月遅れ

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近所に、氷や和菓子を商っている店があります。おばあちゃんと息子家族で経営しておいでなのです。お父様、お爺さまの家業を継いでいる若店主と、お店の前の通りで、ばったり会って、『暮れについてもらったお餅が、とても美味しかったです!』と話しかけましたら、にっこりと笑い返していました。下の息子くらいでしょうか。

それで、『またお願いできますか?」と言ったら、『いつまでですか?』と言うので、『なるべく早めに!』と答えたのです。そうしましたら、『ちょっと待ってて!』と言って店の仕事場に入って行かれました。私も店に入って、三十分ほど、おばあちゃんと話していましたら、つき上がった餅を持って出て来たのです。

ある市役所に、〈すぐやる課〉と言う部署があるそうですが、まさに〈すぐつく餅屋〉で驚き、家に帰って、遅い昼ごはんに、それで、「お雑煮」を作ったのです。買い置きの鳥肉と小松菜で、醤油味でした。家内が餅が好きで、海苔餅や黄粉餅も大好きなのです。月遅れのお餅を美味しくいただきました。

どこの民族にも独特な食べ物がありますが、日本人の好む「餅」は、《保存食》として優れた食べ物だなと感心してしまいます。ただし、〈切り時〉があるのです。つきたての餅を切ると、包丁についてしまって大変です。ちょうど良い硬さになった時に、綺麗に切れるのです。

もちろん、杵(きね)と臼(うす)でついた餅ではないのですが、その店の餅は、独特に美味しいのです。そう言えば、華南の街に、日本企業の社長の奥様からいただいて、何度も使った「電気餅つき機」があったのですが、どさくさの帰国で、置き忘れで帰って来てしまいました。私たちに後に住み始めた、中国人の若夫婦は、使っているでしょうか。申し訳ないことをしてしまいました。

なぜか、育ったわが家には、「杵」がありました。山奥から越してくる時に、引越し荷物の中に紛れ込んでいて、しばらく物置に置いてありました。父の記念品にしては、合点がいかなかったのですが、何時の間にかなくなっていました。また、饂飩やそばを粉から作るための平板と延べ棒もありました。母が、饂飩を、時々作ってくれたのです。

台所用品も様変わりで、べんりなものが多くあって、欲しい物もあるのですが、狭いアパートでは、置き場所に困るわけです。豆腐でも、味噌でも、漬物も、「餅屋は餅屋」なのでしょうか。米寿のおばあちゃんが切り盛りしている、街中の惣菜屋さんを見つけ、何種類も買ってしまいました。私には、そんな料理は作れないし、家内に食べさせて上げたいからです。でも感謝なことに、最近は、家内が台所に立つ様に回復しております。

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足尾銅山

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ここ栃木県には、「足尾」と言う村がありました(現在は日光市)。日光、中禅寺湖から、バス路線で行くことができますし、群馬県桐生から、「わたらせ渓谷鉄道」でも行けます。渡良瀬川の上流に位置し、江戸時代のピーク時には、1200トンもの銅を産出しています。明治期の富国強兵、殖産興業で、銅山開発が本格的に始まり、20世紀初頭には、日本の銅産出の40%をしめていました。まさに日本の近代化に寄与した鉱山だったのです。

しかし、過酷な労働が、鉱夫たちに強いられました。さらには精錬のための鉱毒が流れ出て、渡良瀬川の流域の農地を汚し、洪水も引き起こし、多くの人々を死なせ、苦しめたのです。いわゆる〈足尾鉱毒事件〉が引き起こされます。それは産業公害の日本のはしりだったのです。

そんな状況下で歌われた、長岡鶴蔵の作詞、啞蟬坊の作曲の「足尾銅山ラッパ節」があります。どんな過酷な労働がなされていたかが、歌われています。

欲という字に眼が潰れ 人たる道を踏み躙(にじ)り 
平民の歎(なげき)の叫び声 知らぬふりする穀潰し(ごくつぶし)

