お洒落れ

 

 アメリカ映画を見てて、『Gパンをはいて、街中を肩で風をきって、格好よく歩いてみたい!』と願っていた中学生の私は、ときどき「アメ横」に、そのGパンを買いに行きました。初めは、「アメ」は「飴」だと思っていたのですが、「アメリカ」だったということを知って、吹き出してしまいました。御徒町と上野の駅の間のガード下から膨らんで、迷路のような中に、商店が軒を連ねていました。テント張りで、どうも闇市だったようです。『東京って綺麗な街ですね!』と外国人が評価する今とは違って、薄汚い街が東京のほとんどだったのではないでしょうか。とくに、この御徒町周辺は汚い街だったのです。40~50年も経つと、そんな評価に変わるのですから、東京の街の躍進はすごいことなのではないでしょうか。

 昨晩、娘からスカイプがありました。『仕事でインドのニューデリーに行ってきたの!』とレポートしてくれました。どうもニューデリーも交通渋滞があるようで、その原因を話してくれました。人も車も多いのは、相当なものかも知れませんが、渋滞の原因は「牛」だったようです。神のように大切にされているのですから、追い払ったりできないのでしょうね。牛の思うままにソロソロと歩むのを人も車も待つのでしょうか。牛が闊歩するまちなかですから、どんなに汚れていることでしょうか。娘も、『本当に汚い街。でも何だか味のある街だった。アジアという感じが全くしないくので驚いた!』と、初めてのインド訪問記を語ってくれました。

 私がアメ横に行った時に、『ヒロタ!』と呼びかける声を聞いたのです。それは2級上の上級生で、店の手伝いをしていたようでした。こんな上野の御徒町で出会うなん思ってもみませんでした。顔は知っていたのですけど、名前も知らない先輩でしたが、私の名前は知っていたのには驚きました。都下にあった学校ですから、相当な距離があるのに、『東京って結構狭いだなぁ!』と思わされたのです。ちょっと挨拶して、近くの店で、中古のGパンを買って帰ったのです。この先輩のお父さんは、多分やばい仕事をしていたのではないでしょうか。店の中に雑然といろんな物が並べられていたのです。私立の中学に息子をやらせるのですから、結構豊かだったのでしょうか。それ以来会ったことはないのですが。

 もう15年以上も前になりますが、御徒町の近くの秋葉原に、何かの部品を買い物に行ったことはありますが、もう何十年も行ったことがありません。今回、こちらに戻るときに、日暮里から京成スカイライナーの特急に、成田空港まで乗ったのですが、恵比寿から山手線で、この「御徒町」を通過したのです。どんなに変わってしまったかは検討がつきません。今度帰国したら、ちょっと足を伸ばしてみたいなと思わされています。昔は、アメリカ軍の物資の横流れ品が、多く売られていましたが、今では輸入品がどこでも買える時代になりましたから、そんなに珍しいものではないのかも知れません。チョコレートなんかも買ったのを覚えています。

 来週は、「労働節」の、いわゆる中国版の「ゴールデン・ウイーク」になるのですが、寒い冬が終わって、街路樹に花がつきはじめています。今は、花水木が見頃です。最近、街中の風情で、『わぁー、変わってきたんだ!』と思うことがいくつかあります。そのひとつは、スカートを履いて、お化粧をしている女性が増えてきたことです。ファッションの輸入でしょうか、東京の街と遜色のない、お洒落れが流行ってきているのです。20年ほど前に初めて来ました時との時代の隔たりを感じさせられます。クラスにやってくる女子大生も、オシャレをしてこられます。中学生の男の子の私だって、そうしたかったのですか、うら若き女性ですから、当然なのでしょうね。服装もですが、《内面の飾り》も忘れてほしくないなと思う、連休前であります。

(写真は、http://www33.tok2.com/home/m35rx4/okachimachi.htmの「アメ横」です)

初恋と褌

  まだあげ初めし前髪の  林檎のもとに見えしとき  
      前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

  まだあげ初めし前髪の  林檎のもとに見えしとき 
  前にさしたる花櫛の  花ある君と思ひけり

  やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり

  わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき
  たのしき恋の盃を 君が情に酌みしかな

  林檎畑の樹の下に おのづからなる細道は
  誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ

 これは「若菜集」にある、島崎藤村(1872~1943)の「初恋」です。浪漫派の七五調で、日本語の美しさをいやが上にも表現した秀作です。次女夫婦が、「ジェット」というプログラムで、長野県の高校で英語教師をしていました時に、彼女たちを幾度となく訪ねました。ある時、「馬籠」に案内してくれたのです。そこは旧中山道の宿場町で、昔のたたずまいのままに、その街並みが残されていました。山あいの自然の美しい村で、旅人の疲れをいやし慰めたであろう景観を、今なお残して連なっておりました。道には石畳が敷かれていて、この石を踏んで旅人は北に南に、ここを通り過ぎ、茶店で団子と渋茶を楽しんだのでしょうか。私たちも、「おやき」を買ってお茶を飲みながら過ごしたのですが、江戸時代にタイムスリップしてしまったような気分を味あうことが出できました。

