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昨日、大阪の有名店の「お好み焼き」を食べようと、家内に誘われ、家内は若き友人もお誘いして、その店で待ち合わせして、出掛けました。この街の人たちの味覚が、日本人に似ているのだそうで、街の中心地のデパートのワンフロアーに、横浜ラーメンとか、銀座の寿司店とか、ちゃんこ鍋とか、ステーキ屋とか、ケーキ店が暖簾を出しているのです。

プロの投資家と、プロの外食産業が、意見を一つにして出店したのですから、勝算があってのことなのでしょう。雨の日の週日の昼、人は親子ずれが数組いましたが、どこの店も同じ様でした。店員さんに聞きますと、週末は繁盛してると言っていました。日本人が10人も、その事業展開のためにやって来ている様です。

夜の部のステーキが、一人前で1200元(1元は16円強)だと、店の外のメニューにありました。中国の街で、そんな高価な夕食をとる人たちがいると目論んでるのですから。大変驚きました。すぐ上の兄が、そんなステーキをご馳走してくれたことがありましたが、ここでは、指を咥えるだけで終わりそうです。

もう「柚子youzi」が、果物屋さんに店頭に並び始めました。やはり秋の到来なのでしょう。長崎出身の隣家の方が、日本にいた時に、『故郷から送ってきましたので!』と頂いたことがありました。そう言えば、「栗」も見かけました。

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詩人の茨木のりこさんの「わたしが一番きれいだった時」は、多くの教科書に取り上げられた、とても有名な一編の「詩」です。

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いたtg
フランスのルオー爺さんのように ね

悲しく辛い戦争体験を、詩を詠んで回想されています。私も、こちらの大学の「作文」の授業で、この詩を読んでもらいました。そして、学生のみなさんに感想を書いてもらったのです。特に詩に最後にある、「ね」が、どんな意味を持っているのかを書いてもらおうとしました。3年生で、二年半ほど、日本語を学んだだけのみなさんには、ちょっと難しかったのですが、意味をしっかり捉えた学生さんもいました。

「美しくあるべき青春」、「清くあるべき青春」、「夢多き青春」を、戦争で傷つけられ、奪われたのは、随分と悔しかったことでしょう。戦争体験と、19歳で迎えた敗戦、戦後の厳しい時代を生きた体験を、茨木典子さんを始め、多くのみなさんがされ、そこから、この日本は立ち上がったわけです。

画家のルオーが、お爺さんになって、「凄く美しい絵」を描いたように、過去の辛い経験があっても、人は美しさを求め、表現して生きられるのだと、茨木のりこさんは訴えたのでしょう。「美しく逞しく」、年配者だって生きていけるんですね。私の愛読書に、「しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。」とあります。八月が行こうとしています。

(ルオー晩年の作品で「たそがれ」です)

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回顧

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七十数年の生涯で、何だか今が一番充実している様に感じるのです。アルバイトに明け暮れていた学生の頃も、子育てしていた時代も、アメリカ人起業家かgら、責任を任されて従事した仕事も、自分としては、力を抜くことなど、どの時もありませんでした。

学生の頃、夏前から毎年やったのが、牛乳工場の市乳部で、製造部からコンベアーで送られてくる牛乳の木箱を、冷蔵庫の中で積む作業でした。様々な種類の牛乳、フルーツジュース、ヨーグルトなどが送られてくると、空いたスペースに、翌朝の搬出が容易になる様に、積んで行くわけです。『来年も来てくださいね!』とプロ顔負けの仕事をしてくれたと、褒めててくれた部長が、そこにいました。

子育てのために、月2回の床清掃の仕事を、スパーマーケットから請け負って、20年近くしました。午前零時までの営業店で、11時過ぎに開始し、朝七時開店に@間に合わせての店舗の床全面の掃除でした。床を、ピカピカにするワックス仕上げでした。時間に追われての作業は、緊張の連続でした。帰宅した子どもたちは、よく手伝ってくれました。系列の店も頼まれたのですが、自分の容積をわきまえて断ったり、他店の掃除も頼まれたりでした。多くの人に助けて頂いた年月でした。

