ケビン

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 “ ケビン “ 、家内が朝の散歩で、出会う犬の名前です。ケビンから直接名前を家内が聞いたわけではなく、飼い主のお爺ちゃんから聞いたのです。左右の目の色が違った〈ガチャ目/視力や目の向きに違いをいう言葉ですが〉なのだそうです。雨降りに、散歩を嫌う点では、ケビンと家内は共通しています。

 道の向う側を歩いてくると、おじいちゃんを引きずって道を渡って、家内にすり寄ってくる様です。それで、家内は頭を撫ぜて、“ ソシアル・ディスタンス ” を縮めてしまうのです。犬を飼ったことが、家内にもあるので、犬好きなのです。ところが、甲州街道で、轢死をした悲しい過去があるので、飼おうと家内が言ったことはありませんが、この両者は相通ずるところがありそうです。

 そういえば、父が弟のために、「甲斐犬」という優れた猟犬をもらって帰ってきたことがありました。血統と言うのは驚くべきものがあるのです。山奥から、東京都下の八王子に越してきた時にも、その血は争えず、近所の養鶏場から、ご主人のために咥えて帰ってくるのです。羽が飛び散って、犯犬を、何処で飼っているかが一目瞭然でした。ある時は、養豚場から、豚の子を持ち帰ってきたことがありました。

 それに困った父は、立川の米軍飛行場脇のフェンスに繋いで、捨てざるを得ませんでした。気性の荒い猟犬は、貰い手がありませんし、当時は、保護センターもなかった時代で、苦渋の決定でした。ところが3日後に、“ ラッキー "は帰宅してきたのです。それでも飼いきれず、今度は車で、東京の神宮に捨てたのです。それっきりでした。

 犬好きな父は、弟のために、また飼い始めたのです。” 力(りき)“ と言う名にした秋田犬でした。近所に住んでいた子どもに、仔犬の力は、叩かれたり、ひどい目にあって、子ども恐怖症になっていました。引っ越した先の犬小屋に、隣の女の子が、頭を撫ぜようとして近づいたのです。恐怖心からでしょうか、自己防衛でしょうか、噛んでしまったのです。

 番犬や愛玩は、人懐こい犬はなんとも可愛いものです。野性を露わにし、自分を守ろうとする本能に出会い、それは飼い犬歴の長い父の家での悲しい出来事でした。このケビンですが、散歩中に、ある家のま前
で動かなかったそうです。家内が理由を聞くと、もちろんお爺ちゃんにです。散歩中に可愛がってくれた方が、病気で不在だったのが、癒えたのでしょうか、帰宅されていたのだそうです。それが分かって、ガンとして動かないでいた様です。

 散歩に行くのか、ケビンに会いに行くのか、いえその両方でしょう、家内は晴れていると出かけて、雑草の中に咲く野花を積んで帰ってきています。今朝も会ったそうです。

(〈フリー素材〉の秋田犬です)

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望み

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 ユダヤの古典に、「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。」とあります。

 毎朝、カーテンを開ける楽しみは、朝の清新な空気を吸うためだけではありません。家内が植えた鉢から芽を出して成長していく朝顔の様子を眺める《喜び》なのです。最初の開花の朝は、何とも言えない喜びに満たされました。今朝も、ベランダに五輪の開花でした。

 子どもたちが生まれた時の喜びは、朝顔の開花とは違い、責任の重さに、《創造的な喜び》といった方がよさそうですが、何とも歯がゆくって、重たい《喜び》でした。まだ母親も父親となった私も、力に溢れた若さの中にありました。父と母から命を受け継ぎ、その命から、新しい世代の命が誕生していったのです。

 どう親業をしていくべきなのかの第一点は、この子たちを食べさせていくために働くことでした。蜜蜂が飛び交って、花の蜜を集めて、巣に戻る様にしてでした。見守りもあったでしょうか。健康である様にと親として願いもしました。成長していくにつれて、躾とか教育の責任もありました。社会性も身につけさせていかなければなりません。

