昭和

 

 

ここ北関東は、昨日は一日雨でした。関東甲信地方も、やはり梅雨入りしたそうです。英語では、〈梅雨〉を “ East Asian rainy season ” と言うそうです。大正7年9月に、作詞が北原白秋、作曲が弘田龍太郎の「雨」が、「赤い鳥」に発表されました。私の母が、一才半の時でした。梅雨になると思い出される、物悲しい歌です。

1 雨がふります 雨がふる
遊びに行きたし 傘はなし
紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 緒が切れた

2 雨がふります 雨がふる
いやでもお家で遊びましょう
千代紙折りましょう 疊みましょう

3 雨がふります 雨がふる
けんけん小雉子(こきじ)が今啼いた
小雉子も寒かろ 寂しかろ

4 雨がふります 雨がふる
お人形寢かせど まだ止まぬ
お線香花火も みな焚(た)いた

5 雨がふります 雨がふる
昼もふるふる 夜もふる
雨がふります 雨がふる

 

 

戦後の昭和26年に、小学校に入学したのですが、当時も、下駄履きで、傘は〈番傘/蛇の目傘〉をさして雨の日は登下校していました。友人の夫人のお母様が長く住んだ家に、私たちは住み始めたのですが、お母様が、お住まいになっていたままの家なので、洗濯機がおかれている脇に、この〈蛇の目傘〉が置かれたままなのです。きっと長く使われ、懐かしくとって置かれたのでしょう。

私も懐かしくて、手にとって開いてみたのです。もう破れてしまっていて、梅雨に入ったのですが、さして使うことはできません。器用に竹細工仕上げなのです。この家の5軒ほど向こうの通り側に、竹細工をされているお店があります。日柄、板の間に座り込んで、初老のご主人が竹細工をしておいでです。今も需要があって卸しておられるのでしょうか。

この辺りには、「昭和の風情」が色濃く残っています。もう閉じられてしまったのですが、幟(のぼり)とかタオルの染物看板を下げた店も、そのまま残っています。隣は、材木置き場で、夫人のおばさんに当たる方が嫁いだ先で、手広く商いをしていたそうですが、今では一箇所に材木が残っていて、閑散とした空き地になっています。この辺りは、かつては賑わっていた名残を、かすかに感じさせてくれます。

(じゃれ合う昭和の子どもたちです)

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憧れと幻

 

 

日本では、桜が咲くと、春の到来を実感させられます。南米などでは「ジャカランダ(紫雲木)」、中国の東北の満州里では、「アゴニカ」が、まさに春を告げる花なのでしょう。中国名で何と言うのか分かりません。作詞が島田芳文、作曲が陸奥明の「満州里小唄(※雪の満州里)」が、昭和16年に発表されました。この歌の中で、「アゴニカ」の花が歌われています。

1 積もる吹雪に 暮れゆく街よ
渡り鳥なら つたえておくれ
風のまにまに シベリアがらす
ここは雪国 満州里(まんちゅうり)

2 暮れりゃ夜風が そぞろに寒い
さあさ燃やそよ ペチカを燃やそ
燃えるペチカに 心も解けて
唄えボルガの 舟唄を

3 凍る大地も 春には解けて
咲くよアゴ二カ(※オゴニカ) 真っ赤に咲いて
明日ののぞみを 語ればいつか
雪はまた降る(※雪も森森) 夜(よ)はしらむ

極北の凍る大地の間だから、顔を出す真っ赤な花が「アゴニカ」、ロシア語の「オゴーニカ(小さな灯火)」だそうです。日本名は、「モミジアオイ」と呼ぶと言われているようですが、定かではありません。中国黒龍江省とロシアとの国境沿いに咲くそうです。

 

 

このアゴニカを、一度でいいから見たくて、満州里に行く計画を立てていたのですが、咲き始める頃も、ずいぶんと寒そうで、尻込みしてしまったままです。春になると、凍土も溶けて、美しい花を咲かせる自然界に生命の躍動は、私たち人に向かって、『生きよ!』と告げているに違いありません。まだ見ぬ《憧れの花》、《幻の花》なのです。

(上はモミジアオイ、下はジャカランダです)

 

来訪

 

 

『友あり遠方より来たる!』で、華南の街で、行き来をした夫妻が、留学中の息子を訪ねて、その足で、家内を見舞ってくれました。夏期休暇に入ってから来れば便利なのに、息子の学期中に、わざわざやって来られたのです。わが家に二日泊まって、今日は、三人一緒に、『江ノ島電鉄に、父と母を乗せてあげたい!」と、息子が言って帰って行きました。

