これまでお会いしてきた人たちの中で、『この人の下で働いて、もっと教えを請いたかった!』と思わせる人が何人かいました。もちろん若い時には、一世代も二世代も上の方の中に、何人かおいででした。いわゆる私の価値観や人生観、砕けた表現で処世術の教師陣と言えるでしょうか。彼らは、「成功の方策」や「無駄を省く功利学」や「爆発的即効的な成功術」を教授しませんでした。《人として、どのように生きるか?》、《どんな態度で社会の中にあるべきか?》、《人の上に立ちたければ先ず人の下で謙遜を学べ!》、《大きなものに憧れないで小集団主義で行け!》と言ったことが主だったのです。それは仙人のような精神訓話に聞こえますが、決してそうではありません。彼らは、『金と女と名誉からの誘惑に気をつけて生きていきなさい!』と、自分の身に降りかかった誘惑の手の巧妙さを示しながら、まるで父のように教えてくれたのです。彼らは、ご自分の周りで見聞きした多くの事例を引きながら、『事業で成功して名を上げても、人格の上で失敗者になることのないように!』、と口を酸っぱくするように語られたのです。

そういった方々が亡くなられていくのは寂しいものです。ニューヨークの学校で教授をされていた方が、時々日本に来て、セミナーを開くというので、よく参加しました。アラブ系のアメリカ人で、元ボクサーだった異色の経歴の持ち主でした。彼の薫陶を受けた青年たちが世界中にいました。ある時、彼は私を、アフリカに連れていこうと計画したことがありましたが、なぜか叶えられませんでした。もしアフリカに行ったなら、ここ中国には来ることはなかったことでしょう。北欧系のアメリカ人で、私と20歳違いの同じ誕生日の方がおられました。穏やかな緑色の目をされていて、いわゆるジェントルマンの一言に尽きる、高潔な人格の持ち主でした。彼ほど穏やかな心の持ち主を知りません。彼が亡くなられて葬儀の時に、誰も知らない彼の十代の頃の話を、弟さんがしたのです。西海岸の大きな街の警察署では、名の知れた《悪ガキ》だったのだそうです。戦争に行って帰ってきてからでしょうか、180度の大逆転の人生劇を演じたのです。結婚前の青年期のことでしたから、奥様も知らなかったことだそうです。そんな変えられた彼に、幾度となく励まされた日々が思い出されます。

さて、若い世代の方々の中にも、そういったキラキラと人格の輝いた方と、時々お会いすることがあります。アメリカにも、ここ中国にも、年齢や人種や言語やイデオロギィーを超えて、素晴らしい人がおいでです。風邪をひいた家内の腕をとって、病院から病院へ、診察室からレントゲン室へと連れ歩いてくれた方も、その一人です。家内に親切だったからではありません。診察を終えて家に帰って、居間で交わりをしましたときに、彼の言動や目の輝きの中に、これまでお会いしてきたあの方たちに似たものを見たのです。彼もまた、金や名誉のためには生きてはいないで、一人の妻と、様々に困窮した人たちを、時間を見つけて訪ねては激励しているのだそうです。こう言った方が中国にも多くいらっしゃるのです。出世や蓄財や称号からは全く縁のない世界で生きている人です。古来、この国は賢人を輩出してきたのですから、この21世紀も例外ではありません。広く人類愛、人間愛に動機づけられて、他を顧みて惜しみなく愛を注ぐことができることこそ、混迷と不安と不確信の現代には、最も必要とされている人材でしょうか。

器が足りないのに、大きな責任を負って、それを果たせずに、迷路に入り込み、横暴にふるまってしまった指導者が、古今東西を問わず多くいます。政治や教育や宗教や企業など、あらゆる分野でです。そう言いた方々でも、「良き助言者」がいて、聞く耳を持っていたら、国民、学生、会員、社員の悲劇を回避することができたに違いありません。また器の不足を知って、謙虚に生きたら、知恵深くなって、人を善導できたと思うことしきりです。さて、この自分は、人として、社会人として、夫として、親としての器や技量は、どれほどだっただろうかと、今日一日、回顧してみました。

(写真は、百度の「霞浦(福建省)」の海岸線です)

日進月歩

中国で、決して歌ってはいけない歌があります。歌ったばかりに、今日はひどい目にあったのです。1961年の秋に発売されたのが、「上を向いて歩こう」でした。高校生二年生の時で、ニキビだらけの顔がこぼれるように笑っていた坂本九が歌ったものです。その後、アメリカでヒットして、「SUKIYAKI SONG」と呼ばれて歌われた和製ポップスでした。アメリカ製ポップスを、日本語版に翻訳した歌がヒットしていた時代でしたから、逆輸出した歌だったことになります。

