都忘れ

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この「ミヤコワスレ」について、“ウイキペディア”に、「ミヤマヨメナの日本産園芸品種として多く栽培され、開花期は5〜6月頃である。 ミヤコワスレの名は、鎌倉時代に承久の乱に敗れた順徳天皇が北条家によって佐渡島に流された際に、この花を見て心を慰め、都恋しさを忘れたとの伝承による。この由来によって花言葉は「別れ」や「しばしの憩い」などといわれる。ただし栽培の歴史は江戸時代からとされる。文化2年(1805年)には既に記録があり、これ以前から栽培されていたと見られる。花色は紫・桃・白などもあるが、もっとも好まれるのは紫であり、切り花でミヤコワスレとして流通するのは紫のものだけである。種子には稔性がなく、株分けでのみ繁殖させる」とあります。

この「承久の乱」とは、鎌倉期の国内紛争で、1221年、朝廷と武家との初めての抗争で、武家の鎌倉幕府の勝戦に終わりました。あのロシア帝国のニコライ帝は、「ロシア革命」の後に、妻も娘たちも殺されてしまいましたが、鎌倉期には、首謀者の後鳥羽上皇は、隠岐の島に、そして順徳天皇は、佐渡に<島流し>にされると言う、緩やかな処分がなされていたのです。ただし出兵し、実際に戦った兵士たちの頭領たちは、処刑されています。皇位にある者へは、ある敬意が示されたのでしょうか。義経が、頼朝に派遣された討伐隊によって討ち死にしたのとは違っていました。肉親の情の方が強そうなのにです。

隠岐の島、伊豆大島、佐渡島などに島嶼部に送られ、緩やかな監視の中で、生きることが叶ったのは、「武士の情け」だったのでしょう。あの西郷隆盛も、奄美大島、沖之永良部島に流刑(るけい)されています。順徳天皇の様に、流刑の身でありながら、そこで歌を詠んだり、花を愛でたり、風流な生活が可能だった様です。武家社会と言うのは、「下克上(げこくじょう)」とか、親族間の抗争に明け暮れた社会だった様で、大変だったのですね。頼朝は、伊豆大島に流罪になっています。「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」とか、「捲土重来(けんどじゅうらい)」の時を、そこで過ごしたそうです。

そんな悲しい物語を知ってしまうと、この「ミヤコヨメナ」と言われている花が、「都忘れ」だと聞くと、美しいのですが、悲しさを感じさせられてしまう様です。権力の座にあると言うのは、漁師が、『板子一枚下は地獄!』と言った様に、何時寝首をかかれ、裏切られるか分からない、危険な座だったのでしょうね。そこをいくと、スイカの切り分けの大きいのを食べて、それを恨まれるぐらいしかない私の様な立場は、何処ででも<昼寝>ができるのですから、感謝なことです。このところ、あまりの暑さに、板張りの床に寝ると、気持ちがいいので寝てると、家内に注意されてしまう、酷暑の七月です。

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国際電話

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昨日、二十四節気の「大暑」でしたが、埼玉県の熊谷が、"41.1℃"の最高気温を記録した、とニュースが伝えていました。今朝一番で、家内が、その熊谷に、電話を掛けたのです。最近では、国際電話を"Skype"を使っていて、家内の従兄弟の家にでした。そこに、103才の叔母(お父さんの妹)がいるので、酷い高温の中、どうしてるか心配で、電話したのです。

今日は、"ディケアー"に出掛けていて留守だったようです。そこでは、一番の年長で、まだみなさんと話したり、茶菓をいただいたり、昼食を摂ったり、入浴もして、週二回出掛けているのだそうです。元気で、食欲もあり、頭も言葉もしっかりしているのです。チャキチャキの"江戸っ娘(こ)"で、同級生たちと、観劇したりする趣味をもっていたのですが、今は、"都落ち"してしまい、同級生たちもいなくなって、楽しい観劇から遠ざかっている様です。

従兄弟が、『困っちゃうよ!』と言っていたそうです。<元気過ぎる>と言うことなのでしょう。ご主人を、太平洋戦争で亡くし、姑の指図で、ご主人の弟と、先夫の子を連れて再婚しています。下に、二人の息子がいるのですが、下の弟息子は、先年召されています。女の子もいたのですが、日射病で亡くしています。愛する夫と娘との死別という悲しい経験を通った割には、性格が明るいのです。

