有徳

 

 今朝は、所用で、師範大学の旧キャンパスにでかけて来ました。予報は『小雨』ですから、『濡れていこう!』の春雨でしたが、やはりこの時期は濡れると寒く感じますので、小型の傘を携行しました。泣きそうな重い雲が立ち込めていたのですが、案の定、帰りがけには降り始めて、傘のおかげで濡れずに、昼過ぎに帰宅することができました。

 近くに全国展開をして、急成長の「ショッピングモール」が、昨年末に開店したからでしょうか、バスの便がとても便利になってきたのです。いままでは乗り換えをしなければならなかった、師大の旧キャンパスにも、私が教えている学校にも一本で行くことができるようになったのです。もちろん、街中に行くのにも、動物園や博物館や森林公園に行くのにも、直通のバスがありますし、空港への「リムジンバス」の発着する市内のホテルにも、至便の距離にあるのです。ちょっと郊外型の住まいは、かえって中心街よりも便利になってきているのは、日本ばかりではなく、こちらの地方都市でも同じになってきています。

 今までは、バスの中には、FMのラジオ放送が流れていて、たまに日本の歌が聞けて、『オヤッ!』と思う楽しみがあったのですが、最近では、その楽しみを奪われてしまい、バスの中でテレビが見えるようになっております。運転席の後ろと降車口の2箇所に、テレビが設置されているのです。サーヴィスがすごく良くなってきて、心なしか運転もラフではなくなってきているのは、嬉しいことです。このバスのテレビですが、帰りのバスで、日本のテレビ放送の合間に、「公共広告機構」が、募金や社会活動の案内などを放映し、広報や訴えをしているのですが、これと同じような内容のスポット映像が映し出されていました。

 それは、大雨が降っている中、交差点の赤信号で大勢の人が、「青」になるのを待っています。道路に目をやりますと、枯れ葉が側溝の水落の格子をふさいで、みるみるうちに道路が水で溢れ始めているのです。そこに一人の青年が飛び出して、しゃがみこんで枯葉を取り除くのです。すると溜まっていた水が、『スーッ!』と引いていき、みなさんが靴を濡らさずに歩道を渡れるようにしたのです。拍手が上がったでしょうか、この青年はずぶ濡れになりながら、満足そうな表情を見せている、そういったものでした。「公徳心」を褒めるというのでしょうか、みなさんに、『同じように!』と訴えるのでしょうか、中国のみなさんが、かねてから大事にしてきた「有徳」の行為でした。

 中国と中国のみなさんが大好きなのですが、時には、『嫌だなあ!』と思うことが、正直に言いまして少々ありました。ところが、そういった思いを、最近ではしなくなってきているのです。国が経済的に財政的に豊かないなるに連れ、人の心も、以前にもまして温かくなっているのを感じるのです。素晴らしいことであります。以前住んでいまた、学校の寮の近くに、『美味しい麺を食べさせてくれる店があるんですよ!』と、師大で日本語を教えていた、私と同じ学校の卒業生の先生が、食べ物情報を提供してくれた店(今は店主が変わっている)があるのですが、寄り道をして、そこで、ちょっと早めの昼食をしました。どこで食べるよりも、肉も野菜も小さな牡蠣もあさりも、多く入っていて、〈この街一番の味〉だと認めている麺で満腹になって、スカッとさせられた映像を見ましたので、私も満ち足りて過ごしている月曜日であります。

(写真は、こちらの住民が生活水のために汲み上げた「井戸」です)

いのちの重さ

 

 韓国語で、トゲウオ(棘魚)のことを、「カシコギ」と言うのだそうです。この魚のオスには、独特な習性があって、それを題材に、韓国で小説が書かれました。もちろん題は、「カシコギ」で、韓国ではベストセラーを記録したそうです。その反響の大きさを知って、関西テレビが、この小説が映画化されたものを、日本版に「リ・メイク」しています。そ題名は、「グッドライフ」で、その番組のサイトに、次のようなイントロダクションがありました。

父親と子供の距離は永遠の探り合い。その伝わらない“もどかしさ”、“切なさ”こそが父と子の物語そのものだと言えるだろう。父性とは、自然に備わるものではなく、子供のために奮闘することで獲得するしかないものだとしたら、父親という生き物は、何と不器用で、哀しく、愛おしい存在ではないだろうか? 子供と一緒に過ごせる時間に限りがあると知った時、 父親は子供に何をしてあげられるか?2000年、韓国で200万人が涙し、“カシコギ・シンドローム”を巻き起こした 話題の韓流ベストセラーが原作の感動のヒューマンドラマ。 息子から自分に向けられた愛に気づいた父親が、白血病と闘う息子を献身的に看病する、 親子の哀しい運命を描く、無償の愛の物語