今日は、最近家内が見つけて買ってきたお菓子が食べたくなって、夕方になって家を出ました。小さい頃に、近所の駄菓子屋で売っていたのとソックリで、自家で焼き上げてあり、クッキーの上にたくさんのヒマワリの種がのっているものです。もう1つは、サンショウ味の「ぎゅうひ」です。まったく日本の味そのものなのです。歩いて15分ほどのバス通り際にある、間口一間、奥行き二間ほどの小さな店で、パン焼き器で焼き上げているのです。普段は下を向いて歩くことにしているです。親父の名前が、「むねはる」でしたから、背中を丸めるわけにはいけないのです。でも中国の街で、道路を歩くときには、どうしても下を向いて注意深く歩かなければならないからです。そうなんです、好物を買うんだという気持ちが、気持ちを高揚させていたのでしょうか、上を向いていい気持ちで歩いていましたら、フンでしまったのです。ズルッと足がすべりましたので、振り向いて路上を見て、『またやった!』と心の中で、フンガイしたのですが、後の祭りでした。

去年、シンガポールの街を歩いていました。アジアで最もきれいな街、いえ、世界でも一級のきれいな街でした。そう聞いていましたが、実際に、このシンガポールはゴミのない街なのです。その日、日本でも有名な「お好み焼き屋」の支店に、娘や息子と家内と一緒に入ったのです。何となく、どこからか臭っているのです。あまりいい匂いではない臭いでした。みんな、そんなことを思っていたのですが、だれも何も言わないで店を出ました。車の中にも、臭いが付いてきたのです。印度街に行ったときに、どうもフンだようです、この私がでした。その臭いを連れて、この世界的な綺麗な街・シンガポールを歩き回っていたことになります。これが、「また」のお話しの筋書き、中国では「上を向いて歩こう」を、街中で歌ってはいけない理由なのです。

今晩は、ちょっと悪い嗅覚の話になりましたが、子どもの頃、昔の日本も、同じようだったことを思い出すのです。ゴミも痰も排尿も、あたりかまわずだったのです。川は、ゴミ捨て場でしたし、木陰や藪はトイレでした。やはり転換期は、あの一九六四年開催の「東京オリンピック」に帰すると思います。あの時期から、日本は変わって、欧米並みになっていったのではないかと、思い出すのです。この中国も、欧米諸国から色々言われていますが、一八世紀のパリの街は、至極不潔な街だったと歴史は語っています。「日進月歩」、今に東京のような、シンガポールのように変わっていくことでしょう。それまで、上を見たら、すぐに下を向き直して歩くことにしましょう。帰宅後に、外の水道で丁寧に靴底を洗ったのはもちろんのことです。

薬でしょうか、愛の力によるのでしょうか!

家内が風邪をひきました。と言うよりは、先にひいていた私が移してしまったといったほうがいいでしょうか。外国での罹病は、少々不安なものですが。平熱36度以下の彼女が、38.7度の発熱と咳と下痢も併発していました。寝込んでいるのを知った友人が、次女くらいの年齢の一人の男の子のお母さん(元看護師さんです)と一緒に見舞ってくれたのです。お湯で体を拭いてくださったり、『泊まって看ます!』と言ってくださいました。結局、『今晩、様子をみましょう!』ということで、11時過ぎに帰えられました。ところが朝になっても熱が下がらなかったのです。友人から電話があって、『昼過ぎに迎えに行きますので、病院に行ってみましょう!』と勧めてくれました。迎えの車に乗せていただいて、市立第二医院(中国では大病院を医院と呼びます)に到着。この病院の母胎は、旧イギリス陸軍病院だそうで、諸外国が旧中国の多くの都市で、教育や医療や衛生や福祉事業に、どんなに精一杯に事業を展開していたかが伺えて、深く考えさせられました。

付き添いは、このお二人の他に、もう一人は屈強な、長男と同じほどの年の男性が来てくださって、家の門から、ずっと家内の腕をとって支えてくれたのです。この4人で、戸板ではなかったのですが、20世紀の利器・自動車に家内を乗せて、医者を訪ねたことになります。西洋医薬品にアレルギーがある家内ですので、診察の結果、お医者さん(中国では「大夫」といいます)が、『省立の中医医院に行ったらどうですか!』と勧めてくれましたので、そちらに車で動きました。そこで血液検査とレントゲンを撮りました。ウイルスの感染はないとのことで、中国漢方の薬を処方していただいて、帰宅しました。その薬を、煎じてくれるとのことで、家に持ち帰り、土鍋で煎じて家に持ってきてくれました。今朝も、またとどけてくれたのです。

