日本人

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英語に、「フレキシブル(flexible)」という言葉があります。「柔軟に」とか「融通がきく」との意味だったと思います。アメリカ人企業家と八年ほど一緒に働く機会がありましたので、彼の生活ぶりをよく眺めたつもりです。この方が、三十代半ばからのことでした。様々なことを教えていただきましたから、国際感覚、欧米人の生活ぶりや考え方なども見聞きできたのです。あの時期がなかったら、きっと狭い視野で、日本人だけの在り方、処し方、考え方だけに拘って生きてきたのではないかと感じます。彼も”フレキシブル”に生きていました。

今朝のニュース・サイトに、五十代の女性の中学教師が、NHKの「のど自慢大会」に、有給休暇を取って出場したことが物議を醸(かも)してるそうです。40年も前に、グアムに家内の姉夫婦がいて、訪ねた時のことです。日曜日に、車を改造した<屋台>でクッキーを焼いてる人がいました。義姉の主人が、小学校の校長をしていました。彼の話ですと、この人は、他の小学校の校長先生だと言うのです。全く悪びれずに、彼女の休業日に、その仕事を楽しそうにやっていたのを見て、驚いたのです。

私的な時間と公的な時間の区分があるのが、欧米社会のようです。立場や責任から、時間的に地理的に離れると、「個人」に戻れるのです。社会が、そう言った生き方を認めるわけです。ところが、日本の社会は、「教師」は、いつでも、どこでも「教師」なのです。それで、<パチンコ趣味>の先生は、電車に乗って、幾つも向こうの駅で降りて、人目のつかないパチンコ屋に、キョロキョロしながら入らなければならないのです。

堂々と生きられない、偏屈な社会なのです。社会の顰蹙(ひんしゅく)を買わないことなら、『自由に生きてもいいのに!』と思うのです。自分への要求を、他に押し付けてしまうのが、日本の社会の問題点ではないでしょうか。狭い国土、土地にへばりついた農村社会で、極力問題を起こさないように、ひっそりと息を潜めて生きてきたのが日本人でしょうか。

サングラスをして、得意に歩いていた時、『先生なのに!!!』と言われたことがありました。私だって、寝不足で、夏の日の光がまぶしすぎる時だってありますし、格好をつけたい願いもあるのです。この自由に、周りは干渉してくるのです。日本の社会が、もっと融通と柔軟性、そして「弾力性」を取り込んだら、もっと楽しく生きられるのですが。

『⚪️⚪️さん(先生付では呼びません!)、喜んでマイクロフォンを握って、また、ご自慢ののどを聞かせてください!』と、華南の空の下から応援している、元教員の私です。

(イラストは、サイトで見つけた「日本人」の特徴を捉えた戯画です)

躊躇

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「渡る世間に鬼はなし」と、ある人は人の善意に期待して生きています。ところがある人は、「人を見たら泥棒と思え」で、人を信用することなく、猜疑心で生きているようです。

先日、家内が、躊躇(ちゅうちょ)しながら言い出しました。言いたくはなかったのでしょうが、ちょっと悔しいことが、いつも行くスーパーのレジであったようです。後ろの人が、自分のカバンを、家内が買ったレジ済みの食品の横に、どさっと置いたのだそうです。支払いを済ませ、買い物袋に食品を入れて、送迎バスの乗り場に来て、バスの来るのをベンチで待っていました。

袋の中から、買ったジュースを飲もうとして、取り出そうとしたのですが、見当たらないのです。レジのレシートでチェックしたのですが、4元を払ってあります。時間があったので、そのレジに戻って、しまい忘れたジュースがあるか尋ねたのですが、『没 有(ありませんよ)』と言われたのです。しまい忘れた自分がいけないのですが、ちょっと悔しくて、私に事の顛末を話したわけです。私が聞き出してしまったのですが。

人を疑うことのほとんどない家内ですが、これまで被害者になることが、日本では幾度もありました。私は<抜け目>がないのですが、彼女は、<のんびり屋>で、ちょっと隙があるのです。一つの真理は、「そう言った機会を作った方が悪い」のです。彼女は、そのあと、こう言ったのです。『日本はかつて、多くの物を奪ったのだから、そのお返し!』とです。こう言った<わだかまりの解消法>って好いですね。