家内のすぐ上の姉が、この叔母に似ていて、性格も喋り方も、まるで親娘の様に、よく似ているのです。またブラジルに移民した家内の兄(先年亡くなりました)と、この叔母の面倒を見ている家内の従兄弟が、また感じが、よく似ているのです。面白い親族だなと思うことしきりです。

この酷暑の中、年配者の熱中症が多く見られるようです。8月の初旬まで続くと、ニュースが伝えていますが、私たちも、盆地で過ごした経験がありますが、大気の動きが少ないからでしょうか、ものすごく暑かったのを思い出します。かく言っている私が住む街も、まるで窯の中にいるようで、家にいる時は、空調なしでは過ごせないほどです。空調嫌い、扇風機嫌いな私でも、涼を取らないと、汗だくになってしまいますので、仕方なしの今日この頃です

暑中お見舞い申し上げます。みなさんのご健康を、心から願っております。秋風が吹き始めるのはいつになることでしょうか。今日は、蝉も鳴き渋っているほどの暑さです。

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あさがお

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南側のベランダの「あさがお」ですが、今季は花が咲きません。葉だけ、毎朝眺めながら・・・ため息を・・・ついていません。鉢の土の中に残っていたタネが発芽して、芽を出して、ここまで生い育ったのです。咲く時もあれば、咲きたくない時だってあるのでしょう。でも、毎年、次から次へと咲き、年を越した真冬でさえも、こじんまり遠慮がちに咲いていましたから、ちょっと寂しさは禁じ得ません。

この春に帰国した時に、タネを買って持ち帰ろうとしたのですが、忘れてしまったのです。来季は、また挑戦して見たいと、満を持しております。

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起死回生

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私の身内で、《我慢強い》のは、母と弟でしょうか。と言うか、《弱音を吐かない》のです。痛くっても、苦しくても、泣いたり叫んだりしないからです。父も、兄たちも、<弱虫>だけど、かく言う自分も、けっこう泣き言を言わずに生きて来たかな、って思い返すのです。

三番目に痛い経験は、一人の男が、いきなり服を脱いで、裸になって、体の入れ墨で威嚇しながら、こん棒で私の頭を殴った時でした。不意打ちで、思いっきり前頭部を叩かれたのです。目から火花が飛んで行きました。二発目を、左腕で受け止めた時に、そのこん棒が真っ二つに折れたのです。それでひるまなかった自分は、今度は鉄拳を、この男の顔面に浴びせました。正当防衛でした。二、三発し続けていたら、この男の仲間が、『もうやめてください!』と嘆願したのです。この男には、闘う意志がなくなっていたからです。

今春、帰国時に、友人の紹介で歯科医に治療に行きました。兜町の株取引の関係者が、多く来院すると言っていた、腕利きの医師でした。この方が、奥歯の治療をしながら、よく話し掛けるのです。口を開けられ、返事ができないのに、同意を認める様な話をしてきて、困ってしまったのです。患者を、歯を健全に保つために教育していたわけです。

『最近、タクシーの運転手が、公園の近くに車を止めて、水場で、食後の歯磨きをしてるんです。今まで、こう言った光景を見たことがなかったのですが、最近は、よく見かけるんですよ!』と言って、食後の歯磨きを励行する様に、暗に、教えてくれました。そう言った話をする方でした。

この方が、下の奥歯の中心にある、生き残った歯を大切にする様に、言うのです。『最近、人が我慢強く無くなったのは、この奥歯を抜いてしまったからです!』と言うのです。それは、《我慢》のために、グッと噛む歯なのです。母も弟も、この奥歯を噛んで我慢強く生きていたのでしょう。涙を流す姿を見たことがないのです。歯一本が、どれほど人間の生き方や在り方を左右するかを、歯科医の立場から強調し、『立派な前歯も、グッと噛む奥歯も、しっかりケアーして、大事にしてくださいね!』と、激励されたのです。

歯をほめられたのは初めての経験でした。人間には、どこかにほめる部分を持っているのでしょう。『自分のそばにいる人に、それを見つけて、褒めることをしようと!』と、この歯医者さんに会って、心に決めたのです。そう二番目に痛かったのは、中耳炎に罹った時です。耐えられない痛さで、どうすることもできませんでしたが、泣かずに、耳鼻科に連れて行ってもらって、膿んだ部分を切開してもらって、痛みが止みました。

一番目の痛さは、39歳の時に、腎臓摘出手術をして、ICUで目が覚めた時でした。泣かなかったですが、グッと奥歯を噛んだのですが、耐えられずに、麻酔を、看護士さんに頼んでしまいました。この歳になって、我慢強さは、人の意思だけでなく、奥歯にも関係があることを知らされたのは感謝なことでした。

