悠久

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歳を重ねると、感覚が鈍くなっていくのかも知れません。でも、《懐かしい匂い》がしてくると、胸がジーンとし、心かキューンとし、涙腺がシューンとしてきて、この手の嗅覚は、歳をとっても、まだ健在なのかも知れません。多分、刻み込まれた記憶は消えないのでしょう。きっと、ふるさとには独特な匂いがあるのだと思います。懐かしさが、時として、匂いとなって蘇ってくるのでしょうか。

一級河川の上流、その支流の一つ、その奥で生まれた私には、土や木や石や水や風や空や光が、そして色や輝きや湿り気も伝わってきて、すぐ、そこにある様な思いがしてまいります。歌謡曲で歌われる歌詞に、『・・・ああだれにもふるさとがある、ふるさとがあーる・・・』も思い出されてきてしまいます。

私のふるさとの渓谷から数えて、いくつか東側に、沢伝いの温泉場があります。その骨折後の恢復に良いという温泉を紹介されて、二、三日、休暇をとって出かけたことがありました。まだ二十三歳でした。そこにお爺さんの湯治の手伝いで、私と同世代のお嬢さんが来ていたのです。

そこは湯治用の温泉で、混浴でした。そのお嬢さんは、お爺さんのお世話で、一緒にお湯に入ってきたのです。私は、それを見て、すぐに目をそらし、湯から上がってしまったのです。裸になってまで、お爺さんの入浴を、恥じずに手伝っている孫娘の決心が、実に素敵でした。温泉場のたたずまいと共に、そのキリッと結んだ唇と真っ白な肌を、はっきりと覚えています。

その温泉の奥に、鄙びた温泉郷があって、三十代の最後の年に、それも手術後の湯治で、出かけたことがありました。同じ湯治客と、狭い浴槽に、譲り合いながら入るのです。そこも混浴でした。それだけ治癒を願う必死さがあっての温泉浴だったのです。ほとんどの湯治客に、手術痕があって、ラジウム温泉の効用に、最後の望みをかけてやって来ていた様です。
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何度か目に行った時に、初老のおじさんが、『私の部屋で、一緒にお茶を飲みましょう!』と、私を支えるために同伴してくれた家内と私を誘ってくれました。アコーデオン演奏で、「誰か故郷を思わざる」、「湯の町エレジー」などを歌ったのです。誰にも故郷があって、それを懐かしく思い返すのでしょう。あの時も、時間がゆっくり過ぎて、体だけではなく、心も、そのゆっくりさを楽しめました。

そこは、まるで生まれ故郷、そのものでした。時間の経過が、記憶を薄れさせることはなさそうです。人間って、故郷を慕おうとする感覚は、年年歳歳、いよいよ強くされていくのでしょうか。土地だけではなく、人であり、出来事が、《ふるさと》なのかも知れません。それ以外に、帰って行くことのできる、生まれ故郷とは違った、もう一つの《ふるさと》が、私にはあるのです。そう、あると信じ切っているのです。老いも、病いも、妬みも、諍(いさか)いも、死も、新コロナウイルスの感染騒ぎもない、悠久の《ふるさと》であります。

(生まれ故郷に近い所、今はなき宿の玄関の写真です)

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Dream

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やがて、〈一人の人〉が出現します。世界が抱える様々な問題、人類の存続に関わる、あらゆる課題を解決してしまう人です。組織ではなく、組織を驚くほどの統率力、指導力、決断力、英知を持って動かし、世界が直面する問題を解決してしまう〈一人の人〉です。

人口増、食糧不足、環境汚染、異常気象、原発、気象異常、難病疫病の蔓延、家庭破壊、老人問題、青少年問題、国際紛争、民族紛争、難民の避難、貿易商業問題、宇宙開発等の課題が山積して、その想像を絶する様な極限に達する状況下で、登場するのです。

人類の歴史の中に、その時代時代に、その国国に、その民族民族に優れた指導者が、時宜にかなって現れては、民族や国や時代を導いてきました。ところが、この人は、世界大に、宇宙規模で活躍するのです。これまで手付かずの分野にまで、手腕を働かせてしまいます。人類史上、最も優れた能力を持つ人です。

世界は、この人を称賛し、賛歌を歌います。人々は、東から西から南から北から、こぞってやって来て、絶大なる誉れを、この人に帰すのです。割れんばかりの褒め言葉と褒め歌が、地上を満たします。そして、この人を、大いなる都の玉座に迎えます。そこに座すこの人を礼拝するためにです。まるで万国の王の様にして、人々の上に、この人は君臨します。