こっそり財布の中から、小銭を盗っては、駄菓子屋に飛んで行く、私の後ろ姿を、母は見ては何を思っていたのでしょうか。きっと『五右衛門のようになりません様に!』が、母のいのりだったに違いありません。お陰で、<昭和の五右衛門>にならず、人様に後ろ指をさされることなく、生きてこれました。直接謝らないまま、母は天国に帰ってしまったのですが、天に向かって謝罪をすることにいたしましょう。

(写真は、”ウイキメディア”による「ハイビスカス」です)

 

タケノコ

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先日、友人の家を訪ねての帰り、道路脇に止まっていた車のトランクから、皮の剥いてある「筍(たけのこ)」を取り出している人がいました。一抱えもありましたから、きっと、どなたかに分けるのだろうと思ったのです。旬の食材で、なんともいえない春の旬(しゅん)の匂いがしてきました。正直な条件反射で『いいなあ!』と思ってしまったのです。

「筍掘り」に誘われたことがありました。ご自分の山で、急斜面が竹林になっていて、ちょこんと芽を出した頭を見つけて、小さめのスコップで掘るのです。だいぶ掘りました。土や落ち葉の匂いの中から、筍の匂いがしてくるのです。これも春の到来を告げる自然の恵みの香りの一つです。

そう言えば、上の階のご婦人が、「老家(故郷のことです)」で掘った筍を頂いたことがあります。水煮をしたものには比べられなく美味しかったのです。信州に「高菜」という塩漬けの漬物にする野菜があります。「地菜(じな)」とも言うようですが。この古漬けが、玉のように丸められて、近くの「菜市場」と呼ばれているマーケットで売っています。スープに入れたり、炒め物に使ったりして、この地の食材の一つなのです。この他に『これ、日本にもあり、時々食べました!』と、一緒に食卓を囲む時に言うことがあるほど、食べ物が似ています。

我が家の食卓で、よく食べる物に、「秋刀魚」があります。少々小ぶりですが、いつでも解凍されたものが売られています。フライパンで焼いて、大根おろしと醤油で食べると、故郷の日本を思い出すのです。秋の夕方のグラウンドで、練習をしていると、秋刀魚を焼いた煙が流れてきて、空きっ腹が刺激されて、早く家に帰りたくなったことがありました。

なんと言っても、食べ物、食材が、日本に似ていて、驚くことがあります。きっと、多くの物が、この辺りから、日本に向けて輸出されていることでしょう。学生さんが、時々「はにかむ」のですが、日本人にそっくりな表情をされています。「同根同源」、中国と日本の近さを、痛切に感じている初夏であります。

(写真は、”ウイキメディア”による、竹林の中の「タケノコ」です)1

『たっこらたっこら!』

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今日は、「車軸を流す」ような雨が降っています。「ことわざ辞典」によると、「雨が激しく降るさまで、雨脚が太くて車の心棒のようだという意味。「車軸の如し」「車軸を下す」「雨、車軸の如し」ともいう。」とありました。こちらの天気予報は、今日は、「陣雨」とあります。<馬の背を分ける>ような「夕立」や「俄雨」のことを言うようです。

日本語には、「雨」を表現する言葉が多いと言われているのですが、それは、四季のどの季節にも雨があるということなのでしょうか。『春雨じゃ、濡れてまいろう!』と、月形半平太の言う、この「春雨」は、雨脚が強くないので、歩けるのでしょう。よく歌に歌われる「時雨(しぐれ)」がありますが、降ったり止んだりする冬の雨のことだそうです。「大阪しぐれ」という歌があるように、関西圏でよく使われるのでしょうか。関東では、季節にこだわらずに、降ったり止んだりを繰り返す雨を、「通り雨」と言います。

