、独裁国家を許せない勢力にはたびたびあります。ウクライナ問題や新疆ウイグル問題を思う時に、『いっそのこと!』といきりたつ思いに駆られ、それを支持したい気持ちにされることが、わたしじもあります。しかし神が与えられた命を、人は、どの様な理由があっても奪うことは許されることではありません。ただ、罪が満ちる時に、神は介入されるということは確かなのです。

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サイン

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 野球は、観るスポーツとして面白いし、しても楽しめます。日本でもアメリカでも、野球タケナワの春です。父のフアン振りは、驚かされました。

 この野球の要は、選手を束ねる監督で、彼は、一つ一つの場面で、<sign(サイン)>を送って指示をするのです。自分だけではなく、ベンチの選手やコーチを通してもする様です。相手に見破られない様に、様々に手を用いてしています。バッターも野手も、その指示に従ってプレイをするのです。

 ですから監督の作戦通りに進行して行くわけです。また、アメリカで行われているアメリカンフットボールは、一人、または複数のアシスタントコーチが、観客席の高いところから、フィールド全体を見て、チーフコーチに、無線で状況を伝えて、作戦を立てる様です。

 それらは、駒を動かす指し手の意思で、歩や金や銀の駒が動く「将棋」に似ています。野球やアメリカンフットボールの選手は、生きて自分の意思を持っているので、時には、見落とすこともあるのでしょう。子育てをしていた頃に、子どもたちが、<サイン>を出していました。母親は、小さなサインを見逃さないで、察知して、臨機応変に対処していて、『すごいな!』と思ったことが何度もありました。

 思春期の子どもも、恋心を感じると、相手に無言のサインを出したりします。大人だって、様々なサインを出していて、特に医者は、そのサインを通して診断を下したりするのです。それは医者ばかりではなく、学校の教師にも、それを読み取るスキルが求められているのです。

 中学の時、グレかけていた私が、様々に服装や歩き方や言葉や振る舞いをしているのを、観察していた担任が、時々、私を呼びつけては注意したり、三者懇談の時に、母親に注意をしてくれました。そのお陰で、思春期の危機に守られたのを思い出します。

 きっと、私の担任は、他の教科を教えている同僚に、『どうですか最近の準は?』などと聞いてくれていたのでしょう。教師全員が、シフトについて、子どもたちを見守っていてくれたのです。昨今、相談に出かけ、言葉でサインを送り、何度も何度もそうしたのに、そのサインを見落としたのか、無視したのか、子どもたちが自死してしまうケースが多くなっているのではないでしょうか。由々しき事態です。

 子どもたちの生活の変化、問題行動のサインを、察知する能力を、親や教師には与えられているのです。職責を果たすために、天が授け与えている能力なのです。アンテナを高くして、その子どもたちのサインを、敏感に感知していただきたいものです。そうしたら、楽しい学校生活を過ごせるのですから。

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奈良県

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 いにしへの 奈良の都の 八重樱 けふ 九重に にほひぬるかな

 これは、伊勢大輔(いせのたいふ/大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の娘)が、『かつての奈良の栄華をしのばせる豪勢な八重桜だけど、今の帝の御世はさらにいっそう美しく咲き誇っているようだよ!』と花に託して、今の宮中の栄華ぶりをほめたたえた、〈大和朝廷讃歌〉です。

 今まさに、染井吉野の桜前線が、北海道にまで上がっていったと、ニュースが伝えていました。今春も散歩の途中で、子どもたちのいない小学校の校庭の脇に、実に綺麗に開花し、『ああ春だ!』と実感させられたのです。ときおり花びらが散り落ちて、咲く花も散る花も、春の趣がいっぱいに溢れていました。

 かつての日本の中心は、平安京・京都でしたが、それ以前には、飛鳥京、藤原京、平城京、長岡京など、今の奈良県が列島の要であったのです。中学校の遠足は、奈良と京都への旅でした。奈良公園では、鹿を追いかけたら、追いかけられて逃げるのが大変でした。東大寺の大仏の大きさには、度肝を抜かれたのです。

