弱き者を顧みられる神

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 自分でも、何度か説教をさせていただいた聖書箇所でしたが、そこを読まれて、ある講義がなされました。どこでかと言いますと、ルーテル派の神学校でだったのです。旧約聖書の担当の教授の最後の講義でした。どんなルーテル神学を聞けるのかと、大きな期待で座席についていたのです。ルターについて語るのか、ルーテル派の伝統的な神学論を語るのかと思いましたら、「旧約における弱者救済の論」を講義されたではありませんか。

 長い間、日本の学生のために講義し続けてきた学者が、任地の日本での教えを締めくくるに当たって、「義認論の旧約的背景」などについて聞けると思っていましたら、孤児や寡や在留の外国人を顧み、支えられる神の愛を語られたのです。

 『在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。 思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。 あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。 あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。 ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。(申命記241722節)』

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 生産的、貢献的でない人間への神の顧みということ、寄るべなき者ものを、決して見捨てられない神さまがいて、人にも、寄るべない者を顧みるように要求する神がいらっしゃることに、まさに聖書が知らせる神さまのご性質の最たるものではないでしょうか。

 生きていたって役に立たない人など、価値も意味もないとしている人間社会に、そう言った人々と共に生きるために、心を配り、物を分け与えるように願う神が、聖書の示すお方なのです。強者だけが生き残れるような人間社会に、弱者保護規定を設けられたお方を、神だと知ってから、自分の生き方が変えられたのです。

 男の子ばかりの兄弟の中で、「強さ」を身につけることこそ男の生きる道だと教わったような気がします。喧嘩にも、経済競争にも、出世競争にも、〈強者生存〉の生き方を身につけようとしていた自分に、この憐れみに富み、恩恵に溢れた神、それは精神的なものだけでなくではなく、〈持っている物〉によって、持たない人々の物の不足を、物によって満たし、補い、助けることを示されたのです。

 まさに、〈食べる物〉を、補い、助けて与えることです。イスラエル民族は、奴隷として、エジプトにいた時の、精神的な苦しみ、神の民なのに困難を通り、虐げられた過去を持っていたからです。具体的には、〈食べ物の不足〉の過去を思い出し、今まさに食べ物に困窮する人に「小麦」を、「オリーブ」を、「葡萄の実」を与えるように命じたのです。

 好意を受ける人が恥じて受けることにないようにとの、配慮も、イスラエルの民に要求したのです。〈強さ〉だけが、生き残る手段であるのではなく、今の強さが、今まさに弱さを覚えている人たちの支えとなれるような配慮、恵みあふれる対応を求めているのです。誰も、『足りない!」と言うようなことがないためです。

 今まさに世界中で、春に植えた稲や小麦などの穀物が、大雨の洪水、貯水ダムを保つためになされる放水で、収穫を見ることなく押し流されています。灼熱の旱(ひでり)、旱魃も世界中に見られます。その上穀倉地帯が、戦火で焼かれようとしています。

 強い者が弱い者を、強く力のある時に、弱く力のない時のために、強い者は、弱いものに、憐れみを示すなら、どちらも、神の要求を満たすことができて、共生することができるわけです。神の国の 《 balance sheet 》なのです。驚くべき神の配慮ではないでしょうか。

 この退職する教授の話の内容は、もう忘れてしまいますが、その講義する姿勢、テキストの聖書箇所、講義を聞く者たちへの配慮、何よりも、神を崇めている時間が、尊かったのです。

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この日に思うこと

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 終戦の日に、満八ヶ月だった私は、前年の十二月に生まれていましたから、あの戦争の記憶はありません。ただ、軍需工場の責任を負っていた父は、軍からの支給で、一家を養っていました。ですから生まれてきた私のための産湯の盥(たらい)も産衣も、寝具も、それで賄われていたことになります。

 ですから戦争と自分とは無関係ではなかったことになるのを、大きくなって理解したのです。中国大陸や東南アジア諸国に送られた戦闘機や爆撃機や特攻機には、父の掘り出した鉱石によって作られた防弾ガラスが、組み込まれていて、父の戦争責任を、少しずつ感じ始めたようです。兄たちや弟には、そんな思いはあったのでしょうか。

