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「どちら様?」私は、祖父にこう聞かれました。私の大好きな祖父は、私を忘れてしまったのです。
両親が共働きの私は、物心ついた時から、朝起きるとすぐ祖父母の家に行き、夜、両親のどちらかが帰ってくるまで 過ごす、という生活を送っていました。だから、一人っ子で遊ぶ相手もいなかった私の相手をしてくれたのは、いつも 祖父と祖母でした。
祖母はとても元気な人で、毎日せっせと畑仕事をし、私が学校に行っている間の事をたくさん話してくれました。祖父は寡黙でしたが、本当は優しい人で、「早くママとパパに会いたい」と泣いていた小さな私を、一生懸命なだめてくれ ました。私は祖父母が大好きでした。二人のお陰で、私の寂しい気持ちは和らいでいました。
しかし、その優しかった祖父が認知症と診断されたのです。私は、小さくなっていく祖父を、いろいろな事を忘れて いく祖父を見ている事ができず、祖父母の家に行くのを躊躇うようになりました。
診断からしばらく経ったある日の事、久しぶりに祖父母の家に行くと、「どちら様?どこから来たの?」と祖父が私に 言ったのです。
覚悟はしていました。いずれ私のことも忘れてしまうのではないかと思っていました。でも、あんなにたくさんの時間を過ごしてきたのに。あんなにたくさん遊んでくれたのに。積み重ねた物が、音をたてて崩れていくようで、繋いで いた糸がプツッと切れたようで、悲しくて、悔しくて溜まりませんでした。
それからしばらくしてのことです。
私の通う学校で「高齢者の言動を科学的に理解しよう」というテーマで、講演会がありました。そこで、「記憶というのは壺のような物で、若い時は壺の入り口が狭く、記憶は壺からこぼれにくい。しかし老化が進んだり、認知症になっ たりすると、壺の入り口が開き、新しい記憶からこぼれ落ちる。だから、認知症になっても昔の記憶は残っているとい われている。認知症の方が昔の話ばかりするのは、そんな脳のメカニズムから来ている。」というお話をして下さいました。
その話を聞き、祖父の中に、私との思い出が残っている可能性があるという事が分かり、心の中の消えてしまった一 つの火が、ポッと灯ったような気がしました。それ以来私は少しずつ祖父に会いに行き、静かに隣にいるようになりま した。祖父は昔と変わらない優しい笑顔を向けてくれます。その度に、祖父と私を繋いでいる糸が切れていない事を感 じます。
日本の認知症患者数は、2025年には700万人にも上ると言われています。もしかすると、あなたの大切な人が あなたの事を忘れてしまう日が来るかもしれません。大好きな人が自分を忘れてしまうのは、悲しくて、悔しくて、と ても怖い事です。でももしその日が来たら、とても勇気のいる事ですが、ただ寄り添ってください。自分が誰なのかを 説明する必要はありません。なぜならその人の心の奥に、ちゃんとあなたは生きているからです。そこで、あなたと大切な人がしっかりと繋がっている事に気づくはずです。
そして一番大事なのは、大切な人の笑顔が見える内に、素敵な思い出をたくさん作る事です。それが、あなたと大切 な人とを繋ぐ糸となります。
おじいちゃん、また遊びに行くから待っていてね。(山梨県 北杜市立甲陵中学校2 年 小松 日菜)
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これは、「41回少年の主張全国大会(令和元年12月8日)」で、「国立青少年教育振興機構理事長賞受賞」を受賞した作品です。戦後のベビーブームで生まれた世代が、後期高齢者に至り、老人人口が多くなっています。街中の朝の時間帯、散歩道にデイサーヴィスの送迎バスが多く行き交っています。『年寄りを忘れないで!』と言いながら。
この3週間、次女家族が、3年ぶりに訪ねてくれました。孫息子は、自分の教会の牧師さん、有名なアメリカの教会の説教家、教会の高校生科の教師、おじさん、そして、バアバやジイジの私たちまで、その話しっぷりや仕草まで、身振り手振りで「モノマネ」をしてくれたのです。大笑いでした。
孫娘は、バアバに寄り添って、ベッドの中で添い寝しながら話し合い、昨日は、駅頭で二人でダンスをし、オンブまでしてくいたのです。外地勤務で、孫たちの成長を近くで見てやれなかったので、接触が少なかったのですが、それを挽回するように、痴呆予備軍のジイジとバアバに孝行をしてくれて、私たちは狭い家で窮屈でしたが、交わりに大喜びでした。
子どもの頃に食べたボンボンを氷菓にして孫娘が、よく飲んだサイダーを買って来てくれて、コップに注いで、『飲んで!」と孫息子が勧めてくれました。おかげさまで、3キロ増の体重です。今秋、大学生入学と高校3年生の二人は、それぞれの夢に向かって、新学年が、帰国後にはスタートします。主の祝福を祈るババとジジです。
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