以前、日本にいましたとき、家内は、多くの病人を家や病院に訪問し、お世話をする機会が多かったでしょうか。『ほっとするんです!』という方々は、家内の助けや、一緒にいてくれることを歓迎していました。そういえば、この1~2年、日本からお米や缶詰や佃煮、様々な日用品を送ってくださる方がいます。郵便料金をみますと、毎回12000円ほどの金額になっています。大きな犠牲を払って、日本の味に飢えを覚えているだろう私たちを、喜ばせようとしてくださるのです。この方も、家内がお世話させていただいたお一人です。昨日は、『恵が、人によくしてきたから、他所の国に来て、こんなに大きな愛や親切を受けてるんだよね!』と、家内に言ってしまいました。

福建省普江市(厦門の近くの海辺の町です)の漁船船長の逮捕、釈放。日本の準大手ゼネコンの会社の社員の逮捕、拘留、解放など、中日の間が、少しギクシャクしている昨今、我が家のテラスにも、瓦礫が放り込まれたりしていました。そんなこんなの国慶節の休みにもかかわらず、時間と労力をさいて、愛を示してくださる、こちらの友人たちに、大きな感謝を覚えた次第です。薬でしょうか、愛の力によるのでしょうか、『素麺と大根おろしとみかんとトウフが食べたい!』と、この数日食べていなかった家内が、食欲を見せてきました。一瞬の不安は、「友情」がかき消してくれたようです。明日は、ほかの友人がご主人と二人で、家内を見舞ってくれるそうです。一味違った「国慶節」のすばらしい連休です。そういえば、家内が食べた素麺も、このご婦人が送ってくださったものでした!

建国記念日

「国慶節」、1949年10月1日に、中華人民共和国が誕生したのを記念した、国家の誕生を祝う日です。昨日は、祝福の花火が打ち上げられる音が、近所に林立している高層ビルにこだましていました。町の中には「慶祝」と記されたバナーが掲げられ、街頭は老若男女であふれていました。長く、イギリスや日本などの外国の支配に甘んじてきた中国が、再び自分たちの手で国を建て上げたのですから、その喜びは大きかったことでしょう。あの日、このような現代の中国の経済的な躍進、世界第2位の経済大国なることを、誰が予測したことでしょうか。13億人(ある方は19億人と言っていますが)の喜びを肌で感じた昨日でした。

私たちの国にも、「建国記念の日」があります。「建国をしのび、国を愛する心を養う日」と言うことで、1966年2月11日から祝日となっております。アメリカが、1766年7月4日に「独立宣言」に署名がなされたのを記念に、フランスが、1789年7月4日に、バスチーユ牢獄襲撃・政治犯解放で「フランス革命」が始まった日(パリ祭)を記念にし、シンガポールが、1965年8月9日に、マレーシア連邦から分離独立したのを記念して制定されたのと、私たちの国は違っています。どう違うのかと言いますと、紀元前660年1月1日(旧暦、新暦で2月11日)に、神武天皇が即位した日を記念にしているのです。歴史的に文書記録が残っていないことと、神武天皇自身が実在したかどうか不明であることなど、「神話」の領域の出来事に由来している点が、他の国々にと違っているのです。ただ韓国には、「光復節(1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾した日)」の他に、「開天節(紀元前2333年10月3日に古朝鮮王国が建国されたとする「神話」による記念日)」がありますが、これは日本と似ていますし、日本と深く関わった建国の記念日です。

戦中、戦前は、神武天皇の即位を記念して、「紀元節」と呼ばれていた日です。神格化して戦争を推し進めたことから、戦後処理をした占領国・アメリカは、その経緯を嫌い、この日を廃止した経緯があります。私は、「王」としての「今上天皇」の立場を認め、昭和天皇が「人間宣言」をしたその決定に従って即位された「今上天皇」を、その人格の高さからしましても尊敬している一人です。最近、日本のテレビ界では、「坂本龍馬」に再び脚光が当てられ、江戸幕府の崩壊と新日本誕生の様子が注目されています。長州の木戸孝允、高杉晋作、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、土佐の坂本龍馬、武市半平太などの幕末の志士たちの活躍は、少なくともテレビの画面を観ただけでも、心踊るものがあるのではないでしょうか。中国の若い友人が、毎週、NHK大河ドラマ「龍馬伝」を録画して見せに来てくれるので、テレビの映しだす幕末の様子には精通しているのですが。この幕末の青年群像、歴史的な事実によっても、最も日本が躍動した時であり、日本歴史の中で屈指の変化の時期だったと思うのです。

それで、私の提案ですが、「明治維新」に脚光を当てて、この江戸城無血開城のなされた日、第十五代将軍・徳川慶喜の退位の日、明治の始まりの日を「建国の日」としたらどうかと思うのです。私は、龍馬だけではなく、高杉晋作、吉田松陰の薫陶を受けた彼に、強い関心を持っております。まだ山口県萩に入ったことはないのですが、幕末に、玄界灘を渡って中国にまで行って、国際都市・上海で見聞を広めた彼の心に去来したことを知りたいと思っております。龍馬にしろ晋作にしろ、「私利私欲」、「党派心」、「出世欲」に死んだ、国を衷心から思うことの出来る「国民」、「政治家」、「教育者」、「企業家」が、この国で養い育っていくことを切に願うのです。