アメリカ人の起業家から受け継い仕事は、26年、その前の助手時代を合わせますと34年間、従事しました。その仕事は、家内との共同で従事したのですが、大変でしたが、喜びも多くありました。年に二度くらいでしょうか、月曜日に、子どもたちを学校に送り出して、隣県の入浴施設に出掛けて行って、帰りに、焼肉を一緒に食べたのが、とても意味のある息抜きの時でした。それにテニスの交流会に出掛け、英気を養ったのも宝物の時でした。

そして不思議な導きで、ここ中国にやって来たのです。来た当初、出会った方の紹介で、大学の日本語科の学生に、日本語を教えながら、こちらの事業のお手伝いをさせて頂きました。そして今日を迎えています。学生のみなさんと過ごした時も、私の宝物です。昨夕も、家内と出掛けて、頼まれた仕事を終えて九時半頃に帰宅しました。

多くの人が、このお借りした家にやって来ては、相談に乗ったり、アドバイスをしたりしています。家内は、日本語を学びたいと言う子どもたちに、今は、週に2クラスを教えています。ご婦人たちが訪ねて来て、一緒に時を過ごすことも多くあるのです。

本来なら、今頃は孫のお守りとか、茶飲み友だちと時を過ごすとか、趣味に生きているのでしょうけど、今なお、すべきことが与えられているのは、この上もない喜びであり、充実の心境です。急(せ)かされないし、プレッシャーはないし、力を抜いて生きていられるのですから、好い老いを生きられているのだと、在華満十二年を迎えて感謝でいっぱいです。みなさんに助けられて、生きてこられた年月を思い返しております。。

(今では綺麗に整備されている竹芝埠頭、ここでもアルバイトをしました)

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花盛り

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この2日ほど、エアコンのスイッチを入れないで、過ごせるほど、凌ぎやすくなってきました。夜間の暑さがなければ、快適なので、さしもの酷暑も敗走していきそうです。それでも、11月までは日中は暑い日がありますが。

今朝も、ベランダの朝顔がたくさん開きました。

今日も、断続的に強い雨降りですが、大家さんが持っている、除湿機が、大いに役に立っていいるのです。2つあるトイレの1つに、それを入れて、洗濯物を、縦横にセットした"ツッパリ棒"に掛けて、干しています。半日ほどですっかり乾いてくれます。雨の多い季節に、いつも日本でやっていた方法です。トイレの広さと密閉性がちょうど好いのです。

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一番星

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JRの中央線は、高尾と東京を結ぶ、通勤電車です(今では大月駅まで延びている電車もあります)。東京に越して来た父は、住み始めた街の旧国鉄の駅から、この路線で神田駅、新宿駅、東京駅、浅草橋にあった、自分の会社に電車通勤をしていました。私も、中学から大学、社会人になっても中央線、山手線を使って通学通勤をしました。今ある快速とか通勤快速とか特快のない時代で、一駅一駅の各駅停車でした。

最近、帰国の度に、JRや地下鉄やバスを利用するのですが、とくにJRの駅に停車中に聞こえるのは、駅名や乗り換え案内やベルの音ばかりではなくなってきています。短い停車時間に、「童謡」などの短い部分が、プラットホームに流れていて、電車の中でも聞こえて、なんともなく和やかにされ、郷愁を感じさせたれています。

八王子駅では、「夕焼け小焼け」が聞こえています。この作詞者は、八王子(当時は恩方村です)の生まれで、小学校教師の中村雨紅でした。“ウイキペディア”に、『代表作は故郷恩方の風景を歌った『夕焼小焼』。1919年(大正8年)作詞し、1923年(大正12年)草川信が曲をつけた(文化楽社『文化楽譜―新しい童謡―』掲載)。この歌はピアノ練習用の譜面帳に掲載されていたが関東大震災で紙型から何から一切灰になってしまった。わずかに人手に渡っていて奇跡的に焼失を逃れた13部から、日本の代表的な童謡の一曲となった』とあります。