 多くの小説がテレビ化、映画化、舞台演劇化されていますが、「母子物」がほとんどで、このように「父子」の関係を取り上げるのは珍しいのではないでしょうか。1週間に一日、私は「脱力日」をもうけて、珈琲を飲みに出かけたり、PCで日本の映画やTVドラマを配信しています、こちらのサイトで観たりします。昨日は、この「グッドライフ」と偶然に出合って、つい10本全編を観てしまいました。いやー、とても良かったと思います。親子、夫婦、家庭、それぞれの在り方に、一石を投じていて、子育てを終えた私ですが、足りなかったことを教えられたりで、メモまでしてしまいました。

 これを観ていましたら、次男が、小学校5~6年の間に、帝京大学病院に6回ほど入退院を繰り返し、手術をしたことがあったのを思い出してしまいました。小児病棟にいて、同じ時期に、白血病の「だいちゃん(?)」がいて、同室でしたし、一緒にプレールームで遊んでいたのを覚えています。病気治療のために、学校を休んで入院しているといった、同病者にしか分からない、同じ境遇の子どもたちの「連帯感」の強さや「友情」の輝きを見せてもらったのが、とても懐かしいのです。テレビの主人公の羽雲(わく)と同じように、次男の病友が、キモセラピーの治療後に、嘔吐していたのを、見舞ったときに見てしまったことがありました。あの「だいちゃん」を、ときどき思い出しては、『どうなったんだろう?』と思っています。羽雲の同室の病友は、「たいちゃん」でしたが、彼との死別体験もありましたから。あれから20年以上も経ちます。

 この「トゲウオ」というのは、淡水魚で、オスは、メスが産み捨てた稚魚を必死に育て、子が成長していくと自らは死んでいくのだそうです。この不思議な習性のように、白血病に冒された主人公の羽雲を、父親として守り励ましていくのです。自分の父親が自殺をしてしまうといった辛い過去を持ち、それをはねのけるように、彼自身も、「敏腕ブン屋」の仕事人間だったのです。そういった背景ですから、人間関係の構築のできない彼は、妻と離婚してしまい、部下を自殺未遂にまで追い込むほどの上司だったのです。羽雲を男手ひとつで育てていく中で、父の役割、父性を呼び覚まされていくのです。そんな中で彼自身が、「肺癌」に冒され、余命半年の宣告を受けます。この病を息子にも元の妻にも語らないまま、過ごしていくうちに、多くの人間関係も回復させていくのです。一番の回復は、彼自身が自分、自分の過去と面と向かって、その関係を回復していく課程が描かれているように感じたのです。

 ちょうど「死生観」について講義をしようと調べ物をしていましたので、このタイミングに驚いてしまいました。こういった健全なテレビ番組を、もっと多くの人に観ていただきたいと思いました。それよりも何よりも、私自身が、自分の「いのち」、「病」、「死」について、しっかり見つめ直してみようと思わされたのは、素晴らしい機会でした。『あなたの余命は半年です!』と言われないとも限りませんから、しっかり面と向かって、来し方に思いを向け、将来にも思いを振り分け、「いのちの重さ」を再認識させられている小雨の週末であります。

(写真上は「グッドライフ」の父・澤本大地を演じた反町隆史と息子・羽雲を演じた加部亜門〉の一場面、下は、トゲウオの一種です)

椿

 

 昨年の夏から住んでいるアパートの中庭に、実にきれいな「椿」の花が咲いています。戻ってきた私を歓迎するかのように、咲いていましたが、もう花の盛りは終わるのでしょうか。日本で見たのは、ただ真っ赤な椿ですが、ここに咲いているのは、日本よりも赤色の濃いものや、紅白絞りの斑色のもので、『アッ!』と息を飲むようなの美しさです。

 私の父が、とても好きだった歌に、「アンコ椿は恋の花」というのがありました。作詞・星野哲郎、作曲・市川昭介、歌・都はるみで、1964年、東京オリンピックの開会された年に流行ったものです。    

