京の都

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中部山岳の「山猿(山深い渓谷の流れの畔りの鄙びた旅館の離れで生まれたのでそう言っています)」の私にとって、「京の都」は、古都と言うよりは、結婚した父と母が、最初に「所帯を持った街」という思い入れが強いのです。この街を、中学の修学旅行で初めて訪ねました。バスガイドさんの語る、柔らかな京言葉、とくに語尾の柔らかさを聞いていたら、思春期の私は、すっかり彼女の虜にされ、憧れてしまいました。

そういえば、仲の好かった友と、一緒に、新島襄が設立した「同志社大学」に入りたかったのですが、叶えられませんでした。その友とは、バスケットボールを一緒にやっていて、彼と上級生との間にトラブルがあって、彼に同情して、一緒にやめてしまいました。そんな彼が、三十代の半ばで病気で亡くなってしまったのです。

一時帰国の折に、2、3年続けて、関西空港で降りて、京の街の郊外の大原で過ごしたことがありました。「大原女(おはらめ)」が、薪を頭に載せて、売り歩く写真だか映像を見たことがあったので、どんな山里か知りたかったのかも知れません。また、<日本情緒>に浸りたくて、そこに宿を見つけたのでしょうか。その民宿の二月の露天風呂に入って、大陸の垢を落として、夜空を見上げたら、小雪が舞っていました。

そんな京都を思い出させるかの様に、そこから一人の方が訪ねて来られて、一週間ほど泊まってもらったことがありました。その次の年の秋にも、おいでになられたことがあったのです。京都人の男性の言葉も、標準語を話すのですが、語尾が独特で、好いものです。「雅(みやび)」とか上品さを感じてしまいます。また来られると言っていました。

この「京都」は、私のアメリカ人の師が、「終の住処(ついのすみか)」に選んだ街でもありました。でも病を得て、新大阪駅の近くの病院に入院され、その後、東京のホスピスに転院され、そこで召されたのです。恩師が選んだ京都は、彼なりに期することがあったあったようです。でも志半ばで、すべてを果たし得なかったに違いありません。彼の生き方とか、終わり方に、「京都」は独特なものがあったのかも知れません。師が召されて、すでに17年になります。私にも「京都」は、彼の<教え子>として期すべきことがある街なのでしょうか。
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友情

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GANGNEUNG, SOUTH KOREA – FEBRUARY 18: Nao Kodaira of Japan and Sang-Hwa Lee of Korea celebrate after winning the gold and silver medal, respectively, during the Ladies’ 500m Individual Speed Skating Final on day nine of the PyeongChang 2018 Winter Olympic Games at Gangneung Oval on February 18, 2018 in Gangneung, South Korea. (Photo by Maddie Meyer/Getty Images)

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小平奈緒さんと韓国の李相花(イ・サンファ)さん、ライバル同士の「友情」、素敵ですね!("スピードスケート500m"の1位、2位です)
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昭和

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1955年(昭和30年)に、宮川哲夫の作詞、利根一郎の作曲で、宮城まり子が歌った「ガード下の靴みがき」がラジオから流れて聞こえてきました。

1 紅い夕日が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃネオンの 花が咲く
おいら貧しい 靴みがき
ああ 夜になっても 帰れない 
(セリフ)
「ネ、小父さん、みがかせておくれよ、
ホラ、まだ、これっぽちさ、
てんでしけてんだ。
エ、お父さん? 死んじゃった…
お母さん、病気なんだ……」

2 墨に汚れた ポケットのぞきゃ
今日も小さな お札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
馴れているから 泣かないが
ああ 夢のない身が 辛いのさ

3 誰も買っては くれない花を
抱いてあの娘(こ)が 泣いてゆく
可哀想だよ お月さん
なんでこの世の 幸福(しあわせ)は
ああ みんなそっぽを 向くんだろ

戦争に行ったお父さんが戦死し、女手一つで子どもたちを育てているお母さんが、栄養え失調で病気をしてしまいます。家計を助けるために、いたいけのない子どもたちが、親方から仕事を教えてもらい、道具を借りて、街角で靴を磨いて、日銭を得る、そんな生活をする子どもたちが多い時代でした。中には両親のない子どももいて、<孤児>と呼ばれていました。

