『家庭を治められないで、国を治めることはできない!』、『妻や子が満ち足りないで、国民を満ち足らせることはできない!』、『家族が幸福でないのに、国民を幸福にはできない!』、これは私が教えられ学んだ大原則であります。小さなことに忠実でないものには、どの社会も大事を任せることができないからです。一国の命運を握る政治は、遊戯ではないからです。「新党結成」の必要性が、どこにあるのでしょうか。自分の属した政党を離脱して、何の実績もないまま、新しい政治活動をするなどということは、万死に値します。その上、妻に三行半をたたきつけられているような人が、国運を決めてよいのでしょうか。
もし小事を忠実にこなすなら、例えば、子育ての半分を自分が責任をとり、老いていく父や母の世話をし、町の貧しい人、病んでいる人たちに暖かな心を向けられるような人は、国体の大事を果たすことができるのです。多くのリーダーが、『私には重大な責任がある。それゆえ家庭のことなどにかまってはおられぬ!』といい、外に愛妾を囲って養う余裕を見せようとしているのです。そうなら「家庭」とは、変人にみられないための隠れ蓑に過ぎなのです。そんな家庭で育つ子どもは悲劇ではないでしょうか。
「憂国の志士たち」は、自分の立身出世のためにではなく、国の命運が好転していくためにその青春を捧げきったではありませんか。地を這い、辛酸を舐め、打たれ投獄されながらも、明日の国の開明を信じて国家に殉じました。真の政治家たちは、命を賭して、国難に対峙してくれたではありませんか。敗戦という致命的な国情を、過ちを正し、豊かな国家形成の幻をもって立った政治家たちが、幾人もいたではありませんか。
その人の意思が国を動かしたと言うよりは、1億もいる国民の安寧を願う大いなる力が、人を立て、用いたに違いありません。否定的な将来しか予測できない今、そういった実績を思い起こし、その勉励努力の上に、国を再建していく、新しい指導者を心から願うのです。党利党略に死に、おのれの名誉心に死んだ、国を思う、国をなす1つ1つの家庭を考える指導者のことであります。理想的な指導者を願うのではありません。理想に向かって砕骨粉身してくれる、金に淡白な心を持つ人が相応しいのです。社会的弱者のために、金など目にくれず、東奔西走している若者たちのいることを知っています。彼らの楽天主義は、『金は必要なら後からついてきます!』と言わせているのです。
私たちは、自分の国に責任を持って生きていかねばなりません。なるようになるといった日和見な考え方から、自分の国の再興を、切々と願おうではありませんか。彼らの末裔であるなら、きっとできるからであります。