夕焼け小焼けで日がくれて 
山のお寺の鐘がなる 
お手々つないで皆帰ろ 
烏と一緒に帰りましょう

子どもが帰った後からは 
円い大きなお月さま 
小鳥が夢を見る頃は 
空にはキラキラ金の星

私は1年間、この八王子に住んで、大和田分校に通いました。また学校を出た後に、3年間、この街にあった職場で働いたことがあったのです。ですから、とても懐かしく、この「ゆうやけこやけ」を聞くのです。華南の街の夕暮れ、バス停から道路を挟んだ向こうの空に、ひときはキラリと輝く「一番星(宵の明星)」が見えます。だいぶ日が短くなってきています。そうすると何だか、『凖ちゃーん!』と、帰宅を促す母の声が聞こえてきそうです。

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テレビ

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ニュースによると、65年前の8月28日に、「日本テレビ(民放テレビ)」が放映開始したとのことです。NHKは、同じ年の2月1日に放映開始していました。当時、父は、東京都下の八王子市大和田にあった、ある会社の職員住宅を借りて住んでいました。大きな村内と言う味噌屋を甲州街道を挟んだ、反対側を入った所にあったのです。この味噌屋は、後に手広く電気店を始めますが、老舗の商店でした。

その店にテレビジョンがあって、夕方になると、観に行った覚えがあります。やはり資産家だったのでしょう、あの近辺では最初のテレビを買っていたわけです。どんな番組だったのかの記憶はありませんが、1年後に越した街の下駄や雑貨や燃料を商う店にも、このテレビがありました。お得員さんで、貫禄のあった父に、店主は一目置いていたのでしょう、座敷に上がって、テレビを観ていました。子どもの私たちは、庭にゴザが敷かれていて、そこに座って観たものです。

放映番組で一番の思い出は、力道山の「プロレス」でした。日本人のレスラーが、アメリカ人の巨体の白人を"空手チョップ”で薙倒すのに、誰もが興奮して、代わりに闘って勝つのに、溜飲を下げていました。プロレスラーも観戦者も、ものすごく激していたのです。その後、「ひまなしとびだす」、「事件記者」という番組があったのを覚えています。「月光仮面」も、その後の番組だったと思います。

そんなで、父が家にテレビが入れたのは、上の兄が、テレビに出ると言うことになってだったかと思います。大学選手権の試合が、テレビ放送されるのを、父は観たかったからでした。テレビジョンの前に、日本人が<釘付け>になってしまい、家族の会話がなくなっていくのでした。功罪両面の文明の利器が、家庭を侵食して行ったわけです。ちなみに、私の家庭にテレビが入ったのは、長女が高校受験で、『テレビで講座があるので買って!』と言われてでした。

「日本紀行」とか「シルクロード」、最近では、「家族に乾杯」とか、「日本縦断こころ旅」とかが面白かったのですが、テレビを見ることが、今ではなくなりました。でも、自分がテレビを観て、一番強烈だったのは、東日本大震災の折に、仙台市内を流れる川を、「津波」が遡上して行く光景でした。こんな光景を見ていいんだろうか、と思いながら、何もできないでいる自分が、津波にのまれて行く人や家や車を見ていた、<罪悪感>でした。

(テレビ草創期の街頭放映の様子です)

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チキンラーメン

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こちらのスーパーマーケットで、所狭しと売り場に並べられてある食品は、「インスタントラーメン」です。しかも、カップ麺が人気なのでしょうか、何十種類も並び、その主力商品は、「韓国」の会社の作った、カップ麺です。もし毎日、この激辛や中辛を食べていたら、体に良くないのでは、と心配になってしまいます。