しかし、この人が「平和の王」であるのは束の間であって、やがて横暴な支配者として、人類史上に現れた極悪の独裁者の比ではない、絶対者として、恣(ほしいまま)に統治します。その容貌は、表では柔和ですが、自尊と高慢さが、その裏に隠されています。人々は、やがて、解決してもらった問題には比べられない様な、大きな問題の渦中に突き落とされます。

この人が、「真実の王」、「公正の支配者」ではないことが、人々に分かるのですが、時遅しで、更なる叫びと嘆きの中に、世界は陥ります。ところが絶望の中に、「王の王」がやって来られます。平和と安息を、《遜らされた人たち》に与えるためにです。そんな「夢(Dream)」を見ました。

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出現

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「混乱」、さまざまな所見、意見、考察が溢れかえって、収集がつかなくなった状況を、そう言うのでしょうか。また為す術がない状況を、そう言うのだと思います。〈新型コロナウイルス〉による新型肺炎が、世界中に蔓延していて、人々の心の中に、「不安」が生まれています。

1347〜1353年に、人類史上、最大規模で流行したのが、「ペスト」でした。当時のヨーロッパ全人口の約 3 分 の 1 が、その疫病によって亡くなっています。それは、想像を超えた規模と数の災禍でした。このヨーロッパでの拡大の背景には、当時の世界の覇者・蒙古軍がヨーロッパに侵攻したのと、人の行き来が頻繁になった背景がある様です。

1334年(鎌倉幕府の最末期)に、中国大陸で、激しい旱魃があって、農産物の生育に大被害がありました。それで飢饉が起こった中で、杭州で疫病が発生しています。それが「ペスト」であったと考えられています。当時の通商路の「シルクロード」によって、ペストの媒体である〈ネズミ➡︎蚤(ノミ)〉、あるいは〈人➡︎ノミ〉によって、ヨーロッパに病原菌が運ばれたと、原因が考察されています。
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この「黒死病」とも言われるベストは、18世紀に至るまで、何度もの流行期を経ています。日本に、このペストが入ったことについて、次の様な記事があります。

『日本では、1899 年(明治 32 年)に流行地の中国から侵入したのが初のペストである。翌年から東京市(現在の 23 区)は予防のために一匹あたり 5 銭で鼠を買上げた。本来日本国内にはケオピスネズミノミは生息せず、したがってそれ以前には日本にはペストはなかったとされている。ペストが日本に侵入してから 27 年間に大小の流行が起こり、合計ペスト患者 2,905 人(死亡 2,420)が発生した。しかし、日本がペストの根絶に成功したのは、ペスト菌の発見者である北里柴三郎や、彼の指導下でダイナミックに動いた当時の日本政府のペスト防御対策(特に、ペスト保菌ネズミの撲滅作戦)にある。』(加藤茂孝)

私たちは、日本が観光地として、世界から注目されて、おびただしい数の外国人が、日本に出入りする時代を迎えました。そのお陰で、経済効果が上がっている様ですが、メリットとともに、〈デ・メリット〉もあります。このグローバル化は、どうすることもできない社会的な現象ですが、経済優先、商業重視に偏ってしまううことで、〈糠喜び〉するだけではいけません。被る〈被害〉をも考えておかなければならないのではないでしょうか。
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「・・・地上では、諸国の民が・・・不安に陥って悩み・・・恐ろしさのあまり気を失います。」と、この時代の出来事を、私の愛読書は看破しています。「混乱」や「不安」の時代の只中で、私たちは、徒(いたず)らに恐れなくてもよいのです。慌てなくともよいのです。「流言蜚語(るげんひご/世の中で言いふらされる確証のないうわさ話。 根拠のない扇動的な宣伝。 デマ)に惑わされないことです。《21世紀の北里柴三郎》の出現を期待しましょう。『恐れるな!』

(「ハーメルンの笛吹き」の影絵、実験中の「北里柴三郎」です)

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踏切

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この写真に写っている箇所は、「踏切」です。日本中に、かつては何万(2018年度で33,098か所)もあった、踏切の内の一つです。みなさんにとられては、何の郷愁もないのでしょうけど、私にとって、実に懐かしい写真なのです。

ここは、江戸五街道の一つ甲州街道が、多摩川の渡しを渡って、日野の宿場を後にして、八王子に至る台地の坂の途中なのです。明治になって、そこを交差する様にして、開業した「甲武鉄道」の線路が設けられ、踏切が設けられた箇所です(実際に、お茶の水家から八王子を結んだのは1889年でした)。2両親と兄弟たちとが住み始めた頃には、中央線(1906年には中央本線に改名され、国有化され、都内の線路を「中央線」と呼んでいます)と呼ばれる様になっていて、そこを通勤や登下校や買い物のために出かけるたびに、行き来したのです。

