再会

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駅に行く道の路側帯の街路樹に、「栃の木」が植えられています。その木に咲く花に、引っ越して来て気になっていたのですが、一昨日、撮ってみました。以前住んでいた街は、ハナミズキの街路樹で、赤と白の花が咲いて綺麗でした。街も山も里も、どこもかしこも花花花で、素敵な初夏を楽しんでいます。

この「栃の木」は、栃木県の県木で、家具などに使う高級材になるのですが、いつか栃の木で作られた食卓で、水団(すいとん)を食べてみたいものです。そんな食事が似合いそうな木や花なのです。

昨日は、家内の叔母が、先月、104歳で亡くなりまして、家内に代わって、熊谷のお宅に、ご挨拶にお邪魔しました。叔母が10年ほど過ごした部屋に、百歳の頃に写した写真がありました。江戸っ子の気風の女性で、物言いがスパッとしていたでしょうか、家内は可愛がられたそうです。

日本人の習わしで焼香を、家内の従兄弟に求められましたが、丁寧にお断りをして分かっていただきました。ずっと年老いた母のお世話を、長男として果たしてこられたのです。奥様の手を煩わせないで、全てのお世話をした孝行息子でした。『よくなさいましたね!』と、労をねぎらい、お宅を辞しました。

四人の子の母親として生きて、叔母は生を全うしたのです。どなたもあっという間の一生を過ごすわけです。基督者の家内の姉が訪ねた折に、《永遠のいのち》に至る信仰を、この叔母が告白したと聞いています。これが人の一生でいちばん幸いなことであります。再会の希望があります。

 

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夏は来ぬ

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 明治33年(1900年)に、作詞が佐佐木信綱、作曲が小山作之助で、明治期の唱歌として、私たちが親しんできた「夏は来ぬ」があります。

卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

橘(タチバナ)の 薫る軒端(のきば)の
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ

楝(おうち)ちる 川べの宿の
門(かど)遠く 水鶏(クイナ)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(クイナ)鳴き 卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす 夏は来ぬ

この歌は、古きよき時代の季節感があふれていて、懐かしさが感じられます。ちょっと難しい言葉遣いがありますが、今の夏と少しも変わらない故郷に風情が蘇って来て、素晴らしいなあと思うのです。

 私の散歩道は、市内の街中の目抜き通りを一本脇に入った「日光例幣使街道」を、日光に向かって歩き始めています。その旧街道を離れて、「総合運動公園」に行く片道四千五百歩ほどのコースなのです。蔵の町を通り、代官屋敷跡、味噌問屋、肥料店などの前を通りますが、ほとんどは閉店してしまって、門が前だけですが。

 京の都から、年一度、旧暦の四月十五日(西洋暦だと5月26日だそうです)に、東照宮詣でをする決まりがあったそうです。そんな勅使の気持ちを味あおうと思うのですが、往時の佇まいは所々に見受けられる建物跡なのです。その気分に浸れないまま、道を逸れてしまうのです。

 その道は、けっこう車が通りますので、勅使が通過した当時にはなかった「排気ガス」を吸わなければならないのです。防毒マスクをつける代わりに、最近は、田舎道を見つけて、そこを歩いているのです。「部賀舟(ぶがぶね)」が登り下りをした巴波川の土手の上を五千歩行って、折り返して帰ってくるのにコース変更したわけです。

 藪の中でカラスの子が騒いでいて、産卵期でしょうか、鯉がバシャバシャと水音としぶきをあげていっしょいます。さらに鴨がうるさく声を上げているのですが、かれらも精一杯生きているわけです。この時期、茂みの青葉の木の中から、『ホーホケキョ、ケキョケキョ!』と鳴く声が聞こえるのです。信綱が言ったホトトギスの声です。

 この歌詞にある様な「忍び音」どころではなく、令和のホトトギスは、爽やかに、懸命に、まるで賛美しているように鳴いています。それに雲雀(ひばり)が、空を舞いながら鳴いているのです。夏よりも、まだ春を感じている感覚なのです。

