奈々子

 

 

奈々子に       吉野弘

赤い林檎の頬をして
眠っている 奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。

唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。

お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。

自分があるとき
他人があり
世界がある

お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた

苦労は
今は
お前にあげられない。

お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい

自分を愛する心だ

こんなお父さんに見守られ成長した「奈々子」に会ってみたいと思うのです。《自分を愛すること》を教えたお父さんが素晴らしいからです。自己否定、自己否認が、多く見られるこの世で、ありのままの自分を愛せたら、順境の日も驕らず、また逆境の日にも凹まずに生きていけるからです。自分を愛せたら、隣人を愛することだってできます。そんな赤い頬の「奈々子」に会ってみたい!

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行く十月

 

 

このところ、友人やお嬢さん、兄や婿殿が、病んだり、手術をしたりでした。またこちらの友人たちやご家族の中に、癌や甲状腺の手術を考えておいでだったりする方がおいでです。そうこうしている間に、十月の最後の日になりました。癒えたり、快復したりを願っております。

まるで、月が羽根を生やした様に飛び過ぎて行きます。この写真は、小谷村の付近のススキ野の風景です。向こうに針葉樹林が見えます。こうやって秋が深まり、冬を迎えるのです。壁のカレンダーですが、最後の一枚をめくらねばなりません。2018年も二ケ月を残すのみとなります。

季節の変わり目に、私こと、ちょっと体調を崩してしまいましたが、例年のことで、もう大丈夫です。それにしても、《吾妹子(わぎもこ》は至極元気です。好い人々と出会ったり、美味しいものを頂いたり、素敵な十月でした。くる月も、そんな月であります様に。

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お芝居

 

 

これまで普段は、することのない経験を、偶然にでしたが二度ほどしています。一度は、小学校6年の「林間学校」で、五日市のお寺に泊まって、自然観察をした時でした。決して、お化けが出てきたわけではありません。東映映画の撮影隊が、このお寺の墓場を使って、時代劇の一場面を撮っていたのです。当時、東映映画は、時代劇専門の会社で、立川の東映の封切映画館には、何度出かけて、映画を観たか分からないほどでした。

その撮影現場に、俳優の「大友柳太朗」がいて、初めて「映画スター」の実物を見たのです。よくスクリーンで知っていた俳優でしたから、いつまでも見ていたかったのですが、そうはいきませんでした。浪人風の男を演じたら、この人の右に出る俳優はいないほどの、名優だったのです。何という題名の映画だったのかを聞かずじまいだったのが、大変残念でした。まだ、映画の舞台が撮影所にできる前だったのでしょうか。江戸時代を、昭和の五日市で撮影しているという不思議を、この目で見てしまったわけです。

もう一度も、テレビや映画でおなじみの「丹波哲郎」の、撮影風景でした。八王子の料亭ででした。勤めていた研究所の上司に連れられて食事に行った時に、テレビの番組の撮影が、一間に、照明器具が満ちこまれ、驚くほどの人数の撮影スタッフが、煌々(こうこう)たる照明の中で行われていたのです。テレビ番組も、テレビジョンの中で観るから、邪魔な物が見えないわけで、もう大人でしたから、<芸事>を、監督のOKがでるまで繰り返しているのを見て、俳優も撮影スタッフも、やってみたい仕事だと感じませんでした。

虚構の世界というのでしょうか、テレビの時間帯を埋め、視聴率を得るために、激しい競争の世界なのだと、大人の目で見られる様になっても、時代の錯覚の中で、まるで当時が再現されているかの様に、一喜一憂してしてしまうのは、脚本、芝居の作り方、演技、撮り方、編集などが上手なのだからでしょうか。

夢の売り手、夢の買い手がいて、夢に感動したり、泣いたり、笑ったり、憎んだりしたりがあっての世界なのでしょう。でも人生は、お芝居や映画ではなく、現実の、ただ一回きりの世界なわけです。これまで、ずいぶん多くの人と喜びの出会いをし、悲しく、また残念な別れをしてきたものです。『大丈夫かなあ?』と思ってしまう人が、何人かいます。彼らも、逆に、そう私のことを思っているのかも知れません。確かに、お芝居なんかではないのです。