父は、この踏切の中程から、駅のプラットホーム(写真の左端に最後部が写っています)を上り下りをして通勤していました。どうしてかと言いますと、旧国鉄に車輌の部品を作る会社を、父が持っていましたので、改札を通らないで、顔パスだったのです。その息子の私たちは、そうはいかずに、この坂を降って、世紀に改札を通っていました。
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この道は、新道ができた関係で「旧甲州街道」となり、近年ではバイパスが通る様になっています。今では、この踏切は閉鎖されてしまっています。渋谷のスクランブル交差点の比ではありませんが、数限りない人が、泣いたり笑ったりして交錯した〈交差点〉であったことは確かです。

(下の写真は山手線の渋谷駅の古写真です)

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もう何年になるでしょうか、中国の内蒙古の省都のフフホトを訪ねたことがありました。泊まったホテルの支配人が、日本語が上手でしたので、『どうして、こんなに上手なんですか?』とお聞きしたら、『日本人観光客が多く見えられて・・・』と言っておられたのです。

子どもの頃から、夜空を見上げるのが好きで、時々、夢見る少年の様に、外に出ては、見上げていたことがあります。東京都下の街でも、星を観察することができたのです。吸い込まれそうになるのでしょうか、引き上げられてしまうのでしょうか。

親爺に叱られて家出して、小高い丘の上の草むらで寝て、涙ながらに夜空を見上げたことがありました。叱られたことなど忘れさせてくれて、その広さと、雄大さ、怪しい輝きに魅了されてしまったのです。そのことを思い出させてくれたのが、フフホト郊外の草原の夜空の星の広がりに、魅了させられた時でした。

ギリシャ神話に、星座の話が多く残されていますが、ギリシャ人が夜空を見上げて、たくましく想像力を働かせ、「星物語」を作り上げて来たのには驚かされます。「オリオン座」について、次の様な記事があります。

『オリオン座は古代から親しまれてきた星座ですから、いろいろな神話が残っています。 その中でも大サソリに刺されて死に、天に昇ったという話は一番有名でしょう。 その話は以下のようなものでした。

オリオンは美しい狩人で、ギリシアのボイオティアというところに住んでいました。 オリオンはキオス島のオイノピオン王の娘メロペが好きになってしまいます。そこで求婚しますが、 娘をかわいがっていた王はオリオンを拒否させようと「この島の獣を退治すればメロペをお前にやる」 と言ってしまいます。

狩りが得意なオリオンは、いとも簡単にその仕事をやり遂げてしまいます。そこで約束を守るように王に迫るのですが、 王はオリオンを酒に酔わして眠らせた上、目をつぶしてしまいます。

盲目になったオリオンですが、神に祈ると「東の海岸に行って日の光を浴びなさい」という神託を得ます。 そこで、レムノス島まで出かけ、無事に光を取り戻します。この後、王の下へ復讐に出かけるのですが、 それは成し遂げられませんでした。

この後、オリオンは月の女神アルテミスと駆動を共にするようになります。日が経つにつれ、オリオンはこの 女神のことを好きになってしまうのです。 困り果てたアルテミスは、大地の神ガイアに頼みます。そうするとガイアは、恐ろしい毒を持ったサソリをオリオンに 差し向け、見事刺し殺してしまいます。

この様子を天界から見ていた大神ゼウスは、美しいオリオンを惜しんで天に上げます。これがオリオン座となって輝いています(「天体写真の世界」より)。』
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福岡に所用で出かけた時に、お茶の名産で知られる八女市の星野村にお連れいただいたことがありました。そこは「ほしの村」と言って、星で〈村おこし〉をしているのです。山の中で、実に夜空が綺麗だったのです。今でも、〈夜空を見上げるジイジ〉をしていまして、人に手や思いに及ばない、《創造の美》に感動させられております。

(「オリオン座」と「星野村の夜景」です)

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論法

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国会の答弁で、どなたかが、「募集」と「募る」とは違うと言う様な意味で、話されたそうです。そんな言い回しを、〈ご飯論法〉と言うのだそうです。きっと苦し紛れの弁明をしたのかも知れませんが、国語力を疑われる様なことを言って、話題になっています。