浮世は辛かったり、痛かったりです。災害に、繰り返し見舞われ、狭い国土で生きて来た日本人は、けっこう我慢強い民族なのでしょう。グッと奥歯を噛んで、繰り返し襲う災害を、あの独特な《ニヤニヤ笑い》でも誤魔化しながら、父や母、祖父母、昔ながらの日本人の特技を使って、起死回生、生き延びて来たのでしょう。改めて、我慢の一つが、どこから来るかを学ばされた私は、希望を天に繋ぎながら、もう少しめげずに生きていこうと思っています。今年の日本も、《我慢の子》たちが、『それでも!』と、克己(こっき)しています。

(葛飾北斎の描いた「富士山」です)

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灯心

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<地震、雷、火事、親爺>、子どもの頃に聞いた、“怖(こわ)いもの四傑”でした。実際に、この四つを、軽微に体験した私にとって、甲乙つけがたいので、順位を考えてしまうほどです。今季、西日本を襲った「暴雨」による「洪水」の被害を考えますと、これも付け加えたらいい様に思います。さらに、前代未聞の「高温」だって、日本だけではなく、世界規模で見舞われていますから、四傑に、二つを加えて「六傑」になるでしょうか。

でも、最近のお父さんは、「友達」の様で、怖くなくなって来ているそうです。私たちが今住んでいます小区で、子を叱る声は、お母さんばかりです。お父さんは、仕事と趣味で忙しくて、朝早く、夜遅くの生活型で、家で子どもと過ごす時間が激減している様に見受けられます。

「火事」は、天井板一枚で経験し、子どもの頃に、火遊びの火が突然大きくなった経験もあって怖さを知っています。ところが、<火事場(災害現場)泥棒>をする輩が増えている、とニュースが伝えています。休日を利用して、後片付けのボランティアのみなさんがいる反面の現象です。

「雷」は、八王子の藤森公園で、すんでのところで避けた経験がありました。「地震」は、帰国中、息子の家で経験した「東日本大震災」で、家の中にいられず、近くのスーパーの駐車場に避難した経験があります。ほとんどが揺れる経験で、建物の倒壊などの渦中にいた経験はありません。

疫病、テロ、放射能、流れ星の落下、竜巻、食料飢饉、洪水、津波、街中暴走、煽り運転、突然切れるなどの未経験の「怖い物」が、まだ私にはあります。二十一世紀は、便利な時代の只中で、生きにくい時代になっています。暴漢に突然襲われる様な事件も多く起きています。<いじめ>も多発しています。

昨日お会いした方は、白血病の子どものお世話をされていると言っていました。病院のベッドが不足していて、収容仕切れないので、篤志の企業などの援助を受けて、部屋を借りて、そこでお世話をしているそうです。親に捨てられた子、孤児、貧困家庭の子などに手を差し伸べて、活動をされておいでです。

今、一番生きにくいのは、子どもたちです。隣町に、耳の不自由な話すことにできない子どもたちの施設があったり、重度の心身に障碍を持っていて、親に捨てられた子どもを世話をされている方もおいでです。「義務」とか「優しさ」が忘れられているのが、「怖さ」かなと思わされています。人の心から「隣人愛」が失われてきているのです。

そんな中で、灯心を灯し続けているみなさんが、ここにも、世界中にもいらっしゃいます。豪雨の地で、真水でなく、泥水で顔を洗っていたボランティアの方の写真を見ました。善意が絶えることなく行われているのも忘れてはなりません。

(上高地の7月中旬の景観で「ワタスゲ」です☞「里山を歩こう」への投稿です)

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よき人生



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小学校に入学するために、三男の私に、東京の日本橋の百貨店の三越で、帽子と編み上げの靴、上下の小学生服にワイシャツと靴下、ランドセルに下穿きと下穿き入れを、採寸して、父は注文してくれました。昭和二十年代の半ばのことでした。私が入学を予定していたのは、中部山岳の山の中の村立小学校でした。村長の息子も、そんな入学準備をされなかったのにです。

父の私への期待は、上の二人の兄以上であって、兄たちにはしなかったことを、私にはしてくれたのです。普通、長男と末っ子には、親は特別扱いをするのに、私の父は、『また男の子か!』の三男の私に、特別な寵愛を示してくれたのです。もちろん終戦間近に入学した上の兄たちには、物資不足の時代的な背景があったのですから、そうすることができなかったのですが。それでも、兄たちと弟は、公立中学で学んだのですが、私だけを、父は私立の中学に入学させたのです。