 藤村は、この村の出身で、生まれた家は代々、庄屋/問屋をつとめた、この地方の名家の出でした。9歳で東京に出て、小学校を終え、明治学院に学びます。卒業後二十歳で、明治女学校の教師になっています。私も東京の女子高で教員をさせていただいたのですが、私は25歳の時でしたから、女子高生の取り扱いは、まあまあ心得ていたつもりでした。二十歳の藤村を思いますと、『大変だったろうなあ!』と思ってしまうのです。どんな男性でも、女子校にいると、〈もてる〉といった錯覚に陥ってしまうのだそうです。男性を見る目がオトナになっていませんし、稀少の男性が関心の的となるのですから、致し方がないのかも知れません。私は、その学校から招聘された時に、一大決心をしたのです。『同僚と教え子に恋をしない!』『同僚と教え子と結婚しない!』とです。時々、教え子や同僚と結婚した教師がいますが、そういった人と同じになりたくなかったのです。『ほら◯◯先生の可愛い子、あの子なんて言いましたっけ?』という教師たちの会話を聞いて、呆れ返ってしまった私は、脱出を考え始めていました。

藤村は、教え子に恋をしてしまい、学校を退職します。しばらくして復職するのですが、友人の北村透谷が自殺をしたことを苦にし、女学校の教師やめてしまうのです。人を好きになるのは自然のことですから悪いことではありません。でも、まだ何もわからない教え子を好きになってしまうのは一種の〈犯罪行為〉です。なぜかというと、狡賢いし卑怯だからです。藤村は自責の念をいだいて退職したのですが、彼が私の同窓の先輩であることを恥じるのです。上手な文章を書くことにかけては名文家の誉がありますが。

 素晴らしい「初恋」を詠んだわりには、女性問題が山積していたようです。愛媛に、私が師と仰いだ人がおいででした。一度訪ねたことがありました。この方が、『藤村は、自分の不品行を題材に書を書いた小説家で、私は彼を最も軽蔑する!』と言っていました。文学者は、作品の題材のために、あえてそういった傾向があるのでしょうか。もともとだらしないのでしょうか。『遊びも文学のため!』と思って、そういったことが許されると思って言い訳しているのでしょうか。そんなことで、物書きにはなりたいと思ったことが、一度もありません。男は褌(ふんどし)をきりりとしめねばならない、私はそう思っております。

 同級生が、この詩を好きで、彼から教わったのですが。もう随分会っていません。好い人生を生きて来ているのでしょうか。桜が散ってしまって、四月も一週を残すのみとなりました。秋でもないのに、人を思い出してしまいました。

(写真は、ウイキペディア掲載の「馬籠宿」です)

最後のひとつ

 この1月に、日本に帰国している時、出張で東京に来ていた娘が、「梅干し」を2パック買ってくれました。近くの行きつけのスーパーででした。『必ずもって帰ってね。そして大事に食べて!』と言い残して、シンガポールに帰って行ったのです。冷蔵庫にしまっておいたのを、2月に、こちらに戻るときに、しっかりともって帰って来ました。こちらの食習慣に、もう慣れきってしまいましたが、疲れた夕べ、食事の後には、ちょっと甘いものに「緑茶」は、ときどく飲みたくなってしまいます。何ヶ月分も買ってこれませんし、買い出しに帰国するわけでもないので、すぐ底をついてしまいます。無くなってしまうと、至極飲みたいもので、決まって私が、『だれか送ってくれないかなあ!』と言うのですが、どうも声は届かないようです。とくに、煎茶が飲みたくなるわけです。結婚した当時は、若かったからでしょうか、お茶は、客用には買い置きがありましたが、家内とお茶を入れて、ゆくり飲むことなど、まったくありませんでした。「氷水」が定番だったでしょうか。

 今晩、独り世帯の私は、お昼にラーメンを作った時に、野菜炒め(キャベツ、きのこ、玉葱、長ネギ、にんにく、ベーコン)を作ったのですが、それを半分残しておきました。それに、ケチャップを入れて味付けをしてスープにしたのと、菜の花のおひたし(昨晩の残り物)でした。それに梅干しも添えてすませたのです。デザートは、おととい訪ねてきた方が、おみやげで持ってきてくれた「枇杷」を食べて、今日の夕食を終えました。最近、一人で食事をする機会が多くなっているので、やはり食べるって大変なことだと思うことしきりです。外で食べるのは簡単ですが、「化学調味料」の味が強くて、たまにはいいのですが、続けて食べる気にはなりません。さりとて、自分で作るのは、やはり面倒なものですから、一回の調理で、二食、三食分を作って、小出しで食べる知恵がついてしまいました。一番いいのは、「カレー」ですが、帰国する前に作って冷凍にしたのが、残っていたので、戻ってから早速食べてしまいました。そろそろ作ってもいい時期になったようです。