 戦時下の外地で、どんな蛮行が繰り返されたかを知るにつけ、とくに大陸に対する、責任を感じられるようになるのです。「真空地帯」とか、「二等兵物語」などの映画を観たり、戦争物の小説などを読むに連れて、その思いは、心の底で大きくなっていったようです。

 私が、2007年の夏から過ごした華南の街の郊外にも、日本軍が海岸から上陸し、飛行場を整備したのだそうです。その街に住み始めた頃には、大きなバスターミナルに、転用されていました。そして、近隣の井戸に毒を投げ込まれたことがあった、と地元の人に聞いたりしたのです。日本語の学びのために、わが家に来ていた若者の家に招かれた時に、彼のおばあちゃんは、江蘇省の農村の出で、日本軍の放った村の火事で、腕に大きな火傷を負ったのを知らされました。無理を言って見せていただいたのです。そして、私は心からのお詫びをしたのでした。

 そのことのためにも、そんな戦争責任のお詫びをするようにと、中国に導かれたのだと思わされたのです。私の授業に出ていた学生のみなさんは、『先生と日本軍の侵略とは無関係です。あれは過去に、軍隊が犯したことですから!』と、言ってくれましたが、その街の大きな河川の脇の1kmほどの石板には、その街の歴史が刻まれ、その中に、『日本軍の爆撃により、300人余りの戦死者出る!』とありました。それは過去の悲しい記録だったのです。

 私が、大学の先生たちの集いの中で、証しを頼まれたことがありました。その時に、軍需産業に従事した父の戦争責任、幼児の私のミルクも産衣も軍からの支給であったことなどを話をしたのです。そして返さなければ負債を感じたことが、中国に来た一つのおおきな動機付けだと言いました。それに感動された方たちが、近寄ってきて握手を求めてきたのです。100人近い先生たちの中には、彼らの父や祖父や親族に、日本軍の侵攻の被害者だっておいでだったに違いないのです。

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 福音宣教のためだけではなく、そう言った謝罪の務めもあって、過ごした隣国での13年は、主が設けてくださった機会だったと思い至り、ただ主に感謝をしているのです。父は、私たちが献身する前に、中国に行く前に、すでに天に帰っていきましたから、私たちの過ごした年月や出来事は知らないままでした。

 終戦78年の今日も、世界中では、国と国との戦争があり、民族間の対立が、そこかしこにあります。中国本土と台湾、沖縄との間で、何かが起こりそうな迫りを感じます。大陸の多くの若者たちが兵士になるように招かれていると、先日おいでの訪問客から聞きました。台湾に接する地では、戦争準備がなされているようです。両岸の交流を叫んでいた口が渇く前に、睨み合いになっています。

 冷静になって、何が起こるにかを見極めなければならない時が来ています。どうしても、次の聖書の言葉が思い出されて参ります。

 『また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。(マタイ24612節)』

 「必ず起こること」、避け難い時を、この時代に生きる私たちは迎えるのです。そのために私たちに必要なのは、〈慌てないこと〉です。78年目の8月15日、「終戦の日」に、そんなことを思いました。

(戦時に飛んだ気宇撃機、石英の結晶です)

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行く夏に

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 栃木市総合運動公園から見上げた行く夏空は、もう秋の気配がしているようです。セミの鳴き声も、心なしか、最盛期の声ではなくなっています。

 道筋に、モミジアオイが咲き、私たちの室からベランダを眺めると、例年になく、今季の朝顔は、緑の葉で溢れています。

 家の中には新旧の胡蝶蘭、ベランダには、桔梗、ペチュニア、咲こうとしてなかなか開かないサンパラソルの花があります。そして、真紅の薔薇の花が咲いているのです。

 今週も、日本列島は、猛暑に包まれ、台風が襲来し、日常が破られて、ままならない状況になっています。中国の東北部やノルウエーでの洪水には、驚かされています。ハワイのマウイ島では山火事で、多くの人が亡くなっております。ただ被害の少ないことを祈るのみの〈行く夏〉です。