親戚に預けられ、喜ばれないので家出をしてしまって、<浮浪児>になった子たちも大勢いました。上野や新宿で見かけた事があります。そんな境遇から、教師になった山田さんは、神戸市の繁華街にあった生花店で生まれました。昭和20年(1945)3月27日未明の空襲で父を失い、6月5日午前の空襲で母を失いました。この2度の神戸空襲による死者は約5700人でした。一人っ子だった山田さんは、10歳で孤児になりました。

『……焼け野原に、ポツンと残っていた銀行の大金庫を、ねぐらにした。15、6歳の仲間が4、5人。一番小さかった山田少年は、みんなの後ろをついて走った。
ガード下の闇市で、店先のまんじゅうをくすね、少し離れた場所で新聞紙の上に並べると、あっという間に売れた。幼い子供の手からイモを取り上げて、食べた。
 秋になった。日一日と寒くなっていく。金庫では眠ることができなかった。他人が住んでいたバラックの板をはがして、たき火をした。米軍のジープがやってきた。カマボコ兵舎に連れていかれた。チョコレートと毛布をもらった。駅で寝ることにした。ホームに入り込んで、列車に乗ったら、暖かくてぐっすり眠ることができた。夜は列車に乗った。舞鶴、和歌山、下関へ。客は復員兵が多かった。車内は混雑していたが「こっちへきて寝ろ」と場所をあけてくれた。食料もくれた。みんな親切だった。ある朝、目を覚ますと東京駅に着いていた。
 上野、浅草、神田、新橋。ねぐらは毎晩、変わった。靴磨きや新聞売りをした。ヤミ市には、物資や人があふれていた。人ごみの中から手を伸ばして、おにぎりや大福もちを取って逃げても、誰も怒りはしなかった。大人も子供も、みんなボロボロの服を着て、地下道に寝ていた。
 <狩り込み>にあった。警官や都の職員が逃げまわる子供たちを「一匹、二匹」と数えてトラックにほうり込んだ。子供たちに、番号がつけられた(「それぞれの昭和」所収)。』

この山田さんは、養護施設に入って、やがて夜間の学校に行き、大学にまで行って、中学校の教諭になっています。様々な人生を生きて、今や70〜80代になっている世代です。<華の昭和>には、そんな事もあったのです。兄や私たちの世代は、敗戦の憂き目をもろに受けて、厳しい時代を、歯を食いしばって生きたのです。《昭和史》には、そんな暗さが色濃かった事を忘れてはなりませんね。

(昭和20年の東京大空襲の焼け跡です)
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好青年

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「ピョンチャン・オリンピック冬季大会」の"フィギュア・スケート"で、《金メダル)》に輝いた、羽生結弦選手の快挙に、目を見張ってしまいました。こちらの"百度daidu"のサイトで、その演舞をビデオ放映をしていて、それを観ることができました。2大会連続の優勝は、66年ぶりとか、凄いことです。怪我が癒えて、痛みが残る中での演舞だったのです。

SP前日に撮影された写真に、この羽生選手が写っているのを、"MSN"が掲載していました。銀メダルを獲得した宇野昌麿選手が、その 前日にインタビューを受けていて、自分が取材撮影に映り込むのを避けて、羽生選手が四つん這いで床を這って、その場を去ろうとしている様子が写されていたのです。随分と気を使う青年なのを知って、さらに驚いてしまったのです。スター選手としては異例の仕草だからです。

何よりも人として素晴らしいのを感じて、敬服のいたりです。こう言った子を育てられたご両親の事を知りたくなってしまいました。仙台の出身で、東日本大震災で被災した故郷の様子を見て、引退を心密かに決めたのだそうです。でも止めず練習を重ねて、今回の《金メダル》を獲得した事は、どんなに故郷の誇りとなった事でしょうか。

