中国での13年間の中で、素晴らしい出会いがありました。素敵に輝いて生きておられるみなさんとは、まるで家族のようにしていただいたのです。街が、朝起きると変わっていると思えるような劇的な変化も見られたのです。清の時代の巷間の木造建築が、三十階建ての鉄筋コンクリート作りのビルに変わって、古き良き時代の遺産が消えてしまうのは残念でした。
四川省の成都も同じで、三国志に舞台や、杜甫の草庵などは残されていますが、広大に観光用に作られたもので、歴史的な価値はありませんでした。それでも、華南の地域の農村や山村に行きますと、bridge houseのような、橋が建物のような構造になった箇所があったり、三回建ての木造家屋があったり、格子造りの家などもあるのです。
ヨーロッパはともかく、華南の海浜にある村などは、五代、六代の信仰の継承者がおいでで、幕末の日本に宣教師がやって来たと同じ時期に、香港あたりから上海、上海から船で内陸部に、上海から北の方に海岸伝いに宣教がなされていた、その働きの実が残されているのです。
先日家内を見舞ってくださった方が、5代目のキリスト教徒で、お子さんたちは六代目で、外面的な状況は厳しくとも、内面的な経験は、きちんと受け継がれていくわけです。イギリスの聖公会の宣教の働きがなされた地です。厦門(アモイ)の街に、この国で最初に建てられた教会堂があって、その定礎の年月が刻まれていました。
日本には、オランダ改革派の宣教師、J・H・バラの伝道で始められた「横浜海岸教会」が、一番古いプロテスタントの教会堂で、学友が、そこのメンバーでしたので、そこで彼の結婚式があって、参列したことがありました。きっと同じ時期に、日中両国のあちらこちらでで礼拝が行われたのでしょう。
プロテスタントの礼拝は、アメリカの長老派の宣教師、ジェームス・ヘボンが、神奈川宿の成仏寺に借り受けた広間で、宣教師たちだけで持たれています。密偵が送り込まれ、ことある時には切り捨てられるような緊張の中で、日本宣教や医療、聖書翻訳がなされています。
中国も日本も、そして朝鮮半島も、同じ時期に欧米からの宣教師によって福音宣教が始められて、その百数十年の歴史があるのです。昭和初期に、山陰伝道をされたカナダ人宣教師の伝道で母が、戦後、マッカーサーが遣わしたアメリカ人宣教師の伝道で義母が信仰を持っています。私たちの孫たちは三代になるでしょうか。
(アモイの教会堂、ヘボンの家族です)
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