そこは、自分の好きなアニメの舞台だそうで、中国東北の大学に学んでいた時に、観たのでしょうか、若者の様に若いご両親に、同じ感動を伝えたいのでしょうか。一昨日は、食材を蔵の街のスーパーマーケットに買いに行ってくれ、〈中華料理〉を、お母さんが美味しく作ってくれました。

海辺の漁村で育ったお母さんですから、海鮮料理でした。家内を喜ばそうとしてくれたのです。昨夕は、こちらの友人夫妻が、「天婦羅」を揚げてくれて、〈日本料理〉でもてなしてくれました。友人夫妻は、水曜日に夕食を、わが家で作ってくれ、一緒の交わりを持とうとしてくれていて、ちょうどその日でしたので、七人でご馳走になったのです。

お父さんは、華南の街に母子を置いて、広州と上海で、電気技師、設計士として長年働かれ、息子が瀋陽の大学に入学を機に、お母さんも上海に居を移し、ふるさとのお母様を訪ねて帰って来るたびに、交流をして来たのです。息子は、帰省中に、家内から日本語を学んで、大学に戻ると電話で日本語で交流して来ていました。

昨秋、東京都下にある大学の大学院に留学し、医療ロボットの研究を始めている青年です。実に《好青年》で、自分の息子にしたいほどです。東京の事務所の友人が、彼のために、骨身になって家を探してくれ、そのアパートに住んでいますが、研究で忙しくなるので、大学院の寮に入ると言っていました。

彼らは、私を休ませようと必死でした。お陰で、ずいぶん楽をさせていただいた二日間でした。来年も来たいそうで、その時には、p家内が元気になっていて、一緒に、日光線や鬼怒川方面にある温泉に行けたらいいと、言っていました。実に感謝な家族でした。(6日記)

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ホトトギス

 

 

「子規」と言えば、正岡子規(しき)ですが、そのペンネームの由来は、彼が結核に感染して、喀血をしたことから、自分を、鳥の「ホトトギス」になぞらえて命名したと言われています。

どうして「ホトトギス」なのかと言いますと、この鳥を、日本語では、杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥、子規、田鵑などと、漢字で表記したり、また異名を持っているのです。ホトトギスを見ますと、喉のところが、赤い色をしています。これについて、中国には、次の様な故事が残されています(ウイキぺディア)。

『ホトトギスの異称のうち「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の故事や伝説にもとづく。長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。=何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。』

血の赤さに、ホトトギスの故事に重ねて、自分を「子規」と名乗ったわけです。かつての俳人や小説家が、どれほど、中国文学の造詣に深かったことを知って、驚かされます。子規の友人だった夏目漱石も、自分のペンネームを「漱石」にしています。その名の由来に、次の様な解説があります。

『中国西晋の時代、孫楚(そんそ)は、隠遁しようと決心して、友人の王済に「山奥で石を枕にし川の流れで口をすすごう」と言うべきところを「石で口をすすぎ、流れを枕にしよう」と言ってしまった。それを指摘されると「流れを枕にするのは、汚れた話を聞いた耳を洗うためで、石で口をすすぐのは歯を磨くためだ」と言い張った。』

夏目金之助は、頑固で屁理屈の多い人だったそうです。それで、自分を知っていた金之助は、この故事の「漱石枕流」から、自分を、「漱石」と呼んだのだそうです。明治の文人に比べ、昭和生まれの私は、「美しい日本語」に魅了されながらも、及びもつかない自分を知らされてしまいます。そう言えば、ここ北関東で、駅から5分ほどのところに住んでいて、ホトトギスの『ホーホケキョ!』を、六月なのに聞いていないのです。

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サンフランシスコ

 

 

太平洋を望み見るサンフランシスコ近郊を撮影した写真を、娘から送られてきたものです。初期の北米移民のみなさんは、この海を渡って、農業に従事し、日本人の意気を表し、子育てをし、アメリカ市民として受け入れられて行ったのですね。

悲しくも辛い経験をしながら、一旗あげた人も多かったに違いありません。ハワイやブラジルなどにも、多くの移民が渡って行かれたのです。農家の次男、三男坊は、海外に活路を求めたからです。「からゆきさん」と行って、ボルネオのサンダカンなどに、娼婦として売られた少女もいました。

終戦間もない1950年に、「サンフランシスコのチャイナタウン(作詞が佐伯孝夫、作曲が佐々木俊一、歌は渡辺はま子)」が発売されています。

桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン
夜霧に濡れて
夢紅く 誰を待つ 柳の小窓
泣いている 泣いている おぼろな瞳
花やさし 霧の街
チャイナタウンの恋の夜

