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自分が、似ていたからでしょうか、新約聖書に記されてある「父と二人の息子の物語(放蕩息子の話として有名です)」で、弟息子の生き方を興味深く読んだのです。彼のように、父に財産分与を要求したことは、私にはありませんでした。父の最後の財産は、50坪弱の敷地の平屋の建売りの家でした。株で若い時は生きていたわりには、株券の所有も、貯蓄もなかったようで、そんな人生を父は送って、帰天したのです。
また、兄たちや弟と財産相続争いもしたことがありませんでした。ですから、父に、財産の取り分を要求した〈give me息子〉ではなかったのです。父からは、教育の機会を与えてもらいました。それで劣等意識に苛まれないで、社会人として生き始められたのは感謝なことでした。また父の伝手(つて)を頼りに、世渡りをするようなきともありませんでした。
中学と高校で、一緒に発掘調査をさせて頂き、教育実習でお世話くださった恩師の勧めで、最初の職場で働くことができました。そこの責任者の方の connection で転職をし、恩師となる宣教師の招きで献身し、みことばに促されて、海を渡って隣国に出かけたのです。そんな半世紀でした。
〈お金〉で人生を切り開こうとしたのが、この弟息子でした。その使い方を知らなかったのに、失敗することが解っていたお父さんは、敢えて財産の分与をしたのでしょう。案の定、遊興にそれを費やし、すっからかんになってしまうのです。賭け事、女性、趣味などに、お金を使って、家庭を顧みない男が、家庭を壊しています。
弟息子は、大金をなくし、軽い繋がりの遊び仲間を失い、豚の餌のいなご豆を食べたくなるほど、自尊心も、生きる自信もなくしてしまったのでしょう。得るには大変なのに、失うには、鳥の羽毛のように軽く去ってしまうのです。
好奇心の強い人だったのでしょう、未知の世界に勇躍出かけて、快楽に、時とお金と心を使い果たしたのが、弟息子でした。誘惑は、通りを行く男を、二階の窓から誘惑する遊女のように、常套手段を用いて、破滅に誘うのです。素敵な背広を着て、きりりとネクタイを締め、磨き上げた靴を履いて、若さと力でみなぎっていた私でしたが、心の中はスッカラカンでした。
母を生かしてきた信仰への道に誘われても、それを拒んで〈己が道〉の迷路に入り込んで、我が世の春を生きていました。この世のキラキラした輝く誘惑に、『寄ってらっしゃいよ!』と言う誘いに無防備で、欲に負けた私は、そういった世界に身を晒して、まるで奈落の底に引き込まれそうだったのです。
この弟息子は、「我に返った(17節)」のです。英欽定訳では、” He come to himself “ とあります。その時を定められたのは、「神」さまでした。自分に、自分の本来あるべき自分に戻る、そう言う意味でしょうか。それは、「気付き」でした。全く考えもしなかった自分の実態への理解がやってきたわけです。きっと、子どもの頃から、絶対的な存在者と価値観などを、彼が暮らした父の家庭の中で、教えられていたのだろうと想像します。
私は、信仰の強要を、母から受けなかった〈第二世代の信仰者〉で、聖書を読み、讃美歌を歌い、礼拝を守り、献金もし、キリストの救いの素晴らしさを証しして生き、人の悪口や影口をきかず、女性週間紙などを読まず、妻として、母として、信徒として、一市民として生きる母を見て大きくなったのです。母を励まし、強め、生かしているものが何か、分かっていたのです。
時折、「みことば」を母は教えてくれ、天地万物には創造者がおられ、その神さまが父であること、義なる神で、イエスさまが人となられた神で、信じる者の罪の身代わりに十字架に死なれ、死と陰府から蘇り、天の父の右に座され、そこで信じる者を執り成し、助け主聖霊をお送りくださり、私たちを迎える場所を備え、備えられたら迎えにきてくださることを教えてくれたのです。
