1963年の春に、こんな歌が、若者たちの人気を得ていました。映画の主題曲だったのです。
1 アカシアの 花の下で
あの娘(こ)がそっと 瞼を拭いた
赤いハンカチよ
怨みに濡れた 目がしらに
それでも涙は こぼれて落ちた
2 北国の 春も逝(ゆ)く日
俺たちだけが しょんぼり見てた
遠い浮雲よ
死ぬ気になれば ふたりとも
霞の彼方に 行かれたものを
3 アカシアの 花も散って
あの娘はどこか おもかげ匂う
赤いハンカチよ
背広の胸に この俺の
こころに遺(のこ)るよ 切ない影が
その年の初夏、大手の乳業会社の製造工場で、アルバイト募集があり、履歴書を書いて応募しましたら、OKが出て、夜勤で一夏を過したのです。市乳部門で、45本の牛乳瓶の入った、けっこう重い木製のケースを、製造部からベルトコンベアーで送られてくるのを、冷蔵庫の床に種類に応じて積み上げていくのです。
翌日の配送のために、8つくらいのレーンがあって、指定通りに、翌朝の出荷に合わせて、積んでいく作業でした。お手のものの肉体労働で、初めはぎこちなかったのですが、すぐに要領を覚えて、15段も16段も放り投げて、瓶を割らずに積むのです。『牛乳は、いくら飲んでもいいからね。ただ瓶は割らないで!』と言われたのですが、そんなに飲めませんでした。でも、あれで丈夫な体作りができたのかも知れません。
法政、中央、横浜市立大、専修、明治学院などから来ていたアルバイトでした。仕事の合間、休憩時に、取り止めもない自慢話や、経験談を話し合ったりしていたでしょうか。流行歌を歌ったり、相撲をとったりしましたが。明日の雨の予報の夜は、製造量が少なかったのですが、暑い日には、明け方近くまで作業を続けていました。
事務所の女子職員の制服のポケットに、だれが書いたのか忘れましたが、ラブレターを入れたりしましたが、けしからん悪戯でしたから、恋は実りませんでした。恋も、春の北国に行く計画も、実現できずに来年こそはで、お預けの4年間だったのです。3〜4年生の頃は、朝のバイトもあって、伝票に従っての出庫もしたのです。
1963年夏、みんなで、だれ歌い出すともなく、この「赤いハンカチ」を歌い出すと、みんなが合唱したのです。大声の私たち『学生なんていい気なもんだ!』、奄美大島や秋田などからやって来て社員になっていた、同世代の社員が羨ましそうに聞いていました。
そんな様子でも、みんな学生の自覚があり、自分の学校の看板を背負っていましたから、上手下手はあったのですが、プロに負けない仕事をしていました。主任さんにほめられたのが嬉しかったのです『来年も来てね!』と言われて4年の間、同じ工場で同じ仕事をしました。交替勤務でしたから、待機していた1年生の夏、よく裕次郎を歌いました。それが、この「赤いハンケチ」でした。
計算に弱いのですが、もう60年も経って、記憶は薄れるのに、この季節の夜風が運んでくる空気の匂いがよみがえってきて、あの時の記憶を呼び醒ましてくれたのです。時は流れ、裕次郎も去り、工場への道も変わり、会社も無くなって、夢多き青年は、後期高齢者となってしまいましたが、懐かい思い出は格別なものです。それでもこれまでの間、北国には、数度出かけました。
(「赤いハンカチ」です)
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