(愛媛県今治市関前村・岡村港の風景です☞[HP/里山を歩こう])

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ボントクタテ

 

 

島根県東出雲に咲く「ボントクタデ(凡篤蓼)」です。島根は、兄二人が生まれていますし、母の故郷でもあります。地域名を「山陰」と言われるのは、ちょっと日陰者の様に呼ばれて気の毒ですが、母も兄たちも、そんなことを思ってもみなかった様です。岡山や広島が「山陽」と呼ばれるのですが、島根や鳥取が、別に中国山地の影に隠れているわけではなく、陽も燦々と降り注ぐ土地柄です。こんなに綺麗な清楚な花を咲かせるのですから。☞[HP「松江の花図鑑」]

弟と私が生まれた中部山岳の山奥は、まさに「山陰(やまかげ)」でした。でも自然の美しい山村だったのです。熊や鹿や雉(きじ)などの肉が食べられ、山菜も、木の実も豊富でした。もう今頃は、紅葉で綺麗に山が飾られていることでしょう。もうずいぶん帰郷していないのです。親族もいないし、過疎の村ですから、知人も住んでいないのでしょう。

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<買ったけど読まなかった本>が数冊あります。そう言う本を<積ん読書>と呼ぶのでしょうか。その一冊は、1920年に刊行された、賀川豊彦が書いた「死線を越えて」でした。神戸の新川にあったスラムに入って、貧しく、差別されていた人たちに、「友愛」を示した青年期の体験を記した小説でした。百万部を売ったという、当時の大ベストセラーだったのです。その復刻版を、私は買ったわけです。

ところが、高級書で、硬いボール紙のケースに入っていたのを出すことも、ページをめくこともなく、書棚に置いたままでした。この人は、今では、全国に数え切れないほどある、「生活協同組合」を始めたことでも有名なのです。戦後、三度ほど、「ノーベル賞」の候補になったのですが、受賞されないままで終わってしまいます。

なぜ、その本を読まなかったかと言いますと、この人は「平和主義者」で名高かったのですが、戦時下、憲兵隊本部に呼ばれてから、自分の節(せつ)を曲げてしまったのです。アメリカにまで出掛けて、世界平和を、アメリカ国内を講演旅行して訴えた人だったのにです。その彼の語った「平和主義」を堅持する考えは、アメリカから拍手喝采を受けていました。ところが、「憲兵隊での九日間」で、日本の戦争は聖戦であって、天皇のために勝利しなければならないという立場に、この人は鞍替えをしてしまったのです。

国全体が、日本人の全体が、国策や国体に賛同していたのですから、この人の変節も分からないではありません。でも、強固な平和主義者が、急転直下、反対の立場についた、その<不徹底さ>が、この人にあったことが分かって、読もうとする願いを削いでしまったわけです。終始一貫、賛成でも、反対でも、自分の態度を変えないのが、人の道だと、若い私は思っていたからです。

私の学生時代の恩師は、国家総動員法違反で、収監され、酷い拷問を受けました。私たちを教えてくれた頃も、杖をつき、講義中に、顔を引きつらせることもあるほどの後遺症を持っていました。恩師は、節を曲げずに、戦時中が獄舎の中で過ごし、終戦を迎え、学部長をされた後に、退官されました。

この人は、戦後になって、平和主義者を偽装したことを糾弾されていますが、自分の戦争責任に対しては、沈黙したまま亡くなっています。これは、私個人の賀川観であって、彼を誹謗中傷しようとするつもりはありません。この人を尊敬する人は、それで好いのだと思います。あの時代の憲兵の迫りと言うのは、きっと先年観た映画の「沈黙」に登場する、長崎奉行の様に、人間性の底に触れるほど、変節せざるをえないほどにきついものだったのでしょう。