 母を産んだ実母が嫁いだお寺が、奈良公園の近くにあって、まだ元気だった母と兄弟たちとで訪ねたことがありました。大和郡山藩の菩提寺とかで、禅宗のお寺で、その敷地や建物の大きさに驚かされたのです。小学校の林間学校で、東京郊外のお寺に泊まって以来の宿泊を、その宿坊でさせてもらいました。自分たちの教会とは違って、お寺の豊かさには驚かされました。
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 やはり奈良は、「いにしへ」を感じさせられた時で、日本の原点なのだと再認識をしたのです。律令制下の「大和国」、国都に選ばれた地でした。その都から、日本統治がなされて、全国各地の統治が始まっています。ここ下野国にも国庁が置かれ、国分寺、国分尼寺がその近くに開かれ、その跡地が、「天平の丘」と名付けられて残されています。長い旅をして、大和朝廷の官吏たちが赴任し、京都に行き来をしたことでしょう。

 さて奈良県は、県都が奈良市、県花は奈良八重桜、県木は杉、県鳥はコマドリです。人口は131万人で、有力な豪族が「大和王権」を建て上げ、「大和朝廷」を起こして、「政(まつりごと)」を始め、その支配を確立していったのです。現在、高市郡明日香村が、県南にありますが、そこが「飛鳥朝廷」が置かれたと伝えられています。

 育った父の家では、よく「奈良漬」が食卓に並べられていました。母が好きだったのかも知れません。瓜(うり)を酒粕で漬け込んだもので、わたしの基督者の友人は、二切れ三切れ食べて、酔ってしまったことがありました。かつては、明日香や奈良の朝廷の上級官吏たちが食べたものだそうで、一般庶民が食べる様になったのは、いつの頃からでしょうか。そういえば奈良漬、食べたいですね。

 遣唐船で長安に留学して、帰国が叶えられなかった、阿倍仲麻呂は、故郷、奈良の都が恋しかったのではないでしょうか。若くして留学しましたから、家族と囲んだ食卓に、この奈良漬が並んでいたのかも知れません。長安にはなかったでしょうから、故郷の味覚も懐かしかったに違いなさそうです。

(春の奈良公園の桜と鹿です)

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 4000年も前に記された、聖書の記事を読んでいると、心の動きは、この21世紀を生きている私たちと、全く変わらないのが判ります。長く文字を持たなかった日本人は、言葉もなく、人と人とが意志の疎通を欠いていたかの様に錯覚してしまうほどで、何を考え、何を語っていたのかの無言だった様に思えてしまうのですが。

 その時代の人々の心の動きを知ることができないのは、実に残念で仕方がありません。日本人の思考や思想を、言葉で表現していたのに、文字化されてないので、空白の様に感じてしまうのです。人と人、男と女、大人と子どもの間に、隣人、村の指導者との間などに、様々な感情があって、意思の疎通や誤解があったに違いがないのですが、その記録がないわけです。お母さんは、自分の息子に何を言っていたのでしょうか。

 「箴言」を書き残したのは、ソロモンだったと言われていますが、そこにお母さんから受けた勧めを記録されています。

 『マサの王レムエルが母から受けた戒めのことば。私の子よ、何を言おうか。私の胎の子よ、何を言おうか。私の誓願の子よ、何を言おうか。 あなたの力を女に費やすな。あなたの生き方を王たちを消し去る者にゆだねるな。 レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ」とは、君子の言うことではない。 酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。 強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。 彼はそれを飲んで自分の貧しさを忘れ、自分の苦しみをもう思い出さないだろう。(箴言3117節)』

 当時も、多くの男たちを迷わせていた問題、同じ様に現代人をも誘惑してやまない女性問題、対アルコールの弊害など、わが子を思う母親の言葉を読んで、自分の母を思い出すのですが、わたも同じです。同じソロモンの箴言に、次の様にあります。

 『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言423節)』

 一国を支配し、政(まつりごと)の責任を負わされた者は、とくに誘惑の機会が多いのかも知れません。お金、女性、名声、酒などは、いつも深い穴を広げて、誘い飲み込もうとしているのです。そして多くの人が、それになぎ倒され、それに飲み込まれてきた、それが人の歴史なのかも知れません。

 神の命令に従い、欲望を正しく制御し、人を愛したり、赦したり、激励したり、感謝したりして生きることが大切に違いありません。欲望に従うか、神の法(のり)に従うかで、人生は全く違ったものになります。欲望は、際限なく高まりますが、そうなればなるほど、深い穴の中に引きずり込まれてしまいます。神を畏れることによって、神に助けられて、その誘惑に勝てるのです。