『紫陽花の蕾が大きく膨らんで来ました!』と、先日、東京の下町の街角の様子を知らせてくれたのですが、間もなく日本は、「梅雨」の季節を迎えますね。母の故郷の出雲地方では、これを「田植え雨」と呼んでいたそうです。「お米」と呼ぶ 貴い米の苗を植える時期に、恵みの雨をそう呼んだことで、出雲の産業形態が分かりますね。この山陰は雪が多かったので、雪混じりの雨を、「白雨」と言っです。ちなみに、強く降る雨の擬声語を、「たっこらたっこら」と、出雲地方では言うそうですが、ついぞ一度も母の口から聞いたことがありませんでした。東京で子育てをしてくれましたから、そこで強く降る雨を眺めながら、そっと『たっこらたっこら!』と、口籠って、一人感じ入っていたのかも知れません。

五月雨を 集めて 早し 最上川

これは、梅雨の雨を、「さみだれ」と詠んで有名な、芭蕉の俳句です。日本語の雨の言葉は、やはり漢語からきているのようです。中国でも五月の降る雨を、「五月雨(さみだれ)」と呼んでも構わないでしょうか。今晩出かけるのですが、この雨は止んでくれるのでしょうか。

(写真は、夕立を降らせる雲、”ウイキペディア”から)

お隣さん

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昨日の昼過ぎに、五階に住んでいる我が家の玄関を、下の階の小学校一年のお嬢さんが駆け上がってきて、「ドンドン!」とたたきました。ドアーを開けると、『下雨了!』と告げてくれたのです。晴れていたのに、俄雨が降ってきたからでした。大家さんが、ベランダの外に細工をしてくれて、物干し竿をつけてくれたので、そこに干してあった洗濯物が、『濡れちゃうよ!』と言ってくれたわけです。『謝謝!』と言って取り込んだのです。

このお嬢さんの家の裏側の流し台のあるベランダで、鉢植えの花を育てているのです。階段の踊り場から、その花を眺めることができます。最近は、バラの真紅の花が咲き出していたのです。先日、この子が、一本切って持ってきてくれました。その後には、鉢に植え替えたバラを一鉢、また届けてくれたのです。

斜め上の階にも、中学一年生と小学校一年生の姉妹がいます。この子たちが、交互に、『おばあちゃんが作った豆腐です!』、『・・肉まんじゅう!』と言って届けてくれます。そんなふうに、みなさんのお隣さんになることができて、この町の片隅で生活をしています。

この日曜日は「母の日」でした。その前の日、小学六年の女の子と五年の男の子の姉弟が、カーネーションと百合の花束を、家内に届けてくれたのです。お母さんに託されてでした。日曜日には、私たちの中国滞在を助けてくれている夫妻が、私たちと同年配で、「恩人」だと言うご夫妻と私たちを、「母の日」ということで、夕食に招いてくれたのです。彼らにも両親がいるのに、そんな機会を設けてくれたのです。

そうしましたら、月曜日には、一人のご婦人(家内の若い友人で、食事に招いててくださった夫妻の会社に勤めている方)が、社長夫妻からと言って、花束とチーズ・ケーキ(十人前ほどのサイズでした)を届けてくれたのです。三人で花を鑑賞しながら、美味しく頂きました。

羨ましがらせてしまったでしょうか、お赦しください。ただ、年を重ねた今、外国で生活をしていながら、こんな祝福にあずかれるのは、望外の喜びだと、家内は感じており、私もご相伴(しょうばん)に預からせていただいております。「望郷の思い」を引っ込めてしまうような温かな交流が与えられております。裏門の守衛さんが、他の人には言わないのに、『上班吗?(出勤ですか)』とか『吃飯了没有?(ご飯を食べましたかー実は「こんにちは」の意味での挨拶言葉)』と、会うたびに声をかけてくれます。

そんな初夏を、ここ華南の地で過ごしています。夕べも、轟くような雷鳴と、土砂降りでした。

(写真は、頂いた「チーズ・ケーキ」です。なぜか「生日快楽(誕生日おめでとう)」とあります)

「代表的日本人」

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少し古い統計ですが、2007年3月に、NHKが、「日本人の好きなもの調査」を行っています。その調査項目の一つに、「好きな歴史上の人物」がありました。その結果は、織田信長、徳川家康、坂本龍馬、聖徳太子、武田信玄、源義経、西郷隆盛、福沢諭吉、野口英世の順でした。2005年に源義経、2007年に山本勘助(武田信玄の腹心の部下)が、NHKの「大河ドラマ」の主人公でしたから、回答者に、その影響があるかも知れません。でも妥当な人選だと思われます。