   三日おくれの 便りをのせて
   船が行く行く ハブ港
   いくら好きでも あなたは遠い
   波の彼方へ 行ったきり
   アンコ便りは アンコ便りは
   ああ 片便り

   三原山から 吹き出す煙
   北へなびけば 思い出す
   惚れちゃならない 都の人に
   よせる思いが 灯ともえて
   アンコ椿は アンコ椿は
   ああ すすり泣き

   風にひらひら かすりの裾が
   舞えばはずかし 十六の
   長い黒髪 プッツリ切って
   かえるカモメに たくしたや
   アンコつぼみは アンコつぼみは
   ああ 恋の花

 多くの人が、よく歌った歌を、「流行歌」とか「歌謡曲」と言いましたが、いつごろからか、これを「演歌」と呼ぶようになりました。中国や朝鮮半島にも、似たようなメロディーの歌がありますが、日本から輸出されたのか、もともと大陸で歌われた歌だったのでしょうか。こちらの学校で日本語を勉強していたときに、一人の先生が、台湾の歌で、「爱拼才会赢」を教えてくれたことがありました。恋愛の歌なのですが、まるで「演歌」と同じメロディーで、福建省の南部の方言の「闽南话」で歌われているのです。この言葉は「台湾語」と同じです。

 文化的なつながりは、日本と台湾と「闽南」は、ひとつの線で結び合わせられるのかも知れませんね。父が、16歳の都はるみが歌う歌謡曲を、目尻を下げながら聴いていたのを思い出します。なにか郷愁を誘われたのではないでしょうか。それは、ちょっと意外なことだったのです。父は、私たち子供の前で、歌謡曲を歌うのを聞いた覚えがないのです。ただ、童謡でしょうか、父が子どもの頃に歌った、「めんこい仔馬」や、祖父に連れられて出入りした場所で、みんなで歌った歌を、思い出して口づさんでいるのは聞き覚えがあります。

 そういえば、都はるみに似た女性が、こちらにはおいでになります。仕草までそっくりなのは、ルーツを共有しているからかも知れません。「歌は世につて、世は歌につれ」と言うそうで、田植歌や漁師歌、収穫や大漁を喜ぶ歌など、歌い継がれている歌は、世界中にあるようですね。労働の厳しさと、働く喜びを歌うのは、人の常なのでしょう。今だって、窓の外から聞こえてきているのは、「北国の春」です。そういえば、今日も20℃の気温が予報されていましたから、こう言った選曲になるのでしょうか。歌い、そして聴く歌を、中国と日本で共有する私たちは、やはり、どこかで、しっかりと繋がっているに違いありません。

兰州(蘭州)

 私たちのアパートの前の道路沿いに、「兰州拉面(蘭州ラーメン」の店が、留守しています間に、新規開店しました。昼前に、出先から戻ってきた私は、その店に入って「牛肉焼飯」を注文したのです。実は、いつものように、メニューを見ては、『麺にしようか、御飯にしようか?それとも・・・』と、5分くらい迷ってしまって、やっとチャーハンに決めた次第です。とんでもなく辛いものがあって、注文したけど食べられなかったことがありましたので、選択が慎重になっているのでしょう。

 さて、どうしてつられて入ってしまったのかといいますと、この店の屋号にひかれたからです。シンガポールに行ったときに、同じ屋号の店に、時々食べに入ったことがあったのです。長女の贔屓の店で、地下鉄の駅の近くに「中華街」があって、その中にあります。今朝は、朝御飯を抜いていましたので、おなかがすいて、家に戻って自分で作るのを躊躇してしまったのです。そこで食べたチャーハンの御飯に、実は芯があって、ちょっと重たかったのですが、味付けも具材もまあまあだったので、けっこう食べてしまいました。

 この「兰州」というのは、中国の西北部にある甘粛省の都市で、322万人ほどの人口を擁しております。青海省と寧夏自治区の間に南北に長い省です。テレビで見たことがあるでしょうか、小麦粉から麺を創るときに、包丁を使わないのです。こねた粉を何度もなんども振りながら、倍々に細くして作るのです。この麺で作るのが、甘粛省の名物の「兰州拉面」です。シンガポールの店で、その様子を見ていて、とても気に入りました。何度目かに行ったときに、写真をとってくださって、今も店内の壁に張り出されているのです。日本の『食べ物紀行」のテレビ番組などに、時々出ている有名店で、ご主人も奥様も、実に気さくな方で、親切です。

 