何よりも、『去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。 (イザヤ52章11節、2コリント6章17節)』を、母から警告的に教えられていたのです。罪から離れることです。でも守れないで、ズルズルと罪に引き込まれ地獄に落ちそうに感じて、身震いをしてしました。まるっきりの汚れた男に成り下がっていました。
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裸同然になった自分に、弟息子は「気付いた」のです。自分の実態が分かり、この生き方の結末が分かったのです。上の兄が、将来を嘱望されて働いていた仕事を辞めた日がありました。そして、北九州の教会で、宣教師の留守居役をして、五、六人の高校生たちのお世話をする激変ぶりに驚かされたのが、私の大きな転換のきっかけで、主に従ったのです。
弟息子は、「思い出した」のです。自分の過去の、〈好い子であった日々〉ではなく、生まれてから過ごした「父の家」を思い出したのです。その思い出の中にいた、有り余るパンに預かっている「父の雇人」の生活ぶりを思い出しました。自分の現実との開きの大きさに愕然としているのです。それは、「父」を思い出したことなのです。
そして、“ make me (雇人の一人にしてください)(19節、英欽定訳)” とお父さんに言います。本当に、《父の子》になること、《父に愛される息子》に戻ることこそが、弟息子の人生復帰のゴールなのでしょう。
これまで、いろいろな意見、主張、思想などを聞いたり、読んだりしてきたのですが、私は、『父は父なるが故に、父として遇する!』ということばほどに、痛烈で、格別な出会いをした明訓はありませんでした。そして、説教の度に、物を書く度に、そのことに触れてきたのです。
どんな父親(母だったり、妻や夫だったり、担任や上司だったりしましが)であっても、その人たちは、自分が成長し、一個の人となるために、神が備えあてくださった養育者(助言者であったり、叱責者であったり、権威に服することを教えてくださったみなさん)だからです。多くの人が、人間関係を作り上げられないで悩み苦しむのを見てきました。
ありのままの父親を、父とする学科を学ぶ者が、この世を正しく生きていけるからです。もう亡くなっていても、痴呆だったりしても、自分のそばに父親を置いてくださった事実を受け入れ、そうしてくださった人格神を認めることです。弟息子は、父親のいる場をしっかり定めることができたのです。
そう、「帰って行く場所」が、どこにいても、彼の心の中に記されていて、それを人愛句できたのは、破滅的、絶望的な現実の中ででした。一切のわだかまりを捨てて、彼は、「父」のいるところに、跳んで帰ったのです。
そのお父さんは、弟息子が言い訳などする前に、謝罪をする前に、それを遮るかのようにして、彼を、「子」として受け止めたのです。出ていった日から、『必ず帰ってくる!』との確信で、お父さんの思いはいっぱいでした。その歓迎ぶりは、実に微笑ましいものではないでしょうか。このお父さんが何をしたかは、
『こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(ルカ15章20節)』
「見つけ」、「かわいそうに思い」、「走り寄って」、「抱き、口づけした」とあります。そう「父の抱擁」、それは、「お前は、私の本物の息子だよ!」と言う、無条件の受容、立場の回復、父を受け継ぐ者との宣言を、全てを失った段階で、父親が付与したのです。
「帰ってこいよ(秋田ひろむ作詞作曲)」と呼びかける、こんな歌があります。都会で何があっても、田舎に帰ってこいよと促している歌なのです。
♯ 稲穂が揺れる田舎の風は 置いてきぼりの季節の舌打ちか溜め息
駅の待合室でうらぶれて 誰彼構わず 憂鬱にする 憂鬱にする
どうせ出てくつもりなんだろ この町ではみんなそう
決意は揺るがないか 迷いなどはないか
故郷を捨てるつもりか 気に病むな、それでいい
振り向くな 立ち止まるな