この〈ご飯論法〉と言うのは、

花子さん 『ご飯食べたの?』
太郎さん 『ご飯は食べなかった!』
花子さん 『そう!』
太郎さん 『パンは食べたよ!』
※ 『お米は食べなかったけど!』

このことを言う様です。調べてみますと、いろんな〈論法〉があるのです。江戸時代に刊行された「浮世草子」の中に次の様な話があります。

『とかく今の世では有ふれた事ではゆかぬ。今日の大風で土ほこりが立ちて人の目の中へ入れば、世間にめくらが大ぶん出来る。そこで三味線がよふうれる。そうすると猫の皮がたんといるによって世界中の猫が大分へる。そふなれば鼠があばれ出すによって、おのづから箱の類をかぢりおる。爰(ここ)で箱屋をしたらば大分よかりそふなものじゃと思案は仕だしても、是(これ)も元手がなふては埒(らち)明(あか)ず』(無跡散人『世間学者気質』より)

ここに記された論法を、〈桶屋論法〉と言いのだそうです。

『風が吹けば、桶屋が儲かる。』と言う〈原因〉と〈結果〉の言い回しです。

① 強風が吹くと土埃が舞う
② そうすると、眼病を患う人が増える
③ それが昂じて盲人が増える
④ 目の悪い人が生計をたために門付けになろうとする
⑤ 三味線を習う
⑥ 三味線の需要が増える
⑦ 三味線には猫の皮が張られる
⑧ 猫が減る
⑨ ネズミが増える
⑨ ネズミが桶をかじる
⑩ 桶が売れる
⑪ 桶屋が儲かる

今年も、「春一番」が吹いたと、ニュースが伝えていましたが、もう桶屋は、街の中になくなってしまって、ほとんどがプラスチック製のものに取って代わってしまいました。私の通学路には、二軒もの桶屋がありました。檜を削る匂いが好きで、店先に座り込んで嗅いでいました。

落語のネタになりそうですが、『地球が温暖化が進むと、世界旅行の費用が高くなる!』のだそうです。〈理由〉と〈結果〉の間が省略されていて、話が飛躍してしまって、脈略がわからないのが、『どうして?』と思ってしまうところに面白みがある様です。「唐突(とうとつ)さ」があるのが、この〈桶屋論法〉なのでしょうか。

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謙虚

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2011年に起こった、東日本大震災、福島原子力発電所の事故の後に、東京工業大学の原子炉工学研究所(現在は、科学技術創成研究院)の松本義久准教授が、その窮状のただ中で、『《お守り》があるんです!』と言われていました。

『今回の一連の流れの中で、2つの放射能があるんです。1つは、《本当にこわい放射能》、もう1つは、《本当は怖くない放射能》です・・・』と話され、『この《本当に怖い放射能》に立ち向かいながら、この事態を収束させようと頑張っていらっしゃる働くレスキュー隊のみなさんには、ほんとうに敬意を表します。』と謝辞を述べておいででした。

この一月以来、新型コロナウイルスによる肺炎の流行が、世界大に広がりを見せる中、人類の存続をも大きく左右する現場で、疫病に冒される危険を顧みずに、一命を賭して働かれていらっしゃるみなさんへの感謝こそ、この未曾有の世界的危機を脱するために、私たちのできることなのかも知れません。

政府や厚生省の対応の混乱、国民の怒りと戸惑い、世界中が声を上げている中、ウイルス汚染の影響を、報道ニュースは伝えていますが、最前線で、治療や貿易に当られているみなさんの健康が守られるようにと願うばかりです。
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人類は多くの危機を超え、6000年の間生き続けてきています。私たち人間の内側には、《天来の祝福》が宿っているのではないでしょうか。松本さんは、日本人の受け継いできたDNA(遺伝子)についても、次の様に語っておいででした。

『・・・恐れるあまりに大事なものを失ってきている・・・これだけは伝えたいと思います。私たちの体は、放射線から守る、すごい《お守り》を持っているんです。それが遺伝子・DNAなんです!』とです。否定的なことにだけ目を向けて、慌てふためいている日本人に、『だいじょうぶ、恐れるな!慌てるな!落ち着け!』と肯定的なとらえ方を訴えておられました。この科学者というよりは哲学者のような勧めに、大きな慰めを受けたのです。

今回もそうです。いたずらに恐れたり、不安になったりしないことです。私たちがいただき、あるいは受け継いできた、《いのち》には、驚くべき力が秘められています。何度も何度も、滅亡の危機を潜り抜けて、この21世紀にも、人類は生きています。人は謙虚になって、生かされていることを事実として捉える必要がありそうです。科学は万能ではなく、内なる《いのち》に望みがあります。