中国の誕生日を心から慶祝します。国土のように広い心で、残留孤児を拾い養ってくださったみなさんに、心から感謝したいのです。その同じ心で、中日の友好を推し進めていって頂きたいのです。この広いい中国の隅々で、気高い精神を宿した素晴らしい青年たちが、日々に生長しているのを、身近に感じております。「建国記念日」、本当におめでとうございます。

ジョン・ウエイン

『ジョン・ウエイン、大将に!』というニュースを読んで、驚きました。「駅馬車」というハリウッド映画で有名だった映画スターが、『えっ、どうして大将に?』と思ったからです。日本では故人に、褒賞を与えることがよくありますから、『あっ、アメリカでも、有名俳優が無くなって30年もたった段階で、特別な称号を与えたのか!』と感心したのですが、どうも違ったようです。私の読み違いでした。『ジョンウン大将・・・』だったのです。つい先日も、朝の10時からの講演会に出席するために、あわてて5分前に滑りこんで、『間に合った!』と思いました。ところが、講演会が始まる様子がうかがえないのです。今度はしっかりと時計を見ましたら、8時55分を針が指していました。1時間早く、家内をせき立てて家を出たことに気付いたのです。『またか!』でした。

こういった失敗は、数しれない私です。今年帰国中、兄の運転する車に乗って、買物に出ました。郵便物を出そうとして車を降りて、郵便局に行こうとしていた私に、兄が、『これも出しておいてくれ!』と頼まれたのです。4~5分歩いて郵便局のポストに投函した私は、鼻歌気分で駐車場に戻ったら、『取り替えたものは?』というのです。『あ、拳ちゃんのはがきは、俺の手紙と一緒にポストに入れたよ!』と答えたのです。そうしたら兄が怒ったのです。どうしてか分からない私に、『郵便局のカウンターに行って、年賀状の当選の懸賞と交換をしてくれって言っただろう!』と言うではないですか。まったく、ポカンとしている私を車に残して、兄は私が出したポストのある郵便局に交渉に行ったのです。どうも、兄の頼みごとを上の空で聞いていたようです。兄から渡されたのを、手の中でしっかり見直せばよかったのに、手にしたままでポストに投入してしまった訳です。

もう何年も前に、ハワイだったか、トロントだったか忘れましたが、団体で旅行したことがありました。入国審査の壁面のテーブルの上で、審査の書類に記入していました。書いた書類を、その時は見直したのです(通常は一度書いたらそのままなのですが)。自分のパスポートの番号ではないのです。どうしてか、しばらく訳を考えてていましたら、どうも隣の人のパスポートの番号を書き込んでしまったのです。こんなことを書き続けたら、日が暮れますので、もう止めることにしましょう。

祖父、父、孫の三代で、一国の支配者になるのは実にまれなことなのだそうです。私は、おっちょこちょいのまま老いてまいりましたから、こういうニュースを聞きますと、今度は、『何かの間違いなのでは?』と思ってしまうのですが、しっかりニュースを見、聞いてみますと、どうも本当のことなのです。先ごろ、中国の新しい言葉に、「富二代」があると、学生から聞いて学んだ私は、『これは「官(役人)三代」だという《新語》が誕生したのだ!』と思わされた次第です。母も私に、いえ、私が母似の「おっちょこちょい二代」であるのは事実のようですが,「三代」であるかは、祖母を知りませんので確かめられません。ただ、私のおっちょこちょいは、死ぬまで治らないのでしょうか、このまま付き合うのは少々辛いものがありますが。

祝、イチローさん!』、MSNの「イチローが10年連続200安打を達成(9月24日 2:44)」のインターネット・ニュースを見て、この快挙に心からの賞賛を送ります。浮沈の激しいプロ野球、しかもアメリカ球界での、この金字塔の記録は、あなたの弛みない努力と刻苦と勉励の賜物です。

あなたの語られる野球理論を、なんどもテレビで見聞きしました。『たかが野球!』と、人は言いますが、一芸、一道に精進して、このような未曾有の記録を打ち立てたあなたに、もう一度拍手を送ります。

あなたは、私の子どもたちと同じ世代で、スポーツを愛した彼らと、同じ時期に、それぞれのグラウンドや体育館の床の上に汗や涙を流した仲間なのです。あなたより一学年上の長男も、小学校時代から、田舎の町の「スポーツ少年団」の野球部に所属していました。彼もまた、プロ野球選手になりたいと、灼熱の夏のグラウンドを、汗と泥にまみれて走っていました。『お父さん、僕、プロの選手になったら、お父さんとお母さんに家を買ってあげるからね。車だって・・・。』と言ってくれました。身長は、あなたよりも高かったかもしれません。