私の愛読書の一つに、「代表的日本人」があります。この本は、1894年(明治27年)に内村鑑三が書き上げて刊行されたものです。英語で書かれ、翻訳本が発売されました。鑑三は、武士の家に生まれ、幕末と明治維新の動乱を肌に感じて、幼い日を過ごしています。16歳で札幌農学校に学び(当時、日本で東京大学の前身校に次ぐ、若者たちの憧れた学校だったのです。一学年の学生数は、15〜16人だったそうです)、アメリカにも留学した、明治期のエリートの一人でした。そのような経歴を通して、『日本人とは?』という日本人のアイデンティティーを明らかにしたかったのでしょう、それで、この本を書いたのです。鑑三、三十三歳の時の労作です。

私の手元にあるこの本の「はじめに」という序文の中で、1908年1月の日付で、『・・・青年期にだいていた、わが国に対する愛着はまったくさめているものの、わが国民の持つ多くの美点に、私は目を閉ざしていることはできません。・・・わが国民の持つ長所・・・』と、13年後に、この言葉を添えています。鑑三が取り上げた人物は、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人でした。日本人の美点と長所を併せ持つ人物として、この五人を取り上げたのです。

この五人と、2007年の統計調査で好きだとされた上位十人とは、だいぶ違うことがわかります。かろうじて西郷隆盛だけが共通しているのです。この五人は、メジャーではないのですが、そうそうたる「人」であることが、鑑三の筆で紹介されています。国学の書や漢書を幼い日から読んで学び、青少年期には西洋学に触れた鑑三が高く評価し、日本人の代表に取り上げた人物は、みな秀逸なのです。

欧米に比して、立ち遅れた日本が、日本と日本人とを再評価した著作だということになります。『礼儀正しい日本人!』といわれる以上のものを持った人物を知るために、一読をお勧めします。

(写真は、岩波文庫の「代表的日本人」の表紙です)

紫陽花の蕾

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『道々の紫陽花の蕾が大きくしはじめました!』と愛読のブログにありました。この漢字を、「あじさい」と読むのですね。そうですか、東京は梅雨が近づいているのですね。例年、この時期のこの街は、雨季のように、雨の降る日が交互にやってくるのです。昨日は半袖でしたが、今日は長袖で肌寒く感じております。

以前住んでいた家は、なだらかな坂道の脇にあり、一階でしたから、雨の降った後は、裏庭の先の石塀から水が滲み出て、部屋の中も湿気が多かったのです。あの庭に金木犀があり、隣の家からは天使のラッパが庭に垂れ下がって咲き、左隣の庭からは、椿の花が咲いて落ちていました。でも一番のお似合いは、紫陽花なのだろうと思っていますが、ついぞ植えることもなく越してきてしまいました。

子育て中、子どもが手折った紫陽花を手に、友達のお母さんからもらって帰ってきて、『はい、⚪️⚪️ちゃんのおばさんから!』と、渡されことがありました。やはり長いしとしと雨の梅雨の時期の思い出なのです。よく俳句に詠まれる花です。

紫陽花の一夜の雨に艶やかに 久保田一豊

この「十七文字の文学」に憧れているのですが、作句のセンスがないのです。この冬に、日本に帰りました時、大原の里の温泉につかったのです。雪の舞う朝湯の中で、五七五とやってみたのですが、ダメでした。最高の俳句創作の自然環境だったのにです。久しぶりの帰国、まだ薄暗い朝、京風情の温泉、雪まで降っていました。

深深と 大原(おはら)の露天 雪のふる

「しんしん」と読んでください。ね、こんなものです。なぜ憧れたのかというと、小さな店をやっていた初老のご婦人が、自費出版の「句集」ができるたびに、それを届けてくれたからです。普段は構わないのに、しっかりと和服を召していたのです。中年になった私に、その俳句と和服の日本情緒が目覚めたのです。目覚めても、やはり学ばなければいけないのでしょう。