古川さん(※創業者)かご主人か イエイエあいつは違います 
弱き我らを踏み倒す  義理も情けも知らぬ鬼

足腰立つうちゃこき使い 病気や怪我をした時にゃ 
南京米が二升五合 ご主人呼ばわりしゃらくせー

哀れ撰工(鉱)の女工さん 朝は早くて晩は五時 
長い時間を働いて 貰(もろ)おたお金銭(あし)は十二銭

足は冷し腰は冷え 腰は縮むし皮は剥げ 
爪はなくなり肉は出て 撰鉱女はつらいもの

役人さんや監督は 手足あっため腰をかけ 
寒さや痛さは知らぬとも 少しは女工を思いやれ

腹が立たぬか鉱夫さん 年が年中働いて 
春や正月きたとても いつも変わらぬボロ着物

人夫引等にだまされて 来てみりゃビックリ下飯場 
荷物みなあずけられ 飛ぶに飛ばれぬ籠の鳥

籠の鳥なる食物(くいもの)を よくよく吟味するけれど 
我等堀子(ほりこ)の食物は 塩の混ぜたる空けつ 

毒と知りつつ精錬で 臭き煙に責められて 
死ぬほど稼いで三十二銭 之がほんとの生き地獄

上席良き顔せんために 我々共をコキ使い 
飯食う時間もやかましく 今に見ておれ此の犬め

好きでダルマ(淫売)をするでない 嫁に行かれず飯食えず 
と云うて仕事もない故に 涙こぼしてこの苦労

ダルマすれども心まで まさかダルマになりません 
思う殿御(とのご)があるなれば 必ず操(みさお)を守ります

我々この歌うたうのは 面白おかしでするでない 
心のそこの血の涙 割って見せたい腹の中(うち)

この歌は、youtubeで聞くことができます。栃木県佐野出身の国会議員の田中正造は、反対運動を指導しています。悲惨な出来事が、日本の近代化の歴史の中に、多く隠されているのです。

(足尾銅山の鉱夫のみなさんの古写真です)

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都会の音

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「都会の音」があるそうです。港町なら汽笛、農村なら耕運機のエンジン音、森林ならチェーンソウ音ですが、都会を代表する音は、〈地下鉄走行の音〉でしょうか。いいえ、〈サイレン音〉なのだそうです。あの消防車、救急車、警察車両、路上をゆく時に発する音です。

私たちの住む街は、ご多分にもれず、静かな街で、年配の観光客がそぞろ歩く姿が見られます。江戸期には、「例幣使街道」と言う主要国道が、街の中心を走り、明治期には、栃木県庁が所在していたのです。近所の古老によれば、「みつわ通り」は、路線バスが行き交い、人通りが溢れ、道沿いの商店は、栄えていたのだそうです。ところが、今や〈シャッター街〉に変じてしまっています。

何年も前に、倉敷に行った時、街中を歩いてみました。倉敷駅近くの道は、まさに、そのシャッターが降りたままの商店が連なっていて、目をつむると、人の波や下駄や草履の音が聞こえてきそうでした。伯備線の発着駅ですから、沿線の住民の多くが利用して、商いがかつては栄えていたはずです。

1960年代に、日本の多くの街に、仕事で出かけた頃は、どの街も元気で潑剌としていましたが、今や地方都市の中心都街が、勢いを失っているのです。新幹線、高速道路、市外のバイパスができてから、その傾向は強くなったそうです。

近所のお客様を相手にして、子を育て、教育を受けさせ、文化的な生活をしていた商家の人たちが、大型スーパー攻勢に抗しきれずに、廃業してしまったのです。その反動でしょうか、聞くところによりますと、アメリカでは、大型店では買わないで、地元や近所の店で買い物をして、彼らを支えていこうとする運動があるのだそうです。

同じように、農家を支えていく運動もあります。有機栽培、低農薬栽培をする生産者が自営できるように、支えていこうとしています。私たちが住んでいた華南の街でも、40ほどの家庭が、購入の約束をして、野菜を購入するなら、生産者を支えていけるからと、誘われていました。残念ながら、そんな動きの中で、帰国してしまったわけです。

かつての賑わいを、戻せるでしょうか。後継者が、都会に出て行ってしまって、家業を継がない、継げない現状もあります。近くに八百屋さんがあって、前には買ったのですが、値段が高いのがネックになって、足が遠のいてしまっています。この辺に、〈ジレンマ〉がある様です。

かつては県庁のあった街ですが、仕切りに〈都会の音〉が頻繁に聞こえてきます。市役所や消防署のある主要道路沿いに家があるので、とくにそうなのです。きっと、高齢者の方が、サイレン音を立てながら、搬送されているに違いありません。わが家でも、携帯電話の連絡先のトップに、《消防署》が入れてあります。これも私たちの現実であります。

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開花予報

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今年の桜の開花予報です。

情報提供者 ぽんぽんやま(PPY)@京都@mt_pompon_ppy
2月13日
2/13時点 ウェザーニュース満開予想

五稜郭公園4/27
弘前公園4/23
桧木内川4/27
北上展勝地4/18
高田公園4/8
高遠城址公園4/11
千鳥ヶ淵3/29
嵐山4/5
吉野山上千本4/9