 次回、家の近くの店に行ったときには、「兰州拉面」を迷わずに注文しようと思っています。店で働いていた少年が、新疆の回教徒がかぶる白い丸い帽子をかぶっていましたので、きっとイスラム系の人が「老板(ラオバン・店主)」で、日曜日なので息子が手伝っていたに違いありません。味は、シンガポールの方が、口にあっていますが、ここのものも好きになりそうです。一皿7元でしたから、日本円で85円くらいの昼食でした。そういえば、メニューに、「刀削面(山西省の名物で、ナイフで削りながらお湯の中に入れてゆでる麺です)」が載ってましたから、次回は、どうしよう・・・・・。

乳母車

 こちらの街中で、最近、目立っているのは、「乳母車」、今の人は、《ベビーカー》というのでしょうか、それを押して歩いている母子の風景です。以前はほとんど見かけませんでしたが、きっと道路が整備され、交通ルールが守られてきたので、表に子連れで出歩く機会が増えたのに違いありません。つい乳母車の中をのぞきこんでは、ニッコリしてしまうのですが、孫恋しい風情と、人の目に映ってしまうのでしょうか。

 そい言えば、ひと月あまり過ごした「代官山」の駅周辺の歩道上も、時々乗った電車の中でも、「乳母車」をたくさん見かけたのです。もしかしたら、以前は全く関心がなかったので意識外にあったのかも知れません、しかし、そうとばかりはいえません。こちらに帰ってきます日に、恵比寿の駅から日暮里まで山手線に、9時半頃に乗りこんだのですが、まだ遅い通勤時間帯でしたのに、「乳母車」を見かけたのです。もしかしたら、通勤風景だったのかも。

 今、少子化が問題にされ、将来の人口推計が公表されていました。50年後の2060年には、現在の人口よりも、4000万人も減って8674万人になってしまうというのです(厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所)やがて老人天国(その頃は、天国からこの地を眺めていることでしょうか)になるだろう、とニュースが伝えていましたから、『うっ、違った傾向かな?』、つまり子育て中のお母さんが増えてる傾向かなと思ったりしたのですが。

 

 これも私の勘違いで、若いお母さんが、素晴らしいいデザインの乳母車に可愛い自分の子共をのせて外出するのが、《クール(カッコいい)》で、それが流行りになっているのかも知れません。ある店の前には、乳母車が何種類も並べて展示されてありました。私たちが子育ての時に、誕生祝いに、義妹が買ってしてくれたのを使ったのですが、それだって当時は高級品で、義妹の奮発でしたが。最近は、ベンツのような「高級車」といった感じがしていました。

 自分が生まれたのは、出生数の極めて低い年でしたが、弟あたりからは、いわゆる「団塊世代」、英語の”babyboomer”になりました。その世代の子どもたちが、1970年代の「第2次ベビーブーム」、二代目団塊世代で、近所にあった中学校は、急増のプレハブが造られていました。第三次団塊世代は、出来上がらなかったのですが、将来の人口減の日本は、どうなってしまうのでしょうか。まあ、心配したことはないのかも知れませんね。素晴らしい知恵が結集されて、明るい世界が出来上がると、楽観視したいものです。

 それにしても、《乳母車ブーム》に、もっと拍車をかけてもらいたいものですね。お母さんといっしょに乗る《エレクトリック・ベビーカー》などが、きっと売りだされるかも知れませんね。それで子供の出生率、出生数が上がるかも知れません。昨今は、《ひ孫》も視野に入れていますので、楽しみです。

小雨

 「寒の戻り」なのか、13日の「暑さ」が異常だったのでしょうか、今日も寒い霧雨の日です。こちらに戻ってきて、一昨日は、暗くなって、残り物の食事を食べていたら、急に寂しくなってしまいました。こう言った感覚というのは、在華6年で初めてのことです。日本から戻って6日目、2LDKの家に独りでいて、食事を自分のための一食だけを作り、大きめの食卓に座って独りで食べ、食後に林檎を自分でむいて一個を食べるという生活が、つまらなくて、寂しくて、悲しく感じてしまったのです。

 独りでいるいることは、今回のことだけではなく、時々、これまであったので、まあ慣れているのですが、なんとなく、外の雨の音が聞こえ、I-PODからはジャズが流れているのを聞いていたのに、ふと寂寞とした思いに心が満たされてしまいました。どうも、「人」は、独りでいられるように造られていないのでしょうね。あの最初の人に、「ひとりでいるのはよくない」と語られた話を思い出したのです。何を彼のもとに連れていき、置いても、彼の「孤独」は癒されなかったのです。「人」が独りでいるのは、社会的に不自然なのでしょうか。こんな歌があったのを思い出しました。サトウハチロー作詞・加藤和彦作曲の「悲しくてやりきれない」です。