コンクリート作りの五階の今ですから、あの湿気から解放されて、ドライな感じがしていますので、俳句は、どうも似合いません。『もうすぐ梅雨・・・』という四季の訪れの微妙な変化がちょっと違うのです。あっ、分かりました。こんな言い訳をしてるからダメなのでしょう。

(写真は、ウイキペディア掲載の「アジサイ」です)

秘密厳守

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『・・・なんで大政、国を売る』と言う歌の文句を、上の兄が鼻歌で歌っていました。大学に通い始めて、覚えてきた流行歌の一節でした。それを聞いて、『面白いなあ!』と思ったのです。我が家の情報源が、父からだけでなく、兄のルートも加わったからでした。その新しい世界からの情報に、中学生の私は興味津々だったわけです。この大政は、清水の次郎長の子分で、侍から博徒に転じた変わり種だったのだそうです。侍が就活し、いえ転職させるような男気を、次郎長が持っていたからでしょうか。

国道53号線を南下すると、清水市興津で東海道、国道一号線につながるのです。山間部から平地に下ってくると、眺望が開け、間もなく、太平洋の波しぶきが見えてきます。大海原を見、潮風をかぐだけで、心が広げられると、この歌が思い出されて仕方がなかったのです。 『国を売る』、『大政は、どうして故郷や家を捨てたのだろうか?』と疑問に思ったのです。きっと武士を拘束する決まりや、面倒なしがらみに疲れたのでしょうか。深い内面の葛藤を経て、決断をしたのでしょう。浪花節の演目ですから、史実はわかりませんが、いつの世も、どこの街でも、同じ問題を抱えながら、人は生きているのでしょう。

「売国奴」という言葉があります。まさに<国を売る輩(やから)>のことです。 どこにも「秘密」にしていることが大なり小なりあります。国や自治体にも会社や事業所にも、そう、どこの家庭にだって一つや二つの「秘匿事項」があるものです。兄弟喧嘩をして殴られたって、『決して口外してはいけない!』、そう言った決まりが守られています。それがルールなのです。

<機密漏洩(ろうえい)>が、企業などで日常茶飯事に行われているのだそうです。愛社とか愛国と言った意識よりも、より良い収入に誘惑されて、秘密を持ち出すケースが後を絶たないようです。その企業秘密のコピー資料を餌に、就活をしている輩がいるのです。買い手も売り手もいて、成り立っている話です。私の人生訓ノートに、「あなたは隣人と争っても、他人の秘密を漏らしてはならない。」とあります。これが人の道、守るべきルールです。そう言った意識が希薄な時代になって、人が我儘になっているのでしょうか。寂しい時代が到来してるということでしょうか。

自分が「デベソ」であることを知られたくなかったのに、その秘密が漏れていたのです。銭湯に行っていたから当然ですが、悔しかった!でも中年太りしてからは、脂肪腹の中に引っ込んで、跡形がなくなってしまいました。『あの秘密は何だったのだろう?』と、今思い返しているところです。 思春期とは、変なことで悩むものなのですね。大政も私も、今日日の若者だって、事を秘めて、同じように悩んでいるのでしょうか。

(写真は、富士を遠望する、今の「清水港」です)

中学生

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私の仕事の事務所の近くに、中学校がありました。 よく学校の外で、彼らの喧嘩を見かけたことがありました。「荒れた時期」だったのでしょうか、静かになって波がよその学校に押していくと、また数年後にその荒れた波が、再び返してくるのを繰り返していたようです。市内の中学校で、今年は「⚪️⚪️中」、翌年は「△△中」、その翌年は「◻️◻️中」と言っていた時期がありました。白の運動帽を前後ろに被ぶって、事務所の前を通って行くのですが、一目瞭然の彼らでした。

あの子たちは、中学を出て働き始めていました。もう家庭を持って、四十代後半から、五十代になって、そろそろ孫を抱くような年齢になっているのではないでしょうか。よく、人懐っこく事務所のドアーを開けて入り込んで来ました。焼きそばやカレーライスを作ってあげると、美味しそうに食べていた顔は、じつにあどけなかったのです。 近くの市営団地の子たちが多かったようです。両親が共働きで忙しかったり、お母さんが水商売をした家庭の子もいました。構ってもらえなくて、寂しそうな表情を見せていました。