 やがて子どもたちは独立していき、結婚して、所帯を持っていきます。親業を終えた様でも、別の段階への親子の関係が移っていきます。父がした様に、自分がし、家内も、自分の母親がした様に、自分もしていくのでした。役割分担の連鎖なのでしょうか。

 《木に望みがある》とすると、なおさらのこと、人には絶大な《望み》があるのです。その《望み》を継承して、次の世代に繋げていく責任も、親にはあるわけです。もちろん人は複雑です。自らの《命》を、造物主の意思に反して、操作したり、変えたり、終わらせたりしてしまいます。木は死んでも、水分をえるなら、再生していきますが、人の命は、生殖以外の再生はありません。それ以外の化学的な方法は冒涜です。

 ベランダの朝顔は、咲き終えると、花の下でタネを育てていきます。忠実な事後責任を果たすのです。次の世代を残すためです。人は命の継承だけではなく、無形な《精神的な継承》もあるのでしょう。私を教えてくださった恩師たちのことを、よく思い出します。彼らにも恩師があって、また後進を育てるのです。また読んだ本の記述も思い起こします。古代の書に、多くのことを教えられてきて、今もなお教えられるのです。

 今日も、木にだけではなく、人にも《望み》があると教えられています。でも人の現実は、〈絶望〉や〈失望〉がみられます。彼らが、《望みに溢れて生きる人》と出会うなら、《望み》を再び持つことができるでしょうか。家内は、目の不自由なピアニスト、ショパンやベートウヴェンを奏でる辻井伸行さんのピアノ演奏に、最近、感銘を受けています。

 二十ヶ月になろうとしている闘病の中で、家内は、《古の書》を読み、褒め歌を歌い、辻井伸行のショパンを聞いて、《望み》を持ち続けています。また新コロナウイルスの猛威が止みません。いい知れない感染の恐れが蔓延し、地上を不安で満たしています。そん中で、《人には望みがある》と高らかに語りかけてくださっているのです。生きている限り、《人には望みがある》からです。

(〈フリー素材〉の枯木です)

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北方領土

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 樺太も含めて、「北方四島の領土返還」は、この島々を故郷とする人たちの悲願です。網走から、海を隔てて、歯舞諸島を眺めたのは、高二の修学旅行の時でした。その島々から、アラスカまで続くのが、アリュシャン列島(千島列島)です。行ったことのない、北端の島々ですが、いつか行きたいと思っていた北の果てなのです。その島々を歌った「アリュウシャン小唄」がありますが、島民のみなさんんは、どんな思いでお聞きになることでしょうか。

逢わぬ先から お別れが
待っていました 北の町
行かなきゃならない アリューシャン
行かせたくない 人なのに

どうせ私は にしん場の
街の夜風に 咲いた花
こんどあなたの 帰るまで
咲いているやら いないやら

灯り凍てつく ノサップの
海を北へと急ぐ船
男なりゃこそ唇に
含む笑顔も辛かろう

雪に埋もれた歯舞にゃ
死んだ親御の墓もある
飲ませてやりたや好きな酒
あなた代わりに注がせてね
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 知人に、稚内から続く樺太の出身の方がおいででした。太平洋戦争末期に、攻めて来たソ連軍の攻勢を避けて、離島して本土に逃げたのだそうです。どんな生活が樺太にはあったのでしょうか。朔北(さくほく)の凍てつく島とは、どんな寒さなのでしょうか。

 そのアリュウシャン列島からの渡来は証明されていませんが、樺太を経て、アジア大陸から渡来したであろう北方人たちが、持ち来ったのが、「オホーツク文明」だったそうです。黒龍江(アムール河)やイルクーツク辺りから渡来したのだと言われています。その文明の遺跡が、北海道には点在していています。網走のモヨロ遺跡が有名で、一度は訪ねたいのです。