    胸にしみる 空のかがやき
    今日も遠くながめ 涙をながす
    悲しくて 悲しくて
    とてもやりきれない
    このやるせない モヤモヤを
    だれかに 告げようか

    白い雲は 流れ流れて
    今日も夢はもつれ わびしくゆれる
    悲しくて 悲しくて
    とてもやりきれない
    この限りない むなしさの
    救いは ないだろうか

    深い森の みどりにだかれ
    今日も風の唄に しみじみ嘆く
    悲しくて 悲しくて
    とてもやりきれない
    このもえたぎる 苦しさは
    明日も 続くのか

 これは、「ザ・フォーク・クルセダーズが、1968年に歌って流行った歌です。学校を出て働き始めて、仕事をおぼえはじめて1年が過ぎたころでした。あの頃は、友達がいて、仕事があって、ガールフレンドもいて、帰る家も、美味しい母の食事もあったのに、この曲のマイナー調と、サトー・ハチローの憂鬱を誘う歌詞のおかげで、なんとなく悲しくて、わびしくて、やりきれないような日がありました。青春期とは、快活で、行動的であるべきなのに、そんなに沈み込んでいたことがあったことを思い出してしまいました。

 そんな悲しくて寂しい思いをメールで発信しましたら、次男が、すぐにスカイプしてきてくれました。もしかしたら、『やばい!』とでも思って、元気づけようとして、声をかけてくれたのかも知れません。帰国している間、彼の家に居候して、仕事の間は離れていましたが、帰宅から出勤、土日の間のほとんどの時を、彼と過ごしたのです。手術から帰った翌日、温泉の入浴剤で風呂を作ってくれたのは、本物の幸せを感じさせられました。それで、こちらに戻って独りになったからだと、自分なりに心理分析をしてみました。次女も、『だれか他のオジさんに連絡してお茶飲みにいったりとかさ、人と交わるのが一番いいと思う!だれもいない家に帰ってくるのは寂しい気持ちはわかるけどね。夜も早く寝るといいよね。 』と言ってくれたら、今日は、同じ学校で働く同年の同僚が訪ねてきてくれて、6時間ほどの交わりをもちました。なんというタイミングでしょうか。

 だれにでも、こんな心境はあるのでしょうか。まもなく春になりますし、家内も戻ってまいります。ご心配なさらないでください。

ポカポカ

 

 外が、大変にぎやかです。寒さで、昨日まで縮こまっていた人も樹木も車も家も、洗濯物でさえも、24度くらいに気温が上がったからでしょうか。すべてが、ポカポカの春を感じて、喜びを表現しているのです。所用で銀行とコピー店に、バスと歩きで出かけてきたのですが、コートもセーターも不要で、歩くだけで汗をかいてしまいました。

 次男が、寒いだろうからと、釣りをする人が冬場に着る、アメリカのメーカーのコートをくれて、それを着て帰ってきたのですが、さすが、今日は着ることなしに外出をしたのです。帰り道、鼻歌がついて出てきてしまいました。高野辰之作詞・岡野貞一作曲/文部省唱歌(三年)の「春が来た」です。


     春が来た 春が来た どこに来た
     山に来た 里に来た
     野にも来た

     花がさく 花がさく どこにさく
     山にさく 里にさく
     野にもさく

     鳥がなく 鳥がなく どこでなく
     山で鳴く 里で鳴く
     野でも鳴く

 歌ってる間に、小学校の教室を思い出し、先生がオルガンを弾いて、合唱していた様子を思い出しました。登下校の田圃の畦道には、草が生い出で、やがて花が咲き始めてきました。懐かしいですね、当時の日本は、小学唱歌に歌われるような光景がどこででも見られたのですが。

 今日の、私の家の周りは、車の騒音が人のざわざわ声をかき消すかのように、鳴り響いています。全てのものが躍動し始め、活発になるこの時期、やはり春が一番、生きる力を感じさせてくれる季節なのでしょうか。「春節」を祝う、中国のみなさんの気持ちと同じです。昨晩、私の家の前の広場に出し物が出ていまして、大きな音量で音楽が流れていました。ここ中国で、な、なんと、ロック調にアレンジした、実にウキウキさせるような「四季の歌(荒木とよひさ作詞・作曲)」だったのです。