 『わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。(箴言151617節)』

 わたしは、問題だらけ、欠点だらけでしたが、聖書に従うことを学んだのです。物によって築き上げられた家庭ではなく、心や精神で支えられる家庭を建設したかったのです。家族で質素な食卓を囲み、赦したり愛し合う団欒のある家庭が欲しかったのです。酒や異性で、家庭を壊さない様に願って生きてこれました。それが創造者の願われる一生や家庭であったわけです。

(“ Christian  clip art ” による「愛」です)

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恐れるな

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 『 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。(詩篇4113節)』

 今、〈震度5〉の強い地震があって、『ドスン!』と音がして、部屋が揺れました。コロナにウクライナ侵攻、そして地震、地上に様々なことが、賑々しく起こっています。一番怖いのも優しいのも「人」でしょうか。

 いつも思わされるのは、何が起ころうとも、『恐るな!』という、わたしの神、主がおっしゃる安心への促しのことばです。

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逸材

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『正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に萎縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却って破れ、終いに彼の制を受くるにに至らん。』

 これは、西郷隆盛の残した「遺訓」の中にある一節です。ロシアのウクライナ侵攻によって、国際情勢が一段と危うくなってきているのが感じられます。どこの国もおちおちとしておられない昨今でありますが、西郷隆盛は、黒船の来航という一大事件があって、開国を迫られる中で、諸外国の言いなりにならずに、対等に関わるべきだと語ったのです。

 明治維新政府によって、廃刀令や断髪令が公布され、武士団の解体を急いだのです。職を失った士族は、急激に立場を失う事態に直面し、不満を募らせていきました。薩・長・土(薩摩、長州、土佐)によってなった維新政府は、旧幕の朝敵には、ことのほか何の配慮もしなかったのですから、不満噴出は当然でした。まさに内憂外患の日本でした。

 国内に社会の変化、政治的な変革が起こると、その常套的な対策は、人々の目を外に外らせようとするのです。それで不満を抑え込もうとします。維新政府は、欧米列強からの外圧を覚えながら、国を富ませて、軍事力を得るために、富国強兵政策を取りました。国威を高めるために、岩倉具視や木戸孝允らによって、朝鮮侵略を目論んだのです。「大国主義」が、あの「征韓論」でした。

 そんな中で、日本の封建社会に大変革をもたらせた立役者であった、薩摩の西郷隆盛は、表舞台に立つことを嫌います。その征韓論ですが、この西郷が、そう言い出したかの様な捉え方をする人が多くいます。豊臣秀吉が、朝鮮出兵をするのですが、維新政府も同じでした。

 そのきっかけとなったのが、朝鮮半島の釜山にあった、「草梁倭館(日朝交易の中心で、長崎に出島の朝鮮半島版だった様です)」の扉に、日本を侮辱する言葉が書かれた文書が貼られたことだったのです。明治初年のことでした。これに怒った日本は、〈居留民保護〉の名目で出兵して征韓を考えます。

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 板垣退助は、すぐに実行を提案しますが、西郷隆盛は、国書を持たせて使節を派遣して、ことの真相を確かめるのが先決だと言いました。穏健な対処法だったと言えます。その代表使節に、西郷自らがなろうと言うのです。結局、その提案は退けられ、西郷は辞職し、鹿児島に帰ってしまいます。

 そして西南戦争が勃発していきます。その戦いで、西郷は倒れてしまうのです。「五百年に一人生まれる逸材」と言われた人物を、明治維新政府も、日本も失うのです。長州藩出身の維新政府の立役者たちの別荘が、栃木県北部の那須の地に、いくつも残され、記念館となっています。

 西郷隆盛は、明治二年に、維新政府に出仕する様に要請されるのですが、その様に願う薩摩藩士たちに次のように語っています。

 『お前たちは、私に向かって朝廷の役人になれと言って、私を敬っている風であるが、今の朝廷に役人が何をしてると思うのか。多くのものは月給を貪り、大名屋敷に住んで、何一つまともな仕事をしていない。悪く言えば泥棒なのだ。お前たちは同伴のものに、泥棒の仲間になれと言ってるのと同じなのだ。それは私を敬うどころか、いやしめることになるのだ。』と。

 私の弟の書棚に、西郷隆盛の著した書や、彼に関する著書が何冊もあったのを見たことがあります。あまりにも有名な彼直筆の書に、「敬天愛人」があります。一説によると、西郷どんは「聖書」を読んだ人だと言います。

 ⭐︎注記 斃る(たおる) 全かる(まったかる) 軽侮(けいぶ) 終(しまい)

(西郷隆盛直筆の「敬天愛人」、「桜島」です)

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投降迫る!

