『私たちの齢は七十年。 健やかであっても八十年。 そのほとんどは 労苦とわざわいです。 瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去ります。(詩篇90篇10節)』
実は好きではない活動標語に「終活」があります。なぜかと言いますと、私には、《永遠のいのち》の約束を固く信じる信仰を与えられたからなのです。それで、私は、《収活》と言い換えているのです。人生を終わらせないで、《収める》ことにしたいと願うからです。
父は、61歳になったばかりの時に、くも膜下出血で入院中でしたが、その退院の日の朝、脳溢血を起こして召されました。突然に、自分の死を迎え、これからは親孝行ばかりを考えていた私には、驚きでした。父も、どう自分の人生を終えるか、その準備なしの死を迎えたのだろうと思うのです。幸いなのは、信仰告白をして召されたことです。
人の一生は、聖書によりますと、『健やかであっても八十年』と記されてありますから、まだ、心も体も、健康が保たれている今だからこそ、もう少しの間を生かされて、〈どう収めていくか〉、人生の整理を考えなければならないように感じております。
〈物の整理〉ですが、35年ほどの間に買い求めた蔵書がありましたが、私の意に反して、処分されてしまいました。前任地の建物の物置に置かせてもらったのですが、処分すると言う宣告で、了解なしで処分をされたのです。懐かしい子どの頃の学校からの成績表などの記録文書なども全部が、捨てられてしまいました。私が、導きを感じて、隣国に出かけて間もない時期の出来事でした。
残して置いた私がいけなかったのだと納得はしましたが、ずいぶん礼を失した仕打ちでした。私の移動や転身を快く思わなかった方たちの決定だったのでしょう。今では、天国に持っていけない物でしたので、その執着の思いは解決したつもりでおります。家を持たない自分の持ち物でしたから、そう認める以外にありません。
『二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。 私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。(箴言30章7~9節)』
着の身着のままで、隣国から急遽帰国し、帰国したばかりの2019年の秋に、台風による洪水で、お借りして、住ませていただいていた家が、床上浸水になりました。退院間近の家内のためには、『この家には住まないほうがいいです!」』と、ご好意で住まわせていただいた、その家の持ち主が言ってくれました。この方が、避難先を探してくださり、彼の友人が牧会する県北の教会に避難させてもらったのです。
その間に、今の住宅を探して、住み始めて五年になろうとしています。何も持っていませんでしたので、貰い物だらけのご好意で生活をし始めました。2020年に、子どもたち家族が、病中の母親を見舞いにやって来た時に、急遽用意した寝具類が、開かずの間に置かれていて、今使わせていただいてる箪笥やベッドや布団やテーブルや食器棚や食器類も、ほとんどが頂き物です。
.
『空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。(マタイ6章26節)』
〈その他の持ち物の整理〉ですが、在華中の説教ノートや、学校で教えていた時の教材が残してあり、この4年間に買い求めた古書などがあるだけです。再び戻る可能性を考えていましたので、残しておきましたが、そろそろ処分すべきかと思っております。株券も宝石類も、家も土地も、何も持たない私ですが、わずかな国民年金と、隣国の兄弟姉妹たちの、その都度都度の応援で、今を恙なく過ごしております。
〈財産の整理〉ですが、何もありませんので、子どもたちへの相続も考える必要のない私たちです。〈死後の事々〉は、葬儀も埋葬も不要で、散骨をしてくれるように、家内と長男に言ってあります。〈交友関係の整理〉も、心を許せる友人は多くはありませんので不要です。〈今後したいこと〉はあります。若者の様に踊る様な願いの中に、まだ隠してあります。ただ今を感謝して、今すべきことに専心したいと思うばかりでおります。
.
.
ただ家内や子どもたちに迷惑をかけたくありませんので、これらのことは、はっきり言っておかなければなりません。これが、私の《収活》であります。
素敵な人生を生きられたと感謝しております。こんな自分が、主の御用の一端を担うことができた特権は、驚くべきことでした。伝道と牧会の任に当たられたことは、この上もない誇りであります。迷惑をおかけした宣教師方も、すでに主の安息の中にありますので、ただ感謝ばかりです。
家内には、ただ感謝だけです。五十有余年、一緒に、主に仕えることができ、支え続けてくれたことに、ただ深謝するだけです。また父親としては、自分なりに精一杯してきたつもりですが、未熟さや足りなかったことは、子どもたちに赦してもらう以外にありません。
永生の望みの中に、罪赦されて入れていただき、神の子の身分や、義とされ、聖とされ、やがて栄光化されるお約束のゆえに感謝するばかりです。精一杯生きて八十年近くの生かされた日々を、支え守ってくださった、救い主イエスさまに感謝するばかりです。
.