 さて「梅干し」ですが、今晩、最後のひとつを食べ終わってしまいました。ケースを未練がましく覗いてみると、「豊熟梅」と書いてあります。和歌山県田辺市の会社の製造で、賞味期限が〈12.6.10.B〉と記入されてあります。よく見ましたら、〈原料原産地名;中国(梅)〉とあるではないですか。ということは、ここ中国から輸出されて、和歌山で加工し、代官山のスーパーの店頭に並べ、それを娘が買ってくれ、冷蔵庫から出したのを、20キロの荷物制限の中にパッキングして、飛行機で持ち帰った代物(しろもの)なのです。延々と長旅をして、故郷に戻ってきたわけです。その最後でした。国産梅の産地のものが高すぎるのでしょうか、安い輸入品が、ほとんどになってきているのでしょうか。和歌山物と思わせるほどに遜色がなく、中日合作を美味しくいただきました。

 これから、家内に電話を入れるつもりです。もって帰ってくる物のリストに、「煎茶」と「梅干し」を付け加えるように言うつもりです。我が家でも、ときどき持たれる、「奥さま会(こちらに嫁いだ方と日系企業人のご夫人)」でも、やはり日本食の話題が多いそうで、実家から送ってきてもらうのでしょうか、貴重な日本の味に浴することができるので、大歓迎しています。健康だから、食べたくなるので、食欲というのは軽蔑してはいけないのだと思い改ております。そういえば近くのスーパーに、「らっきょう漬」が売っているのです。味付けは、全く日本と同じで、ちょっと高めですが、一昨日買い物に行った時に買ってしまいました。お昼に5こほど食べたので、夕食はやめておきました。明日の楽しみにしようと思います。「食」は大切なので、今日は食べ物のお話でした。

(写真は、〈ゆんフリー写真素材集〉の「梅の実」です)

命をかけたもの

 


      あきらめましょうと 别れてみたが
      何で忘りょう 忘らりょか
      命をかけた 恋じゃもの
      燃えて身をやく 恋ごころ

      喜び去りて 残るは泪
      何で生きよう 生きらりょか
      身も世もすてた 恋じゃもの
      花にそむいて 男泣

 この歌は、「無情の夢(作詞・佐伯孝夫、作曲・佐々木俊一 、歌・児玉好雄)」で、昭和11年(1936年)に、一世を風靡した流行歌でした。この年は、二二六事件、広田弘毅内閣、国会での佐藤隆夫の粛軍演説、ベルリン・オリンピックなどが行われた年で、不穏な社会情勢の只中に、日本も世界もおかれていたようです。私の母は、まさに19歳、青春まっただ中にいたことになります。多感な乙女は、この年に大ヒットした「無情の夢」を、胸をときめかして聴き、歌ったのではないでしょうか。歌詞を見ただけでも、忘れられない人、いのちをかけた恋、燃えて身をやく恋、身も世も捨てた恋、男が泣くような思いで恋心を歌ったのですから、実に激しい恋の歌なのです。

 高校1年だったと思いますが、15の私は、『お母さんの若い時に流行った歌に、どんな歌があるの?』 、『歌ってみて!』とお願いしたのです。私の通った中学校の女子部に、同じ駅から乗車して、国分寺で下車し、バスや徒歩で通っているうちに、2年上の先輩が気になって仕方なくなりました。胸がときめくというのでしょうか、キューンとしてしまうほどに憧れてしまったのです。目元の涼しい大人の感じだったでしょうか、余所の高校生のナンパの対象だったし、まだ子供の私には、どう見ても高嶺の花でした。声をかけたことありませんから、ただじっと遠くから見つめるだけの片思いだったわけです。これが、青いレモンの味がする我が、人を恋そめし初めであります。

 

 母は、ほとんど躊躇することなく、『そうね・・・』と言って、この歌を歌ってくれたのです。私も思春期真っ盛り、異性への関心は最高潮の時期でしたから、この激しい恋の歌に圧倒されはしましたが、一生懸命に書き下ろして、節を覚えて歌い習ったのです。学校の遠足に、これを級友の前で披露したこともあるほど、背伸びをしていた時期だったでしょうか。母が、「母」であるだけでなく、ひとりの「女」であることを感じて、なんとなく不思議で、そんな一面を母のうちに垣間見ることで、さらなる親密感を覚えたのを、うっすらと覚えています。母が、いわゆる流行歌、歌謡曲を歌ったのを聞いたのは、それが初めてのことでした。それ以降は、二度と聞くこともなかったのです。母は、そういった青春期の思い出を封印してしまって、4人の気の荒い息子たちの「母業」に専心していたのではないでしょうか。