桑港のチャイナタウン
ランタン燃えて
泪顔 ほつれ髪 翡翠の籠よ
忘らりょか 忘らりょか
蘭麝(らんじゃ)のかおり 君やさし夢の街
チャイナタウンの恋の夜

桑港のチャイナタウン
黄金門湾(きんもんわん)の
君と見る白い船 旅路は遠い
懐しや 懐しや 故郷の夢よ
月やさし 丘の街
チャイナタウンの恋の夜

 

 

ハワイやサンフランシスコは、戦後日本人の憧れの街だった様です。敗戦後の暗く貧しい世相の中で、それらを克服するために、海外雄飛を、多くの若者が夢に見ていたのでしょう。遥か南米のアルゼンチンに逃げ出したかった十七の私は、スペイン語を学び始めて必死でした。でも、そこへの門戸は開きませんでした。

サンフランシスコは、坂のある街で、そこを訪ねた私に会いに、長女がロサンゼルスからやって来ました。通りすがりの街の案内所で、中華料理店を紹介してもらって、ご馳走になったことがあったのです。そうしましたら、その歌を、懐かしく思い出してしまいました。

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深淵

 

 

この画像をご覧になって、何だとお思いになられるでしょうか。「木の実」か「色付きの極小のボール」か「編み物」に見えるでしょうか。これは、友人が、一昨日、見せてくれた映像を、メールで転送して頂いたものなのです。実は、これは、宇宙の広がりを電子操作によって映像化したものなのだそうです。

まさに、《120万の銀河( 1.2 million galaxies)》の地図、「そらへのポータルサイト SORAE」に、次の様に解説されてあります。

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上の砂が集まったようなフェルトの生地のような不思議な画像、これは6500億立方光年の空間に存在する銀河の集まりを表した3D天体地図なんです。赤や黄色、オレンジや紫のドットそれぞれが星ではなく120万個の銀河を示していると思うと、この地図の示している宇宙の広さがわかると思います。
 
6500億立方光年と聞いてもその大きさはまったく思い浮かびませんが、これは現在知られている宇宙の4分の1しか示していません。また観測に用いられたのは、光学望遠鏡によって宇宙の地図を作るスローン・デジタル・スカイサーベイのBOSSプロジェクトです。
 
なお、地図では紫が地球から遠い銀河、黄色が近い銀河を示しています。これらのデータを知ることにより、科学者は銀河の相対的な運動を観測し、お互いが離れる移動速度を知ることができるのです。
 
そもそも私達の銀河の他にも銀河があることや、それらの銀河が我々から遠ざかっていることが判明したのはエドウィン・ハッブル氏の1929年の観測からでした。ハッブルは遠い天体から発せられる電波が赤方偏移(スペクトルが赤い方にずれること)することから宇宙が膨張していることを実証し、さらにこの説はビッグバン理論にも結びつきます。
 
さらに1998年には我々の宇宙の膨張スピードが加速しているとの仮説が発表され、その膨張にはダークエナジーが関与していると予想されています。そして、今回の天体地図の作成は宇宙の膨張やダークエナジーの研究に貢献することが期待されているのです。
 
Image Credit: CORNELL UNIVERSITY LIBRARY
■This new map of the universe charts out 1.2 million galaxies
http://www.theverge.com/2016/7/15/12199668/universe-map-galaxies-3d-hubble-boss

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私も、果てし無い大空に目を向けて、とくに夜空に煌(きら)めく星を見るのが好きで、子どもの頃から、その神秘さに圧倒されてきています。内モンゴルの呼和浩特(フフホト)に参りました時に、草原のバオの外で見た、満天の星には、度肝を抜かされてしまたことがありました。《降る様な》という表現が一番ふさわしいほどの星々だったのです。

この画像では、星を想像することができませんが、《星の集合体》が、私の頭の上に、無限に広がっているのだと言われると、チッポケなことでくよくよしたり、怯えたりしている自分が、もっとチッポケな者に見えてきてしまいます。それに比べ、宇宙の遠大さは計り知れないのです。科学者は、見上げる大空には「果て」があると言うのです。

イスラエルの古典に、「天のこの果てからかの果てまで」とありますから、「果て」があるのでしょう。この広がりを、どう捉えたら好いのでしょうか。科学する心が、私の内に、ムクムクと起き上がってきそうです。「天を堅く立て、深淵(しんえん)の面に円を描かれた」お方がいらっしゃるに違いありません。

(上は120万の銀だ、下は月と金星です)

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大好きな味噌汁の具が、みなさんにはあるでしょうか。父は「豆腐」だったでしょうか。すぐ上の兄は「里芋」、母が好きだったのでしょうか、よく作ってくれたのが「蜆(しじみ)」でした。この蜆の産地で有名なのは、〈青森県津軽半島の十三湖〉、〈茨城県水戸市の涸沼(ひぬま)〉、〈島根県松江市の宍道湖(しんじこ)〉で、これらが三大産地と言われているのです。