    春を愛する人は 心清き人
     すみれの花のような ぼくの友だち (夏秋冬省略)

 

 昨晩の音楽は、まるで「預言」だったのかも知れません、いっぺんに春到来の今日を迎えました。明日から、後期の授業が始まります。前期に引き続いて3年生の「作文」、同じく3年生の「日本の社会と国情」という新規の講座を担当します。今日は、その準備で一日過ごしましたが、『もう春!』ですが、まだまだ寒さがぶり返してきますので、油断大敵で過ごそうと思っております。

友・兄弟・母

 近所、趣味、クラブ活動、クラスが同じなどで、友人になるケースが、小学校の時にはよくあります。もう少し成長しますと、考え方とか価値観などが似ていた り、他には読んだ本での読後感や贔屓の作家の作品など、内面的なことで「友情」が芽生えてきます。また死線をくぐった「仲間」、人生の危機を共有した者同士が、「親友」となることがあるようです。中国の男性の方と話をしていましたときに、一番強い人間関係は、「戦友」だと言っておられました。国を守ろうと する意識があって、互いの「勇気」をほめ合うところに、強固な絆が生じるからなのでしょうか。中国の街中で、時々見かける光景は、大人の男性が二人、肩を 組みながら歩いてるのです。わたしは、小学校や中学校の時に、友達と肩を組んで歩いたことがありますし、そんな写真が残っています。でも、中国での、この 光景は、一見異様ですが、そうできる自由を感じてとても羨ましく感じるのです。

 中国にやってきて、国や民族を超えて、互いを引き付け合う「友情」があり、そんな絆で、ある人たちとつながっているように感じるのです。互いが進むべき同 じ方向を見つけて、その同じ道を歩もうと決心し、同じように感じ合い、病んだり困窮したり悩んだりしたときに助け合い、情報を交換し合い、安否を問合う 「同士」が、しかも国籍や人種を超えて、自分の周りに何人も与えられていることは、ほんとうに感謝なことです。異国での関わりは、さらに深くて鋭敏なので はないかと思います。これは友人以上の関わり、いえ本物の友情の絆で結び合っている関係ではないかと思うのです。一昨年、家人が病んで入院したときに、わ たしたちを「一家人」と呼んで、家族以上の情愛を示してくださった中国のみなさんも、家人とわたしの「一家人」であることを感じさせてもらっています。1 週の間、毎日24時間、もれることなく家人のベッドの脇にいてくださって、上下のお世話でさえも喜んでしてくださったのです。

 わたしの愛読書に、「友はどんな時にも愛するものだ、兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」とあります。よく言われるのは、「友人」は選ぶことができ るのですが、「兄弟」は選べません。選ぶことのできない兄弟は、父と母を共有するのですから、多くを両親から受け継いでいることになります。私には、二人 の兄がいて、一人の弟がおります。『産めよ、増えよ!』と言われた戦時下に、上の三人は生まれ、弟は団塊の世代として生まれています。四人四様、父と母の 好い点を受け継ぎ、また弱さを受け継いでいることになります。父は、61で召されましたが、母は、来月95歳になろうとしています。老いは日に日に進んで いっております。9ヶ月ぶりに帰国しました日に、成田から、その足で、母がいますホームを訪ねました。『もう忘れてしまっているかもしれないな!』と思っていたのですが、『忘れるものですか!』と言って、ぎゅっと手を握ってくれました。「母性」とは、ものすごい力と愛とを内に宿しているのだと、改めて知らさ れ、母の愛に感謝しました。まだ山奥に住んでいたときに、上の兄が私を庭に打ち付けたことがありました。泣いて家に飛んで帰った私を、玄関の土間に座って、 膝の間で抱いて、打った頭をやさしくなぜてくれたことを鮮明に覚えているのです。その当時のほとんどのことは忘れてしまったのですが、記憶というのは不思議な ものです。