 そういえば、その頃の母の写真が、母のアルバムの中にあったのを見たことがあります。ワンピースを身につけ、洒落た毛のついた帽子をかぶり、口紅で唇を赤く染め、片方の手を腰に添えた、映画女優のような一葉の写真です。父に結婚を決意させた程のあでやかさがありました。兄の家に、きっと残されているのではないでしょうか。母は、私の娘たちに、自分の青春を語りたがっていたようですが、母の生活圏から遠い街で娘たちは育ち、学業で国を出たり帰ったり、アルバイトをしたりで忙しかったので、ついに、その機会はなかったのではないかなと思います。娘に恵まれなかった母は、息子の娘に思いがあったのかも知れませんね。恋でも、名でも、財産でもなく、「命をかけたもの」を、母は堅持し続けて、この地上の生涯を生きた人でした。

(写真は、昭和11年の東京上野の夜景です)

家族

 

 人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

 ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか

 これは「幸若舞~敦盛~」という、室町時代に流行した伝統芸能で演じられる作品で、織田信長が好んで舞ったと言われて有名です。これは、『人間の一生は、わず か五十年に過ぎない。人の世の時の流れにくらべたら、人生なんて、まるで夢や幻であり、この世に生を受けた者は、滅びないものなどあろうはずがない。』と いった意味で、さびしい人の世の悟りを告白したのでしょう。

 母の95歳の誕生日の晩、兄や弟や嫁や孫たちに、ケーキとカードと母の好きだった歌、家内とわたしの連名で送った誕生カード、子供たちの誕生カードも添え られて読まれ、誕生日が祝われたのです。それを母は、心から喜んで感謝したようです。その5時間後に、入所していた介護施設で、平安のうちに、天の故郷に帰って行きました。口から飲むことができなくなって三日目の自然死、老衰だったそうです。大正6年3月31日の生まれですから、大正5年度の最後の日でし た。一人の夫の妻として30年、四人の男の子の母として70余年、関東大震災、日中戦争、日米戦争、戦後の混乱と荒廃、廃墟からの奇跡的な復興、東京オリ ンピック開催などなどを経験しながら、波乱の大正・昭和・平成の世を生きたのです。その一生を閉じ、「永遠の故郷」に帰還いたしました。

 4月5日に、上の兄の手で「告別式」が行われ、弟と私が母の思い出を語り、次兄が息子たちを代表して挨拶が行われました。『きっと泣くだろう!』と、自分 でも覚悟していましたが、涙ぐみましたが泣かないで、母の死を「凱旋」と納得して、自分の「グリーフワーク(悲嘆の作業)」をすることができたのです。 父、義兄、義妹、甥、多くの友人を荼毘に付した場所で、「火葬式」を行ないました。母の亡きがらが骨になってしまい、母の思いの中にいた私たちの手で遺骨 を拾いました。『これが骨盤です。』と説明されたとき、その中にあった母の胎の中に、私たち4人が十ヶ月の間宿っていたことを思って、その感慨は一入でし た。そこから喜ばれて生まれてきたという、命の神秘を思わされ、なんともいいえない不思議な思いに浸されてしまいました。

 東京郊外の高尾にある霊園に、母の骨を、母の好きな歌を歌いながら埋葬しました。父、義兄、義妹、甥、多くの友人たちの埋葬された墓に加えられた母の骨で すが、多くの人は、『今ごろ、和やかな歓談の時を送っていることだろう!』と想像をたくましくします。死んだ者同志が、どんなに生前親しくとも、交わりを もつことがあるとは思えませんが、近い将来、『起きよ!』との声を聞いて、父、義兄、義妹、甥、多くの友人たちが立ち上がることでしょう。そして「永遠の いのち」に生きていき、彼らに再会できる希望を与えられております。

 信長の好んだ短歌に言う寿命の倍ほどを生きた母でしたが、『こんにちは!』を言ったら、すぐに『さようなら!』と言う、人生の短さに、改めて驚かされた次 第です。シンガポールの長女、アメリカにいる次女が二人の孫を連れて帰国して、母の葬儀に参列してくれました。『馬鹿な子ほど可愛い!』と言われるのです が、馬鹿な子の私は、母に可愛がられて甘やかされて育ったのを知ってる彼女たちは、一大危機だとも思ったようです。『親爺を支えなければ!』と思ったので しょうか。葬儀が終わって、長男と次男の発案で、もう一人のおばあちゃんの住む街に、孫たち4人を連れて、ひさしぶりの家族旅行をしました。その晩は近く のビジネスホテルに11人で泊まり、翌朝、曾祖母を訪ねたのです。介護をする義妹を誘って、子供たちが育った街で、よく食事をした「寿司屋」で昼食を一緒 にしました。その晩は、八ヶ岳のホテルに泊まり、『家族っていいなあ!』と異口同音、それぞれの感謝な思いを告白しました。

 子や孫や曾孫の誕生を喜び、母や祖母や曾祖母の死を悲しむ、この人の世の繰り返される悲喜こもごもの出来事に、一喜一憂は生きるということなのでしょうか。目黒川の両岸の満開の桜が、今日はもう散り始めております。