 この写真は、巴波の流れの土手に咲いていた野花ですが、手折ってコップに家内が挿してくれました。矢車草が三色あったりで賑やかな春の色彩でしょうか。空には、獨協医科大学病院の《ドクヘリ》のプロペラ音がしています。

 農業用水の水路でもある巴波川の水が、田圃に引かれ、ぼちぼち田植えが始まったり、準備中です。早乙女の出る機会が、田植え機械の導入で見られない時代ですが、水路を整備していたお爺さんに、『おはようございます!』と言ったら、頷き返してくれました。やはり、「夏は来ぬ」です。

 

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ルピナス

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「ノボリフジ(昇藤)」とも言われる花、「ルピナス」が、市内の惣社町にあると、友人が知らせてくださって、通院途上の道の脇の花園に咲いているのを、昨日は下車して見て来ました。

遠目で見た方が綺麗でした。まさに、垂れ下がって咲くフジの花が、逆方向に下から上に向かって咲いているように見えるのです。ヨーロッパの南部原産の豆科の花なのだそうです。実に綺麗でした。

 

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同胞愛

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 「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。 (ローマ93節)」

 エステルが、自分の民族の絶滅の危機に臨んで、叔父のモルデカイの勧めで、禁を侵し、命を賭して、王に執り成しをしました。それで民族滅亡の一大事を回避しています。またデンマークの戦後の荒廃、国家消滅の危機の中に、36歳の元工兵ダルカズは、息子と共に立って、祖国の経済自立の基礎を据えました。

 未曾有の天災、関東大震災で帝都東京が、壊滅的な被害受けました。東洋一の首都に復興するために、後藤新平が果たした貢献は実に大きかったのです。奥州水沢藩士の子でしたが、家は貧しかったそうです。しかし反骨心の旺盛な新平は、医学を学んで医師になります。その後、政界に入り、外務大臣などを歴任した後、東京市長に就いたのです。そこで、その才腕を奮ったのです。

 後藤とほぼ同世代の内村鑑三は、「日本の良心」を保った点で、後藤に劣らない働きを、都市にではなく、人の一生に関わる影響を与えています。多くの明治期の青年たちを啓発して、日本に「義の精神」をもたらし、「神を畏れる人」を、日本の社会に輩出したのです。それは隠れた貢献とでもいうのが宜しいかと思います。

 このパウロの迫真の《同胞愛》に驚かされます。これは国粋主義でも、自分の民族への過大な誇りから出たものではありません。「キリストの愛」が迫った結果のパウロの強固な決心でした。「キリストの心を心とせよ」、まさしくパウロは、その心を宿していたのです。 

 キリストの迫害者からの見事なパウロの転身は、人間的な決心にはよりませんでした。それこそ聖霊の御業でした。裏切られようとも、嫌われようとも、捨てられようとも変わることなど全くないパウロの同国人への愛を、私は持っていません。同胞の救いのために祈りますが、足りません。

 「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』(マルコの福音書1615節)」

 ところが、同国人でない日本人の救いのために献身し、来日し、膝を折って跪き、涙を流して祈っていたのが、私を育ててくれた宣教師でした。この方を日本宣教に促したのが、私の母教会を始めたアメリカ人宣教師でした。太平洋戦争に従軍し、日本軍と戦った経験があり、戦後日本に駐留した兵士でした。

 戦場での残忍な日本人と、進駐軍で任務について、戦後、日本で接した、優しく親切な日本人との違いに驚いたのです。その驚きの中で気付いたのが、日本人に何よりも必要なのは、「福音」だという結論に至ります。それで聖霊に促され、準備をして日本にやって来たのです。

 その初期に出会ったのが、家内の母親と上の姉でした。家内の家族は、けっきょく宣教師の住む街に転居しています。街の路上で義母と出会った私の母は、その教会に導かれたのです。多くの人がキリストと出会い、信仰を継承してq生きました。そして、家内や私は二代目、今や三代目、四代目の世代になっています。

 

