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真夏の涼しげな鳥の鳴き声です。
栃木市立総合運動公園内のベンチに座って!
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高校の頃、クラブの仲間が、夏休みの練習日に、オートバイで学校にやって来たのです。みんなは駅から歩きでの登校なのに、彼だけは、お父さんのバイクに跨ってやって来たわけです。それは1958年に生産開始したHonda製の「原付バイク/カブ(スーパーカブ)」でした。
まだ珍しいし、当時は、足や腕を屈伸したり、指を握って一本づつ開いていくようなテストで合格できる「許可証」で乗れたのです。彼は、それを持っていて、やって来たわけです。『乗っていいか?』と言ったら、『いいよ!』と言うので、乗って走ったら、ブレーキをかける方法を教えてもらわなかったので、校舎の壁に追突してしまったのです。
カブも校舎も壊してししまったのですが、怪我なしでした。彼は何も言わなかったのです。それは、わが最初の交通事故でした。まだ製造販売間もない頃のことでした。こがず、押さずにエンジンで動くものに、自分の操作で初めて乗って、失敗したので、許可証を取らずに過ごしていました。宣教師さんのお供をして出掛けた街で、長男が生まれて、必要を感じて、原付自転車の免許証をまず取ったのです。
それで、『使っていないから!』と言って貸してくださった、カブを使っていていました。知り合いの弟さんが乗らなくなった、若者用のHonda製・ゴリラをもらって、乗っていました。それは、燃費がよく丈夫でした。車に乗るようになって、教会に来ていた若者に上げてしまいました。
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高校生だった自分の夢は、国産大型の陸王、アメリカ製のハーレイ・ダヴィッドソンを手に入れて乗り回すことでした。でも、その夢も叶わず、近所の方にただいた800ccのToyota製のパブリカと言う車を持ち始めて、中古車ばかりを乗り継いで、免許証返上の今です。
でも、あの「カブ」には特別な思い入れがあるのです。世界で一番売れたバイクだそうで、《一億台》も売れています。散歩や買い物で、ほとんど歩きか自転車利用になったからでしょうか、さらに、この13年、隣國で過ごしたからでもありますが、街の様子が変わっていくのに気づくのです。
ほぼ決まった時間に、配達に來てくださる、新聞配達や郵便配達の方の乗り物の音が聞こえなくなったのです。警察署でも、公用車でありました。昔は、配達や警邏には、その「カブ」がほとんど使われていました。低燃費で、操作も優しかったので、自分も乗ったことがあったのです。大変便利でもあったので、蕎麦屋さんの店屋物、新聞、そして郵便などの配達に重用されていました。
今は、軽自動車での配達が多くなりましたし、いつの間にか、郵便配達には電動自転車が、代わって使われているのです。あのモーターの音、ギヤチェンジの音がすると、郵便が届いたことが分かったのです。昨今は、無音で来られるので、あの音が懐かしく思い出されるだけです。
昨今のニュースによりますと、「スーパーカブ生産終了」なのだそうで、あの独特の音が聞こえなくなるのだと知って、やはり寂しい思いがしてきたのです。あれは「昭和の生活音」だったでしょうか。
(ウイキペディアのスーパーカブ、陸王です)
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この6月半ばに、今上陛下・徳仁さまは、今回のイギリス訪問を前にして、会見をされていました。その時、次のように話されたと、ニュースで報じられていました。
『今でも留学から帰国した後にまとめた研究論文を読み直すと、テムズとともに過ごした日々の記憶がありありと蘇ってきます。テムズ関係の資料集めに奔走したこと、研究で疲れた私を癒やしてくれたテムズの緩やかな流れと周囲の美しい景観。テムズを見ながら川沿いをジョギングした日々など、数え上げたらきりがありません。』
堀の水の周りに皇居があって、流れる川を眺められるのは、お出かけの時だけなのでしょう。水の流れに、心が癒された経験がおありなのでしょうか。川の側に立ちますと、瀬(せせらぎ)の音が聞こえてきます。母の胎内にいた時の「羊水」の音の記憶を思い出させるのだそうです。それで、なつかしく誰もが感じるのだそうです。
「水」や「水問題」は、人の生活と不可分の関係にあります。生まれた山奥には、山から流れ落ちる渓流がありました。東京に出て住んだ街にも、一級河川があって、水泳や魚釣りをしたのです。隣国の華南の街の中心を、大河が流れていて、歩いて五分ほどで流れのほとりに行くことができました。
そして今は、江戸期から明治期までに、「舟運」で、主に江戸の街との交易が盛んに行われていた川の近くに住んでいます。この巴波川の河岸では、栃木から江戸には、米や大麻、薪炭、そして鍋山の石灰等を運んでいました。そして、江戸から栃木への帰り舟には、砂糖、干鰯、酒・酢・油などを積んで、この地域の必要に届いていたのです。文化の交流も、川を介してあったようです。