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そのひたむきさがいい

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 〈バーチャル高校野球〉と言うネットの放映で、甲子園大会に出場の高校野球の選手が、挨拶のために、帽子を取ると、長髪なのを見て、ちょっと驚きました。あるチームは、クリクリ頭の一厘刈りなのに、その違いが、今らしくて面白いなあ、と思ったのです。まさに、〈多様性の時代〉なのでしょう。

 すぐ上の兄が、高校球児で、やはり坊主頭でした。1974年に東京都の予選は、東西に二分して、東東京と西東京から、それぞれ一校ずつ選出されるようになるのですが、兄たちの頃は、一校のみでした。自分たちの属する都道府県の代表校として選ばれたのです。

 戦前は、台湾からの参加もあって、嘉義農林学校が代表校で、甲子園の土を踏んでいるのです。第十七回全国中等学校優勝野球大会に出場し、勝ち進んで、準決勝で小倉工に10-2で圧勝。最後の決勝の中京商業戦では、0-4で負けてしまったのですが、準優勝をして、映画化もされています。

 今年の出場校のうち、栃木の県大会を勝ち抜いて、選ばれたのが文星芸術大学附属高校でした。20人のベンチ入り選手中、県内の中学からのメンバーは17人でした。県予選で負けた作新学院は19人が県内出身だったのです。その反対に、県内出身者の少なかったのは、島根県の江の川高校は2人、山梨県の山梨学院は3人、高知県の明徳義塾が5人でした。公立の徳島商業は全員が徳島県勢です。

 多くのチームが野球留学の生徒たちで構成されていて、名門への進学、県予選の学校数の少ない県への進学(野球留学)が、甲子園への道になっているのは、ちょっと逸脱していて、企業野球のようで寂しい限りです。

 でも、野球をする部員たちは、下向きな努力で、競争して代表選手に選ばれてベンチ入りしているのです。そのプレーも顔付きも素敵です。去年も今年も福島県代表になった聖光学院の校歌に、『復活(よみがえり)の主』とあって、昨年も今年も驚かされたのです。学問の向上だけではな、そんな信仰上のことを表現する学校の姿勢に、隣県ですが応援してしまったのです。

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 もう一度高校生になれたなら、今度は野球部に入ろうと思うのです。アメリカ生まれのスポーツなのですが、日本的な展開をしている高校野球に面白くて、惹きつけられるからです。大人の目、プロ野球人の目でではなく、野球好きな爺さんの夢なのです。白球を投げ、打ち、追い、捕る汗まみれ土まみれで励む、お金に無縁な、《直向(ひたむき)さ》の世界の野球がいいからです。

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自転車乗りの決意

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 私たちに住む栃木県の県都は、「宇都宮市」、戦国の世、下野国の宇都宮氏の支配のもとにあり、江戸から奥州に至る奥羽街道の要衝の地だったのです。戦国時代には、滋賀の蒲生秀行が支配し、江戸期に、宇都宮藩の初代藩主に、奥平家昌がつき、本田、阿部、戸田、松平と、改易、就任と入れ替わりに藩主が、幕府の管理の下に、移り変わっていたそうです。

 今では、「50万都市」となり、明治初年には、栃木市が、県庁所在地であったのですが、県令(当時の知事です)の三島通庸(9薩摩藩士)の決定で県都になっています。時代の移り変わり、電車や道路の整備によって、中心が、宇都宮市に移されて今日に至っています。

 この街は、「雷都」と異名をとっていて、「雷(らい)さま」と呼ばれるほどです。戦後、大陸から戻った方によって作り始められた、浜松と競い合う「餃子の街」にもなっています。ちょっと小ぶりですが、佐野ラーメン店の作る物もボリュームがあって美味しいのと、ちょっと違った味がするようです。

 また、この街は、「自転車の街」とも言われているそうです。同じ県民として、自転車利用をしている者でもありますので、四輪の自動車と同じ「車両」でもある自転車を、規則に従って乗る義務を、再確認しているところです。警視庁では、自転車が事故を起こすことが多い昨今の事情を見て、〈反則切符〉を切ることを検討しているようです。毎日新聞は、次のように報じています。