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薔薇を頂く

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《芳香》、家内が昨日いただいた、ほのかに香る薔薇です。近所のご婦人が、ご自分の家の庭に咲いて、見頃になった枝をたおって、持って来てくださったのです。もう死んでしまった飼い犬との出会いを通して、始まった交わりの家内と同世代の方です。

この二人が路上で出会うと、手を取り合って喜び合うのだそうで、《乙女帰り》の姿を想像して、微笑んでいる私です。コロナで家に上がってもらうことを避けているご時世ですが、むつくけき男とは違って、『女性っていいな!』と思います。

路上で、白髪のジイジ同士が手を取り合っていたら、醜聞になってしまうのですが、柳の様に、しなやかに生きている女性には許されることでしょうか。ちょっと羨ましいのです。

わが家のベランダと、客間と食堂兼用に部屋にも、花が咲いていて、《小花園》なのです。そこにミニトマトや紫蘇や茗荷に種が撒かれて、ベランダを占有しています。命の音が聞こえて来そうな週始め、金曜日、家内の通院日の朝です。

今、上の息子が、病院の送り迎えの親孝行のために、ちょうど今、到着したところです。暑い初夏のような一日だそうです。

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命の神秘

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 「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩篇1391516節)」

 どうしてこうも違うのでしょうか。同じ学年、戦争中の2ヶ月ほど違う生まれ、同じ時代の空気を吸い、あの時代の物事を同じ様に感じて生きていたのです。敗戦後、必死に働いてくれた父母のもとで、同じ様に育てられ、同じ平和教育を受けたのです。

 この人は、博多で生まれ、博多で育ち、この私は中部山岳の山奥で生まれ、東京で育ったのです。この人は、2016年にノーベル学生理学・医学賞を受賞し、私は無名無冠の只の人で、関東平野の片隅に住んでいます。

 その人が、大隈良典さんです。私が、中学時代に、『入りたい!』と思っただけでしたが、一時は本気で目指した東京工業大学、その学校で、栄誉教授として教育指導と研究をした方なのです。大隈さんが受賞されたのは、タンパク質が物質内に宿す「Autophagy/オートファジー(自食作用)」を発見されたからでした。動物の体内にあるタンパク質に、そんな驚く様な働きが隠れている事を知って、実は驚いたのです。

 私の知っている「タンパク質」の知識は、炭水化物、脂質とともに、「三大栄養素」で、私たちの身体を作るために重要な役割を果たしているくらいです。それなのに、不要になったタンパク質は分解されて、他の用のために用いられて行くという働きを聞いて、生命科学の世界の高さ深さ広さ深さに、畏敬の念さえ覚えさせらたのです。

 これほどの働きを体内の物質が持っているとするなら、その様な作用を計画された設計図があるのではないかと思ってしまうのです。今、ブログを書いている“iPad"ですが、アップル社では、まず設計図が書かれ、そのための部品の材質や大きさが決められ、実際に部品が作られ、それが一箇所に集められて組み立てられ、製品化されて売り出し、次男が買ってくれて、いま手元にあって、実に有用な仕事をしてくれているのです。この発見も、何をかいわんやです。

 買って持っているのではなく、生まれながらに持っているタンパク質が、人の意識外で、この肉体の中で、休む事なく働き続けているのだというのは、《神秘》に違いありません。それを、大隈さんは、顕微鏡を覗き続けて、見つけ出されたというのにも、驚かされます。同じ中学で、いつも制服の上に白衣をつけて、化学室で何かの実験をしていた二級上の「ヤギ先輩」のことを思い出してしまいました。

 『お前の血液型を調べてやる!』と言って、耳たぶから血液を採って顕微鏡で覗いて、『お前はAB型!』と言ってくれました。ずっと、そう信じていて、何かの検査で血液検査が必要で、『AB型ですからしなくても・・・』と言ったら、『念のために!』と言って調べてくれたのです。何と、"O型"に変わっていたので驚いたのです。『あの先輩も、きっと顕微鏡を覗き続けてきているのかな?』、などと思ってしまいました。