(写真は、2012年4月8日の目黒川河畔の「夜桜」です/次男撮影)

母の誕生日

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 「感恩」、gooの辞書によりますと、『[名](スル)人の好意や恩義に感謝すること。 とあります。昔の人は、親と、師と、君に感謝を勧めていますが、私は、これに「造物主」を加えるべきと思っております。「いのち」の付与者のことです。子どもの頃から、不思議でならなかったことが、いくつもあります。理科の時間に学んだ、こんなに重い土や岩や水の塊の地球が、何の支えもないのに宙に浮いていること。真っ赤に燃えている太陽が、地球からおどろくほどの距離にありながら、適度な温度を与えていること。しかもその距離が、少しでも遠かったら凍ってしまい、近かったら燃えてしまうといった均衡。

 「生命の誕生」、これが一番の不思議でした。父と母によって、自分が生まれてくるという、「無」が「有」を生み出すことが、微粒子のような原子が変異して出来上がるといった説には、私の頭はついていけなかったのです。そんな偶然はないからです。パソコンの部品を、洗濯機の中でかき回している間に、世界中の情報を手に入れ、自分のメッセージを地球の裏側のブラジルにも送れる機能を持った機械が出来上がるのと同じ偶然だと感じたからです。とてつもない「神秘」があること以外に、私の考えは答えを弾き出さないのです。そんな神秘の中で、母は私を身ごもり、この世へと産み出してくれたのです。そして「神秘」の秘訣を教えてくれたのが母でした。

 今日は、その私の母の95回目の誕生日です。大正6年3月31日に、島根県の出雲で誕生しました。生まれてすぐに幼女として出され、養父母の手で育てられた、と母から聞きました。相当のお転婆だったそうで、大きくなって「今市小町」と言われたほどだったと、母の友人に聴きました。東京で育った父の歯切れのいい「江戸弁」に惚れたと、母が言っていましたが、父もなかなかの好男子でしたから、気風や話し言葉だけではなかったかも知れません。4人の男の子をなした母は、兄弟姉妹がなく育った自分の孤独が、それで癒されたと言っていました。父を加えて5人の男の子の世話をして生きた人生だったといえるでしょうか。

 自動車事故、卵巣がんなどの長期入院を経て、それ以降は健康が支えられて今日を迎えています。自慢の母ですが、人としての弱さも併せ持っていたと思います。子である私にとっては容認の範囲内ですが。母からたくさんの愛を受け、教えを受け、励まされて、大きくしてもらいました。私の人生の危機に、何度も助けてもらったことを思い返しています。肺炎をなんども繰り返して、死線をさまよった私を、献身的に世話してくれました。学校を休んで寝ていると、お昼に決まって、引き売りの栗山のおじさんから、兄や弟には内緒で、「鮪の刺身」を買って食べさせてくれました。

 社会に出て、未熟で短絡的な私が上司につまずくと、母の「愛読書」を開いて諭してくれました。母の青春期に歌われていた流行歌だって教えてくれました。その歌を、『あきらめましょうと・・・』と、私の前で歌って、教えてくれたのは意外でした。でも人間味があふれていて、母の別の面を見たようで、とても嬉しかったのです。ちょうど私が、女(ひと)を恋始めていた頃のことでした。

 今、母は入院中です。延命措置をせずに、自然死を迎える途上にあります。兄弟4人で決めたことなのです。この数週間、上の兄が毎日のように、母の様子を知らせてくれています。もう口からのものを受け付けないようです。目も閉じたままで、「愛読書」を読んだり、母の好きだった「歌」を歌い、呼びかけると、わずかに応答を示している、そう先程、兄が知らせてくれました。『誕生日まではむりかも・・・』と言われていた母が、95回目の誕生日を迎えたのです。

 頑張り屋で、泣き言ひとつ言わないで生きてきた強さを、人生のターミナルで表しているのでしょうか。母は、『女の子がいたら、と思ったことがあったわ!』と一度、私に言ったことがあります。それこそが母の本音だったのかも知れません。私は、母のために、娘になりたかったのですが、なる素質がありませんでした。出雲ではなく、「永遠の故郷」に、今まさに、帰ろうとしています。私はこれを、「凱旋」と呼びたいのです。人生の様々な戦いを終えての「勝利者の帰還」のことです。入院中の母に、ここ華南の地からこう言います。

 『お母さん、ほんとうにありがとうございました!俺のお母さんでいてくれてありがとう!喜びの国にお帰りください!14歳の時に出会った「造物主」のみもとで安らいでください!きっとまたお会いしましょうね。さようなら!』        

2012年3月31日、お母さんの三男より

(写真上は、出雲市の春の花「桜」、下は、出雲市の玄関「JR出雲駅」です)