念のため、1943年11月の九日間に記した、「賀川書簡」をご紹介します。『・・・私の名を貴会(戦争反対者同盟)より削除されたい。思うに米国は・・・日本経済を死滅に導くことを敢えてした。その瞬間、私は永年持っていた平和論を太平洋上に捨てざるを得なくなった。(出典「戦争責任・戦後責任」62頁)』、この人は私と同窓なのです。

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朝顔

 

 

この9月に、訪ねてくれた次男夫婦が、持参してくれたタネを、10月になって家内が蒔きました。その朝顔が、今朝花開いたのです。ビロードの様なも花びらを見せています。今年第2期目のアサガオです。6時半の撮影でした。なんか子育てを、またしている様な気持ちがしています。咲くと、拍手をして上げたいほどです。子育て中に、子どもたちに拍手してあげたかな?

次兄の術後も、長女の婿殿も、術後の経過が良好とのニュースが入っています。友人が検査後に、高熱を出したのですが、熱も平熱に下がり、普段の生活に戻った様です。好い一日をお過ごしください。

謳歌

 

 

『もっと優しく、見守って上げたらいいのに!』と思うことが、このところ多くあります。健気に生きていこうとしている、少女を、あんなに無残にも罵(ののし)ったり、貶(おと)しめたりすることがあっていいのでしょうか。嫉妬か、恨みか、いたいけのない新人に対しては、酷ど過ぎます。もし、実力がなかったり、また時流に乗れなかったら、元の生活に黙って戻って、平凡に生きて行けばいのです。次の機会があったら、再挑戦させて上げたらいいのです。

私は芸能人の生活に、ほとんど関心がありません。ただ若い頃、素敵だとか、すごいとか思っていた方たちの消息に関心はあります。『最近、どうしてるんだろう?』とか思うことはあります。でも、これからの人に向かって、引き摺り下ろそうとする、あの悪意は、どうもいただけません。というのは、木村拓哉さんのお嬢さんが、芸能界にデビューした途端、物凄い叩き付けが見えるからです。

可愛くって、感じがいいではありませんか。ご両親の良いところを受け継いでいて、活躍して欲しいと思うのです。誰にでも未熟で、不慣れで、不確信な時期があったはずです。けっこう寛容で、忍耐し、将来性を見てくれて、多くの人が、その世界で、一人前になっていくのです。まだ15才ですから。

日本って、こんなに不寛容な社会を形作ってしまったのでしょうか。もう引退してもいい様な政治家の繰り返される失言や失態には、けっこう寛容だったりしているのでしょう。力ある人には、尻尾を丸めてしまって、責めるることを躊躇してるのでしょう。自分の身や立場が危うくなるなら、心の中に不満を隠して、みんな黙り込んでしまいます。彼女は、誰にも危害を加えたりしていないのに、煽り立てて、引き降ろそうとする動力には、こちらが腹立ちしてしまいます。

お父さん、またはお母さんが嫌いで、娘まで憎くなる感情っていうのが、日本にはあり続けているのでしょうか。漱石が、「草枕」で、『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。』、このくらいの住みにくさ だったら、誰も傷つかないことでしょう。揶揄や嫉妬なんか気にしないで、"15の秋"を精一杯に謳歌(おうか)して欲しいものです。

([HP/里山を歩こう]の配信してくださった「リンドウ」です)

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秋の終わりの花々

 

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上は「アケボノソウ」、中は線香花火に似た「コウヤボウキ」、下は「ノコンギク」です。広島空港のそばに咲いているそうで、実に綺麗です。そろそろ秋の花のシーズンも終わりになると、[HP/里山を歩こう]が知らせてくれました。

このホームページは、ずっと以前から送信してくださっていましたが、このブログに、今年からアップさせていただいて、楽しませてもらいました。こんなに綺麗な花々が、ひっそりと自然界の保護の中で咲いている姿に、感動させられました。 その美しさ、健気さを愛でて、山野に分け入って、人の目につかない花々を探す大変さも伝わってきました。ご許可をいただいての転載に、心から感謝しています。小動物や鳥などに報告も感謝です。ありがとうございました。人の営みではない、《創造の美》に驚愕した一年でした。まだ配信がありましたら、掲載いたします。 .