 建築か土木をやりたかったのに、全く別な道に進みました。そして、考えもしなかった日本語教師をさせていただきました。それぞれの人生があって好いでしょう。褒賞とは縁のない世界で生きて来ている人の方が、はるかに多い現実で、先週、姪が手術を受け、兄と義姉から、『お祈りを感謝します!』と電話がありました。

 手術をした姪も、まだ深刻な病状ではない家内も私も、一人一人の体内では、「オートファジー」の働きがなされているのだと思うと、生きている意味が実感させられてきます。命の創造者がいて、命を保持していてくださるお方がいる以外に、命は語れません。

 

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微笑みながら

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 「しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。    生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。 (詩篇29節、2210)

 詩篇の記者は、私たちの誕生までの一切を定めた方こそ、万物の創造者だと告白しました。命の保持者も、この神さまなのです。生命誕生の神秘さは、私たちを驚かせます。

 戦時下、中部山岳の山奥で、母は、3人目の男の子の出産で、私を産んでくれました。十ヶ月の間、母胎に私を宿し、祈りつつ、私を主に委ねて過ごしています。真冬の間借りして住んでいた旅籠の別棟で産んでくれたのです。

 朝4時45分の出産だったと、父が記録をメモ帳に残してくれました。宮本村の村長夫人が産婆をして、産湯につけてくれたそうです。エアコンも電気ヒーターもない時代、寒かったことでしょう。二年後、同じ様にして弟も生まれています。

 「彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。
彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。
彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。『しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている』と。(箴言31章25~29節)」

 それから、結婚するまで、母の手で世話されて、私たち四人は過ごしたわけです。九十五年の生涯を終えて、命の付与者の元に帰って行きました。

 結婚した私の家内も、同じく四人の子を産んで、育ててくれました。母への感謝は尽きません。

 

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農と耕


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 「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。(創世記215節)」

 アジア人が、アメリカ社会で暴力被害を受けるニュースがよく聞こえてきます。西海岸のサンフランシスコを「桑港」と漢字で表記するのは、日本人や中国人が多く、ここで汗や涙を流して農業に従事した歴史を物語っています。アメリカの第一次産業に、アジア圏からの入植者、雇われ人が果たした役割は大きいのです。

繁栄の陰で、ヨーロッパからもアジアからも、きつく、汚く、危険な仕事をして、アメリカの社会を支えた貢献を、アメリカ人が忘れてしまったのでしょうか。農林水産林業などに従事する者を軽視するのは、いわゆる〈先進諸国〉と言われる国々です。

 この栃木県は、東京圏の工業製品の生産拠点として、その重責を担っているのですが、昔から江戸や東京に食料を供給する農業県でした。国の基幹産業こそ、農業に違いありません。この県の農業を語る上で、一人の人物に注目せざるを得ません。「二宮金次郎(尊徳)」です。

 昨日も小学校の脇を歩いていましたら、校庭の片隅に、雨風に晒されて渋くなった金次郎少年の銅像がありました。真岡市(もおか)に、「二宮尊徳記念館」あります。おもに真岡藩は、小田原藩の分家というよしみで、小田原藩で財政改革を指導をして、大きな成果を残した金次郎を招き、指導をあおぎました。

 下野国(しもつけ)の桜町領・茂木領・烏山藩などで農村再興に成功したのです。その記念館のパンフレットに、「二宮尊徳の教え」があり、次のように記されています。

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 [報徳「徳を以って、徳に報いる」」

 物や人そのものにそなわっている「持ちまえ、取りえ、長所、美点、価値、恵み、おかげ」などを「徳」として、その「徳」をうまく使って社会に役立てていく(お返しをする)ことを「報徳」と呼びました。

[万象具徳(ばんしょうぐとく)]

 「あらゆるものに徳はある」と考えました。これを「万象具徳」といいます。

[積小為大(せきしょういだい)「小を積んで大と為す」]

