ふるさとの

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9月になったら、自然反応のように、歌の文句が口をついて出てきました。小学校の音楽の時間に歌った、「紅葉(もみじ)」です。作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一で、実に懐かしい歌ではないでしょうか。

1 秋の夕日に 照る山紅葉(もみじ)
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓(かえで)や蔦(つた)は
山のふもとの 裾模様(すそもよう)

2 渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
波にゆられて 離れて寄って
赤や黄色の 色さまざまに
水の上にも 織る錦(にしき)

作詞家の高野辰之は、長野県下水内郡豊田村(現中野市永江)の出身ですから、信州の秋の風景を詠んだのでしょう。私の故郷も、中部山岳の山の中で、栗の実を拾ったり、アケビを採ったり、柿をもいだり、魚影を追ったりする兄たちの<追っ掛け>をして、付いて回っていました。 枯れ草を踏みながら、山の中に入るのが楽しみでした。

この高野辰之は、「ふるさと」の作詞家でもあり、同じく曲も岡野貞一が付けています。

1 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷

2 如何にいます父母 恙なしや友がき
雨に風につけても 思いいずる故郷

3 こころざしをはたして いつの日にか帰らん
山はあおき故郷 水は清き故郷

もう二度と帰らない幼い日なのですが、思いの中には鮮明に残されているが不思議でなりません。何か一コマ一コマが残像のように蘇ってくるのです。山に基地(隠れ家)を作ったり、街中に越してからも、里山の近くの地面を掘って、地下基地を作ったりしたこともありました。防空壕のに中に入っては肝試しをしたでしょうか。

父や母の顔が思い出されてきます。去ってしまった過去なのに、どうして、こんなに記憶が鮮明なのでしょうか。肩車や羽交締め、キャチボールをしてくれた、若い父の姿が思い出されます。ちょっと気取った顔をして、街に買い物カゴを下げて出かけて行く母の姿も見えるようです。

やっぱり、故郷は、人との深い関わり、運命共同体の家族との生活の記憶なのでしょうか。両親がいて、兄たちや弟がいての故郷なのでしょう。上の兄も、もう二年ほどで《八十》ですから、光陰は、まさに矢の如しです。かく言う私も、その後を追っかけているわけです。あんなこと、こんなことがあっての今日なのです。

(久し振りに陽を浴びた朝顔の花です)

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サギソウ

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まるで「白鷺(しらさぎ)」が羽を広げて、飛ぶような形の花ですね。[HP里山を歩こう]が配信くださった「サギソウ」です。東広島市の湿地に咲いているのだそうです。近くには、豪雨の影響ようで山崩れの箇所も、そこかしこにあるようです。
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ただ美しさだけを見せるだけではなく、自然には、こんな破壊する面もあることを、肝に命じておかなければなりません。人の心の荒廃と、自然破壊には関係がありそうに思えてなりません。でも、こんなに美しい花をあかせてくれる自然なのですから、楽しませて、喜ばせてもらう私たち人間は、自然の保全の努力が必要ですね。

好い日曜日をお迎えください。

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二百十日

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猛烈な暑さの八月が終わり、九月を迎えました。心なしか、ちょっと秋を感じられそうです。今日は、「防災の日」です。子どもの頃、地震が起きますと、父が大声で、『玄関を開けろ!』と叫んでいました。火の手が上がって、家から出られなくなったら大変なので、家族の身を心配してそう言ったのです。1923年9月1日、横須賀に住んでいた父は、旧制中学の一年で、関東大震災に被災しているのです。よっぽど怖い経験をしたのでしょう。

“ウイキペディア”は、『190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったと推定されている(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2千余棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。東京朝日新聞、読売新聞、国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。』とあります。