しあわせ

      『過去に目を閉ざす者は、現代にも目を閉ざすことになる。』  

                 ヴァインゼッカー/敗戦40周年記念演説から

 私たちの国の過去に、思いを向けます時に、その時代の動きを冷静に捉えられないで、舵取りを誤ってしまったことが多くありました。時代の趨勢に抗しきれずに、正義を貫くことが出来ずに、不本意な決断を下した政治的判断がありました。隣国の国境を軍靴で侵して、多くの尊い命を奪った戦争の悲惨な過去があります。しかし、打たれて、何もかも失って、裸になって初めて自由や平和の尊さ、そして生きていることの喜びを知らされたのです。それで、本来の日本と日本人のうちに継承されてきた優れた面が、生かされる時代がやってきたのではないでしょうか。過ちは猛省し、二度と過ちを侵さない決意をして起ち上がったのです。奮起した父や母の時代に、先人から受け継いだ計り知れない知的、そして自然的な財産に感謝して日本再生に取り組み始めたのです

 私は、父と母によって、この世に生を受け、日本に生まれた幸福を味わっている一人であります。こんなに美しい国を他に知りません。これまで「ことば」に仕えて生きてきて、6年前からは、「日本語」を教える機会を、ここ中国の華南の地で得て、改めて感じるのは、言語が、与えらるのか、人の手で造つくられるのか知りませんが、情緒あふれる「詩的言語」、「肌で感じられる国語」なのです。書かれ話される日本語は、極めて「美しい」のです。人の心の知情意を表す言語は、あくまでも「やさしい」のです。そのようなことを感じて感謝が尽きません。

 さらに、自然景観の美しい国々は、地球上に多くありますが、このように「均衡のとれた美しさ」は他に類をみません。この日本の美しさを表現するのに、一番ふさわしいことばがあります。自然は「山紫水明」です。山や川や海、畑や田圃や里山、春を告げるひばりや秋を知らせる鈴虫などの小動物、これらを守り保ってきました。その恩恵は計り知れないものがあります。コツコツと耕した畑からは、私たちの命を支える食物が芽生え、次の収穫までの日々には、細かな配慮を施してきました。緑の原野を流れ下る川の水は、近海に滋養を供給し、魚や海藻を養いました。そこで収穫された水産物は、私たちの食卓を賑やかにしてくれ、骨を強くしてくれました。決して乱獲することなく海産資源を護ってきたのです。優れた民族性を表すためには「廉直勤勉」があります。地を耕し、木を切り、魚を採り、布を紡ぎ、道具をこしらえ、書を教え、国や村を守り、様々に労している人たちは、実に勤勉で廉直(私欲がなく正直なこと)なのです。

 遙かなる歴史をいうのには「悠久不変」です。この地に、人が住み始めてから、文字で記録を残す術を知らなかった時代から、語り継がれてきた人の営みは悠久です。文字を教えて頂いてからは、様々な文芸が生まれて参りました。三十一文字に思いを表現する詩は、読んでも聞いても何と心地よいことでしょうか。様々な困難な壮絶な中を過ぎるも、穏やかな日々が戻ってきて不変でした。人との関わりをいうのに「謙譲」があります。他に譲る心がけは、覇権を競った時代の只中でさえ、人々の間でも行なれてきました。自己に勝る他を尊んできたのです。日常の所作を言うのは「隣りの三寸」です。他への親切な行為は程よくなされてきました、少なからず多からず、ちょうどの愛や善意が与えられ、貰われて、それが繰り返されてきたのです。将来を思う「進取」はどうでしょうか。保守的に見えますが、「工夫」と「改良」は、あらゆる営みの中でなされてきました。より好いもの、より善い人、より良い国を求めて、次々と目標を高めて、それに向かって鋭意努力してきたのです。

 今こそ自信喪失してしまった日本人が、その自信を取り戻し、誇りを持ち、この国に生まれた幸せを再確認すべき時に来ていると思うのです。私の愛読書には、「すべてのことに感謝しなさい」とあります。山から駆け降りたら海に入り込んでしまうような、窮屈な国に生まれたといって、落胆したり言い訳してはいけません。そのような国だからこそ、頂いた自然を大事に思い、長い年月、「美しさ」を培いあふれさせたのです。自然の猛威にさらされても、回復する遡及力が、この国の自然の中に内蔵されているのです。だから、私は、この国に生まれたことに感謝して、この時代の只中を、自然の摂理に従って生き、この地球を共有するすべての国で、ご自分の国の美しさを慕う人々と共に、幸福を噛みしめようと願うのであります。

(写真は、ブログ「立山に行こう!」から日本の渓谷美です)

一個の人

 

   自分は一個の人間でありたい。
   誰にも利用されない
   誰にも頭をさげない
   一個の人間でありたい。
   他人を利用したり
   他人をいびつにしたりしない
   そのかわり自分もいびつにされない
   一個の人間でありたい。


   自分の最も深い泉から
   最も新鮮な
   生命の泉をくみとる
   一個の人間でありたい。
   誰もが見て
   これでこそ人間だと思う
   一個の人間でありたい。
   一個の人間は
   一個の人間でいいのではないか
   一個の人間
     