彼は、中学ではピッチャーでした。大切な試合の日だったと思いますが、日曜日でした。私の仕事の関係で、どうしてもその日に出ていくことができなかったのです。このことが監督の不興を買って、それ以降は補欠に回されたのです。このことは、彼が大学を出てから、彼の書いた文章を、たまたま見て知ったのですが。

補欠でも、彼はめげることはありませんでした。3年間クラブ活動を続けたのです。あなたが愛工大名電高校に進学を考えていた時期に、市内の学校に、野球選手としてではなく、奨学生として誘いを受けていました。彼は、留学を考えていましたので、それを固辞し、結局、ハワイの公立高校に留学を果たしたのです。野球は続けませんでしたが、アメリカで学びを続け、スポーツを愛し、人を愛して、一人の妻と二人の子供の夫と父として、今生活しています。野球少年の彼にとって、日本の星であるあなたは、自分の果たせなかった夢を成就した同世代の球友として誇りを感じていることでしょう。私もまた、スポーツを愛する一人として、この記録は尋常ではなく、類まれなる快挙だと、手放しで喜んでいます。

一億総自信喪失の私たち日本人にとって、この記録は、何にも代えがたい激励です。あなたを天才と呼ばないことにします。なぜなら、あなたは、誹謗や悪意や不理解に屈することのない、明確な目的を持ち持ち続けて、一つのことに邁進してこられたからです。才能などに恵まれない子どもでも、あなたの生き方に倣って、だれでも生きていけるからです。あなたの背番号の“51”にふりがなを振ると、《努力》が一番似合いそうです。特に困難や逆境を越えていく、あなたの抜群の不屈の精神を褒めたいと思っています。

イチローさん、心からお祝い申し上げます。さらなるご活躍を、ここ華南の空の下から願っております。

友好大使の役を

旧暦(陰暦、農暦とも言います)の8月15日(新暦ですと、昨日の9月22日です)を、「中秋」と呼び、さしもの暑い夏が終わって、『秋がきましたよ!』と、満月で知らせてくれた日です。中国や日本の人々は、満月に思いを馳せ、様々に想像力を働かせながら、何百年も何千年もの間、眺めて楽しみ、詩に詠んでは歌ってきたのです。

中国では、「中秋節」の祝祭日で、学校は三連休の休みです。日本では、月見団子に薄(すすき)の穂を飾って、中秋の名月を眺める《月見》の行事、「観月会」がもたれるますが、休日にはなりません。ところで、まだ猛暑日が続いているとニュースが伝えていますので、昨晩は、額の汗をぬぐいながら、この満月を仰ぎ見たのではないでしょうか。日本では、天気もあまりすぐれなかったと聞きましたから、もしかしたら「無月」や「雨月」の中秋だったのかも知れません。私たちは「月」と書いて読みますが、中国では二文字表記をいたしますので、「月亮(yueliang)」と書いて読みます。太陽の光を受けて反射している月の光は幽玄で、とても浪漫的ではないでしょうか。

名月をとつてくれろと泣く子かな   一茶

同じ月を見て、中国の子どもたちも、『あの月をとって!』と言ってきたのでしょうけども、この1~2週の中日境界線上での漁船と監視船の衝突事件が尾を引いて、忌憚なく心ゆくまで観月を楽しめなかったのは、少々気残りがしてなりません。地球から遥かに離れた遠いところに光る《創造の美》を、もっと感動しながら眺めたかったのですが。『観ながら食べてください!』と言って、働いている学校や数人の学生、また友人たちから、「月餅」をたくさんいただきました。断った方もいました。二人で毎日いただいても、どうもひと月はかかるほどです。愛や感謝を表してくださった気持ちを口にほうばりながら、甘さが口に広がるのですが、今月今夜のこの月は、曇って見えた「悲月」、「惜月」でしたし、美味しい月餅も心なしか甘酸っぱかったのです。

私は月に向かって願ったりしませんが、事件の事実を科学的に調べ検討して、感情的ないきさつ抜きで、十二分に話しあって、結論を導いていただけるよう、心から願い祈るものであります。中国と日本は、命の危険を侵しながらも、この付近の海上を、数限りなく行き来した歴史があるのですから。それほどの交流の緊密さを、ここで再評価して、親と子、兄と弟のような関係にあり続けた両国ですから、歩み寄って平和裏に解決してもらいたいものです。

『そうだ(中国語では「对了/duile」と言います)!』、よく煉った餡で作られた「月餅」をテーブルの上に置いて、中国の「鉄観音茶」と、日本の「渋茶」を飲みながら、温家宝首相と菅直人首相とで話し合っていただいたらいかがでしょうか。よろしかったら、我が家の、中日友好の証である「月餅」を提供させていただいても結構です。きっと中秋に月を愛でて食べる月餅が友好の大使の役を果たしてくれることでしょう。

友を得よ!