 『警察庁は3日、軽微な交通違反で「青切符」を交付して行政罰である反則金を納付させる「交通反則通告制度」の対象に、自転車を新たに加えることを検討すると発表した。刑事罰を科す手続きに入る「赤切符」(交通切符)による取り締まりの対象にはなっているが、検挙件数が急増する一方で、ほとんどの違反者は起訴されていない。警察庁は有識者会議を設置し、年内に提言を取りまとめた上で、2024年の通常国会への道路交通法改正案の提出も視野に進める。』

 父の自転車が家にあって、小学校に入ったばかりの頃に、自転車の乗り方を、兄に教えてもらったのです。学び方が悪かったのか、右乗り右降りで、今日まで自転車に乗ってきているのです。もちろん左乗りもできますし、左側で自転車を押すこともします。排気ガスは出しませんし、健康管理にも、有酸素運動にもなり、何よりも、利用が簡便でいいのです。

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 警察庁によりますと、どん違反が多いのかと言いますと、信号無視や一時不停止だそうです。確実に、違反件数は増え続けているので、法規制はやむを得ないのかも知れません。こんな、自転車乗りに関わる、標語のような俳句があります。

ひと呼吸 焦らずゆっくり 踏むペダル

 あわて者のお爺さんも、こんな motto が必要なのでしょう。今年は、車に追突されて、市警の現場検証をしてもらうような、事故にあってしまいましたから、より注意の毎日です。しっかり、helmet を被って、35℃ の中を、爽快に、そして注意深く走っております。

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木や草や紙の素材で

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 木、草、紙、藁などが用いられた、日本の家屋ほど、簡素で、自然に調和し、そこからの産物を用いた住環境は、世界に類を見ない優れたものだと言えます。隣国で過ごして帰国した時に、弟や友人の家に迎えられ、その障子から射し込む柔くて含むような光、畳み表の井草のなんとも言えない匂い、木の床の足の感触は、父が育ててくれた家を思い出させてくれ、なんともホッとさせられたのです。

 それらは、独特な雰囲気をかもし出し、日本的な文化や伝統の中に溶け込んだ感触や匂いや光でした。

 子どもの頃、わが家へは、道路の脇を流れる小川に架かった木橋を渡って庭に入りました。木製の戸を開けて玄関に入り、廊下を渡って、木と紙でできた「障子」を開けて、井草と布で作られた畳の敷かれた部屋に入り、木と紙で作られた襖(ふすま)を開けて、わた布団を出して、畳の家に敷いて寝ました。今頃は、蚊帳が吊られてありました。

 床の間があって、そこに鹿の角や水晶の結晶や掛け軸が、置かれてありました。着替えや布団は押入れに収め、地の産する野菜、海で取れる魚類、牧草を食べた牛の肉、麩(ふすま)で育てられた豚の肉で、おかずを母が作ってくれました。木で作られた椀に、大豆で作られた味噌汁を注ぎ、木や炭で炊いた御飯を木の箸で食べて、夕餉を木製の食卓を家族で囲んでとりました。夕べには、木で作られた風呂桶に、井戸からポンプで汲み上げた水を張り、薪を燃料に湯を沸かし、木の桶で湯を取って使い、ほとんど毎日入浴をしました。

 母は、綿と布で作られた布団を畳の上に敷いてくれ、同じようにしてできた上掛けを掛けてくれ、蕎麦殻で作られた枕で就寝しました。毎年、五月五日の頃には、家の親柱に、背丈を兄が刻んでくれたのです。歌の文句のようですが、出雲の田舎から祖母が送ってくれたチマキも、毎年食べました。家の外壁も木の板、かろうじて屋根だけは、トタンでした。

 ところが、今や、私の周りは石油原料の製品ばかりになってしまいました。食べ物も、化学的な調味料や添加物の入った食べ物だらけです。人工的で加工された物ばかりで、命の危険が叫ばれています。そう、《自然に帰れ!》の時代がやってきています。それで、organic なものを、人は求めるようになってきました。わが家でも、買い物をする時、organic な物、添加物に入らない物、化学的殺虫剤や消毒液を使ってない物を買うことにしています。