ところが、入学前に、肺炎に罹ってしまった私は、街の国立病院に入院しなければならないほど重篤な病状でした。死ぬか生きるかを通って、村立小学校の入学式の日には、父の用意してくれた、その制服を着て出ることができませんでした。それで退院した後に、街から写真屋さんを呼んで、きっちりと父の用意してくれた物を身につけて、記念写真を撮ってくれたので、その写真だけが残っています。

父の果たせなかった夢を、きっと三男の私に託したかったのだと思います。有名大学で学んで、有名企業に務めるか、官僚にでもなるか、『末は博士か大臣か!』、そうであって欲しかったのかも知れません。そんな父の期待を知ってか知らないでか、一つ一つと、裏切ってしまう私でした。三流大学に入学し、名のない研究所に、私は就職してしまったのです。それでも、その研究所の所長が、有名大学の教授だったことを知った父は、私を連れて、この所長に挨拶に行ってくれたのです。

まだ父は、私に期待していたのでしょう。その所長の肝入りで、ある高校の教師として送り出してくれたのです。将来は、その所長が務めていた大学に招聘され、講義を担当させるつもりでした。しかし、その学校に二年いて、私は、不義理にも、一身上の都合で退職してしまったのです。そして、アメリカ人起業家の手伝いを始めたのです。それには生活保証も、将来の保証もありませんでした。

でも、私は、そうして得た仕事を《天職》だと確信して、34年間働き、退職したのです。そして全てを整理して、中国にやって来たのです。そうしましたら知人の紹介で、大学の日本語科の教師をさせて頂くようになったのです。教授にも、博士にもなれませんでしたが、外国人講師として、全く考えも思いもしなかった国で、あの教壇に立つことができたわけです。もし父が生きていて、私のその後を知ったら、喜んでくれたかも知れません。

自分に、何か能力があったのでもなく、ただ、素晴らしい人との多くの《出会い》によって、《扉》が開いて今日も、中国の片隅の街の中で、お手伝いをさせて頂いて、家内と生活することができているのです。これは自分の計画以上のことに違いありません。好き人生を生きて来たのだと、今は 思っています。もう何年、こうして居られるでしょうか。

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心の戦場

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ユダヤ人に伝えられている物語の中に、王が部下の妻に思いを寄せて、権威を傘に着て、欲望を遂げてしまう記事が、赤裸々に記されています。事の始まりは、自分の軍隊が、敵と戦いをしていた時でした。この王は、出陣することなく、王宮に留まり、夕暮れに、その屋上を歩いていました。その時、湯浴みをしている女を見てしまうのです。

ただ見ただけではなく、じっと盗み見をして、この王の目に美くしく見えたの でしょう、欲情を膨らませた彼は、誰の妻かを調べせます。そして、ついに王宮に呼び、自分の寝室に招き入れて、思いを遂げてしまうのです。この民族の中には、結婚の枠を越えた男女の関係が、禁じられていました。その禁を、この王は破ったのです。

ところが、この女から、妊娠したという知らせを、この王に伝えます。それで、この女の夫を戦場から呼び戻すのです。その女のもとに帰させ、夫によって妊娠したことにしようと、悪計を思いつくのです。ところが王の思惑に反して、この王の部下のウリヤは、『自分の戦友たちが、戦いの最前線にいるのに、自分だけが妻と寝ることはできない!』と言って、王宮の門で夜を過ごして、妻のもとに帰ろうとしませんでした。

それで、万策尽きた王は、その女の夫を、戦いの前線に立たせ、その間に仲間は陣を引いて、戦死させることを思いつき、そう命じます。その様にして、ウリヤは、何も知らずに、敵の手で討たれて死んでしまうのです。そんな自分を抑制し、妻の下に帰ることのできない戦友を思って、戦友たちと共にあろうとしたウリヤと、情欲に負け、禁を破り、殺人まで犯す王との違いが、興味深く記されているのです。

何処の国でも、どの時代でも、『民の頂点に立つ者は、特別な緊張状況にあるのだから、側女や側室によって、夜伽(よとぎ)で慰められる必要がある!』と考えるのでしょうか、<英雄色を好む>と言う言い逃れの考えが、大手をふって一人歩きしてきています。こんな凡夫な私だって、緊張と圧力と孤独があり続けて生きて来ました。でも、してはいけない事は、この王の時代も、20世紀も21世紀のこの時代も同じです。多くの人は、それを一人の妻と、求め合って生きています。

