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デンマークは、人口が5510000人、43000平方km(九州より少し大きいくらい)の国土、一人あたりのGDP(Gross Domestic Product /国内総生産)が56000ドル(日本が45600ドル)、首都はコペンハーゲン、ユトランド半島と446の島からなる国で、正式には、〈デンマーク王国〉と呼ばれます。童話作家のアンゼルセンを生んだ国、世界最高水準の社会福祉国家、チーズとバターの産出で有名です。女子テニスのキャロライン・ウオズニアッキの祖国でもあります。
この国を、明治の著述家の内村鑑三が、「デンマルク国の話」という本を刊行して、日本に紹介しています。これは、1911(明治44)年10月22日、東京柏木の今井館で行われた講演を文章化にしたもので、ちょうど100年前の作品になります。この本は、インターネット・http://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/233_43563.html
で読むことができます。この本に出てまいります、エンリコ・ミリウス・ダルガス(Enrico Mylius Dalgas、1828~1894) について紹介いたしましょう。
ダルカスは、デンマークの〈中興の祖〉といったらいいのではないでしょうか。内村の時代、デンマークは、世界一の豊な国でした。人口一人の富は、驚くことにイギリスやアメリカよりも多く、何と日本の十倍も多かったのです。その理由は、鉱山や世界の船舶が停留する貿易港があったのでも、海外に植民地を持っているのではなく、良質な牛乳やバターを産する土地が、その富の原因だったのです。牧場と家畜、樅(もみ)と白樺(しらかば)との森林と、その沿海の漁業 によって立つ国でした。もともとは、そうではなかったのですが、どうしてこのようなな国になったのでしょうか。36歳の工兵士官だったダルガスが、デンマークの3分の1以上のユトランドの不毛の土地を改良したからでした。
デンマークは、1864年に、ドイツとオーストリアと戦争をしましたが、戦いに破れて、賠償として国の南部にある最良のシュレスウィヒとホルスタインのニ州を割譲されて失ってしまいます。人は少なく、残ったユトランドは荒漠とした原野が広がり、財政も逼迫(ひっぱく)していたのです。あの戦いの中、ダルガスは、工兵として働きながら、「・・・、橋を架し、道路を築き、溝(みぞ)を掘るの際、彼は細(こま)かに彼の故国の地質を研究しました。しかして戦争いまだ終らざるに彼はすでに彼の胸中に故国恢復(かいふく)の策を蓄えました。すなわちデンマーク国の欧州大陸に連(つら)なる部分にして、その領土の大部分を占むるユトランド(Jutland)の荒漠を化してこれを沃饒(よくにょう)の地となさんとの大計画を、彼はすでに彼の胸中に蓄えました。 」と内村は記しています。ダルガスは、報復の戦いの代わりに、剣に替えて鋤を手にして国土を開墾していくのです。そのために、ユトランドに群生する〈ヒース〉という植物を駆逐する必要がありました。
最初に手がけたのは、樅(もみ)の木の植林でした。植林には成功したのですが、ある程度の高さに成長すると枯れてしまうという問題に直面したのです。彼は考えに考えて、「アルプス産の小樅の木と一緒に植えよう!」との思いがひらめきます。そうすると両者はともに成長して行きます。しかし、樅の木はある程度で生育をやめてしまったのです。また失敗でした。この問題を解決したのが、彼の長男のフレデリックに与えられた啓示の知恵でした。「大樅がある程度以上に成長しないのは、小樅をいつまでも大樅のそばに生(はや)しておくからである。もしある時期に達して、小樅を斫(き)り払ってしまうならば大樅は独(ひと)り土地を占領してその成長を続けるであろう !」とお父さんに語り、それを実行しました。するとその難問題は解決されたのです。親子の連繋によって、1860年には、ユトランドの山林はわずかに157000エーカーに過ぎませんでしたが、47年後の1907年にいたりましては476000エーカーに拡大したのです。この植林によって、気候も変わっていきます。灼熱の夏の夜には、霜が降りていたのが止んでしまって、ヒースは失せて、理想的な田園が、ユトランドに広げられてれていったのです。
このダルガス親子は、鋤と樅の木でもって、窮状にあったデンマークを救ったのであります。下の備えをなし、上から知恵を得て、見違えるような国となったわけです。我が国・日本も、デンマークに倣って、剣ではなく、鋤を手にして、この困難な状況を打開していきたいものです。その様な備えと知恵の〈人〉の起こらんことを、〈平成の中興の祖〉の出現を心から切望してやまない、八月の末であります。
(写真上は、エンリコ・ミリウス・ダルガスの切手、下は、ユトランドの自然です)