 好きなチーズも、原乳と塩だけの物を探して食べています。安い原材料で、短時間に製造できるものに取って変わってしまい、危うい物だらけになってしまいました。排気ガスで空気を汚す車の所有をやめ、運転もやめ、20インチタイヤの自転車に乗って、どこまでも出掛けるようになって、〈一石三鳥〉で、原始の生活に一歩、二歩と戻っているようです。

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 今日は、市民大学の講座があって、わが家の傍を流れる巴波川が、江戸の木場あたりを往復しただけではなく、渡瀬川、利根川を上り下りしながら銚子との間を往復していたそうです。行きには、麻糸を積んで運んだ便があったのです。それが魚網のために用いられ、粟野(現在の鹿沼市になります)で栽培された「野州麻」で作った糸を運び下ったのです。帰りの船で、乾燥した鰯を運び上ったのです。それを麻の栽培のための肥料として用いられたようです。

 そう言った流通が行われていたことを知って、なお一層住む街の歴史を知ることができて、嬉しくなってしまいました。江戸に行くには、川の渡しを少なくして、足止めにならないようなルートがあって、小山、野木、栗橋、千住といった、いわば裏街道を、多くの人が利用していたのだそうです。そんな講義を聞いて、また、そこかしこと訪ねてみたくなってしまいました。

( 高瀬舟、麻糸、粟野の麻の刈り入れ作業です)

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まあいいかの懐深い大人に

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 〈子ども声が聞こえない街〉、われらが子どもの頃は、子どもは大きな声で話したり、泣いたり、喧嘩したりして遊んでいたのに、今では、子どもが少なくなっただけではなく、子どもが、ひっそり家の中に籠ってしまっているのではないでしょうか。何か寂しい時代です。

 缶蹴り、馬跳び、宝島、三角ベース、チャンバラ、ベーゴマ、カード起こしやカード飛ばしなどなど、子どもなりに工夫しながら遊んでいたのです。宿題なんか、あったのかと思ってしまうほど、した覚えがないのです。度をこすと叱られたりはしましたが、大人は 『まあいいか!』で、寛容でした。

 中国の田舎にいました時に、そんな子どもたちを見かけました。タバコを咥えた少年たちもいたり、〈自然児+ヤンチャ〉な子たちがいて、なんかホッとしたものです。学校にも遊び集団があり、家に帰ってくると、空き地にも遊び集団が、仲間を認めては集まって形作っていました。女の子たちも、その隅の方で、ゴム跳びなんかしていたのです。

 集団遊びで、《ルール遵守》を覚えさせられたのです。出過ぎ、度越えると殴られるし、生意気を言うと殴られる、そんな中で、「ワガママ」が通らないのを学ばされたのです。

 『静かに!』してないと追い出されてしまった図書館では、騒ぐ子がいても、大目に見られるようになっているのです。自粛を求められたのは、大人だけではなく、子どもたちでした。行動が規制され、制限されたのは、〈コロナ騒動〉があったからでもありました。この4年ほど、外出もままならず、籠り生活を強いられて、不自由を感じ続けていた子どもたちに、鷹揚さが示されているのです。

 大人だって同じでした。温泉に行っても、〈黙浴〉と露天の柱、浴場の壁に貼られていたのです。中国から訪ねてくれた見舞客をお連れして、温泉に行き、露天につかっていましたら、『お静かにお願いします!』と、従業員に注意されてしまいました。お腹から声を出す彼に倣って、同じように話していたらでした。

 子どもいる場所、例えば図書館などには、『少し大きな声を出しても大目にみて!』との張り紙が掲示されていたり、感情の表現を規制しない、大人の配慮があるようです。時代なのでしょうか、幼稚園や保育所の近所の方が、『子どもの声がうるさい!』と言ってきる大人がいるようです。そんなことしてるから、『子どもが暴れてしょうがない!』と苦情を言うようになるわけです。

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 大人の度量の見せ所、《来た道》に、多くの懐深い大人のみなさんが、生意気な子どもだった自分のまわりにいました。親はともかく、教師や近所のおじさん、職場の年長者が、電車で横に座ったおじさんもいましたが、みなさん暖かく見守ってくれたのを思い出すのです。あっ、おばさんもいました。