 かつてロシア(旧ソ連)が実効支配した南樺太の豊原には、18万人もの人がおり、1959年に消滅した歯舞の村には、6000人ほどの人口があったのですから、悲願のままでは、敗戦国の悲哀の旧住民や、その子や孫たちには、やりきれないことでしょう。こんな行きたがり屋の私の願いは叶うのでしょうか。それに寒がり屋でもありますので難しそうでもあります。

(歯舞諸島の多楽島小学校の昭和12年の運動会の様子です)

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大正浪漫

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 平塚雷鳥の呼びかけで始まった「青鞜運動」を取り上げて、一年間教えたことがありました。『原始、女性は太陽であった!』と言う標語を掲げて、文書活動を始めたのが、明治44年でした。翌年は、大正元年(明治45年7月30日明治天皇逝去により元号がかわりました)になり、「大正浪漫」の先駆けとなった、女権を主張した女性解放運動でした。

 歴史学習のつもりでしたが、女子高の最終学年での担当したゼミの学習主題でしたから、けっこう反響がありました。『女三階に家無し!』とか「三従の教え」とか言われてきた女性が、自分たちの手で握った筆で、主張し始めたわけです。運動自体は、始めた女性陣の恋愛問題などがあって、大きなうねりにはならなかったのですが、5年後には、終わっています。しかし新しい「大正」に、一矢(いっし)を報いることができた様です。

 そんな意味で、「大正浪漫」とか「大正デモクラシー」とか言われて、明治でも、昭和でもない時代の存在意義があった様です。普通選挙が行われ、中産階級が起こり始め、明治にはなかった価値観で、教育が行われ始め、文学が著わされ、政治が行われていったのです。

 「赤い鳥」に代表される児童文学も盛んになり始め、大衆文化が起こり、新聞も多く発行されていきます。大正5年ごろに、作詞が林古渓、作曲が成田為三で「浜辺の歌」が誕生しています。

あした浜辺を さまよえば
昔のことぞ しのばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も 貝の色も

ゆうべ浜辺を もとおれば
昔の人ぞ しのばるる
寄する波よ かえす波よ
月の色も 星のかげも

はやちたちまち 波を吹き
赤裳(あかも)のすそぞ ぬれひじし
病みし我は すべていえて
浜の真砂(まさご) まなごいまは

 昭和に入らないとラジオ放送が始まりませんから、明治42年に、蓄音機の製造会社が、日本でも誕生していますので、大正期には、蓄音機が一般化して、庶民が耳を傾けながら、この「浜辺の歌」なども聞いたかも知れません。エジソンが発明した文明機器の普及は、驚くほどの早さがあってなされたことでしょう。
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 個人意識が強くなっていった時代でもあった様です。絶対主義、軍国主義が強まる前の段階で、社会主義や非戦論も公にできる自由があったそうです。夢とか理想が掲げられ、文芸が盛んに起こっていきます。

 中学の担任が、社会科の教師で、いろいろなことを教えて戴きました。師は、『日本の良い時代は、鎌倉時代と・・・大正時代です!』と教えてくれましたので、素直にそう信じて受け入れ、今なお、そうだと信じ続けているのです。

 父は、明治43年(1910年)に生まれ、子ども時代を、「大正期」に送っています。その「浜辺の歌」も聞いたり、歌ったりしたかも知れません。旧制の県立中学と、東京市内の私立中学校で、青年期初期に学びをし、秋田鉱業専門学校で学んで、鉱山技師として生きた人でした。青少年期を、大正に送ったことになります。

 隣国の中国で「辛亥革命」が起こり、欧州では、「第一次世界大戦」が勃発し、最初の共産主義国家、ソヴィエト連邦が誕生しています。内には、「関東大震災」や「コレラ流行」などもあって、短くも多難な国家的、国際的状況下の時代でした。でも、昭和や平成や令和の時代になかった、初期的な自由主義のホンノリ、ホンワカとした様な雰囲気がしてくるのですが。今に至る、人気の全国中等学校野球大会(甲子園大会)や箱根駅伝などが始まっています。父や母が生きていたら、『どんな時代だったのですか?」』と聞いてみたかったと、思うのです。子どもなりに、何か感じていたことでしょう。