また今日は、「立春」から数えて「二百十日」です。“日本の行事・暦”に、『この時季は稲が開花・結実する大事なときですが、台風が相次いで襲来し、農作物が被害を受けてしまうことがよくあり、厄日とか荒れ日などといわれています。』とあります。今まさに、「台風21号」が、太平洋上にああって、本州に向かって北上しつつあります。今季、最大級の勢力で、気象庁は注意を呼びかけています。

今年は、いまだかつてなかったほどの猛烈な高温の日が続きました。今日のニュースで、乳牛が、暑さで乳を出さなくなっていて、原乳が不足していると言っていました。それに、台風の発生数も異常に多く、危険降雨量も記録し、被害が多くの地で発生しています。高音は収まりそうですが、台風はまだまだ発生しそうな気配で、予断を許しません。

思うだけで実行していないのが、災害時の「非常持ち出し」の備えです。リストだけは持っているのですが、今住んでいます街では、地震がないので、現実味に乏しく、実行していません。7年ほど前でしたか、台湾で起こった地震の揺れを、友人の7階の家にいて感じた、ただ一回だけなのです。ですから、危機意識を覚えないで暮らしてしまっています。

でも、『備えあれば憂いなし!』で、大き目のザックに、家内と自分の2人分の備えをしておくべきですね。さあ、どんな九月になるのでしうか。でも、この数日、夜間の最低気温が24℃と、窓から入り込む風、射して来る陽の光に、夏の衰えが感じられそうです。好い九月をお過ごしください。

(イガに入った栗の実、秋の味覚です)

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昨日、大阪の有名店の「お好み焼き」を食べようと、家内に誘われ、家内は若き友人もお誘いして、その店で待ち合わせして、出掛けました。この街の人たちの味覚が、日本人に似ているのだそうで、街の中心地のデパートのワンフロアーに、横浜ラーメンとか、銀座の寿司店とか、ちゃんこ鍋とか、ステーキ屋とか、ケーキ店が暖簾を出しているのです。

プロの投資家と、プロの外食産業が、意見を一つにして出店したのですから、勝算があってのことなのでしょう。雨の日の週日の昼、人は親子ずれが数組いましたが、どこの店も同じ様でした。店員さんに聞きますと、週末は繁盛してると言っていました。日本人が10人も、その事業展開のためにやって来ている様です。

夜の部のステーキが、一人前で1200元(1元は16円強)だと、店の外のメニューにありました。中国の街で、そんな高価な夕食をとる人たちがいると目論んでるのですから。大変驚きました。すぐ上の兄が、そんなステーキをご馳走してくれたことがありましたが、ここでは、指を咥えるだけで終わりそうです。

もう「柚子youzi」が、果物屋さんに店頭に並び始めました。やはり秋の到来なのでしょう。長崎出身の隣家の方が、日本にいた時に、『故郷から送ってきましたので!』と頂いたことがありました。そう言えば、「栗」も見かけました。

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詩人の茨木のりこさんの「わたしが一番きれいだった時」は、多くの教科書に取り上げられた、とても有名な一編の「詩」です。

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いたtg
フランスのルオー爺さんのように ね

悲しく辛い戦争体験を、詩を詠んで回想されています。私も、こちらの大学の「作文」の授業で、この詩を読んでもらいました。そして、学生のみなさんに感想を書いてもらったのです。特に詩に最後にある、「ね」が、どんな意味を持っているのかを書いてもらおうとしました。3年生で、二年半ほど、日本語を学んだだけのみなさんには、ちょっと難しかったのですが、意味をしっかり捉えた学生さんもいました。

「美しくあるべき青春」、「清くあるべき青春」、「夢多き青春」を、戦争で傷つけられ、奪われたのは、随分と悔しかったことでしょう。戦争体験と、19歳で迎えた敗戦、戦後の厳しい時代を生きた体験を、茨木典子さんを始め、多くのみなさんがされ、そこから、この日本は立ち上がったわけです。