この街の桜の名所をお聞きしましたら、「大平山」だそうです。去年は、慌ただしい中、壬生町の東武日光線・国谷駅の古木の桜を、家内のお見舞いの途上、蕾が膨らんでいく頃から、開花、落花、桜吹雪まで、車中から見続けました。まだかまだかの開花を追った日々でした。今春は、若き友人が、家内と一緒に、大平山にお連れくださるとのことです。楽しみにしているこの頃です。

(大平山の桜です)

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切なる願い

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〈憎しみ〉が、人の心を占領しています。
〈争い〉が、人と人、集団と集団、国と国の間に入り込んでいます。
〈主義〉と〈主義〉が、衝突しています。
〈価値観〉と〈価値観〉が譲り合っていません。
〈戦争〉でもないのに、〈飢饉〉でもないのに、どうしたことでしょうか。
〈罵り合い〉、〈殴り合い〉、〈奪い合い〉もあります。
どうしたのでしょう不協が連鎖しています。
最高傑作の人が、期待に応えられていません。
〈恐れ〉、〈不安〉、〈期待外れ〉を越えていきたいのです。
〈どうにもならないこと〉は、どうにもならないのです。
相手を思いやれる様になって欲しいのです。
切なる願いです!

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試練

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隣国、中国に、私たちの思いを向けましょう。混乱、恐れ、不安が、中国のみなさんの心を満たしています。一昨日の夕べ、武漢からは、だいぶ遠い華南に住む友人と話しました。外出制限がしかれ、食料の買い出しも、配送業者に任す以外ないそうです。大学の授業も、ネットでしようとしています。

春節で実家に戻っていた友人は、政府の許可を得て、授業の資料を取りに、大学街の家に出かけたと言っています。様々まな面で、不自由をしています。それでも、募金をして、武漢への援助をし続けているそうです。中華人民共和国の開闢以来の最大の試練の時にあります。

13年過ごした中国は、家内と私の《第二のふるさと(老家laojia)》何です。友人たちがたくさんいて、困難に直面しています。ぜひ覚えていただきたく、お願いをいたします。終息し、元の様な生活に戻れる様に、とくに、患者さんの治療に当たり、重症化を防ごうとしている医療従事者、円滑の業務ができる様に、市の責任者のためにも覚えてください。

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ことば

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forest glade with blooming flowers

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「物を言う」時、どう言うかによって、随分と、聞く人の応答が違ったものになります。とくに若者の行動や言動を注意する時に、どう言うかによっては、攻撃的に反逆してきたり、あるいは素直に受け入れるかで違うのです。

私は、言葉で失敗したことが多くありました。言ってはいけないことを言ってしまったり、言い方が正しくなくて、相手を怒らせたり、落胆させたりしてしまったのです。それは私だけではなく、多くの人が失敗している様です。ガリラヤ湖の漁師だった方が、こんなことを言い残しています。

『私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。』とです。この方の経験か、周りの人を観察しての経験でしょうか。ことばは、燎原の火の様に、焼き尽くすものを飲み込んでしまいます。唇や舌の世界は、〈火の世界〉だと言うのです。

1953年(昭和28年)2月28日のこと、時の総理大臣、吉田茂が、衆議院予算委員会で、社会党の西村栄一と質疑応答の後、席に戻ろうとして、小声で『バカヤロウ!』と言ったことで、衆議院が解散してしまいます。その時の質応答の記録が残っています。

西村「総理大臣が過日の施政演説で述べられました国際情勢は楽観すべきであるという根拠は一体どこにお求めになりましたか」
吉田「私は国際情勢は楽観すべしと述べたのではなくして、戦争の危険が遠ざかりつつあるということをイギリスの総理大臣、あるいはアイゼンハウアー大統領自身も言われたと思いますが、英米の首脳者が言われておるから、私もそう信じたのであります。(以下略)」
西村「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総理大臣の翻訳を承っておるのではない。(中略)イギリスの総理大臣の楽観論あるいは外国の総理大臣の楽観論ではなしに、(中略)日本の総理大臣に日本国民は問わんとしておるのであります。(中略)やはり日本の総理大臣としての国際情勢の見通しとその対策をお述べになることが当然ではないか、こう思うのであります」
吉田「只今の私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁致したのであります。私は確信するのであります」
西村「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか。
吉田(無礼なことを言うな!)
西村 何が無礼だ!
吉田(無礼じゃないか!)
西村 質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。(中略)翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ! 答弁できないのか、君は……
吉田(ばかやろう……)
西村 何がバカヤローだ! バカヤローとは何事だ!! これを取り消さない限りは、私はお聞きしない。(中略)取り消しなさい。私はきょうは静かに言説を聞いている。何を私の言うことに興奮する必要がある」
吉田「……私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取り消します」
西村「年七十過ぎて、一国の総理大臣たるものが取り消された上からは、私は追究しません。(以下略)」