母は、宍道湖の湖畔の出雲市の出身ですから、ご当地産品の蜆汁で育っていました。自ずと蜆が好物だったのでしょう。血でしょうか食習慣ででしょうか、今晩も蜆の味噌汁を満喫したところです。多分、今晩が一番たくさん蜆を一個一個、貝殻から取っては食べ取っては食べて、家内は少ししか食べないので、その分まで食べて、大いに満足な夕べでした。

昨日、水戸在住のご夫妻が、家内を見舞ってくださいました。入院中もおいで下さった方たちです。中部山岳の街の事務所に出入りしてくださったご家族で、今はご長男が30歳になられて、すでに独立されて、東京圏で働いておいでだそうです。次男の方は、留学を終え、ご両親と共に住んで、お仕事をされている様です。息子さんたちの《工事中(すなわち思春期の真っ只中の時期の子育て中)》に、一緒に三年ほど過ごしたご家族です。

 

 

私たちを、とても助けて下さったご家族なのです。奥様が、その蜆を、メロンや野菜などと共に、差し入れして下さったのです。一緒に、お昼に食事をして、水曜日にお見舞いに来て下さった方、中国の華南の街の大学で、日本語を教えておられて、不思議に出会って以降、行き来している友人と、そのお友だちでした。お二人が、差しれて下さった物をおかずに、一緒に食べたのです。私は、このご主人の《フアン》なのです。

冷蔵庫は、お見舞いの品々で一杯です。それで、今夕、その蜆を味噌汁の具にして、作ったのです。満足で、2度もご飯にかけて食べてしまい、至福を味わったところです。この《蜆汁飯》が、何よりも好きだと、もう告白してしまいましょう。和牛のステーキよりも、ドリアンよりも、ラザアニアよりも、これこそが大好物なのです。安上がりにできてる自分に、ちちょっと物足りないのですが、それでいいのです。

先週は、弟も見舞ってくれましたので、けっこう賑やいだ一週でした。明日は、家内の通院日、長男が送り迎えのために来てくれると言っています。今週も、中国から友人夫妻と息子さん( 留学中)が来訪の予定です。

(上は、ご夫妻からいただいた花、下は、涸沼の蜆漁です)

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雑草の如く

 

 

これは、広島県呉市・灰ヶ峰に咲く「ノイバラ(野茨)」です[☞HP/里山を歩こう]。秋になると、赤い実をつけるのです。雑草の様に強い生命力を持っていると言われています。

巨人軍で活躍し、大リーグでもリリーフ・ピッチャーとして名を馳せた、《雑草魂》をモットーとした、上原浩治投手が、先ごろリーグ途中で引退しました。実に男らしい《引き際》でした。なかなか踏ん切りが付けられない人が多いのですが、涙と共に決意を表明していました。

 

 

大学受験に失敗し、一浪で入学を果たしています。この間の事情を、『・・・隣町の予備校に通う傍らジムでトレーニングを積み、更に家計への負担を減らすために夜間は道路工事のアルバイトもこなした。この間の努力は「人生であれほど燃えた1年間はない」程だったという。』と語っています。

阪神大学リーグで活躍して、名門巨人軍に入団した方です。遅咲きの花の様でしたが、野球人としては、《この人ありき》、強い野球チームだからではなく、野球の醍醐味を身をもって表してくれた《名投手》でした。第二の人生の活躍を期待します。

(下は秋に実をつける「ノイバラ」です)

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衣替え

 

 

今日から「六月」、陰暦ですと「水無月」、英語ですと “June” です。娘が送ってくれた家内の外出用の帽子、帽子マニアの私はドウイッツユアーセルフの店で買った麦わら帽子で、散歩を決め込んでいます。懐かしい「蚊取り線香」も、玄関用に買い置きして、夏の準備を滞りなく終えています。

今日からは、「衣替え」ですね。もうすでに〈Tシャツ〉姿になっていまが、学生のみなさんは、夏服に替わります。中学に入った年、霜降りの夏用w.制服を初めて着たのです。よその通学生と違っていて、ちょっときまり悪かったのを思い出します。

また「梅雨」に入る月でもあります。ジメジメしますが、これがあったればこそ、お米が育つわけです。

 

 

今朝咲きし  くちなしの又白きこと

これは、星野立子、高浜虚子のお嬢さんで、女性の俳人の作です。そういえば、前に住んでいた、華南の街の小区の正門を入って、幼稚園の地境の間に、くちなしの花が、実に綺麗に咲き、芳香を漂わせていました。山の避暑地の村に行くと、紫陽花も咲いていました。