このユダヤ人の書の中に、『若い日の妻を喜べ!』とあります。決して「若い妻」ではありません。よく誤解して、「古くなった糟糠之妻」を捨てて、「若い妻」に鞍替えをする輩がいます。どんな優れた業績や貢献を残した男でも、社会は、そんな男を、人として評価せずに、軽蔑するのです。そんな言い訳を防ぐために、《結婚制度》が定められてあるからです。

一人の妻を愛し続けた凡夫と、政治手腕に長けて、多くの事業の功績を残したが、家庭を顧みなかった英雄と、どちらが人間として優れたているのでしょうか。《一人の女だけを愛した男》と<五千人の女と寝た男>と、どちらが偉いのでしょうか。<男の誉れ>を遂げても、家では妻が泣き、娘は不実の父を見ながら育って間違った男性像を抱き、息子は父親の生き方を見倣って、それを是として同じ様に生きるなら、次の世代の家庭は、どうなってしまうのでしょうか。

誘惑は、凡夫も王も同じです。みんな《心の戦場》で戦って生きて来ているのです。これは男も女も関係ありませんで、女性も戦って生きているのです。古代、「義人」と呼ばれた人が、次の様に言い残しています。『私は自分の目と契約を結んだ。どうして乙女に目を留めよう。』とです。あの王は、見るものを間違えた様に、多くの男が見間違えて、結婚と家庭を壊してしまいました。「美しさ」は偽りです。外貌は衰えて、形を変えますが、心は日々に変えられて美しくされ、輝きを増すのです。気を付けましょう。

(オリーブの花です)

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アメリカ

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もう何十年も前に、私の恩師のレクチャーで、当時のアメリカ大統領の助言者の一人の方のコメントを聞きました。建国の精神から遠く離れてしまい、罪や悪に満ちたアメリカ合衆国が、国際的な地位や経済力を、いまだに保持でき、崩壊を免れている理由についてでした。

一つは、建国の父たちの理想や夢に繋がっている、今日の国民たちの国を思う思いです。イギリスから「メイフラワー号」にやって来た人たちの思いの中にあった、新しい国を建てようとする、建国の理想や夢や幻のことです。

二つは、この国から全世界に送り出されている、教育や文化や医療や宣教に携わる人々と、その働きを支援している経済的な犠牲の大きさです。発展途上にある国に対する、無形の知的、人的、物的援助を、自分たちの責務と感じた人たちの存在と、それを支えている人々がいることでした。

三つは、この国の中で、国の将来の健全性や祝福を願う人々がいることです。その実現のために、祝福を願う人々の思いがあることです。国籍や言語や文化を超えて、アメリカ合衆国の国家的な使命を理解する、諸外国からの期待する思いも、この国に向けられていることです。

私は、中学の時に、学校をサボって、通学の下車駅前にある、名画座によく通っていました。そこはアメリカ映画を再上映している映画館でした。近くに幾つもの大学があって、そんな大学生を対象に上映していたのです。三本立てで観ることができました。観たわりには、英語が上達しなかったのが不思議でなりません。強烈な印象を受けたのが、ジェームス・ディーンが主演した、「理由なき反抗」でした。アメリカの物質の豊かさに驚かされ、繁栄の陰での同世代の若者たちの奔放さに共鳴し、「チキンレース」という命がけのゲームなどに度肝を抜かれ、痛烈な影響を受けてしまいました。

ハリウッドの作るアメリカ文化は、上品でも有益でもなかったのですが、善きにつけ悪しきにつけ、中学生の私には強烈過ぎたのだと思います。それでもアメリカの一面を知ることができたのです。その頃、まさか後になって、アメリカ人と一緒に仕事をし、彼から学び、彼の事業を受け継ぐなどと思ってもいなかったのです。そして、やがて与えられる子どもたちに、アメリカで教育を受けさせたことも、考えたら不思議でなりません。大きな見えない手が、そのように導いたに相違ありません。

戦争に負けて、その国の占領国になりましたが、焼土と化したこと、被爆国となったことを怨んだり憎むことよりも、大きな愛を持って、戦後復興を援助してくれたこと、栄養補給に飲ませてくれた、「脱脂粉乳」に象徴される、助力に対して、感謝を忘れてはいけないのかも知れません。南北に日本が分断していたら、どうなっていたことでしょうか。それが回避されたことだって、偶然ではないからです。感謝ありき、でしょうか。

(プリマスにある「メイフラワー号2号」です)

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