この両者の確執は、以前からあった様ですが、小声の囁きが、大事を引き起こし、吉田茂の政治生命を終わらせてしまうのです。でも、西村議員の事後処理法を学ばねばなりませんね。

その〈ひと言〉を言ったばかりに、大喧嘩になることがよくあります。関東人の〈バカヤロウ〉と、関西人の〈アホ〉とは、意味が同じでも、言葉の重さが桁違いに違っていそうです。

ことば上の失敗の経験を見聞きし、経験して学んだことが、一つあります。それは、《事実》だけを言うことです。叱ったり、注意したり、否定したりせずに、その現実を、感情を交えずに言うことです。良し悪を判定しないことで、聞く人が、自分で決めさせるのです。そう私がし始めてから、人間関係は円滑になってきています。

(ガリラヤ湖畔に咲く花です)

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花が咲いた

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アメリカの北西部にいる次女から、今週、写真が送信されてきました。日本と同じ様に、暖かいのでしょうか、春の到来が早くなっています。写真を観て、ホッとしています。陽の当たるわが家の窓辺にも、サルビヤやシクラメンや胡蝶蘭、名前の分からない花が咲き誇っています。確実に、そこは、もう春なのです。

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恐れるな!

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さしものオーストラリアの山火事が、豪雨の襲来で鎮火したニュースを聞いて、ホッとしました。その焼け跡の木から、新芽が出てきている写真が、友人から送られてきました。時々、ユラユラや、ドスンと体感する地震が起こったり、火山が爆発したり、人身が冷えたりして悲しい事件も頻発しているニュースも、多く聞こえてきます。世界中を不安にしている疫病も、どう収束していくか不明です。

そんな中で、『恐れるな!』との声が聞こえてきます。しっかり時の流れを見つめながら、風評被害の渦に巻き込まれない様にしたり、慌てたりしないことだと、自分に言い聞かせています。

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渋沢栄一

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江戸五街道の一つ、「中山道」は、日本橋から、日本の内陸を通って、京にまで至る、六十七の宿場を持った主要街道でした。その宿場町の一つに、日本橋から数えて、9番目の「深谷宿」がありました。

明治維新の後、この宿場は、「深谷市」となっていきます。この深谷は、「深谷ねぎ」で有名ですが、ねぎには比べられない、人物を産んでいます。次期、1万円札の肖像となる、「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一のことです。市のホームページでは、次の様に、この方を紹介しています。

『渋沢栄一は天保11年(1840)深谷市の血洗島の農家の家に生まれました。幼い頃から家業である藍玉の製造・販売・養蚕を手伝い、父市郎右衛門から学問の手ほどきを受けました。7歳になると下手計のいとこの尾高惇忠のもとへ論語をはじめとする学問を習いに通いました。
 20代で倒幕思想を抱き、惇忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城乗っ取りを計画しましたが、長七郎は京都での見聞からこれに反対し計画は中止されます。その後、喜作とともに京都へ向かい、一橋(徳川)慶喜に仕官することになりました。
 一橋家で実力を発揮した栄一は27歳の時、慶喜の弟徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情に触れることができました。明治維新となって帰国すると日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立し、その後明治政府の大蔵省に仕官します。栄一は富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも関わりました。大蔵省を辞めた後、一民間経済人として株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れるとともに「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめ、約500もの企業の設立に関わったといわれています。また約600もの教育機関・社会公共事業の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残しました。』
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日本の資本主義の実践や確立のために、この渋沢栄一は、大いに貢献をした人で、実業界ばかりではなく、教育界でも、大変な働きをされています。政治的には、貴族院議員に選任されますが、第一回帝国議会に、一度出席しますが、それ以降は、出席せずに、辞任してしまいます。その代わり、多くの会社を起こしたことは、特筆に値します。

ノーベル賞候補に、二度も推挙されているのだそうで、その経歴は、驚くほど多彩です。『人は全て自主独立すべきものである。自立の精神は人への思いやりと共に人生の根本を成すものである。』という言葉を残しています。

(深谷市の市花の「チューリップ」です)

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