花、そぞろ芽吹くとも、芽吹かざるとも
幼い頃に遊んだ校舎の壁が ひび割れた分僕らも傷ついた
ガードレール ゴールポスト 漁港のはしけ この町は何もかも錆び付いて
美しい思い出なんてあるものか 記憶の中じゃ泣いて挫けてばかり
この町が嫌いだとみんな言うが 早く出ていくんだと決まって言うが
帰ってこいよ 何か成し遂げるとも、成し遂げずとも
君のその愚直な心は 満員電車などに潰されたりはしないのだろうが
額に汗 将来 野望 人間関係 地下鉄の路線図みたいにこんがらがって
信頼出来る人が傍にいるならいい 愛する人ができたなら尚更いい
孤独が悪い訳じゃない ただ人は脆いものだから
すがるものは多い方がいい
真っ黒な夜 真っ黒な夜でこそ思い出せ
生まれた町を 今年も花が咲いたよ
遠くで鳴る境内の祭り囃子 君が居なくたって夏は過ぎるけど
知らせ無くとも 今か今かと 待ち人の面影に振り返り
祭りの後、闇と静寂が落ちて 砂浜に花火と狂騒の残骸
季節巡れど心は止まったまま 君が出てったあの時のまま
帰ってこいよ 何か成し遂げるとも、成し遂げずとも
菜の花畑の風車 コンビニも出来て 分校の校舎も建て替えられて
あれから大分経った この町も様変わりしたよ
勤め先は相変わらずないから 若い奴らはみんな出ていった
昔よく遊んだあの公園も 今年取り壊されるってさ
夢を叶えたって胸を張ろうが やっぱ駄目だったって恥じらおうが
笑って会えるならそれでいい 偉くならなくたってそれでいい
ビルの谷間勇ましく歩く君が 陽に照らされた姿を想うのだ
忙しくしてんならしょうがないか 納得できるまで好きにしろ
帰ってこいよ 何か成し遂げるとも、成し遂げずとも ♭
田舎はともかく、親というのは、歳ごろになって、自分の道、独立独歩の道に歩んでいく息子や娘の背中に向けて、『帰ってこいよ!』と、お腹の中で叫んでいるのでしょう。人生には、〈実験〉などなく、いつも〈本番〉、一回きりの人生だということが分かるのは、だいぶ先なのかも知れません。自分の責任で生きて行くのですが、親心は、『いつになってもいいから、ここにはお前のための場所があるんだからね!』と、呼びかけるものなのでしょう。
先日、長女が、3年ぶりに帰ってきました。実家が中国に行っていたのに、帰国して、思いもしなかった栃木の街に住み始めた両親のいる場所こそが、彼女の「実家」だから、帰って来たのです。長男が、次女が、次男が出て行った時に、家内と私たちは、いつも借家で狭かったのですが、傷ついたり、問題に圧倒されたり、困難な時に、また疲れた時に、ホッとしたかったら帰れる、場所と心の空間、〈移動式実家〉を残して置いたつもりでした。
時々母の話をしていますが、山陰出雲の養母の家が、母を受け止めてくれる、唯一のこの地上の「場所」だったのです。父と母の間に何があったか、子どもの私には分かりませんでしたが、よほどの決断で、四人の子の手を引いて、ある年の暮に、鈍行列車に乗って、コブ付きで帰省したのです。何か悪戯をして、養母に叱られたことがありましたので、養母は養女にも、養女の産んだ子にも、真剣だったのでしょう。その養母の元で、『四人の将来を考え、身を低くし、夫のもとに帰りなさい!』と諭されて、帰ったのだと、後になって母が語ってくれました。
『 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14章2~3節)』
旅の途上に、今はいて、寄留者である私にも、「帰って行く場所」があります。私を、「永遠におらせてくれる場所」がです。そこには、病も、悩みも、苦難も、労苦も無く、それらから解き放たれて、『アバ!』と言って帰っていける場所にです。それでも、家内にだけは、家賃を払わないで住める家をと思っていますが、それが叶えられないままの栃木住まいでも、満足できるのは、なんと感謝なことでしょうか。
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