著書の印税から、福祉施設に寄付をし続けている事も漏れ聞きました。今後も、意味のある人生を生きて欲しいと願いつつ、初春の陽を背に感じながら、我が事の様に喜んでいます。羽生結弦さん、おめでとう!
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梅園

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先日、街の北の方の山の頂上付近にある「梅園」を訪ねました。若い友人の家族(ご主人と奥様と息子さん)と一緒でした。かすかな梅の花の香がして、初夏を思わせる様な日差しがあって、若い方はTシャツでした。白梅、紅梅など、梅の木の種類の多さに驚いたりしたのです。

果物屋街の銘菓やジュースなどを持って来ていて、東屋(あずまや)で一緒に食べたり、談笑したりしたのです。山から下りましたら、大晦日、食堂はほとんどが休業で、大きなショッピングモールにある、この街の美食街で、昼食までご馳走になってしまいました。支払いをしようとしたら、"スマホ決済"をしてしまっていて出来ませんでした。

この"スマホ決済"が大流行りで、財布を持たなくなっているそうです。それで、中国の"スリ"は、完全失業中で、求職中だと言っておいででした。今月下旬に、ご家族で日本旅行をするそうで、京都、奈良、東京を観て回るのだそうです。お二人とも大学で教えておいでで、春節休暇中の旅行なのです。春節中、爆竹も止んで、正月気分がしております。
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もう

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もう刺されてしまいました。2月17日の零時過ぎ、中国の「元旦」が、半袖でも大丈夫なほどの暖かさ、いえ暑さだったせいで、夜中に耳元で、"ブーーーン!"としていた【蚊】に、左手の腹を、思いっきり刺されたのです。まだ日本から寒波や雪便りが届く季節なのに、もう<刺され始め>で、ムヒの<塗り始め>をして仕舞いました。

何か思いやられる"2018年"になりそうです。一番の<蚊対策>は、<蚊帳(かや)>を吊る事ですが、まだ早過ぎますね。今晩は、去年の残りの<蚊取り線香>をつけて見る事にします。4時過ぎに起き出して、あたりを窺えど、どこかに潜んでいるのか、敵は姿を見せません。いよいよ"戦闘開始"です。<ペットボトル作戦>を、どこかのサイトで去年の夏に見たのですが、探してみる事にします。

(「蝋梅(ろうばい)」の花です)
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スリップ

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とても忙しく過ごしていて、心身共に疲れていた時に、山の方にある湯治場に出掛けた、何年も前の出来事です。数日前に雪が降った山間の道を、車で走っていた時のことです。坂道で、降った雪が踏み固められて、凍結していて、タイヤがスリップしてしまいました。ハンドル操作ができなくて何回転かして、右側の崖にぶつかって止まったのです。回転している間は、もう何もできず、アレヨアレヨの状態でした。

その坂道を登ってくるトラックがあって、随分ゆっくり登坂しているのを眺めていて、何も気づかなかったのです。凍った路面で滑らない様に 、その運転手は、慎重に運転していたのです。そのあたりの道路状況は、よく分かっていたつもりでしたが、何も考えずに坂を降っていての自損事故でした。幸いにも、左側のライトが壊れただけで、体も打つことがありませんでした。

あの何秒間に味わった感覚を、いまだに覚えているのです。偶発的なことではなく、まさに不注意の結果でした。ああ言った《数秒間の経験》が、車の運転時以外に、これまで何度か、私の生きてきた間にあったのです。急激に事が起こって、どうすることもできない事態です。そう言うのを《パニック》と呼ぶ様です。

事が起こって、冷静になって感じるのは、《起こるべくして起こった事》だと分かるのです。<300回のヒヤリやハットの体験>、そして<29回の小事故>が、<一回の大事故>の前にある事を、アメリカの保険会社の調査をしていたハーバート・ハインリッヒが言っています。有名なのに「ハインリッヒの法則」です。

よく言われるのですが、人生の決定的な失敗は、<若気の至り(わかげのいたり>で見逃される若い時代にではなく、人生の後半期に起こっているのです。酸いも甘いも噛み分けられる年齢に、<落し穴>があります。どうも、どの様に生きてきたかの結果が、晩年期に表されてしまうわけです。