長女が、『高校受験でテレビ講座があるから買って!』と言われて買ってしまうまで、我が家にはテレビがありませんでした。とうとう節を曲げて買ってしまってから、『時間泥棒!』だと悪口を言っては、なるべく観ないようにしていたのですが、時間のあるときは、どうしても誘惑に負けてしまう私でした。ある時、テレビを観ていて、『こういった世界で名を売るのは大変なんだ!』と思わされたことがありました。骨格も背丈も日本人であるのに、顔を真っ黒に塗って、手と目と歯だけが異様に白く目立って、ダンスして歌っている似非(えせ)アフリカ人のグループがいました。名前を見ましたら、「シャネルズ」でした。声や顔やダンスだけではなく、こんな努力をして売り込まないと、ステージに立つことができず、人気を保つこともできない世界に、『大変だ!』と思うことしきりでした。案の定、いつの間にかテレビでは観られなくなりましたから、人気が落ちてしまったわけです。今回の帰国時にも、食事の時にテレビを観ていて、『前に、親指を立てていた芸人がいたけど、今はどう?』と聞いたら、『もういないわよ!』と義姉が話していました。

その「シャネルズ」のメンバーの一人が、田代まさしさんでした。ちょっと喋り方が気になる人でしたが、結構人気があった芸能人だったようです。その彼が度々手を染めていたのが薬物でした。私は子どもの頃、父から麻薬の怖さを教えらたことがあります。『JAZZなどの演奏者たちの中に、麻薬中毒患者が多いんだ。一度始めたらやめるのは至難の業だそうだ!』と父が話したときに、私は子どもながらに決心をしたのです。父の話し方で、怖さが分かったからなのでしょうか、『絶対にしないぞ!』と肝に命じたのです。その決心は、今にいたるまで守られてきているのですが、ただただ感謝なことであります。ただ、何度か麻酔手術をしてきましたから、血液の中に合法的に入れたり、歯科治療の時にも使ったことはあります。39歳の秋に、大きな手術をしたことがあります。11時間ほどかかったと言っていましたが。手術が終わって、ICUに運ばれた私は、激痛で目が醒めました。麻酔が切れたのです。あの痛さは、これまでに味わったものの中で、最高だったと思います。我慢しようと思ったのですができずに、看護師さんに痛さを訴えて、鎮痛剤を打ってもらったのです。ピタッと激痛が止んだのを感じて、薬物の効能の凄さに驚かされたのを今でも忘れません。退院して、母のそばで時を過ごしたのですが、2ヶ月たっても腰の周りの麻痺が取れませんでした。それは麻酔の後遺症だったようです。それから数年間、腰の周りの違和感は続きましたが、いつの間にか気にしなくなって、今では全く正常に戻っています。

その経験からだけしか、薬物の力の強さ、怖さは知りませんが、多くのプレッシャーの中で、特に浮沈の厳しい芸能界で生きる人たちが、そこからしばし逃れたいと思う誘惑は理解できます。と言っても、営業成績の数値に追われる営業マンだって、長距離ドライバーだって、いたずら小僧の子育てをしている母親だって、夜勤で働き続けなければならない看護師だって同じです。みなさんがプレッシャーに圧倒されながら生きているわけです。だからと言って、開放感、絶頂感、陶酔感を得るために、化学的な方法を用いることには、落とし穴があって、依存が付きものであるという常識論がありますから、禁忌です。ところが、田代さんの場合、これらのことは百も承知なのに、再犯してしまった《怖さ》があるのではないでしょうか。薬の怖さは自明ですが、問題は、それを求めなければならない、人の心の溝の深さだと思うのです。田代さんは、『自分の力で更生してみます!』と言ったそうですが、初めから無理でした。

私は若い頃、『あなたの人生を破壊するものがある。心して注意しなさい!』と、くどいほど教えられました。酒、金、賭け事、名誉、麻薬、女に気を付けることです。でも気を付けるだけでは足りません。その誘惑の恐ろしい程の力の強さで、力ある者たちがなぎ倒され続けてきていることを知らなければなりません。人間史はそれを立証しています。大成功をおさめましたが、人格上では敗北者だという、膨大な実例があります。私たちを教えてくれた師は、『友を得よ!』と言いました。同情し、共感し、共に泣き、失った機会や仕事を世話してくれる友のことではありません。《弱い自分の心の赤裸々な現実を、忌憚なく話せる友》のことです。心の戦場で戦っている戦いの現実、誘惑に晒されて怯えている自分、到底勝てない脆弱な自分、そんな自分を恥じずに話すことができる友のことです。みんなが同じ誘惑にさらされて、かろうじて守られて立っているだけの《人の限界》を熟知して、自分を甘えさせず、『仕方が無いんだ!』と言わないで、厳しく叱ってくれる友のことです。これこそが《親友》なのです。田代さんにも、そういった人がいたのかも知れません。しかし田代さんは、そんな恥ずかしい自分を語り晒せない自分、《高慢さ》が心の中に、まだ残っていたのかも知れません。だから、再び自らの《恥》を世間に晒さなければなりませんでした。さあ田代さん、己を知り、恥を知って、しっかりと再び立てる日が来るようにと、心から願っています。