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ドキリとさせられて

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 物損保険の業界では、労働災害などの事故が起きたり、失敗が起こったりする原因を、『経営者の家系に何か大きな問題が潜んでいるからです!』とは言いません。ハーバート・ハインリッヒと言う、アメリカの保険会社の調査員(副部長)が、一つの法則を見つけています。ウイキペディアに、次の様にあります。

 『彼は、ある工場で発生した労働災害5000件余を統計学的に調べ、計算し、以下のような法則を導いた。「災害」について現れた数値は「1:29:300」であった。その内訳として、「重傷」以上の災害が1件あったら、その背後には、29件の「軽傷」を伴う災害が起こり、300件もの「ヒヤリ・ハット(危うく大惨事になる)」した傷害のない災害が起きていたことになる。』、これを、一般的には、「ハインリッヒの法則」と呼んでいます。

 2005年の早春の朝のことでした。所要があって、その日は車ではなく、自転車に跨って家を出た私は、道路を横切ったところで、路肩の段差に乗り上げて、転倒してしまったのです。車が、倒れた私の脇をスピードを出して通り抜けていきました。私は、車道側にではなく、歩道側に投げ出されていたのです。車道側でしたら、轢かれていたに違いありません。すんでのところで助かりました。

 ところが、その転倒で、右肩の「鍵盤(腕を吊っている筋)」を完全に断裂してしまい、腕が上がらなくなってしまったのです。駅の近くの病院でCTを撮ってもらい、その事が判明し、市立病院を紹介されたのです。鍵盤の縫合手術の権威が、そこにいて、早速手術をしていただき、鍵盤が繋がれたのです。何と、退院後、6ヶ月間のリハビリで、やっと右腕が動かせる様に回復したのです。

 この怪我、入院、手術、リハビリの事を考えていて、自分のこれまでの人生に、小さな事がたくさんあった事、そして<ヒヤリ>とする様な危ない事が多くあり、そう言った事の後に起こったのだと思ったのです。『ちっと気をつけて!』という事も多くあり、<注意勧告>が何度もあり、それからの大怪我でした。術後の痛みに耐えられなくて、『自殺をした人がいたんですよ!』と、看護師さんに脅されたりしたこともありました。

 警告されているのに、<ないがしろにしたこと>が、やはり、怪我や事故や失敗をもたらすのでしょう。自分の不注意が積み重ねられての怪我だった事を、今も認めています。『日本が台風に、頻繁に襲われるのは、民族の歴史の中に、何かが・・・』という人がいますが、地球の保全を怠ってきた結果であり、もっと酷くならないための「注意勧告」であるのではないでしょうか。〈因果応報の法則〉ではなく、〈祟り(たたり)〉でもなく科学的な法則で、理解したいと思わされています。

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 このところ、台風5号が、中国大陸を北上し、とくに北京、河北省、黒竜江省などに、大洪水をもたらしました。その多くが、限界水位を超えたダムからの流域住民への知らせなしの強制放流だったともニュースが伝えています。ウイグル族への厳しい弾圧と、この洪水と結びつけるニュースサイトがありますが、災害は、悪行へのバチや刑罰ではないのです。

 河川の許容水量を超えるほどの降雨、線状降水帯によるもので、それだけ地球や海流の温度が高くなっているからだとされています。この23年の雨の降りっぷりには驚かされ続けています。今まさに6号台風が、奄美、九州各県に大雨をもたらそうとしています。さらに驚かされるのは、まだ8月、台風は六号なのですが、秋に向かって、まだまだ予断を許さない数の台風が発生し、襲来するのではないかと言うことです。

 日本ばかりか、世界中で、異常な降雨量が見られます。お米や麦が育っている水田や畑、家畜が流される光景は、悲しくて仕方がありません。ヒヤリどころではなく、〈ドキリ〉とさせられるられ今日日の世界です。東京や大阪は、地下鉄網が張り巡らされていて、そこに雨が流れ込むようなことになったら、排水能力を超えて。収拾がつかなくなってしまいそうで心配でなりません。

 被災地での衛生状況の悪化で、健康被害も心配されます。めげずに復興が、各地でなされて、普段の生活が戻って来ますように、心から願う今朝です。

(産経新聞ニュース報道からです)