中学に入った翌年、1958年8月でしょうか、「即席チキンラーメン」が売り出されていました。この食品誕生について、“ウイキペディア”は次の様に記しています。

『日清食品創業者の安藤百福が終戦直後の大阪・梅田の闇市でラーメン屋台に並ぶ行列を見て、「もっと手軽にラーメンを」と開発した。チキンラーメンは、安藤が大阪府池田市の自宅の敷地内に建てた研究小屋で試行錯誤した末に生まれた。ある日、妻が作っていた天ぷらを見た印象や食感をヒントに「油の熱で乾かす」こと(瞬間油熱乾燥法)を思いつき、採用した。池田市にある「安藤百福発明記念館 大阪池田」(カップヌードルミュージアム 大阪池田)には、チキンラーメンを開発した作業小屋が復元・展示されている。また日清食品がチキンラーメン60周年記念として2017年10月から営業を始めた「チキンラーメン屋台」は、この研究小屋をイメージして製作した。チキンラーメンの「チキン」は鶏を意味する英語”chicken”であるが、本商品のローマ字表記は日本語で”Chikin”と綴られている。』

生ラーメンにない食感が美味しかったのです。同級生のI 君は、確か<チキンラーメン>と、バスケのOBに渾名(あだな)をつけられるほど、そのまま食べるほど好きだったのです。残念ながら、大学を卒業後、自分の街で、寿司屋を開業していましたが、三十代で亡くなったのです。この即席麺を見ると、彼のことが思い出されるのです。

なぜか、こちらでは、即席麺は、韓国生まれの様に錯覚されているのですが、歴(れっき)とした日本産なのです。ところが、開発者の安藤百福氏は、台湾嘉義生まれの台湾の方で、立命館大学で学んだ方です。試行錯誤して誕生した即席麺が、今では世界中で受け入れられて、今日を迎えています。今月、2018年8月は、その「60周年」なのだそうです。

直近のカップラーメンを食べたのは、昨年、札幌の病院に入院中に、病友が、『夜中に食べて!』と頂いたもので、こっそり食べたのです。本当に美味しかったのです。お礼を言ったら、もう一つ頂いてしまいました。袋入り即席ラーメンは、娘がニューヨークで買って、送ってくれたのを、先日、家内と食べました。これも、ことの外、美味しかったのです。あの「チキンラーメン」の級友の息子さんが、寿司屋を継いでいますが、切り盛りしていた、級友の奧さんはお元気でしょうか。

(日清食品の「チキンラーメン」です)

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回顧

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七十数年の生涯で、何だか今が一番充実している様に感じるのです。アルバイトに明け暮れていた学生の頃も、子育てしていた時代も、アメリカ人起業家から、責任を任されて従事した仕事も、自分としては、力を抜くことなど、どの時もありませんでした。

学生の頃、夏前から毎年やったのが、牛乳工場の市乳部で、製造部からコンベアーで送られてくる牛乳の木箱を、冷蔵庫の中で積む作業でした。様々な種類の牛乳、フルーツジュース、ヨーグルトなどが送られてくると、空いたスペースに、翌朝の搬出が容易になる様に、積んで行くわけです。『来年も来てくださいね!』とプロ顔負けの仕事をしてくれたと、褒めててくれた部長が、そこにいました。

子育てのために、月2回の床清掃の仕事を、スパーマーケットから請け負って、20年近くしました。午前零時までの営業店で、11時過ぎに開始し、朝七時開店に@間に合わせての店舗の床全面の掃除でした。床を、ピカピカにするワックス仕上げでした。時間に追われての作業は、緊張の連続でした。帰宅した子どもたちは、よく手伝ってくれました。系列の店も頼まれたのですが、自分の容積をわきまえて断ったり、他店の掃除も頼まれたりでした。多くの人に助けて頂いた年月でした。

アメリカ人の起業家から受け継い仕事は、26年、その前の助手時代を合わせますと34年間、従事しました。その仕事は、家内との共同で従事したのですが、大変でしたが、喜びも多くありました。年に二度くらいでしょうか、月曜日に、子どもたちを学校に送り出して、隣県の入浴施設に出掛けて行って、帰りに、焼肉を一緒に食べたのが、とても意味のある息抜きの時でした。それにテニスの交流会に出掛け、英気を養ったのも宝物の時でした。

そして不思議な導きで、ここ中国にやって来たのです。来た当初、出会った方の紹介で、大学の日本語科の学生に、日本語を教えながら、こちらの事業のお手伝いをさせて頂きました。そして今日を迎えています。学生のみなさんと過ごした時も、私の宝物です。昨夕も、家内と出掛けて、頼まれた仕事を終えて九時半頃に帰宅しました。