それにしても、エジプトの巷間で、女性に誘惑された一人の青年が、服の袖を彼女の手に残して、その手を振り切って《逃げた》のは、一番優れた方法ではないでしょうか。誘惑の前で、グズグズしないで、《逃げること》なら、だれもができそうですね。そう促し、逃げる背中を、そっと押してくれる方だっていらっしゃるのですから。

警告してくれた父、教えてくださった師に感謝している、台風一過の華南の朝です。

要塞

ここ中国では、灼熱の街を「竈(かまど)」に例えるようですが、今年の調査で最も暑い街が、「福州」に決まったそうです。杭州も武漢も重慶も暑いのですが、今年の「東京」もカマドでした。何年も住んだ街ですが、一ヶ月の帰国滞在で感じた東京の暑さは、まれに見るものでした。しかも私の次兄の家は、多摩川の流れと多摩丘陵の間の自然の豊かな地域なのですが、それでも感じたことのない猛暑だったのです。子どもの頃も暑い日があったのでしょうけど、『暑い!』 という思い出は全くないのです。同じように多摩川の河畔の街で少年期を過ごした私ですが、兄たちのあとについて、川で泳ぎ、帰りに《アイスボンボン》や《アイスキャンディー》をなめながら、炎天下を歩いた記憶があっても、『暑い!』と感じなかったのは、子どもだったからでしょうか。それとも、あの頃は、そんなに暑くなかった時代だったのでしょうか。家に帰っても空調や扇風機などありませんから、日陰が一番涼しかったのだと思うのですが。

結婚した私は、その街で所帯を持ちましたが、仕事をやめて、アメリカ人実業家の事業の開始の備えで、待機していた時期が4ヶ月ほどありました。知人が大型トラック製造の日野自動車の溶鉱炉の部品を製造し、取り替えなどの業務をされていました。時間があり、収入もなかったので、この会社で働かせていただいたのです。生まれて初めて、高いというのでしょうか、深いというのでしょうか、溶鉱炉の中に入ったことがありました。顔も作業服を真っ黒になりましたが、燃やされませんでした。もちろん火が落とされていたからです。仕事は、冷却器の交換と設置だったと思います。いろんな仕事をしてきた私ですが、小学校の社会科で学んだ八幡製鉄所の大溶鉱炉を想像できないままだったので、実物の溶鉱炉に入る機会を得た私は、やっと納得した時でした。

そんな仕事をしていた5月に、長男が生まれました。親になって、くすぐったいというのでしょうか、ムズ痒いような感じを覚えました。どこから見てもまだ学生っ気の抜けない青二才でしたから、周りが心配していました。この子が2ヶ月の時、私はアメリカ人の実業家に従って、中部圏の一つの街に引っ越したのです。そこは私の生まれ故郷を吸収合併した街で、小学校一年の夏まで住んでいましたから、原点回帰だったことになります。目抜き通りに、果実店があり、その店の一部分を父が間借りして、事務所としていた懐かしい家です。すでに父は召されていましたが、このおじさんを頼って、何度も家内と長男を連れて遊びにいきました。店に行きますと、幼い私を可愛いがってくれた彼は、『雅ちゃん、天丼を食いに行こう!』と、必ず品を替えてはご馳走してくれたのです。彼は県の青果商組合の責任者をされていて、朝方、時間のあった私は、このおじさんの紹介で、青果仲卸商の手伝いを市場で始めたのです。運動にもなるし、收入もあるし、それに果物や野菜を、いつもたくさん頂くことができました。この方は、私と同い年で、子どもさんも私の長男と同年でした。転職をして故郷に戻って、東京とは比べられないほど豊かな自然の溢れる街に住み始めて、結局、私たちは、そこでもう3人の子どもを与えられ、34年を過ごしたのです。そこは、中部山岳の急峰に囲まれて、まるで自然要塞の中にいるようで、台風の猛威にさらされたという記憶がほとんどなかったのです。