そういえば、小学校の担任の先生たちが、異口同音に言ったのが、『お前は落ち着きがなく、ちっともじっとしていない!』でした。そんな通信簿の行動の記録に書かれた私を、父も母も気に留めずに、小言を言うことなく育ててくれたのです。きっと諦めていたのかも知れません。手や膝やスネにある多くの傷跡は、その名残です。

最近では、夢の中だけになりつつありますが、『人生の《警告灯》に注意して生きたら、《大失敗》をしないですむ!』、これが原則の様です。中国の携帯電話に、"百度baidu"というサイトがあって、そこには信じられない様な<交通事故>の記録映像があります。車社会となった今の中国のみなさんへ、《注意運転》を呼びかけているのです。
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新年快楽!

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新年快楽!
おめでとうございます。
ここ中国では、「春節」を迎えました。
「農暦(旧暦)」の《元旦yuandan》です(新暦の2月16日)。
昨日の「大晦日」は、初夏の様な暑さでした。
友人のご家族と、この街の北の山中にある「梅園」に行ってきました。
馥郁(ふくいく)たる紅梅と白梅が、観梅のために整然と植えられていて、実に綺麗でした。
多くの家族連れで賑わいを見せて、花も顔もほころんでいました。
いつもの年ですと、ビザの都合で、一時帰国をするのですが、2007年、天津で「春節」を迎えて以来の爆竹と花火での「过年guonian/越年」です。
多くの人が故郷に帰省し、両親や祖父母や兄弟姉妹とともに、新年を迎えるのです。
この小区に「実家」があるみなさんは、こちらのご両親を訪ねてきている様です。
過ぎ去った日本の正月風景、正月の雰囲気が思い出される様です。
15日後の「元宵節yuanxiaojie/小正月」までが、日本で言う「松の内」です。
晴れ着を着て、ご馳走を食べ、親族や友人を訪問し合うのです。
中国の祝福を心から願います。
友人たちと、そのご家族の祝福と健康を、心から祈念します。
元旦の零時をす過ぎましたら、轟々たる花火の炸裂音と閃光が、街中、国中に響き渡って、煌めいています。
さすが火薬を発明した国です。
新年への期待の叫びなのでしょう!
好い年をお過ごしください。
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国姓爺

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中国の南方に、「泉州(quanzhou)」と言う、かつて海外貿易で栄えた港町があります。ここに教え子がいて、招かれて訪ねた事がありました。お父さんが、市内を案内してくださって、その貿易で使った巨大な木造船の骨組みが、記念館に残されていたり、イスラムの寺院があったり、かつて貿易港として繁栄した名残を感じさせられたのです。

その時、市内を見下ろす小高い丘の上に連れて行っていただき、巨大な銅像を見上げたのです。それは、馬上に跨る「鄭成功(ていせいこう)」の勇姿でした。馬の上から、台湾本島を望み見ている姿なのです。明朝から清朝にかけて活躍した武将で、台湾でも、未だに尊敬され続けている人物です。

この成功は、近松門左衛門の「国姓爺合戦(こくせんやがっせん)」の人形浄瑠璃や歌舞伎で演じられる人物でもあるのです。1624年に、中国福建省の貿易商・鄭芝龍を父に、長崎の平戸の生まれの母・田川マツから、母の故郷の「平戸」で生まれています。幼名を福松・鄭成功は、7歳の時に、単身で海を渡って、父の祖国を訪ねています。21歳の時に、明の隆武帝より、明王朝の国姓である「朱」をもらっています。それで、人々は彼を「国姓爺/この「爺」は尊称です」と呼んだのです。

父親は、清に投降しますが、成功は「抗清復明」の立場を死守して、清と戦います。戦いが不利になって、彼は台湾に渡ります。そこで台湾を支配していたオランダ人を追放するのです。台湾の金門島に、本拠地を置き、政府を興し、法律を定め、耕地の開拓を行い、台湾の人々に尽くすのです。大陸での戦いの最中、泉州に、移り住んでいたお母さんは、泉州城が陥落する時に、敵に降伏することなく、泉州城内で自刃して、日本女性の心意気を示したと伝えられています。