(雑誌「青鞜」、全国中等学校野球大会の第一回目の始球式です)

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鮮やか

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実の綺麗で鮮やかな色をたたえた朝顔です。雨続きを跳ね返して咲いた、《花気》のある朝顔です。世情は不安で溢れていますが、咲く花に励まされます。短い夏休みに入ったそうです。好い一週間、一日をお過ごしください。毎日、夏休みのジイジとバアバです。

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「ものの見方について」

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「ものの見方について(角川文庫/笠信太郎著)」という本が、昭和32年8月30日に発行されました。私たちの担任は、発刊したばかりのこの本を買って読む様に、勧めました。本屋に跳んで行って、私は買ったのです。福岡の修猷館から東京商科大学(現一橋大学)、大原社会問題研究所、朝日新聞に勤め、49歳で論説主幹に就き、退社するまで、それを務めた人で、「天声人語」も書き続けた人でした。

 その笠氏が、ドイツや、欧州諸国に滞在した経験も踏まえて、『西欧になにを学ぶか。』という目的で、この本を書いたのです。買って読んでも難しくて、戦後初等教育を受け終わったばかりの12歳の私には、歯が立ちませんでした。無くしては買って、先月、古書店からまた買ったのです。「九州大学文学部社会学専攻」の「◯◯蔵書」と印が押された古本で、よく読み込んだものです。

 この九大の学生が買い求めて読んだ頃に、中1の私が読んでいたのだと思い、『けっこう担任は、背伸びをさせようとしたんだな!』と、60年以上も前のことを思ってみたのです。何か、懐かしい友に再会した様で、なんとも言えませんでした。多分、この本から始まって、〈本の虫〉になっていたのだと思います。先日は、ある本の最後の頁の内容を思い出したのです。はっきりと読みたくなって、ネットのサイトにある古書販売から、その一冊を買ったのです。その箇所を読んだら、懐かしい恋人に、もう一度出会えた様でした。二十代後半に出会った本だったからです。

 さて、「ものの見方について」ですが、冒頭に、「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。そして、スペイン人は、走ってしまった後で考える。」、これは、国際連盟の事務局長をしたマドリヤーガ(スペイン人の外交官)が言ったことだそうです。それに、笠氏は、「ドイツ人もどこかフランス人に似ていて、考えた後で歩き出す、といった部類に属する。」と付け加えています。

 『では、日本人はどうするのだろう?』、そう、私は思ったのです。その結論を知りたくて、読み進めたのを覚えています。日本人は、自分の〈日本人たること〉をはっきりさせたかったのだろうと思うのですが、明治以降、多くの「日本人論」が著されています。『代表的日本人(内村鑑三著)』、『武士道(新渡戸稲造著)』、『日本風景論(志賀重昂著)』、『茶の本(岡倉天心著)』、『風土(和辻哲郎著)』、『「甘え」の構造(土居健郎著)』、などが書かれています。私も読んだ本です。

 どうも、『自分は誰か?』、『何処から来て、何処へ行くのか?』の答えを得ないと落ち着かないのが、日本人なのかも知れません。そうでないと、不安に駆られてしまうからです。4人の私たちの子が、新しくできた《実家》に、やって来ること、来たいとの願いに、両親に会って、《子たること》を確かめたいのも、一つにはあるのかなって思ってしまいます。いや、単に会いたいからでしょうか。

 『・・・血気にはやって自分たちが現にやっていることの意味や重みを忘れて突っ走ってしまうようなところは、フランス人に似・・・「理論」といったものにはずいぶん引きずり廻されたというような点では、ドイツ人に似て・・・』と、日本人について、表て向きなことを言ってから、イギリス人、フランス人、ドイツ人、そして日本人を具体的に述べて、ご自分の論を進めています。60年以上前の本ですが、自分を知るのには、日本人であることを知るのには、今でも一読に値します。