ところが、今、台湾に「11号台風」が襲来し、まもなく海を渡って上陸しそうな気配がしています。竈の中のような暑さを吹き飛ばしてくれて、凌ぎやすくなったのは感謝なのですが、外は強風が吹き荒れて、窓を打ち叩いています。歓迎したくいない台風が、今年は9月の半ばで、もうすでに三度も襲来してきています。日本を覆っている高気圧の勢力が強いせいで、北に進路を取れない「11号」が、西寄りにコースをとっているからですが。自然の猛威の前に、人間は何もできないのですね。されるまま、通り過ぎていくのをじっと待っているしか方法のないわけです。来週は「中秋節」で、三連休ですが、この台風は、今後、どんな進路を取るのでしょうか、予断を許せません。アジア圏の中国も韓国も北朝鮮(朝鮮人民共和国)も日本も、同じ自然の猛威の前に、共にさらされている「親密感」や「運命共同体意識」を感じさせられてなりません。

あの溶鉱炉の中、火さえ落ちていれば、そこで風雨をしのげる「要塞」なのでしょうけど、台風の当たり年(!?)に、あちらこちらに散って生活している四人の子どもたちのことが、ちょっと気にかかる週末です。

立ちん坊

1960年代に、面白い歌がありました。東京オリンピック(1964年10月1日)の開催が決まり、東京の街が建築ラッシュに沸いていた時期に、多くの労働者を抱えていたのが「山谷」という街でした。いわゆる「ドヤ街」でと呼ばれ、オリンピック開催に伴なう都市整備が急進行していました。ビルや競技場や新幹線や高速道路など建設にために、膨大な量の労働力を必要としていたのです。そのために、日本中の田舎から労働力が求められ、日雇いの労働者が、首都東京に集まっていたのです。そんな彼らを収容する「ドヤ街」の1つが、「山谷」にありました。そこで寝起きをして、建設現場に通う住人たちを歌いこんだのが、「山谷ブルース」でした。

『今日の仕事はつらかった あとは焼酎をあおるだけ                                                                       どうせどうせ山谷のドヤ住まい 他にやることありゃしねえ

一人酒場で飲む酒に かえらぬ昔がなつかしい
泣いてないてみたってなんになる  今じゃ山谷がふるさとよ

工事終わればそれっきり お払い箱のおれ達さ
いいさいいさ山谷の立ちん坊 世間うらんで何になる

人は山谷を悪く言う だけどおれ達いなくなりゃ
ビルもビルも道路も出来やしねえ 誰も分かっちゃくれねえか

だけどおれ達や泣かないぜ 働くおれ達の世の中が
きっときっと来るさそのうちに その日は泣こうぜうれし泣き日

1963年、学校入ってから、最も日当のよかったのが、そういった現場で働く《日雇い》でした。それで、「上野」、「横浜」、「芝浦」で、まだ真っ暗な早朝に、《立ちん坊》をして、仕事にありついたのです。冬など、焚き火を囲んで、みんな黙りこくってるところに、何人もの手配師がやって来て、『あ、お前、お前、お前・・・・!』と言って、一日の必要人数を雇い上げていくのです。仕事にありついた者は、『よーし!』と嬉々として一日の仕事の現場に向かいます。しかし、雇われなかったら、「売血」して、一日の食事代と宿賃を得る人も少なくなかった時代です。

敗戦の負い目で、何もかも失ない、《一億総自信喪失》の日本と日本人とに、アジアで初めて開催された一大イヴェントの「オリンピック東京大会」の成功が、自信を取り戻させたのではないでしょうか。東海道新幹線が開業し、首都高の高速道路網が整備され、焼夷弾で焼かれた街に、ニューヨークにも引けを取らないようなビルが林立していました。『どうなるのか?』と戦々恐々として、世界中が注視し続けてきた、《危なっかしい日本》です。20年余り、終戦後を地を這うように忍んで過ごしてきて、やっと経済的に精神的に復興回復をしていることを、この大会は、世界に示すことができたわけです。《平和の祭典》であるオリンピック大会の趣旨にかなって、東京で開くことができ、成功裏に終わったことを、世界は賞賛し、高く評価して、変えられていく日本に安堵したのではないでしょうか。

『成功の裏に、こういって生きている日雇いたちがいるんだぜ!』と、かつて、《フォークの神様》と異名をとった岡林信康は歌ったのです。同志社大学を中退し、反骨青年の頭領のように、反戦、反権威主義、反社会を歌っていました。そんな彼が、NHKの「SONGS」というテレビ番組に出ていて、久しぶりに彼の歌声を懐かしく聞いたのです。弟と同年齢で、まあ同時代に青年期を生きた人だからでしょうか。

この番組を録画してもらったのですが、中国の学生たちに、私に託された授業で、どう使おうかと悩んでいるところです。歌の最後の部分に、『・・・ 働くおれ達の世の中が きっときっと来るさそのうちに その日は泣こうぜうれし泣き』と、夢が託されていますから、教材になるかも知れません。今はもう七十代、八十代になっている《立ちん坊》たちも、好好爺になって、『・・・誰も分かっちゃくれねえか』とかつては歌っても、理解して慰籍してくれる家族に囲まれながら、思い出を嬉し泣きしながら歌っていることでしょうか。