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ちらし寿司でもてなしを

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 《得意料理》が、私にはあります。母の作ってくれた「ちらし寿司(母のふるさとでは〈ばら寿司〉と言っていたようです)」を思い出しながら、見様見真似で、酢飯の好きな家内のために作り始めたのです。『何食べたい?』の答えが、いつも、これなのです。

 二人のご婦人が訪ねてくれて、夜9時過ぎに、成田空港から浅草、そこから東武日光線の特急電車で駅に着き、迎えに出て、家にお連れしました。このお二人に、この〈ばら寿司〉を用意したのです。酢豚だってできるのですが、《にっぽん料理》のつもりでした。

 初めて来られたのは、今春、55歳で定年退職された姉妹が、19年ぶりに、今度はお見舞いで来られたのです。コロナ禍で足止めされていたのが、やっと来れたのです。在華中、ずっと説教の通訳をしてくださり、あちらこちらの教会に招かれて、いつも3人での移動でした。訪問や教会のレクレーションにも、この姉妹がお連れくださったのです。

 中国地方にある国立大学に留学されて、博士号を取得されて、帰国され、省立の大学の法学部で教鞭をとってこられたのです。民法の選考で、省や市の法整備にも当たってこられた方です。警察学校に教師として招かれておいでですが、教会の用に当たりたいと言っていました。取り締まり対象の家の教会のメンバーなのに、招かれていると言って苦笑いをされていました。

 私たちが、その街に移った時に、間も無く訪ねて来られて、家内と3人で食事をしました。日本人の年配者が来ているのを知って、『必要があったら助けたいので、なんでも言ってください!』と言ってくださってから、13年ほどご一緒でした。

 もうお一人の姉妹は、長女と同じ歳で、二人の大学生のお母さまです。家内が二度入院した時に、まるで娘のようにしてお世話くださったのです。彼女の家で、毎週水曜日に聖書研究会があって、そこでもお話をしていました。季節季節の果物やお菓子を用意してきださって、30人ほどの交わりだったのです。

 お父さまとお母さまの始められた「鮑」の生産と販売、輸出までされていらっしゃって、ご主人を立てて、敏腕にお仕事をされているのです。故郷にもお連れいただいたのですが、村の90%がクリスチャンで、彼女は《五代目の信仰者》です。女性が元気な中国で、実に穏やか方なのです。

 わが家の近くの魚屋さんで、北海道産の生鮭の切り身を買って、野菜サラダに、いつもは〈しらす干し〉で済ますのですが、このお二人には、VIP待遇で、バラ寿司に《国産ウナギ》を奮発して添えたのです。いつもご馳走になり、生活の支えもしてくださった姉妹たちへの、せめての歓迎と感謝を表せたでしょうか。

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 お祈りの要請があって、いつも一緒に祈ったのです。親戚の方が、船で漁をされていたのですが、出漁後に行方不明になってしまい、『祈ってください!』と言われたことがありました。近くの島陰で沈没されて、お父さまと息子さんが亡くなられたのです。それで、ご主人と息子さんを亡くされた夫人とお嫁さん、二人の小さなお子さんを励ましたいと、誘われて訪ねたのです。

 今回の訪問で、親戚のおばさんはお元気になって、お嫁さんは再婚され、お子さんたちも大きくなっておいでとのことです。もう一人の息子さんは、この姉妹の会社で働いているとお聞きしたのです。中国の家族と親族に繋がり、関係は、とても深く強いのです。貧しい時代は、親族や近隣が、経済的にも精神的にも支え合って行きてきたからでしょうか、今は豊かになっていますが、いまだにその絆は強固なのです。

 わが家から2、3分の所に、「9R hostel」があって、そこに1週間泊まっていただいたのです。もう少しホテルらしい宿所をご用意したかったのですが、近いので、とても行き来が便利で、前の月に来てくださった、もう一人の姉妹も、同じ hostel に泊まっていただいていた所です。