どの時代も、統治者の責務は、民を治めるには、水を治め、水問題を解決することが、最も必要でした。たとえば飲料水の確保、下水道の整備、灌漑用水の提供、水害時の対策などでした。江戸の街はよく治められていて、ことのほか水利は、賢く計画されていたことで知られています。
あの主要な河川であった、利根川の流れを変え、江戸川を掘削し、周辺地域との舟運の物資の運搬を行ったのです。宇都宮も、水戸も、栃木も、そして川越も、利根川や荒川を利用して、生活が成り立っていたわけです。
346kmのテムズ川も、多くの役割を担い、そして、それを果たしてきた、長い歴史がいあるのでしょう。ちなみに、日本第二の長さを誇る利根川は、332kmあり、この二つに川の長さはほぼ同じです。豪雨、線状降水帯で、わが家の脇の川が、また氾濫しないか心配ですが、恐れたら何もできませんので、護られるようにと過ごすことにしています。
強い雨が降った後は、溢れるほどに増水することがありますが、普段は、静かな流れで、鯉や鴨が泳いでいるのです。川の流れの中の水草に、尾鰭を激しく打ち叩いて、雄と雌の鯉が産卵をする光景が見られましたが、この一、二年は見かけません。川底をブルトーザーでさらって浚渫(しゅんせつ)したからでしょうか、産卵場所が変わってしまったようです。
聖書に出てきますケバル川のほとりで、主の幻を見、語られる声を聞いた預言者エゼキエルのことを思うことがしばしばあります。これから、この地上に、何が起こるのでしょうか。これからの日、世界中で起こることを、しっかりと見極めながら、主のおいでをお待ちしたいものです。マラナタ。
(巴波川の流れ、ウイキペディアのテムズ川です)
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「文月(ふづき)」、七月になりました。今年は遅い入梅でしたが、夜半も雨が降り、5時過ぎも何か降り出しそうです。ベランダで、開花を待ち望んでいた桔梗(ききょう)の花が咲き始めています。
「桔梗の花咲くときぽんといひそうな」
加賀千代女が、桔梗の蕾が膨らんだ様子を見て、このように句を詠みましたが、『もう二、三日で咲き出しそう!』と思っていましてたら、『ポン!』と言う音は聞こえませんでしたが、今朝、二輪が綺麗に咲いています。
天の川を「銀漢」と呼ぶのですが、「七夕(たなばた)」の月でもあります。宋代で最高に詩人と評される、蘇軾(そしょく)の詩に、
暮雲収尽溢清寒(暮雲収まり尽きて清寒溢る)
銀漢無声転玉盤(銀漢声無く玉盤転ず)
此生此夜不長好(此の生此の夜長へに好からず)
明月明年何処看(明月明年何れの処にか看ん)
とあります。声なく天空に輝く天の川を、蘇軾が仰いで詠んだ「中秋月」です。宋の時代は、商業が繁栄した時だったと言われ、そんな時代に活躍した詩人の感性に驚き憧れてしまいます。
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テレビの番組で、ある商社の重役になった、実在の人物の半世紀を題材に描いた物語が、何度か制作され、放映されています。その番組名は「不毛地帯」で、山崎豊子の原作を、各局が、3度ほど制作してきているのです。
フジテレビが、開局50年を記念して、2009年に制作し、10月から、翌2010年の3月まで放映されたものを、とても注目して、観たのです。その放映時には、隣国にいましたので、観る機会がありませんでしたが、帰国時に、ネットで放映していたのを私は観たのです。
その物語の始まりの時期が、自分が生まれて数ヶ月頃の出来事であったため、戦時下に生まれながらも、戦争を直接知りませんでしたので、強い興味を持って観たのです。長期に及ぶ、シベリヤ抑留の過酷な体験を持ち、思いの内に、共に抑留され、シベリヤの酷寒の地で、命を落とした部下たちへの追慕の念を、常に持ち続けながら、戦後を生きた一人の人の物語です。
山崎豊子は、伊藤忠という関西の総合商社の役員をした、父と同世代人の瀬島龍三をモデルにして、脚色して描いたのです。フジテレビ版は、唐沢寿明が主演していました。実は、その番組で、一番興味深かったのが、この総合商社が、石油部門に進出したことの動機付けでした。
ドラマの主人公は、日本の旧陸軍の大本営の参謀であった壱岐正で、取締役に躍進していました。日本軍の陸軍士官学校の壱岐の後輩の石油部長の兵頭信一良とのやりとりが、興味津々でした。と言うのは、日米開戦の主なる理由は、oil line を断たれた日本が、東南アジアに石油を求めていくのですが、その輸送船を狙われて撃沈され、死活問題に立たされていました。
そんな中で、苦肉の一策で、真珠湾攻撃することに踏み切ったのです。もちろん自国を弁護するつもりはなく、「事実」を述べただけです。それが開戦の一番の理由だったようでした。そういった過去から、再び石油問題で、国際紛争に巻き込まれるのを防ぎたいために、イラン国営の油田、サルベスタンの石油採掘権を得て、試掘しようとするのです。
石油公団や他社とのやりとりに、ヤキモキされるのですが、ついに採掘権を得て、試掘を繰り返して、遂に、見事に原油が吹き出して、その開発事業は成功するのです。