 〈日本人であること〉は、私にとって、今になると、もう全くというほどに拘わらなくなっています。《一人の人としてどうであったか》の方が大切になってしまったからです。しかも〈何をしたか〉よりも、《どの様に人や物事と対峙したか》の方が重要に思うのです。そして正しくものを見、判断したかを自分に問う今でもあります。

(〈フリー素材〉でイギリス、フランス、ドイツのパン、そして田辺玄平の発案のコッペパンです)

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忘却

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 『忘却とは忘れ去ることなり。』、当たり前のことを言って、ラジオ放送で人気を博した、ラジオドラマがありました。それが、一世を風靡した「君の名は」です。この番組放送のはじめの言葉が、冒頭の言葉でした。1952〜1954年にかけて放送された時、銭湯の女湯が空になるほど、女性の人気を得た番組でした。

 当時、男女の恋愛、すれ違いの話に、強烈な思い入れが、自分にあったら、今頃、芥川賞作家にでもなれたのでしょうけど、8歳の晩生(おくて)の男の子には、馬に説教と同じで、関心を向けることなどありませんでした。母が聞き入っていたかの記憶がありませんから、他のことに母は忙しくして、珍しく無関心の人だったのだろうと思います。

 普通、人間は、辛い事は忘れる様にできているのだそうです。あまりにも悲しく辛いことを思い続けて、精神的にも肉体的にも破綻してしまわない様に、人の心が作られているのです。何があっても、よく寝て、スッキリして生きる方が得策です。とくに日本人の特性が、これだそうです。でも忘れてはいけないことがあります。

 歴史学習は、誰もが必要としていることです。今を理解するため、将来を展望するためには、時の流れの始まりや経過を知る必要があります。歴史学者のトインビーは、『人間とは歴史に学ばない生き物である。現代の諸悪は人間自身が招いたものであり、したがって、人間自らが克服しなければならないものなのです。』と言っています。

 〈克服しなければならない過去〉があると言ってるのでしょう。明治維新以降の「富国強兵」の急務のために、無理な背伸びをし続けて来た結果、国家としての大失敗を侵して、当然の様に、戦に負けた過去が、私たちに国にあります。相手国への賠償では済まない、決定的な反省がなされるべきでしたが、ほとんど曖昧に終わりっています。

 また、歴史学習が曖昧だったので、戦争を知らない世代のこの国の指導者たちが、危うい発言を繰り返して来ています。父や祖父の時代の負の遺産を、負わないからです。原子爆弾の投下や焼夷弾の爆撃を喫した〈被害者意識」だけが残され、侵略した国々での蛮行を忘れてしまっています。
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 とくに長崎市民にとっては、もう一つの被曝都市の第二の座に追いやられ、8月9日が忘れられつつあることに、いい知れない悔しさがあるのだそうです。この日を、祭日、祝日にしようとする動きの中に、決して忘れては行けない《歴史的記念日》が、〈忘却〉されそうになりました。けっきょく、8月11日を、『山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する!』との「山の日」が決まったのです。

 ” youtube “ の番組で、命を助けられたり、愛された過去を忘れない、犬や熊の話が取り上げられていて、〈忘却の人間〉は恥ずかしくなってしまいます。忘れていいことと、決して忘れてはならないことがあるのを、もう一度立ち止まって整理する必要がありそうです。

 イスラエル人は、自分たちの民族史を、父親が子に教えるのだと、聞いたことがあります。被った悲劇を覚えるためではなく、民族の足跡をしっかり知って、今を知り、未来に思いを向けるためなのでしょう。歴史教育が半端だと、未来が見えません。

 へそ曲がりの若かった私は、どちらに行くか考えた末、長崎には行きましたが、広島には行きませんでした。

(〈フリー素材〉の長崎市内のめがね橋です)

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キュウリ

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 娘が起き忘れたキュウリの種を、家内がプランターに蒔いて、実がなりました。今朝のベランダは、今年一番のにぎやかさです。昨日、蜜蜂が、24も花をつけた枝に飛んできて、吸蜜していました。収穫の季節がベランダに来そうです。