今朝も、『恐れるな!』と言う声を、私は聞くのです。『わざわいは、あなたにふりかからず、疫病も、あなたの天幕に近づかない。』と、私の愛読書にはあります。

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こわい話

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子ども心に、過去の出来事を聞いて、『こわい!』と感じたことがありました。たぶん父から聞いたのだと思います。なぜなら、日本の歴史、人物、出来事のほとんどの子どもの頃の知識は、父からだったからです。〈何でも知ってる父〉、男の子の尊敬の的だった時期に、様々なことを、父に聞いたのです。やがて父の弱さを知って、父に距離を置き、そして、再び父に敬意や感謝を払い直すと言う、典型的な父子関係の変化を通ったのです。

朝鮮半島の鉱山で、鉱山技師として働いたことのある父は、朝鮮の社会や人や習慣について、一言の悪口や軽蔑や批判を聞いたことがありませんでした。良い印象しかなかった様です。「アリラン」を懐かしそうに歌う父でしたから、良い出会いや交わりがあったのでしょう。

日本の官憲が、戦後、大韓民国の初代の大統領に就任する李承晩氏を、戦前に何をしたのかと言うのが、聞いた話なのです。独立運動の指導者でもあった李承晩氏に、酷い拷問をかけたと言う話です。それは、全ての手指の生爪を剥がすと言った、肉体的な虐待を受けたと言うのです。深爪をして痛い思いをしていた私には、それを聞いて身がすくむ思いがしました。

取調室で、そう言ったことが罷り通っていた時代だったのでしょうか。犯罪者、とくに思想犯に対して、痛さを加えて自白させたり、情報を引き出そうと言う尋問を受けた人が多かったのです。また旧軍隊の内務班でも、上級兵が新兵や下級兵を、懲罰や焼を入れるとの理由で、ビンタや、肉体的拷問を加えています。

旧ソヴィエット連邦のブレジネフという書記長をした男は、この拷問の専門職の過去があったのだったと、記録文書の中に読んだことがありました。絶対体制を維持するために、非協力者や反対者や騒擾を犯そうとする者に対しては、何でもすることがあったのでしょうか。

そんな時代を知らないと、私には言えません。集団ビンタや、長距離走や、いわゆる、運動部の〈やき〉を受けたことがあるのです。そして、下級生に〈やき〉を入れた経験もあります。実に恥ずかしい過去です。会って、『ごめんなさい!』と言いたいほどです。そんなことが受け継がれてきていたのです。この21世紀には、決してあって欲しくないことです。

(大韓民国の国花の「木槿(むくげ)」です)

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栃木山

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今もそうですが、相撲の本場所が終わると、地方の相撲愛好家のために、巡業相撲が興行されています。また協会運営にも必要もあって行われます。小学生の頃に、私たちの通う小学校の校庭に、土俵が作られて、その「巡業相撲」が行われたことがありました。そこに、二所ノ関部屋一門のお相撲さんが、実際に相撲をとって、観客を湧かせていたのです。

当時は、ラジオ中継がなされていて、贔屓(ひいき)のお相撲さんがいたのです。それで、地方巡業のおかげで、玉の海や琴ヶ浜と言った関取のフアンになってしまいました。あの当時の小学生男子にとって、お相撲さんとプロ野球選手は、憧れの的であったのです。そう、まだサッカーは、人気が出る前だった様です。

栃木県の県南に、以前「赤麻村(現在は栃木市藤岡に当たります)」がありました。渡瀬川遊水池で有名な地です。巴波川や思川が合流する、貴重な植物が分布していることで有名な池なのです。

この村の近くに、「万葉集」に詠われた「三毳山(みかもやま)」があります。

しもつけぬ みかものやまの こならのす まくはしころは たかけかもたむ

『下野の三毳山のコナラの木のようにかわいらしい娘は、だれのお椀を持つのかな(だれと結婚するのかな)』と言う意味です。

その村から、希代の横綱、「栃木山(1892年2月5日 – 1959年10月3日)が出身しています。第二十七代横綱で、抜群の人気を誇った関取でした。『相撲の型を完全に身につけた力士は、この栃木山が最後だろう!』と言われるほどだったのです。

春秋、年二場所の時代に、優勝を九場所もし、『もう五年は横綱をとれる!』と言われたほどの力と人気を残しながら、絶頂期に引退しています。何しろ親方になってからも、現役力士を凌ぐ成績で、「全日本力士選手権(1925年/大正14年)」の第一回で優勝して、世間を驚かせたそうです。華のある内を、〈引き際〉として、それを実行した大横綱でした。

出身地は、足尾鉱毒事件で取り上げられた渡良瀬川の流域にあった村でした。貧しさの中から体一つで立ち上がって、相撲界を盛り上げています。引退後は、相撲協会に尽力し、多くの力士を育成し、私の知らない大正や昭和初期の相撲界の栃木市出身のスターでした。

(三毳山公園の「万葉庭園」です)
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