日本の歴史の中に、Energie(エネルギー)に関わる大きな転換の時期が、何度もあったのです。日本は四海に囲まれる海洋国家であって、中世日本で、主に瀬戸内海で活動した村上水軍、徳川幕府の統治で、浅底の船しか持つことが許されなくなる以前、巨艦の軍用船である、鉄製の「安宅船(あたけぶね)」が使われていました。また、海洋進出をしてシャム(タイの旧国名)で活躍した山田長政がいました。海に囲まれ、資源に乏しい日本は、海外に活路を求めた、一つの事例なのです。
お隣の国の明代、1405年に、蘇州の港を出港した、中国昆明出身の鄭和(ていわ/Zheng He /1371-1433年)の大船団は、アフリカ東岸にまで出掛けています。何と131mもの巨船の大軍団だったようです。七次の航海をし、ヨーロッパの大航海時代のヴァスコ・ダ・ガマや、アメリカ大陸を発見したクリストファー・コロンブスよりも、早い時期に航海をしています。もし、鎖国がなければ日本も、彼らに伍して世界に漕ぎ出ることができたのかも知れません。
今でも、固形燃料に限りがあり、それに代わるものがもとめられていますが、再生エネルギー、Clean Energieの必要が叫ばれています。そんな中で、注目したいのが、海に囲まれた日本での「風力発電」だと、風力発電の研究者の牛山泉氏(足利大学理事長)が言っておいでです。
木材(薪)、石炭、石油・ガス、そして原子力と変遷をたどってきたエネルギーが、地球を汚染し続けてきて、今は危機的な状況を迎えていて、遅きに失している対策の現状です。警告を無視し続けてきた、負の結果を迎えていますが、今できることがあると言われて、必死に対策が講じられているのです。
日本の歴史で、奈良から京都への遷都がなされた一つの理由は、燃料としての薪が奈良近辺に少なくなったからだそうです。また、徳川家康が開幕の折に、京でも鎌倉でもなく、関東の江戸に注目したのも、一つには燃料問題を克服しようとしたのだと言われます。そして、米英を相手に、日本が宣戦布告をしたのも、石油の入手に道を断たれたからであったわけです。
満州や朝鮮半島や台湾、さらに東南アジア侵略をしたのも、物資の乏しさの解消を目的としたわけです。とくに、エネルギー問題に、国の将来の存亡がかかっていると結論したからなのです。現代も同じです。遠い距離にある給油国から、もし、その輸送路が絶たれたら、私たちの国はどうしていったらよいのでしょうか。やはり、海に活路があるのかも知れません。それで海上の風力発電利用に期待したいのです。
(”Freepik” と “いらすとや“のイラストです)
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昨日は、「雷の日」だったそうです。0626の語呂合わせではなさそうですから、何か歴史的なことがあった日なのかも知れません。
かつて、京都が火災に見舞われたことがありました。京の都は、幾たびも、火災にあったと記録が伝えています。
『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。』の書き出しで、高校の国語で学んだ、「方丈記」があります。そこに、次のような記事があります。
『いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。』、安元3年とは、西暦1177年ですが、この年に京都に大火があった記録されているのです。
それ以前、醍醐天皇の統治の代に、右大臣の任にあった、菅原道真は、藤原時平との政争の中で、太宰府に左遷させられてしまいます。その左遷から2年後の延喜3年(903年)日に、道真は死んでしまうのです。時平も、 その直後に病没し、次に、道真の後に任じられた右大臣が、沼で溺死をします。
悪いことは続くもので、延長8年(930年)6月26日に、会議中の清涼殿が、「落雷」で被害を被ります。落雷による火災も発生し、朝廷要人に多くの死傷者も多く出たのです。それを目撃した第六十代の醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に死んでしまいます。これらは、道真の怨霊が原因とされて、「天満宮」が造営され、道真は神として祀られる、そう歴史は記録しています。
その菅原道真の名誉回復がなされ、「天神」として祀る「宮」が、京の北野の建てられたのです。天神が「雷の神」であり、道真が学問に秀でて、学問の分野で朝廷に仕えたていたこともあって、「学問の神」として、二十一世紀の受験生たちによって、合格祈願されているのです。この両神に、何の脈略もなさそうですが、そんな信仰に驚かされます。
日本の歴史や出来事の中に、「怨念」や「恨み」や「祟(たた)り」が原因すると言う、その原因追及が気になりますが、死者が、人を呪ったり、化けて出るようなことなどないのです。
市立図書館の入り口の壁面に、「今日は何の日」 が、掲出されていて、借りていた本の返却と、予約していた本を受け取りに出掛けて、その壁面に読んだのです。聖書は、
『これヱホバの設けたまへる日なり。われらはこの日によろこびたのしまん。(文語訳聖書 詩篇118篇24節)』
この日も、どの日も、主が設け、お造りになられた日なのです。「日」の良し悪し、吉凶などないのです。どの日も、感謝して生きていけるように、万物の創造主によって、一日一日が祝福されているのです。
(ウイキペディアの稲妻です)
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