子育の頃に住んでいたのが、N中学校の裏門から50mほどのところでした。市の中心街から川を渡った、住宅街の中にあった学校だったのです。団塊世代の頃に建てられた、長い伝統のある中学ではなく、そんな彼らのジュニアが通学し始める頃だったと思います。わが家の近くでしたから、上の3人が卒業した母校でもあったのです。今日日の中学校や中学生は、どんな状況なのでしょうか。二番目の子が高校に入った頃には、ほかの地域に越しましたので、校庭の野球部の練習の声も聞きくことがなくなりましたし、学校の様子もわからなくなってしまいましたが。
上の子が中学に入る前でしたから、80年代のはじめ頃、さらにはそれ以前には、あの中学校が荒れていた時期がありました。全国的に「校内暴力」が、社会を賑わせていた時代でした。いじめが頻発し、教師に暴力を振るったり、校舎や体育館のガラスを粉微塵に割ったりしていました。あるときは、校庭に、オートバイで乗り入れて暴走していたりしていました。そんな頃に、「タイマン」と言って、一対一の喧嘩をしているところに通りかかったことがあります。それで、私はオッチョコチョイなものですから、二人の間に入って、『もういいだろう!』といって仲裁をしたのです。一人は近くの団地に住んでいる、不良中学生のKでした(名前を聞き覚えがあったからです)。彼の相手をしていたのは、クラスか生徒会の委員をしていた男の子で、正義感に燃えて、「タイマン」を申し込んだようです。
喧嘩慣れしているKに、彼は全くかないませんでした。殴られて防戦一方だったのです。学校の正門を出て、学校からは死角になっていた路地の奥で始めていました。本来なら、教師が間に入って指導すべきなのです。当時、この中学も、やはり校内暴力を抱え込んでいて、指導どころではなかったようです。教師たちが4、5人、遠巻きにこの喧嘩の様子を見ているだけで、手をこまねいていました。こういった場面というのは、喧嘩慣れした過去のある者にとっては、お手のものだったのです。戦意を喪失していた彼に、まだ殴りかかっていましたから、誰かの仲裁の頃合いだったのです。そこに私が入り込んで、『俺のこと知ってるか?』とKに聞くと、『そこの事務所のおっちゃんずら!』と、殴る手を引込めて答えました。一件落着でした。
その数日後、お母さんとその委員が訪ねてきました。お母さんから感謝をされ、手土産まで頂いてしまいました。彼は、きっと嬉しかったのでしょうか、お母さんに事の次第を話して、二人でやってきたのです。私は、彼の勇気、男気を褒めてあげたのです。当時、事務所に入り込んできた、この中学や余所の学校の中学生たちに、焼きそばを作って食べさせたりしていたのです。Kは来たことはなかったのですが、彼の仲間は来ていたと思います。
もう、あれから30年近くなります。どうしているのでしょうか。Kも委員も、もう43、4歳くらいになっていることでしょう。大学生の息子や娘のいる年齢になっているのではないでしょうか。あっ、「事務所」と言っても、あの道のものではなく、私の小さな会社でしたので念のため。
あんなに荒れていた子供たちでしたが、一過性の嵐のように静まって、過去のことになりました。「時代の子」と言えるのでしょうか。駅で切符を盗んで、駅と学校に呼び出されたこと、暴力団からピストルを手に入れることが発覚して呼ばれたことなどがありました。いつも母が行ったのです。中学生の時でした。学校は穏便にすませてくれ、母は私を叱りませんでした。あの時、処分をされていたら、その後はどうなっていたかな、と考えることがあります。思春期のマグマのような胎動が、どなたにもあるのです。ある人は穏やかに、ある人は激しく動くのでしょう。きっと、担任や教頭から厳しいことを言われた母でしたが。その母が召されてひと月になりました。いろいろなことが思い出される、「労働節」の連休の初めの日の夕暮れ時です。
(写真は、鹿児島県・桜島の噴火の様子です)