 小さな努力をこつこつと積み上げていけば、いずれは大きな収穫や発展に結びつくという教えです。大事を成しとげようと思うなら、まず小さな事を怠らず努めることが大切です。

[一円融合]

 すべてのものは互いに働き合い、一体となって結果が出るという教えです。例えば、植物が育つには、水・温度・土・養分・炭酸ガスなどいろいろなものがとけ合い、一つになって育ちます。どれもが大切なのです。

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[心田開発]

 やる気こそが復興の鍵となるという教えです。

「報徳の道は至誠と実行]

「報徳思想」とは「至誠(しせい)」を基本とし、「勤労(きんろう)」「分度(ぶんど)」「推譲(すいじょう)」を実行するという考え方で、この「報徳思想」を実践するのが「報徳仕法」です。二宮尊徳は報徳思想を広め、実践することにより、ききんや災害などで困っていた多くの藩や村を復興しました。

  • 至誠 「まごころ」のこと。二宮尊徳の仕法や考え方、そして生き方の中心となるもの。
  • 勤労 物事をよく観察・認識し、社会の役立つ成果を考えながら働くこと
  • 分度 自分の置かれた状況や立場をわきまえ、それぞれにふさわしい生活をすることが大切。
  • また、収入に応じた一定の基準(分度)を決めて、その範囲内で生活することが必要。
  • 推譲 将来に向けて、生活の中で余ったお金を家族や子孫のために貯めておくこと(自譲)。
  • また、他人や社会のために譲ること(他譲)。

 二宮金次郎は、明治維新の12年前、1856年に今市(現、栃木県日光市)で亡くなっています。中学校の校舎の前に金次郎像が置かれていて、校長に、登下校2歳に、脱帽敬礼をするように言われたのですが、銅で鋳た像に敬意を表するのはおかしなことだと思ったのです。でも、尊敬に値し、その威徳に学ぶべき人物に違いありません。

 休耕地を耕して、食料が自給できる様にならないと、日本の農業は終わってしまいそうです。ですから土をいたわる農業を行い、食べても害にならない作物を作ることなのでしょう。〈儲け主義〉が農業を破壊してしまうのを阻止しなければなりません。健全な農業を行っている生産者を、こういった農家から購入することで支えて、支持していったらいいのでしょう。華南の街で、『30人が買ってくれるなら、一つの農家を支えていけるから!』と誘われた後、帰国してしまいました。

(金次郎像の本の頁に書かれた文章、居住の復元住宅です)

 

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訪れ

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 「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。 (箴言2325節)」

 人を収容する会場や競技場を「入れ物」と言うのだそうです。その準備万端が整った東京オリンピック大会ですが、この写真の様に、主会場の「オリンピック・メインスタジアム」が出来上がっています。1963年の大会の時の主会場跡地に、こんな素敵な会場ができたのですね。

 何年か前の帰国時に、下の息子を訪ねた時に、彼のアパートから歩いて、建設現場の周辺を見て回ったのですが、そこに、こんな素敵な競技場が出来上がっているのを知って驚きました。と言うことは、コロナ禍で、ずいぶんと息子を訪ねていないことが分かりました。

 息子や親族や友人を訪ねるための上京を見合わせていた私たちを、一昨日の「こどもの日」に、その息子が夫婦で、私たちを訪ねてくれたのです。何時もですと、浅草の老舗(しにせ)の「よもぎ餅」を家内に、「グレープフルーツ・ゼリー」や「お寿司」や、その他にも手土産を手に一杯にして持って来てくれるのですが、今回は、「特製マスク」と「お茶」で、体調管理中のオヤジのために〈甘味物〉をやめてでした。

 『昼過ぎに行くから!』と、その朝、ファミリー・チャットで連絡してきたのです。それを伝えたら、あんなに喜んで、嬉しそうな顔をした家内を久し振りに見たのです。お腹を痛めて産んだ子、少々手こずらした「仕舞いっ子」は、闘病中の母親の《妙薬》なのです。あの「破顔(はがん)」と言う表情が何かが分かるほどでした。