画家のルオーが、お爺さんになって、「凄く美しい絵」を描いたように、過去の辛い経験があっても、人は美しさを求め、表現して生きられるのだと、茨木のりこさんは訴えたのでしょう。「美しく逞しく」、年配者だって生きていけるんですね。私の愛読書に、「しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。」とあります。八月が行こうとしています。

(ルオー晩年の作品で「たそがれ」です)

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回顧

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七十数年の生涯で、何だか今が一番充実している様に感じるのです。アルバイトに明け暮れていた学生の頃も、子育てしていた時代も、アメリカ人起業家かgら、責任を任されて従事した仕事も、自分としては、力を抜くことなど、どの時もありませんでした。

学生の頃、夏前から毎年やったのが、牛乳工場の市乳部で、製造部からコンベアーで送られてくる牛乳の木箱を、冷蔵庫の中で積む作業でした。様々な種類の牛乳、フルーツジュース、ヨーグルトなどが送られてくると、空いたスペースに、翌朝の搬出が容易になる様に、積んで行くわけです。『来年も来てくださいね!』とプロ顔負けの仕事をしてくれたと、褒めててくれた部長が、そこにいました。

子育てのために、月2回の床清掃の仕事を、スパーマーケットから請け負って、20年近くしました。午前零時までの営業店で、11時過ぎに開始し、朝七時開店に@間に合わせての店舗の床全面の掃除でした。床を、ピカピカにするワックス仕上げでした。時間に追われての作業は、緊張の連続でした。帰宅した子どもたちは、よく手伝ってくれました。系列の店も頼まれたのですが、自分の容積をわきまえて断ったり、他店の掃除も頼まれたりでした。多くの人に助けて頂いた年月でした。

アメリカ人の起業家から受け継い仕事は、26年、その前の助手時代を合わせますと34年間、従事しました。その仕事は、家内との共同で従事したのですが、大変でしたが、喜びも多くありました。年に二度くらいでしょうか、月曜日に、子どもたちを学校に送り出して、隣県の入浴施設に出掛けて行って、帰りに、焼肉を一緒に食べたのが、とても意味のある息抜きの時でした。それにテニスの交流会に出掛け、英気を養ったのも宝物の時でした。

そして不思議な導きで、ここ中国にやって来たのです。来た当初、出会った方の紹介で、大学の日本語科の学生に、日本語を教えながら、こちらの事業のお手伝いをさせて頂きました。そして今日を迎えています。学生のみなさんと過ごした時も、私の宝物です。昨夕も、家内と出掛けて、頼まれた仕事を終えて九時半頃に帰宅しました。

多くの人が、このお借りした家にやって来ては、相談に乗ったり、アドバイスをしたりしています。家内は、日本語を学びたいと言う子どもたちに、今は、週に2クラスを教えています。ご婦人たちが訪ねて来て、一緒に時を過ごすことも多くあるのです。

本来なら、今頃は孫のお守りとか、茶飲み友だちと時を過ごすとか、趣味に生きているのでしょうけど、今なお、すべきことが与えられているのは、この上もない喜びであり、充実の心境です。急(せ)かされないし、プレッシャーはないし、力を抜いて生きていられるのですから、好い老いを生きられているのだと、在華満十二年を迎えて感謝でいっぱいです。みなさんに助けられて、生きてこられた年月を思い返しております。。

(今では綺麗に整備されている竹芝埠頭、ここでもアルバイトをしました)

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花盛り

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この2日ほど、エアコンのスイッチを入れないで、過ごせるほど、凌ぎやすくなってきました。夜間の暑さがなければ、快適なので、さしもの酷暑も敗走していきそうです。それでも、11月までは日中は暑い日がありますが。

今朝も、ベランダの朝顔がたくさん開きました。

今日も、断続的に強い雨降りですが、大家さんが持っている、除湿機が、大いに役に立っていいるのです。2つあるトイレの1つに、それを入れて、洗濯物を、縦横にセットした"ツッパリ棒"に掛けて、干しています。半日ほどですっかり乾いてくれます。雨の多い季節に、いつも日本でやっていた方法です。トイレの広さと密閉性がちょうど好いのです。