 そうですね、大病から生還した母の生涯は、もう5年も生きることはないかも知れません。先日、これからの母のあり方について、兄たちと弟で話をしてくれました。わたしは術後の風邪で、今ひとつ力がなくて駆けつけることができずに欠席しました。三人三様、四人四様、方法は違っても、母への感謝をもち、愛しています。わたしたちに取っては、たった一人の「垂乳根」の母親だからです。恵まれない小女時期を過ごして、父と出会って結婚し、4人の子をなして、『わたしは、本当に慰められ、この四人はわたしの〈宝物〉です!』と母がよく言っていました。いつも喜んで感謝を忘れない母の最期の花道を、喜ばしく楽しく愉快 にたどっていただきたい、これが、明日中国に戻るわたしの心からの母への願いであります。

(写真は、土偶の『垂乳根の母』です)

 入学した中学校の校舎の表玄関に、薪を背負った金次郎の銅像がありました。入学式に列席していたわたしたち新入生に、校長が、『毎朝夕、二宮金次郎先生の 像に脱帽して礼をしなさい!』と言いました。素直だったのでしょうか、「勤勉」の象徴のような、勤労学生の模範のような、二宮尊徳の少年の姿を鋳た像に、 帽子を脱いで朝な夕なに礼をしたのです。横浜線から乗り継いでやってくる級友たちと集団での登校でしたから、国分寺の駅で降りて歩いて通学をしました。の ちになって、バスに換えたのですが、上級生や高校生が脇を通り越していくと、5~6人の集団のわたしたちは、大声で、『おはようございます!』と挨拶をし ました。実に純で素朴だったのでしょうか、生きている高校生にあいさつをするように、像に向かって敬意を表したのを思い返しています。やがて生意気盛りに 突入したわたしは、おかしなことだと疑問が湧き上がってきて、像への礼をやめてしまったのです。

 敗戦以前の父たちの世代の学校では、教育勅語の奉読式があり、天皇皇后の写真(御真影といわれました)に敬礼し、宮城(皇居のことです)を遥拝していたと 聞きます。集団で例外なく、強制されてそうしたのです。写真や住居や書かれた物に向かって、それがあたかも人格のあるもののように振舞うのは、おかしなこ とに違いないのです。もちろん私は、国王としての昭仁天皇や美智子さまへの敬意を忘れませんが、それ以上の存在だとは思っておりません。過去のいきさつな ど、読み物で知ってはおりますが、それにわずらわされません。イギリスやスウェーデンやオランダには国王がいて、国民から親愛の情で敬われているように、 私は敬います。

 1890年(明治23年)、第一高等中学校教員だった、30歳の内村鑑三が、明治天皇の名で記された教育勅語に、最敬礼をしなかったことが、大変な社会問 題となり、教職を追われた事件があったそうです。最敬礼が、十分になされなかったことが問題だったのだそうですが。彼が十分に日本人らしく振舞わなかった ことが糾弾されたようでしょうか。わたしの知る限り、彼ほど祖国日本を愛した人はいないし、日本人としての誇りも忘れなかった人でした。日章旗に対して目 を向け起立すること、国歌に対して唱和することが、教育の一環として求められています。わたしはこの起立と唱和に抵抗を感じません。それは皇国史観に立つ 国粋主義者だからではありません。わたしの師は、アメリカ人として星条旗と国歌に敬意を表していました。日本と日本人をこよなく愛した師にも、そうするこ とが当然だったからです。そのように、わたしも日章旗と国歌に敬意を表したいのです。父や母、子や孫、そしてわたしが生まれた国であり、この生まれ育った 国の平和と安泰を望むがゆえに、その願いを託してそうします。

 隣国に軍隊を進軍させたときに掲げた旗と、平和な日本に翻る現在の国旗とは違います。わたしには抵抗はないのです。父が海軍一族だからでもありません。純 粋に、日本人としての自覚があるからです。祖国への愛着や愛惜を持たなくて、だれが世界平和を語り、隣国と和して敬うことができるでしょうか。あまりにも 過去にこだわりすぎて、意気や志気をなくしてしまってはなりません。この時代を生きるわたしたちは、今を責任持って生き、将来を孫子に備えなればなりませ ん。わたしが民族主義者だからではありません。わたしが確信していることは、この体内には、きっと中国や朝鮮半島の人々の血が流れているということです。 大和民族の純血を信じていません。いわば親族の間柄なのですから、敵対関係ではなく、友好関係を取り戻さなかければならないのです。戦争が終わって、70 年にもなろうとしています。もう十分に償ったのですから、過去に煩わされないで、将来に、しっかりと目を向けて今を生きようではありませんか。そこには、 なすべきことが山積しているからです。

 それでも、この驚くほどに美しい日本は、わたしの母国であり、祖国であるのです。

 