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 束の間(つかのま)の訪問は、時節柄の彼らの配慮でしたが、いっしょに夕食を摂りたかったのですが、そそくさと帰っていきました。前の日、思いっ切りな「密」を経験した私たちでしたが、家族の「密」だけは許されそうに思うのですが。『いつ会えるかどうか分からないので!』と言う気持ちと、〈避けねばならない密〉の間で、現代人は悩むのでしょうか。

 お父さまが亡くなられて、その葬儀で出掛けた時に会った嫁御(よめご)でしたが、いっしょに来てくれたことが、一入嬉しかったのです。苺と林檎と不知火(柑橘)に、生協で買った「五平餅(ごへいもち)」で出迎えたのですが、あまり食べてくれなかったのも「黙食」の影響でしょうか。

 それに昨日は、「母の日」の贈り物の《カーネーション》が、長男の嫁御から宅配便で届きました。赤い花が実に見事でした。来週は家内の通院日で、長男が来てくれます。小朋友とお母さんといっしょに過ごしたり、次男夫妻の訪問、嫁御の “ gift “ と立て続けの「喜びの訪れ」に、満悦の家内でした。

 

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距離

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〈人と犬の距離〉が近過ぎるのが気になった、圏内小旅行のお昼のレストランでの光景です。

 弟が犬好きで、父の家では、犬を飼っていたことが、二度ありました。最初の犬は、猟師が連れ歩いた甲斐犬でした。まさに猟犬でした。鶏をくわえて帰ってきて、彼が咥え歩いた道筋には、鶏の羽が散らばっていたのでした。終いには、豚の子を持ち帰ったこともあったほどです。その鶏も子豚も、母の食卓に上ることはありませんでした。

 二匹目の犬は、秋田犬でした。毛並みも立ち姿も格好よくて、子犬から成犬になるまで飼い続けました。近所の男の子にいじめられたせいで、引越し先の隣家の小さな女の子を噛んでしまったのです。弟は涙を飲んで処分に同意しました。それ以来、犬を飼うことはなくなり、世帯を持ってからも、彼は犬を飼うことがありません。

 そんな犬飼歴がある私は、みかも山麓の「道の駅」のレストランの外の席で、席に着いていた飼い主と犬の距離が、人の母親と人の赤ちゃんの距離だったのに驚いたのです。あやす母親、ミルクをやるお母さんの様に、腕に抱えながら、犬に餌をあげていたのを、二度見、三度見してしまったほどです。

 父の家で飼っていた犬は、庭の犬小屋に、鎖で繋いでいて、朝夕に餌やりの時間には、専用の餌入れに、母が与えて、犬は自分で食べていました。ところが昨日の犬は、飼い主が、手で口に運んで、犬の方は、うっとりと飼い主のご婦人を、母親の様に見上げながら食べていたわけです。

 それは犬と飼い主の距離ではなく、親子の距離だったのです。昨日、他に見かけた犬のほとんどが、〈犬着〉を着込んでいました。体に合った寸法で、彩りの美しいおしゃれ着なのです。そして得意そうにして、気取ってご主人さまに従っていたのです。「狗公方(いぬくぼう)」と言われた五代綱吉、あの時代のお狗様を思わせる一日でした。

 かえって人との距離が遠のき、愛玩の動物との距離が縮んでしまっている時代に、驚きを隠せないのです。『人なんか、そんなによくしてやったって、終いには裏切ったり、恩を忘れてしまうだけだ!』と、人を信じられない人が多くなって、裏切ることも、恩を忘れることもない動物と繋がっている時代なのでしょうか。

 隣の席にも、犬用カートに、二匹を乗せていた夫妻がいたのですが、奥さんの視線は、ご主人には向いておらず、自分の食べ物と飼い犬にだけ目を向けていました。ご主人は、構ってもらえず、寂しそうにしていたのです。ちょっと留守をしてる間に、日本は寂しい時代を迎えてしまった様です。楽しい一日でしたが、考えさせられた日でもありました。

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