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一番星

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JRの中央線は、高尾と東京を結ぶ、通勤電車です(今では大月駅まで延びている電車もあります)。東京に越して来た父は、住み始めた街の旧国鉄の駅から、この路線で神田駅、新宿駅、東京駅、浅草橋にあった、自分の会社に電車通勤をしていました。私も、中学から大学、社会人になっても中央線、山手線を使って通学通勤をしました。今ある快速とか通勤快速とか特快のない時代で、一駅一駅の各駅停車でした。

最近、帰国の度に、JRや地下鉄やバスを利用するのですが、とくにJRの駅に停車中に聞こえるのは、駅名や乗り換え案内やベルの音ばかりではなくなってきています。短い停車時間に、「童謡」などの短い部分が、プラットホームに流れていて、電車の中でも聞こえて、なんともなく和やかにされ、郷愁を感じさせたれています。

八王子駅では、「夕焼け小焼け」が聞こえています。この作詞者は、八王子(当時は恩方村です)の生まれで、小学校教師の中村雨紅でした。“ウイキペディア”に、『代表作は故郷恩方の風景を歌った『夕焼小焼』。1919年(大正8年)作詞し、1923年(大正12年)草川信が曲をつけた(文化楽社『文化楽譜―新しい童謡―』掲載)。この歌はピアノ練習用の譜面帳に掲載されていたが関東大震災で紙型から何から一切灰になってしまった。わずかに人手に渡っていて奇跡的に焼失を逃れた13部から、日本の代表的な童謡の一曲となった』とあります。

夕焼け小焼けで日がくれて 
山のお寺の鐘がなる 
お手々つないで皆帰ろ 
烏と一緒に帰りましょう

子どもが帰った後からは 
円い大きなお月さま 
小鳥が夢を見る頃は 
空にはキラキラ金の星

私は1年間、この八王子に住んで、大和田分校に通いました。また学校を出た後に、3年間、この街にあった職場で働いたことがあったのです。ですから、とても懐かしく、この「ゆうやけこやけ」を聞くのです。華南の街の夕暮れ、バス停から道路を挟んだ向こうの空に、ひときはキラリと輝く「一番星(宵の明星)」が見えます。だいぶ日が短くなってきています。そうすると何だか、『凖ちゃーん!』と、帰宅を促す母の声が聞こえてきそうです。

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テレビ

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ニュースによると、65年前の8月28日に、「日本テレビ(民放テレビ)」が放映開始したとのことです。NHKは、同じ年の2月1日に放映開始していました。当時、父は、東京都下の八王子市大和田にあった、ある会社の職員住宅を借りて住んでいました。大きな村内と言う味噌屋を甲州街道を挟んだ、反対側を入った所にあったのです。この味噌屋は、後に手広く電気店を始めますが、老舗の商店でした。

その店にテレビジョンがあって、夕方になると、観に行った覚えがあります。やはり資産家だったのでしょう、あの近辺では最初のテレビを買っていたわけです。どんな番組だったのかの記憶はありませんが、1年後に越した街の下駄や雑貨や燃料を商う店にも、このテレビがありました。お得員さんで、貫禄のあった父に、店主は一目置いていたのでしょう、座敷に上がって、テレビを観ていました。子どもの私たちは、庭にゴザが敷かれていて、そこに座って観たものです。

放映番組で一番の思い出は、力道山の「プロレス」でした。日本人のレスラーが、アメリカ人の巨体の白人を"空手チョップ”で薙倒すのに、誰もが興奮して、代わりに闘って勝つのに、溜飲を下げていました。プロレスラーも観戦者も、ものすごく激していたのです。その後、「ひまなしとびだす」、「事件記者」という番組があったのを覚えています。「月光仮面」も、その後の番組だったと思います。