   独立人同志が
   愛しあい、尊敬しあい、力をあわせる。
   それは実に美しいことだ。
   だが他人を利用して得をしようとするものは、いかに醜いか。
   その醜さを本当に知るものが一個の人間。

 1936年に、武者小路実篤が詠んだ「一個の人間」の詩です。1936年といえば、2月に「二二六事件勃発」、3月に「廣田弘毅内閣成立」、4月に「国名を大日本帝国に改める」、5月に「国会で斉藤隆夫の粛軍演説」、8月の「ベルリンオリンピック開催」などのあった年です。五十を過ぎたほどの年齢で作った詩ですが、人を「一人」と言わないで「一個」と表現するところに、何か作者の特別な思いがあるのでしょうか。

 人には「尊厳」があります。それは生まれや年齢、職業や仕事、社会的身分や健康状態には関係のない、「人の価値」のことです。私を教えてくれた先生が、「びわこ学園」を見学して帰ってきた時の講義で、まだ三十代の顔を紅潮させながら、『重度の障碍を持った方を、お湯に入れたり、日向で日光浴をさせると、普段、何の表情も表さないのに、何ともいえないうれしそうなか顔を見せるんだ!』と話したのです。新しい発見をして帰ってきて興奮しているようでした。きっと先生の人生観とか人間観を変えてしまうような、出来事だったのかも知れません。一見して醜く見え、全く価値の無さそうに忘れ去られ、お荷物のようにしか扱われない人のうちに、「可能性」があるんだと教えてくれたのです。人は生きている限り、計り知れない「可能性」があるという人間観に、私も共感したのです。

 愛読書の中に、『・・・あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛してる』と書いてあります。ダイヤモンドや瑪瑙よりも価値があって、地球よりも重いのだというのです。市長や総理や大統領のように尊いのだということです。また、愛される価値などないのに、ありのままで、『愛している』と言ってくれるのです。「一個の人」の価値と尊さと愛らしさのことです。2012323日、私も「一個の人」でありたい、「一個のガラスのような人」でありたい、そう今晩思うのです。  

家族っていいな!

 最近の街中の様子に変化が見られます。「三寒四温」は冬の「季語」なのですが、こちらに戻ってきてからの天気は、ずっと曇天で雨の日が続いていました。この1週間ほど、それが嘘のように暖かくなってきています。暦の上では、「春分の日」も過ぎましたから、実に自然界は正直なことがわかります。いつものようにセーターを来て、ウインドブレーカーを羽織って、愛妻と一緒に、歩いて10分ほどのところに出来たショッピングモールの中の「回転寿司」に行ってきました。そういえば、家でばかり食事をしていて、今年初めての二人の外食でした。

 『おいしかった!』のです。〈にぎり一皿二個・一貫12元〉ですから、他の食べ物に比べたら、だいぶ高い、昼にひとりで食べる「ルウミエン」は最近値上げされても7元ですから、やはり高いのですが。値段よりも鮮度と旨さを今日は求めたのです。二軒同じような日本料理店が並んでいたので、ちょっと迷いましたが、『自分で本を読んだりして学びました!』という日本語をしゃべる22歳の店員さんが、声をかけてくれたので、そちらに入ったのです。そこは、北京、広州、南京などにもあるチェーン店で、中国に来て初めて、旨い〈まぐろの握り〉を食べたのです。外資系のホテルにも日本食を食べさせてくれる店があって、2度ほどご招待を受けて入ったのですが、鮭の寿司がほとんどで、ネタも薄くて満足がなかったのですが、今日は違っていました。上客に見えたのでしょうか、「鮭の兜焼き」「フルーツセット」を、『サーヴィスです!』と言って、運んでくれたのが嬉しくて、さらに満足度がましたのです。

 この1月の帰国中に、会社の会議で日本に出張してきた長女と、仕事を終えた次男と新宿西口で落ちあって、喫茶店に入り、牛タン焼肉レストランと回転寿司をはしごしたのですが、あれ以来の寿司でした。家内は長女と一緒に美味しいものを食べていたのでしょうけど、やはり、日本で食べる寿司というのは、ひと味違うようです。ところで、今日のお寿司は、それに遜色ないほどでした。ちょっと誉め過ぎでしょうか。今日の外食は、妻の義兄との思い出話を聞きなが、懐かしく偲ぶ食事会にしたのです。「偲ぶ」を、goo辞書でみますと、『過ぎ去った物事や遠く離れている人・所などを懐かしい気持ちで思い出す。懐しむ。「故郷を―・ぶ」「先師を―・ぶ」 』とあります。なぜか妻は悲しがらないのです。肉親の死に直面させられると、通常、人は「打撃」「否認」「パニック」「怒り」といったプロセスを通過すると、上智大学で「死の準備教育」を教しえてくれたデーケン氏が言われたのですが、そういったところを見せないのです。妻は、一度兄を訪ねてブラジルに行ったことがありました。自分の鯉を飼っている大きな池の回りを、時間をかけて二人でそぞろ歩きながら、『やはり家族っていいなあ!』と、久しぶりの妹に再会した思いを、そう義兄が漏らしたのだそうです。