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海の夏

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 太平洋岸の街に、グランパ(私と家内はジイジとバアバ)の家があって、次女の子たちが友人たちと訪ねて、サーフィングを楽しんでいる様子を撮った写真が送られて来ました。コロナ禍で、こんな時間を過ごせるのはいいですね。湘南海岸でも、どこの海浜でも、今年は遊泳禁止なのだそうですが、アメリカの西海岸は、個人や家族の決定に任されているのでしょうか。

 この西海岸の海は、水温が冷たくて、海水浴はできないのです。孫たちは、スイミングスーツ、サーフスーツを着ています。こんな夏の過ごし方はいいですね。以前訪ねた時に、この海岸のレストランに連れていってもらって、生牡蠣をご馳走になったことがありました。イタリア系の人たちは、牡蠣を生で食べるのですが、大勢の人が注文して、レモンのジュースをかけて食べていました。夏ではなかったと思います。

 牡蠣と言えば、華南の街に、「シャングリラホテル」があって、友人のご主人が政府の人で、招待券をもらったからと、そこのランチに連れていってくれたことがあり、生牡蠣があったのです。海鮮料理を生で食べる習慣が、中国のみなさんにはないのですが、大皿にいっぱい載っていて、思いっきり食べてしまいました。家内は食べなかったのですが、美味しかったのです。一度きりの華南の街の贅沢でした。

 奥まった関東平野の街で、手で触れる様に、日光の山並みがありまして、海のない県に住み始め、さらにコロナでの行動制限で、ほとんど電車に乗らなくなってしまった今、乗って、茨城か湘南の海に、海を見に、潮騒を聞きに、砂浜を裸足で歩きに行ってみたい思いがしてきます。マスクをしたら行けそうでしょうか。でも「自粛」の二文字が、目の前にちらつくのは時節柄仕方がなさそうです。

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五月雨

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 元禄2年(1689)5月28日(新暦7月14日)、出羽国山形の最上川を、芭蕉は、訪ねています。この川は、私たちの住む栃木の巴波川には比べられないほど、水量の多い河川で、同じように、「舟運」が盛んだったそうです。その中でも、芭蕉が逗留した、大石田村は、もっとも舟運の盛んな地だった様です。芭蕉は、次のような文を遺しています。

『最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の 滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし 。』

 その大石田村の一人の門人を訪ねた芭蕉が、そこで詠んだ句が残されており、とくに有名な句なのです。
   
   さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川

 旅の途中で詠んだこの句を、江戸に持ち帰ってから、「奥の細道」を編集した時には、次の様に改作している様です。

   五月雨をあつめて早し最上川

 中一で、「奥の細道」を学んだ時に、覚えさせられた句でした。水量が多い流れは、これまで幾度となく洪水をもたらせ、近郷近在の農家が難儀させられた川でした。今夏、梅雨前線の停滞で、九州から、ここ東北に至るまで、想像を絶するほどの雨量の雨を降らせ、ここ最上川は数箇所で決壊したそうです。それで、この句を思い出したのです。(☞五月雨〈さみだれ〉)

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 芭蕉が訪ねたのも、五月(新暦の七月)でしたから、梅雨の時期だったのでしょう、最上川の流れが、ずいぶんと早かったことが、詠み替えられているのです。その折に読んだ句が、もう二つ三つありますが、その一つは次の句でした。

   風の香も南に近し最上川

 父は、この山形県で仕事をしていたことがあったのですが、兄たちは、生活したことがあった様です。母も父も、山形でのことは、あまり語ったことがなかったのですが、どこかの鉱山の仕事を、若い父はしていたそうです。

 今回の洪水ですが、九州の被害は多大でした。年々歳歳、水の脅威が増し加わりそうで、先のことを考えてしまうと、悲観してしまいそうですが、この美しい列島が守られる様に願うばかりの七月の終わりです。
 
(最上川、大石田の花火大会です)

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