そんなで、父が家にテレビが入れたのは、上の兄が、テレビに出ると言うことになってだったかと思います。大学選手権の試合が、テレビ放送されるのを、父は観たかったからでした。テレビジョンの前に、日本人が<釘付け>になってしまい、家族の会話がなくなっていくのでした。功罪両面の文明の利器が、家庭を侵食して行ったわけです。ちなみに、私の家庭にテレビが入ったのは、長女が高校受験で、『テレビで講座があるので買って!』と言われてでした。

「日本紀行」とか「シルクロード」、最近では、「家族に乾杯」とか、「日本縦断こころ旅」とかが面白かったのですが、テレビを見ることが、今ではなくなりました。でも、自分がテレビを観て、一番強烈だったのは、東日本大震災の折に、仙台市内を流れる川を、「津波」が遡上して行く光景でした。こんな光景を見ていいんだろうか、と思いながら、何もできないでいる自分が、津波にのまれて行く人や家や車を見ていた、<罪悪感>でした。

(テレビ草創期の街頭放映の様子です)

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チキンラーメン

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こちらのスーパーマーケットで、所狭しと売り場に並べられてある食品は、「インスタントラーメン」です。しかも、カップ麺が人気なのでしょうか、何十種類も並び、その主力商品は、「韓国」の会社の作った、カップ麺です。もし毎日、この激辛や中辛を食べていたら、体に良くないのでは、と心配になってしまいます。

中学に入った翌年、1958年8月でしょうか、「即席チキンラーメン」が売り出されていました。この食品誕生について、“ウイキペディア”は次の様に記しています。

『日清食品創業者の安藤百福が終戦直後の大阪・梅田の闇市でラーメン屋台に並ぶ行列を見て、「もっと手軽にラーメンを」と開発した。チキンラーメンは、安藤が大阪府池田市の自宅の敷地内に建てた研究小屋で試行錯誤した末に生まれた。ある日、妻が作っていた天ぷらを見た印象や食感をヒントに「油の熱で乾かす」こと(瞬間油熱乾燥法)を思いつき、採用した。池田市にある「安藤百福発明記念館 大阪池田」(カップヌードルミュージアム 大阪池田)には、チキンラーメンを開発した作業小屋が復元・展示されている。また日清食品がチキンラーメン60周年記念として2017年10月から営業を始めた「チキンラーメン屋台」は、この研究小屋をイメージして製作した。チキンラーメンの「チキン」は鶏を意味する英語”chicken”であるが、本商品のローマ字表記は日本語で”Chikin”と綴られている。』

生ラーメンにない食感が美味しかったのです。同級生のI 君は、確か<チキンラーメン>と、バスケのOBに渾名(あだな)をつけられるほど、そのまま食べるほど好きだったのです。残念ながら、大学を卒業後、自分の街で、寿司屋を開業していましたが、三十代で亡くなったのです。この即席麺を見ると、彼のことが思い出されるのです。

なぜか、こちらでは、即席麺は、韓国生まれの様に錯覚されているのですが、歴(れっき)とした日本産なのです。ところが、開発者の安藤百福氏は、台湾嘉義生まれの台湾の方で、立命館大学で学んだ方です。試行錯誤して誕生した即席麺が、今では世界中で受け入れられて、今日を迎えています。今月、2018年8月は、その「60周年」なのだそうです。

直近のカップラーメンを食べたのは、昨年、札幌の病院に入院中に、病友が、『夜中に食べて!』と頂いたもので、こっそり食べたのです。本当に美味しかったのです。お礼を言ったら、もう一つ頂いてしまいました。袋入り即席ラーメンは、娘がニューヨークで買って、送ってくれたのを、先日、家内と食べました。これも、ことの外、美味しかったのです。あの「チキンラーメン」の級友の息子さんが、寿司屋を継いでいますが、切り盛りしていた、級友の奧さんはお元気でしょうか。

(日清食品の「チキンラーメン」です)

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