1974年の夏に、私は、一人の同僚と韓国のソウルを訪ねました。企業視察とコンベンションへの参加のためでした。これが初めての韓国訪問でしたが、夕方になると明かりが少なく、実に薄暗い街だったのです。女性は、ほとんどがズボンを履き、地味な色彩の服を着ていました。食堂も暗くて、不衛生な感じがして、東京とは比べられない街の様子に、『朝鮮戦争の影響がまだ残ってるに違いない!』と思わさせられたのでした。夜間には灯火管制がひかれ、午後11時以降の外出の禁止令も出ていました。というのは、38度線を境に、北朝鮮との戦時下にあったからです。40年近く前のソウルは、そのような社会情況だったのです。
私たちは、ホテルではなく、ソウルの下町にあった「ユースホステル」に宿をとり、全く読めないハングで書かれたバスの表示の中の数字の部分を頼りに、バスを利用していました。若い方には、英語が通じたのですが。訪問していた大きな会社の会議室にいた時に、『日本人が、朴大統領を銃撃した模様だ!』とのニュースが入ってきたのです。その時の、会議室内の騒然さは大変なものがありました。戦時下の隣国にいて、日本人が韓国の大統領をピストルで打ち、大統領夫人が即死されたのです。あれほどの緊張感を覚えたことは、それまでありませんでした。騒動や騒擾になって、それに巻き込まれたらいのちも危ういのではないかと感じたほどでした。
そんな中で、銃撃犯の実体が明らかになり、〈在日朝鮮人(北朝鮮系の人物)〉だということが明らかになったのです。それで胸をなでおりしたのですが、まもなく日本では、長女が生まれようとしていましたし、家族のことを考えて、『帰れるだろうか?』と思っていましたので、ホッとしたのを覚えています。
この一週間、この国の騒動のニュースを耳にした時、1974年のソウルでの経験が蘇ってきたのです。あの時ほどの緊張感はないのですが、世界中で起こっているデモの騒動のニュースを見てきている私は、とても心配にあってしまったのです。初めは、遊びのような軽い気持ちでデモに参加した人も多かったに違いありません。しかし、少々の怒りに,わずかな油が注がれて、収集のつかない情況になっていくような危機感を感じたのです。叫び声が上り、器物を破壊して、次々に波状攻撃のように、街の中の獲物を求めて、破壊していく大波が起こるような気がしたわけです。制御不能なうねりが人を突き動かしていくからです。
こうやって失われていく時間や物の損失というのは、実に大きなものがあるのではないでしょうか。それよりももっと深刻なのは、傷つけられた中国のみなさんの〈尊厳〉や〈面子〉ではないでしょうか。40年間、友好の努力を重ねてきた方々の気概を、全く打ち壊してしまうのでしょうか。ということは、日本の侵略行為が、どれほどのものがあったのかということを、私たちは真摯に思い返して、中国のみなさんを理解して、行動しなければならないと思うのです。
『力は弱いですけど、何かがあったら助けますから、ご連絡下さい!』とメールを打ってきてくれた卒業生がおり、メールや電話で、『大丈夫ですか!』と言って、気遣って下さり、今回のことを謝罪して下さる方々もおいでです。天津で中国語を教えてくださった先生からも、丁重な謝罪がありました。〈群集心理〉で煽られて、在華邦人や日系企業に被害が及ばないことを切望している、〈柳条湖事件81周年〉の朝であります。
(写真は、1931年9月18日、「柳条湖事件」が勃発して間もないころの現場の写真です)