 

春待望

 『イエローストーンにしよう!』、『モンタナにも行きたい!』ということで、オレゴン州、ワシントン州、アイダホ州、モンタナ州、ワイオミング州のイエ ローストーン(国立公園)に、娘ふたりと一週間の旅行をしたことがありました。次女の卒業式に出席して、『折角のアメリカ訪問なのだから!』と彼女たちに 勧められたのです。どうしてモンタナだったのかといいますと、1990年代の初めの頃だったでしょうか、「リバー・ランズ・スルー・イット”A River Runs Through I”」を観て強い印象を受けていたのです。この映画の舞台だったのが、“Big Sky”と呼ばれるモンタナで、そのミズーラの川と空の美しさに魅入られ てしまっていたのです。もちろん開拓者の家族の物語にも、ジェームス・デーンの再来とも言われていた、ブラッド・ピッドも気になりましたが、第一は、その自然 美でした。モンタナこそ、北米の自然美の最たるものではないかと思った私は、『何時か訪ねてみたい!』と思っていたのです。

 その旅は、とても楽しいものでした。ドライブインに泊まり、食事はスーパーマーケットで食材を買って、公園の施設で調理したりの一週間だったのです。警ら 中のパトカーに不審に思われて、職務質問にもあったりしましたが、事情が分ったのでしょうか、行ってしまいました。6月だったのに、雪が降った日もありま したが記念すべき時でもありました。このイエローストーンは、ユネスコの「世界遺産」の第一号だったのではないでしょうか。残念なこことに、訪問の1年ほ ど前に森林火災があって、焼け跡が目立っていましたが、野生のバッファローとか鹿や小リスなどもみることができ壮大な自然に圧倒されてしまいました今、生 活の本拠地である。

 今、生活の本拠地である中国にも、多くの「世界遺産」が認定されているのですが、北京の故宮(紫禁城)や万里の長城、四川省の九寨溝や黄龍、福建省の土楼 を訪ねたことがあります。この自然美でしょうか、造物美はイエローストーンに勝るとも劣りませんし、文化遺産は、中国人の驚くべき知恵を感じさせられて圧 倒されてしまうほどでした。

 しかし、一番美しく感嘆の的であるのは、「一人ひとりの故郷にある美」、「一人ひとりの思い出の中にある懐旧の美」なのではないでしょう。ワイオミングや 四川省に行かなくても、父や母や兄弟たちと過ごした片田舎に咲いていたタンポポや桑の実(ドドメ)、田舎道にあった水車や丸木橋、父が作ってくれたカルメ 焼きや正確に切り込んでくれた雑煮用の餅などには、実に懐かしい思い出が残されています。『日本って美しい国だ!』と真実思うのです。

 これは感傷的である というよりは、こういった物事に敏感で鋭敏、繊細に反応する感覚を、民族として受け継いでいると思うのです。地震や津波は、あまりにも峻厳で厳粛であるこ とは事実ですが、豊かで美しい自然に恵まれた風土の中に生まれ、育ったからに違いないのではないでしょうか。南北に細長い島国で、四面が海で囲まれ暖流と 寒流が流れ、列島の中央には急峻な山並みが背骨のようにして走り、春夏秋冬の四季の移り変わりが生活そのものに大きく影響してきた、こういった驚くほどの 自然の恩恵に浴してきた民族なのではないでしょうか。この自然環境の中にやって来て住み始め、天来の知恵や、渡来して下さった民の技術や能力で、この文化 が育まれたのでしょうか。としますと、私たちは自然に創りだされた民族と言ったらいいのでしょうか。

 すべての民族・国民には、それぞれに独特な優秀さがあるのですから、それを分かち合いながら、この地球を生活の場としているすべての人が、これに深く感謝 し、これに知恵を傾けて保全していきたいものです。太陽の熱量や光線、空気や水、さらに助け合い支えあうことなしには、どの民族も国家も存続していくこと ができません。小さな惑星の上に生活を営む私たちが、「恩恵のもとにある」という事実を、もう一度、認め直して、いがみ合いやそねみ合うことなしに、生き るように祝福され、定められている時間と地域の中で、責任を全うしていきたいものです。

 明日は「節分」、そして明後日は「立春」になります。今、日本列島は、歴史的な豪雪に見舞われていますが、もう春の足音が聞こえています。来ない春はない、しばし忍んで、春を待つことにしたいものです。