1662年に、39才の若さで、鄭成功は病没しています。ですから、台湾の人々は、彼の功績を忘れずに今もいる様です。中日双方の血を引く鄭成功は、良好な日中関係を期す双方にとって、今も高い評価を得ているのです。歌舞伎で見た事はありませんが、人としても武人としても、あの丘の上の銅像の様に、大きな人物であった様です。

誇らしく、教え子のお父さんが、この鄭成功の武勇伝を話してくれたのです。金門島は、泉州の隣り町の「厦門xiamen/アモイ」から、高速船で30分、今は台湾領になっています。もう凌霄花(ノウゼンカズラ)が、一足も二足も早く咲いています。海を隔てていますが、日本と中国の交流の歴史は長い事が分かるのです。

(鄭成功の直筆の書、泉州の丘の上の「鄭成功」の銅像です)
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忘年会

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日曜日の夕方、夕食の支度を家内がしてると、電話がかかってきました。『みんなで鍋を囲むので、一緒にどうですか?』と言う誘いで、家内は包丁を置いて、『はい! 』と返事をしてしまいました。20分ほどで車で迎えに来てくれたのです。大学で法律を教えている女性が、最近アメリカ車を買って、その車を運転して、迎えに来てくれました。

いやー、手を握って汗をかきっぱなしでした。それでなくても三車線を四車線で走っていて、横入りや、スレスレで追い越して行く車の走る中で、ヨチヨチ歩きの赤ちゃんの歩行の様に、おぼつかない初心者運転で、ハラハラの連続でした。隣にこの方の同僚が座って、自動車教習所の教官の様に、運転指導をしながら、やっと「鍋屋」に着いたのです。

車の運転免許証を、グアム島で取得した私が、それを持って、県の免許センターに行ったのですが、それでは、日本の免許証を書き換えてもらえなくて、結局、教習所に行き、やっと日本の運転免許症を取得したのです。運転し始めて間もなく、私の師匠のアメリカ人起業家が、東京に用があり、私も用があて、一緒に出かけたのです。『準、あなたが運転してください!』と言う事で、おぼつかない運転で高速道路を走ることになりました。

助手席に座った師匠は、本を読み始めたのです。ところが、ページをめくらないでいるではありませんか。運転を任せていたのですが、彼はハラハラの連続だったのでしょう。昨夕、その時のことを思い出したのです。中国に住み始めて、自分で運転することがなく、いつも乗せてもらうだけでいますので、助手席や後ろの座席にブレーキがないのに、いつもブレーキをかけるように足を踏ん張ってきています。タクシーでも、友人たちの運転する車でも同じで、<中国民間ルール>は、常にヒヤヒヤなのです。

でも、「海鮮鍋」は美味しかったのです。海老や魚や貝や練り物、野菜もマトンも牛肉もついてきて、結構安かったそうです。これが、<中国版忘年会>で、親しい者同士が、鍋をツッツキながら談笑するのです。やはりここにも、<鍋奉行>がいて、取り仕切っていました。五人のに二人が大学の先生でしたから、指導が身についていて、昨夕は、<二人奉行>でした。私たちは、『美味しい、美味しい!』だけ言って、箸を動かしていました。

今週金曜日から、「春節」を迎えます。この時季、私たちは、ほとんどの年に一時帰国をしていたのですが、今年は、こちらに残ることにいたしました。一昨日あたりから、小区の中でも、爆竹が鳴り始めています。けたたましい音には慣れずじまいです。今週は騒音のピークになることでしょう。それをしないと正月を迎えられないほどの伝統文化なのです。きっと花火も上がることでしょう。

忘年会から帰ってきたら、パンの会社の社長さんから、正月用のお菓子が届いたのです。その中に、「銅鑼焼き(どらやき)」が二箱もあって、お正月は楽しめそうです。全く日本の物と同じなのです。ご馳走になったりして、みなさんによくしていただいて、私たちも「新しい年」を、満腹の内に迎えられそうで、嬉しい限りです。
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