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 今朝の新聞の一面に、「マリウポリ投降迫る!」という見出しがありました。なす術を知らないウクライナの現状を、ただ見ているだけで、世界は何もできないのでしょうか。核戦争の勃発や第三次大戦に拡大するのを恐れるからでしょうか、米英仏独は、何もできません。世界は殺戮が繰り返され、多くの市民が無差別の殺されているのを、ニュースで聞いているだけです。

 つらくて悲しくて、ニュースから耳を逸らせて、switch  を切ってしまいます。兄たちが生まれる前後に、同じように新聞の一面を飾り、ラジオが放送したのが、「南京陥落!」でした。それを読んだ日本人は、幟を掲げて行列で、町や村を練り歩き、神社で戦勝を感謝し、更なる戦果を上げるために祈願したのです。

 生まれる少し前のことですが、戦後史を学ぶ中で、その事実を知ったのです。他国を侵略して戦意が盛り上げられて、日本人はこぞって酔ったのでした。昨日のモスクワは、どうなのでしょうか。同じ様に、喜び狂っているのでしょうか。ウオッカやボルシチを好む両国民の間の戦争に、憎しみが増し加えられています。それを思っている日本の朝です。

 2007年だったでしょうか、華南の街で、お孫さんのお世話をしていたご家族に、食事に招待されました。彼のおばあちゃんにお会いしたのです。戦時下、日本軍は、上海に上陸し、砲撃で町々村々を攻撃し、婦女を犯し、火を放って家々を焼き落としたのです。進軍する日本の軍隊は、浙江省の村々をも焼き落としていきました。その放たれ火で、この老婦人は、幼かった少女期に火傷を負ったのです。わたしは無理を言って、その右腕の上腕部の火傷を見せてもらったことがありました。やはり正視できませんでした。それが、今まさに見てるウクライナへの「侵略戦争」でもたらされる「痕(あと)」なのです。

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 わたしは、父が間接的に作った部品を搭載した爆撃機によって、中国本土に爆弾を投下し、多くの人命を奪い、街々を破壊した過去の日本の蛮行の事実を、お詫びするために、戦争が終わって60年も経っていましたが、家内の手をとって出掛けたのです。それが主たる目的でした。残された時間、自分でもできる償いがあるとするなら、イエス・キリストの十字架の福音を語ること、十字架の福音を信じて伝道している「家の教会」のお手伝いをすることでした。

 教会の主が、その重荷をわたしにくださったのです。それ以前に、天城山荘で、「中国宣教を考える会」の大会が、戦時下で大陸伝道をされたみなさんの呼びかけで、開かれた時に、まだ三十代の初めのわたしは、なぜか参加していました。その後、いのちのことば社を始められた宣教師夫妻と一緒に、中国四都市を訪問して、漢訳聖書と聖書研究所やトラクトを届ける旅行をさせてもらいました。四十年以上も前になるでしょうか。

 その旅で訪ねた省都で、『今、日本の教会が、中国の教会にできることは何ですか?』と、何十という家の教会のお世話をされていた伝道師にお聞きしたのです。この方は、強制収容所に何度か入れられていました。『お金はいりません。わたしだけが豊かになりたくないからです。その代わり中国に来てください!』と言われたのです。

 その求めに応答して、2006年に出掛けたのです。13年の間、いることができて、家内の病気を契機に、帰国したわけです。きっと、再び行くことは叶わないと思いますが、圧政の下にある教会のためには祈れます。今まさに、ウクライナの街々で起こっていること、人々のため、そしてウクライナの教会のためにも、わたしのできることは、ささやかな祈りです。

 歴史は、その事実と直面しない者たちの手によって、繰り返されます。こんなに素晴らしく、神によって造られた人は、罪ゆえに何と愚かなのでしょうか。こんなに愛や憐れみに乏しいのです。娘たちを見る目で、ウクライナの人々のお嬢さんを見ることができない、独りよがりの指導者の現実に、人の限界を感じます。

 同じことを行った日本は、80年近く経って、難民を受け入れ、物資を支援し、ウクライナを後方から支援しています。それは、二度と再び、他国を侵略しないという決意の行動なのでしょう。戦争を知らない世代が決めて、愛を実行しているのです。

( “イラストAC ” の「日陰躑躅(ひかげつつじ)です)

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