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[別れ]、これは悲しい出来事であります。どうしても避けられない父や母、親族、恩師たち、学校時代の友、仕事上であって知遇を得た方たちとの死別があります。『もう少し連絡を取ればよかったなあ!」と、遅きに失した思いで、悔やむことがあります。でも[再会]とか[回復(恢復のほうがいいですね!)]があるのは感謝です。
一緒に働くように、まだ若い日に誘ってくださった大先輩が、入院先で召されたとの知らせを受けたことがありました。脂身の肉を、神経質に除いたり、冷たい物は避けて、食生活に、あんなに注意深かったのに、六十代で帰天されたのです。いっしょにボールを追いかけあった同級生が、二十代で病気で亡くなりました。七十過ぎて、カバンを持って、校門で待っていてもらって、ずらかりを何度も頼んだ友が、『突然夫が亡くなりました!』と連絡がきたり、甥がオートバイレースの事故で亡くなった知らせも受けました。
喧嘩別れだってあります。和解の機会が遠くなってしまい、心残りで、どうすることもできないこともありました。聖書が正直な書物だと言うことが判るようにでしょうか、「激しい反目」の様子が、使徒15章36~40節に記されてあります。
『幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。 しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。 そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。』
そのパウロとバルナバの反目、離反は、若いマルコが原因でした。『一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよい。』とのパウロのことばが、マルコのいとこに当たるバルナバには受け入れがたかったのです。
それで、2チームの伝道隊ができて、それぞれに分かれて伝道がなされていったのです。パウロが厳し過ぎたのでしょうか。それともバルナバは血縁のつながりを大切にし過ぎたのでしょうか、似た事例がよくあることです。つまずきは避けられないのです。でも、この反目は、キプロス伝道がなされ、伝道の拡散を生み出しています。そして、『連れて行かない!』と言ったパウロは、後になって、
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『ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。 (2テモテ4章11節)』
《役立つ働き人》となって成長したマルコを名を上げて、認めたのです。関係の軋轢、不和、または喧嘩別れなどは、伝道の世界の中でもあり得るのでしょう。私は、問題児だったのでしょうか、私が従った伝道者としての訓練の時期に、兄ほどの年齢の宣教師さんとの間に軋轢がありました。態度が悪かったのでしょうか、彼にも感情があって、彼が、ある時期から日本語を使わなくなって、英語で聖書勉強をするようになりました。理由は言いませんでした。
急にでしたが、一緒に学んでいたアメリカ人の school mate を中心に学びがなされ、その急激の変化に戸惑ったのです。柔和な方でしたが、感情が傷つくことを、私が言ったのか、したのか、ご家族が気を害されたのか、〈パウロとテモテ〉のような師弟関係から、〈パウロとマルコ〉の他者関係に移行するむね告げられたのです。
前にも記しましたが、私には、「日本主義」の強固な残滓があって、聖霊に満たされ、聖さへの願望がありながら、任せない、砕かれない思いが残っていたのです。それが、宣教師さんを胃潰瘍にさせた理由と原因者の一人の過去であったのです。それが取り扱われるためには、そんな不面目な対決があったことになります。
その頃、銀座の教文館で、大きな教団の著名な一人の方と会いました。『君、宣教師に雇われているのでしょう。それよりも、僕らの神学校に入りなさい。奥さんは、私が経営している保育園で働いたらいい!』と言ってくれました。私は、宣教師さんとの関係について、第三者には、どなたにも相談したり、同情を求めたことはないのです。私は、始めた道、導かれた方法にとどまることにしたのです。
そんなことがあった8年間の後、教会堂建設が行われ、母教会の献金で、会堂用地を買い、母教会のメンバーの建築士の兄弟が、会社を退職して、14ヶ月かけて、逐次与えられる内外からの献金で資材を買い、自分たちの手で会堂を建て上げたのです。宣教師さんたち、近い交わりの教会の宣教師や兄弟姉妹、同じ街の教会の建築会社で働く信者さんたちの助けがありました。
竣工して、献堂式が行われる前に、宣教師さんの後の教会を引き受けるようにと言われたのです。それに先駆けて行われた五月聖会で、アメリカの教会から三人ほどの牧師、日本で働く宣教師さん方、日本人牧師などからの按手で、家内と二人の任職式が持たれたのです。
宣教師さんとは、関係が修復されたのです。そのために、兄や、よく私を特別集会に招いてくださった宣教師さんの関係回復の執り成しがあったのです。人と人が関わる伝道にだって、感情の行き違いや、爆発や不和はあります。でも素晴らしいのは、[和解]と[恢復]がなされると言うことです。
66歳で、病気を得た宣教師さんは召されたのですが、召される前に、彼を訪ねた時に、彼も一言言いたかったのでしょうか。『準、自分の悪かった点を赦してほしい!』と言ってくれました。私も、自分の不従順や悪感情を詫びたのです。きっとふたりとも正直だからこそ、ぶつかり合うことがあったのでしょう。大切なのは、《和解》です。なぜかと言いますと、「和解の福音」を宣べ伝える者には、それが持ちめられ、しかもそれは必ずできるからです。
(「キリスト教クリップアート」のイラストです)
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