 私たちを、友人や兄弟や子どもたちが、物心両面で支えてくれて、出かけて過ごしたのですが、学校での教師の勤めを紹介てくださって、ずっと週2日教壇に立って教える機会が与えられて、大学からもその給料をいただいたのです。初期に、私たちがいただいた献金は、団体所属の費用が、けっこう経済的に高額でしたので、残額が少なく、大変な時期があったのですが、その収入は大きな助けとなっていたのです。
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 学校を退職した後、この教会から、牧師給をいただいたのです。『十分に支えられていますので、大丈夫ですから!』と言いましたが、主から、愛兄姉からですから受け取って欲しいのです!』と言って、断り切れず、ずっといただいてきたのです。帰国してからも、見舞ってくださる方たちが届けてくださり、今回も、考えられないほどの分を、『みなさんから預かってきましたから!』と、渡されました。

 もう涙が出るほどの愛をいただき続けているのです。在華中、体調が思わしくないと、兄弟姉妹のいる省立や市立の大きな医院に、なん度もお連れくださり、治療費も払っていただいたりでした。この街の大き河の河岸に、何百メートルもの石板が組み込まれて、この街に歴史が刻まれているのです。そこには、日本軍の侵攻、爆撃、その死者数までもが、刻み込まれています。初期に、この街でお会いしたご婦人は、日本軍の放った火で、少女時代に、腕に大きな火傷を追われていました。無理にお願いして見せていただいたのです。

 そんなことをした日本から、被害に遭われた人の住む街、また井戸に毒を投げ込まれて死者を出した街で、救われた基督教徒のみなさんから、そんな愛を受けてきているのです。まだ書きたいことがありますが、内分にした方がよいことなので、口頭でお話しできる時にお分かちしたいと思っております。

 美味しい「面mian/麺」が、この街にあるのです。最初に食べた時は、「三元(3050日本円)」でした。野菜と海鮮と肉の入った細麺なのです。南の方に行った街の名物ですが、その街には、そこからの多くの出身者がいて、面店があるのです。師範大の旧キャンパスの店は抜群に美味しかったのです。それよりも、その姉妹が作ってくださった麺は、その何倍も美味しかったのです。素敵な13年を思い起こす、再会を喜ぶことができました。家内は、いっぺんに元気になってしまったのです。好い体験をさせていただいて、こんな素敵な今を過ごしています。

( 中華麺、 鮭、エルサレムに教会が誕生した様子です)

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胸キュンの思い出と

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 散歩コースの一つが、巴波川散策で、この河岸に、市の終末処理場があって、田んぼが広がっています。土手伝いに歩くのですが、斜面に、このヒルガオが咲いていました。畦の流れの上を、シオカラトンボが飛んでいたのです。華南の街でも、ヒョイヒョイと飛んでいました。蜻蛉三題です。

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もう飛ぶか 秋の知らせの 赤とんぼ

トンボ釣り 追いかけ走り 弟と

シオカラも 連なり飛んで 水面かな

 

   こんな異常な暑さでは、まだ赤とんぼは飛ばないのでしょうか。NHKのラジオで放送されていて、大変人気のあった、「にっぽんのメロディー」の opening に流れていたのが、「赤とんぼ」でした。

1 夕焼小焼の赤とんぼ
  負われて見たのは いつの日か

2 山の畑の桑の実を
  小かごに摘んだは まぼろしか

3 十五でねえやは嫁にゆき
  お里のたよりも 絶えはてた

4 夕焼小焼の赤とんぼ
  とまっているよ 竿のさき

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 子育ての真っ最中、早く床について、携帯ラジオで聞いた番組ででした。その「赤とんぼ」のメロディーに載せて、『歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます。皆さんこんばんは、にっぽんのメロディー、中西龍でございます!』というアナウンスがあったのです。

 これほど秋を感じさせてくれる歌はなさそうです。人恋しくなって、父や母を思い出させ、兄たちや弟と一緒に過ごした日々が、懐かしくて仕方がなくなってきます。ちゃぶ台に代わる、掘り炬燵を一年中囲んで、どんな話題だったのかは記憶にないのですが、大賑わいで食事をしたことが、胸がキュンとして思い出されます。

 子育て中の私は、責任の重さ、食べさせること、着せることなどに気を遣って、大忙しでしたが、今は、家内と二人で、実に静かな時を送っております。

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