多くの人が、このお借りした家にやって来ては、相談に乗ったり、アドバイスをしたりしています。家内は、日本語を学びたいと言う子どもたちに、今は、週に2クラスを教えています。ご婦人たちが訪ねて来て、一緒に時を過ごすことも多くあるのです。

本来なら、今頃は孫のお守りとか、茶飲み友だちと時を過ごすとか、趣味に生きているのでしょうけど、今なお、すべきことが与えられているのは、この上もない喜びであり、充実の心境です。急(せ)かされないし、プレッシャーはないし、力を抜いて生きていられるのですから、好い老いを生きられているのだと、在華満十二年を迎えて感謝でいっぱいです。みなさんに助けられて、生きてこられた年月を思い返しております。。

(今では綺麗に整備されている竹芝埠頭、ここでもアルバイトをしました)

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花々しきベランダ

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今朝、強い雨がひとしきり降って、今は止みました。こういう降り方が、土曜日から続いています。今朝の雨上がりにベランダで咲いた、五輪の朝顔の一つです。
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ベランダの鉢の中からおいでて来た花です。名前が分からずにいたので、「里山を歩こう」のマルタンさんにお聞きしましたら、それをご覧になった《大阪府のKAyobeeさん》が、次のように答えてくださいました。『茎を切って穴がなければヒメジョオン、あればハナジオンです。』とです。
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これも同じ様にお聞きしましたら、《Kayobeeさん》が、『ハナキリンではないでしょうか。』と答えてくださいました。ありがとうございました。異国に咲く花の名をご存知である、その知識の深さに驚いています。

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同級生

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先週、知り合いが会食に招いてくださった席に、「同級生」も呼ばれていて、久し振りに、お会いしました。この方は韓国系のハワイ人(アメリカ人)で、ちょうど同じ時期に、この街の「海外教育学院」で学んでいたのです。長男がハワイで学んでいた時の恩人を、よく知っておられて、英語と習いたての中国語で交わりをしていました。2人の女の子を保育園に預けて、夫婦一緒に学校に来ておられたのです。

奥様は料理が上手で、韓国料理で招いてくださって、大ご馳走になったことがありました。長男と同じ年齢の同級生なのです。当時、その学院は、イギリス、インドネシア、ヴェトナム、フィリピン、韓国、モンゴルなどから学びに来ていて、日本人も結構大勢で賑やかでした。旧キャンパスの道路を挟んだ反対側に、教室がありました。今は、新キャンパスに移転しているのです。

この同級生は、中国語をマスターしていて、ちょっと外国人訛りのある中国語で、上手に話すのです。それにひきかえ、家内と私は、彼には及ばないのです。話すことのだいたいは分かるのですが、なかなか好く言い表せないもどかしさを感じ、ちょっと彼が羨ましいのです。学んでいる頃に、大学の外籍教師として、教壇に立っていて、その準備や添削で忙しかったと、私は言い訳をしたいのですが、そんな言い訳は通用しません。

会食を終えて、彼が、『“I want to”を日本語で何と言いますか?』と聞いて来たのです。それは、『私は日本語を話したい!』と言いたかったわけです。つまり、『廣田さんともっと深く交わりを持ちたい!』と願ってでした。英語も中国語も、上手に話せない私たちに、自分で学んで話をしたいと言ってくれたわけです。これって、アメリカ人の発想ですよね。

数年前、他の街に越して行かれ、大きな責任を持って、上海の近くの街でお仕事をし、若いみなさんの指導の働きをしているのです。小さかったお嬢さんたちが、そろそろ大学進学の時期を迎えているそうです。三ヶ国語を駆使しながらお仕事を忠実にされておいでです。男盛りの好人物なのです。私たちに、父母に対するような敬意を示してくれる方ですが、もう、全く《おじさん》になられた同級生です。

(ハワイでもこの街でも、よく見かける「ブーゲンビリア」です)

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