肥後

 

私のアメリカ人の恩師が、熊本の阿蘇に近い街に、しばらく滞在していたことがありました。そこは熊本から阿蘇を通って大分に至る街道沿いにある旧宿場町でした。今では熊本市のベッドタウンとしての機能を果たし、熊本空港も近くにあります。この方の友人の帰国中に、その留守を申しつかっての滞在中でした。結婚したばかりの私は家内と一緒に、この方を訪ねたのです。教師をしていた時の夏休みにでした。

彼を慕う中学や高校生たちが、そ留守宅に出入りしていていました。阿蘇の麓でキャンプをしていた時でしたので、私たちも一緒に参加しました。それは、私の人生を、大きく変える訪問であったのです。次の年に長男が生まれ、この方の新規事業の助手として、生きて行く決心させた訪問でした。今は、その熊本郊外での事業を、私の友人が受け継いでいて、何度も何度も訪ねてきています。

昨秋も、この友人を訪ね、旧交を温めることができ、あの大きな地震で崩壊した熊本城の城壁や益城町の被害の様子を案内してもらいました。熊本といえば、三十歳の夏目漱石が、第五高等学校(現在の熊本大学)の教授をしていた街で、その滞在期間の経験から、あの名作「草枕」が書き上げられています。漱石は、度々、熊本藩士で、剣道指南をしていて、維新後は民権運動をしていた前田案山子の別邸のある、「小天(こあま/現在の玉名市天水町にあります)」を訪ねています。

この前田案山子(かかし)のお嬢さんとの出会いが、その「草枕」の中に描かれているのです。漱石の手で、そのお嬢さんと主人公の画工(えかき)とのやり取りを、幽玄に記しています。文豪と言われる漱石の描写力には、息を飲まされてしまいますが、流石(さすが)に、「明治の文豪」とか、日本語を形作った文筆家とかで、千円札に描かれるに相応しく、筆を振るった漱石です。

その「小天」の前田別邸は、辛亥革命を導いた、孫中山(孫文)、その同志の黄興たちも滞在していて、彼らを物心両面で支えた宮崎滔天(とうてん)の夫人も、前田案山子のお嬢さんだったそうです。不思議な巡り合わせが、歴史を作るのは、実に興味深いものがあります。肥後熊本の片田舎と、「国父」と仰がれる孫文と同志たちと、微妙に結びつくいていることになります。一国の命運を左右する様な語り合いや、互いの信頼の再確認が、そこでなされたのでしょう。

昨年札幌に入院中、リハビリセンターの責任をとっていた理学療法士の方が、『私のお婆ちゃん夫妻が、孫文と関わりがあったんですよ!』と言っていました。北に南に、狭い日本が、広大な大陸中国と、細やかな繋がりが歴史の中に見られるのも、歴史の妙なのでしょう。いつかまた熊本に行ったら、今も残る「小天」の湯に、そんなことを思い返しながら、ゆったり浸かってみたいものです。

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小谷の秋

 

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一周2㎞ほどのブナ原生林に囲まれた小谷村鎌池の秋です([HP/里山を歩こう]に東京多摩のKAさんが投稿された写真と言葉です)。『紅葉と云うより黄葉と云った方が的を得ているかも知れません!』と付記されていました。きっと、秋に引き込まれそうな経験だったのでしょうか。こんなに美しい秋を眺めたら、人の世界に戻りたくなくなってしまうのではないでしょうか。

春には、盛り上がる様な新緑を見せてくれるのでしょう。また冬になりと、一面が真白な雪に覆われるのでしょう。息を飲む様な自然が眺められて、ちょっと羨ましくなってしまいました。紅葉黄葉、それを池の水が映していて、飛んで行きたいほどです。

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