 人間って、亡くなると消えてしまうのでしょうか。お墓の中で休むのでしょうか。仏教ですと仏壇の中にいるのでしょうか。三途の川を渡って、彼の地に行くのでしょうか。それとも天国に行くのでしょうか。妻の確信は、『天の故郷に帰ったのです!』で、「再会」の約束があるのを確信しているのです。男系の家族が、召されていってしまい、家内の母親と3人の姉妹が残されて、それぞれに、あちらこちらと別れ住んでいるのです。悲しみを超えさせてくれる「希望」が、妻の心に宿っているのが確認されます。『〈死〉の答えを持っているのはいいな!』と思わされた次第です。寿司屋を出て買い物をして外に出ましたら、セーター不要、ブレーカ不要、若者はTシャツでした。もう『日本の高知では、桜が開花した!』と便りのあった、春三月の下旬であります。

豊島園にて

 東京には、「後楽園」「花やしき」「豊島園」「東京ドームアトラクション(旧後楽園)」「よみうりランド」「東京サマーランド」などがあり、近県にも、「東京ディズニーリゾート」「西武園」「富士急ハイランド」など、たくさんの遊園地(今ではアミューズメンドパークというのでしょうか)があります。やはり圧巻なのは、浦安に1983年4月に開園した、「東京ディズニーランド」でしょうか。早起きをさせた子どもたちを乗せて、開園時間前に着いてしまったことがなんどもありました。高い入場券を払わなければならなくて、財布の底を叩いて払いましたが、子どもたちの喜びようを見て、『決して高くないな!』と思わされ、くり返し連れて行くことになってしまいました。

 私は子どものころにも、子供たちが与えられてからも、地理的な位置関係からでしょうか、「豊島園」には、一度も遊びに行ったことはないのです。近くに同じような遊園地があったからかも知れません。西武線や東武東上線沿線に育った子どもたちにとっては、この遊園地は、思いっきり楽しませもらったようです。家人の家族は、西武線沿線に住んでいた関係上、ここに遊びに行ったことがあるのだそうです。上の兄が、弟と二人の妹を連れて、出かけたときの話の顛末を、家人が、時々話てくれます。優しいお兄さんだったようで、弟妹を一日楽しませようと、彼らを引き連れて「豊島園」で遊び、「かき氷」を食べさせようと思ったのです。注文をして、いざ支払おうとしましたら、お金が足りなくて払えなかったのです。それを払うと帰りの電車賃がなくなってしまう、おばさんには叱られる、『どうしよう?』、涙をいっぱいためて戸惑っていた義兄を、家人は覚えているのだそうです。新聞配達をしたり、自分で鶏を飼って、卵を近所に売り歩いては小遣いを稼いでいたのですから、きちんとした子どもだったのです。その日、電車賃、かき氷代、その4人分を用意して家を出たのにです。

 ところが、遊園地のような場所は、「特別料金」が設定されていて、『えっ、ラーメンって、こんなに高かったっけ!』と驚いたことが、どなたにもあるのではないでしょうか。街場のかき氷代で計算したので、ぎりぎりのお金を握って飛び出した、小学校6年生に義兄には、そこまでの判断ができてなかったわけです。それで、すごく叱られた、これが理由でした。新聞や卵で稼いだお金を、お母さんは、困っている人に上げてしまったことも、家人がしてくれたことがあります。お父さんからもらったお金でではなく、自分の労働で得たお金である、その意味が分かったら、あのおばさんだって、『いいよ、安くしとくよ。さあ食べな!』と言ってくれたかも知れませんね。義兄にとっては、厳しい実社会の現実に直面させられた、貴重な体験だったのではないでしょうか。

 一般的な日本の家庭が中流になるには、まだまだ年月が必要な時期、自分の手で得た報酬で、弟妹を楽しませようとは、素晴らしい「心意気」ではないでしょうか。その「心意気」と「辛い経験」を秘めて、横浜の港からブラジルのサントスに、『一旗揚げて、故郷に錦を飾ろう!』と勇んで、1950年代の末に出かけたのです。出来た義兄で、いつも級長をしていたのですから、大学にだって行きたかったようですが、両親には何一つ言うことなしの移民の決断だったようです。『そのかき氷はどうしたの?』と私が聞いたら、『食べなかった!』と家人が答えていました。そんな懐かしい思い出話が山のようにあるのだそうです。今しがた、ブラジルに家人が電話をしていました。義姉に『兄をありがとう!』『ご苦労様!』『お元気で!』『ゆっくりしてください!』と伝えるためにです。

(写真は、「としまえん」の入り口付近です)