自分でも、何度か説教をさせていただいた聖書箇所でしたが、そこを読まれて、ある講義がなされました。どこでかと言いますと、ルーテル派の神学校でだったのです。旧約聖書の担当の教授の最後の講義でした。どんなルーテル神学を聞けるのかと、大きな期待で座席についていたのです。ルターについて語るのか、ルーテル派の伝統的な神学論を語るのかと思いましたら、「旧約における弱者救済の論」を講義されたではありませんか。
長い間、日本の学生のために講義し続けてきた学者が、任地の日本での教えを締めくくるに当たって、「義認論の旧約的背景」などについて聞けると思っていましたら、孤児や寡や在留の外国人を顧み、支えられる神の愛を語られたのです。
『在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。 思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。 あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。 あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。 ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。(申命記24章17~22節)』
生産的、貢献的でない人間への神の顧みということ、寄るべなき者ものを、決して見捨てられない神さまがいて、人にも、寄るべない者を顧みるように要求する神がいらっしゃることに、まさに聖書が知らせる神さまのご性質の最たるものではないでしょうか。
生きていたって役に立たない人など、価値も意味もないとしている人間社会に、そう言った人々と共に生きるために、心を配り、物を分け与えるように願う神が、聖書の示すお方なのです。強者だけが生き残れるような人間社会に、弱者保護規定を設けられたお方を、神だと知ってから、自分の生き方が変えられたのです。
男の子ばかりの兄弟の中で、「強さ」を身につけることこそ男の生きる道だと教わったような気がします。喧嘩にも、経済競争にも、出世競争にも、〈強者生存〉の生き方を身につけようとしていた自分に、この憐れみに富み、恩恵に溢れた神、それは精神的なものだけでなくではなく、〈持っている物〉によって、持たない人々の物の不足を、物によって満たし、補い、助けることを示されたのです。
まさに、〈食べる物〉を、補い、助けて与えることです。イスラエル民族は、奴隷として、エジプトにいた時の、精神的な苦しみ、神の民なのに困難を通り、虐げられた過去を持っていたからです。具体的には、〈食べ物の不足〉の過去を思い出し、今まさに食べ物に困窮する人に「小麦」を、「オリーブ」を、「葡萄の実」を与えるように命じたのです。
好意を受ける人が恥じて受けることにないようにとの、配慮も、イスラエルの民に要求したのです。〈強さ〉だけが、生き残る手段であるのではなく、今の強さが、今まさに弱さを覚えている人たちの支えとなれるような配慮、恵みあふれる対応を求めているのです。誰も、『足りない!」と言うようなことがないためです。
今まさに世界中で、春に植えた稲や小麦などの穀物が、大雨の洪水、貯水ダムを保つためになされる放水で、収穫を見ることなく押し流されています。灼熱の旱(ひでり)、旱魃も世界中に見られます。その上穀倉地帯が、戦火で焼かれようとしています。
強い者が弱い者を、強く力のある時に、弱く力のない時のために、強い者は、弱いものに、憐れみを示すなら、どちらも、神の要求を満たすことができて、共生することができるわけです。神の国の 《 balance sheet 》なのです。驚くべき神の配慮ではないでしょうか。
この退職する教授の話の内容は、もう忘れてしまいますが、その講義する姿勢、テキストの聖書箇所、講義を聞く者たちへの配慮、何よりも、神を崇めている時間が、尊かったのです。
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