どう生きて来たのでしょうか。噂も聞かないままで時が過ぎてしまいました。彼らもまた、子育てに苦労して、『今時の子どもは、どうしようもねえや!』などと言って育て上げて、好々爺になっている彼らの顔を見て見たいものです。会ったら、『おっちゃん、あの時はありがとうございました!』とか言うのでしょうか。 どうなんでしょうか、今日日の中学生は?あの頃、私の知る限りでは、自らの命を断つてしまうような事件を耳にしたことがなかったのですが。時々、ニュースに残念な事件を聞くと胸が痛んできます。喧嘩を推奨するのではありませんが、喧嘩に至らない「陰湿ないじめ」が横行してるのでしょうか。もしかすると、一対一とか、集団対決と言った喧嘩ができなくなっているのではないでしょうか。

ある時、その中学校の校門の脇を通っていた時、校庭で教師たちが手持ち無沙汰でウロウロしていました。もう少し行ったところで、二人の三年生が「タイマン」を張っていたのです(s一対一の殴り合いの喧嘩のこと)。一方は生徒会の役員(後になってお母さんと二人で事務所に感謝の菓子折りを持ってきてくれた時に分かりました)、もう一方は「K」という体格の良い団地の子でした。勝負がついていたのに、まだやっていたので、間に入って止めました。殴り合いなどしたことのない役員さんが、買った喧嘩で、その男気をほめてあげたのです。

この二人も、それぞれの道を歩んで、真性の「おじさん」になっているのでしょう。バスに乗り込んでくる、こちらの中学生たちを眺めながら、今朝、彼らを思い出していました。 (写真は、事務所の近くを流れていた「川」です<出典はウイキペディア>)

言質を取る

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「言質(げんち)を取る(言葉尻を取る)」という言い回しがあります。国会での答弁、最近ではツイッターとかブログで述べた言葉について、「鬼の首を取った」ように喜んで非難や批判を加えることが多くなってきているのではないでしょうか。完全無欠な人はともかく、人は言葉で間違いをおかすものです。言い間違い、書き間違いは、国語学者でなければ誰にでもあります。『漢字を知らない!』と、物書きで飯を食っている新聞記者が、総理大臣を轟々と非難していたことがありました。こういうのを、「揚げ足を取る」というのでしょうか、取られた足を下ろすところまで取り去ってしまうような徹底的な攻勢には、はたから見ていて、どうかなと思ってしまいます。

あんなに非難されても、涼しい顔のできる肝っ玉の座った人ならいいのですが、不用意に語った言葉で、実に多くの人が傷ついてしまうのです。有名になればなったで、蜂の巣を突っついたような騒ぎの中に投げ込まれて、何百と言う記者だと称する者たちに、取材を強要されています。本人だけではなく、家族や親族に取材攻勢をかけるのです。拳は使わないだけで、それは極めて悪質な暴力行為ではないでしょうか。事件の加害者の家族は、もうそこには住むことができなくなったり、勤め先を辞めたり、雲隠れをせざるを得なくなるのです。彼らの仕事には「仁義(道徳上人が守るべき筋道)」はないのでしょうか。

私の愛読書に、「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。」と書いてあります。人を陥れようとして暴言、妄言(もうげん)、虚言する者の語る言葉には、「馬耳東風」で聞き流すことを言ってるのでしょう。『何で、あんなことを言ったんだろうか?』と考えに考えて、理由がわからないで寝込んで、鬱になってしまう人も世の中にはいるのです。「人の口には戸は立てられぬ」、人は手前勝手、自分勝手に出任せ、口任せにものを言うのです。「馬の耳に念仏」とはよく言ったものですが、分からない振りをしている馬のように、いなないているに限ります。「人の噂も七十五日 」と言うそうですが、七十六日の来ることを願っていれば良いのでしょうか。

自分を愛していてくれる親や友人や師などが語ってくれる忠告や勧告には、耳をそばだてて聞く必要があります。『雅仁!』、『雅ちゃん!』と言ってくれた師匠も母もいなくなったのは残念です。今度は、私が良き助言者になる役割順番が回ってきているのでしょう。

(写真は、「レンギョウ」です)