神の摂理に任せて生きる

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 『夢を買うんです。当たらないことが分かっているんですけど、やはり年に数回、買うのを楽しんでいるのです!』と言う方がいらっしゃいます。私は、このような動機で〈宝くじ〉を買われる方とは違って、これを買いません。パチンコも競馬もマージャンも株もしません。

 中学生の頃に、日本中央競馬会の調教師の子が、級友に何人もいましたので、彼らの仲間になって、府中の競馬場に行ったことがありますが、馬券を買ったことはありませんでした。立川の競輪場に行ったこともありますが、中の様子が見たくて、学生の頃に一度行ったきりでした。父の家の川向こうに、競艇場がありましたが、そこも行きませんでした。

 ただパチンコは、私の育った町に一軒ありましたので、父の後について行って、拾った玉を入れて遊んで以来、20代の初めまでしていましたが、教会に行くようになってからは、まったくやめてしまいました。

 開拓伝道の貧しい中で、その貧しさを克服しようとして、わずかなお金で宝くじを買った牧師さんがいました。『主よ当ててくださいますよね。教会堂を建てるのは御旨に適っているのですから!』と祈ったのですが、当たりませんでした。株がいけないと言っているのではありません。でも何かが間違っておいでです。

 労働の三要素の1つは、「資本」であり、今日の企業の経営にあたって、株式のシステムは、どうしても必要です。そして、小学生が、これを学ぶのは大切なことなのです。出資者がいて、企業が活動することが出来るからです。ところが、小学生が、お小遣いで、株を買っているというニュースを聞きます。小額の投機で、多額の利益を得られることに魅力を感じてしまっているからなのです。

 オランダで首相であった神学者のアブラハム・カイパーという方が、アメリカの大学に招かれて講演をしました。その1つの講演で、次のようなことを言ったのです。『カード遊び・・カード自身に悪魔が潜在しているというのでもありません。しかし、この遊び心が心を誘惑して、神より離れさせ、運とつきに依頼させようとする恐ろしい傾向を助長するからです・・神以外のいわゆる偶然、あるいは幸運と称する空想的運命力を軽率に信じる気持ちを養う・・・人々は、自分の仕事をこつこつと努力するよりも、幸運の一喜一憂に対して・・・心惹かれております・・・神の摂理よりも偶然性を強く望むことによって、(感覚の)泉を汚染させてします・・・嫌悪せざるを得ません。』と、次の時代を担う学生に、百年も前に、そう語ったのです。

 私たちは、運命の力に、自分の人生を任せたり、賭けたりするのではなく、神の摂理に自らを任せるべきです。遊び心だと、軽く考えておられても、それが生きる姿勢そのものになってしまうのです。私は「運」や「つき」に、自分の人生が左右されることを願いません。たとえ状況が悪く感じられることがあっても、それは、『神さまは、何かを教えたり、注意されているだ!』と思うことにしています。

 結婚や留学や離婚のために貯えてあった貯蓄が、この教会堂のための土地と会堂と教会の事務機材の購入のためにささげられました。夢の実現よりも、神のご計画に賛同され、また離婚計画は、主によって不要になったからです。しかし主は、主と社会の前でなされた、その選択と決断と信仰とを覚えておられるのです。「エレミヤ書」に、次の有名なみことばがあります。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもの(29:11)」

 春到来、『どんな素晴らしいご計画が、自分の生涯に、備えられてるのだろうか!』と歳を重ねた今でも思い巡らす、わくわくと胸躍らされる週日です。

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東京都

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 東京を取り上げる上で、どうしても記しておきたいのは、江戸城を築城した太田道灌です。室町時代末期、足利氏の出の優れた武将でした。有名な話は、狩の時に、にわか雨を避けるためにでしょうか、しばしの休息をとった農家の娘に、雨をしのぐ蓑(みの)を借りようとするのですが、この娘が、「山吹」の花を、道灌に差し出したのです。

 その意味が理解できない道灌は、怒ってしまうのですが、部下が解説するのです。

 

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七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき

 八重山吹の花は、綺麗な花をつけるのですが、実りをつけないのです。彼女の家には、貧しさのためか、お貸しする蓑でさえ、一つもなかったのを、歌に呼んだと言う顛末を語るのです。恥入った道灌は、それ以後、和歌を熱心に学んだのだそうです。この故事にちなんで、「山吹町」と言う地名が、新宿や葛飾や埼玉県下の越生(おごせ)にあるそうです。

 

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 アメリカ合衆国の首都のワシントンのポトマック河畔に、桜が植えられてあります。それは、タフト大統領夫人の発案で、首都ワシントンに、日本の桜の樹を移植しようというプランから始まったのです。それを聞いた尾崎行雄は、『絶好の機会であるから、先方には買わせずに、東京市からワシントン市に寄贈しよう!』と思って、市会にかけて、寄贈が決まったのです。それで春が訪れると、ワシントンの桜は、今でもきれいに咲くのです。

 東京の基盤をすえた人で、けっして忘れてはいけいのが、この東京市長を務めた、尾崎行雄です。明治36年(1903年)、45歳の時に市長になり、同45年(1912年)までの九年の間、市長として、その辣腕を振るったのです。「ワシントンの桜」には、そういった経緯があるのです。市の行政の多岐にわたって、尾崎行雄は現場に赴いて、東京の街づくりに専心、奔走します。道路整備、上下水道敷設、市電、ガス電気事業と多岐にわたったのです。

 神奈川県又野村(現在の相模原市の北部になります)で生まれ、慶應義塾に学ぶのですが、塾頭の福沢諭吉に認めれるほどだったそうです。1875年、カナダ人宣教師から洗礼を受けています。「憲政の神様」、「議会政治の父」の威名を受けるほどの秀逸な人でした。そのような人材が、心血を注いだ街が、この東京です。

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 これを遡る、徳川期以前の江戸は、広大な武蔵野の一画に位置した小さな村だったのが、「八百八町」と謳われ、徳川権勢のお膝元として、文化も商業も経済にも栄えた、世界に誇りうる街となったわけです。維新後は、京の都から遷都されて、国都となったわけです。

 「江戸参府旅行日記(ドイツ人医師のケンペルの書いたものです)」には、江戸の街の様子が、次のように述べられています。

 『幕府直轄の五つの自由商業都市のうち、江戸は第一の都市で、将軍の住居地である。大規模な御殿があり、また諸国の大名の家族が住んでいるので、全国で最大かつ最重要の都市である。この都市は武蔵国の、(私の観測の結果では)北緯三五度五三分〈英訳本では三二分〉の広大で果てしもない平野にある。町に続いている長い海湾には魚介類がたくさんいる。その海湾の右手には鎌倉や伊豆の国が、左手には、上総と安房があり、海底が沼土のようで非常に浅いから、荷物を運ぶ船は、町から一、二時間も沖で荷を下ろし、錨を入れなければならない。町のくぼんだ海岸線は半月形になっていて、日本人の語るところによると、この湾は長さが七里、幅が五里、周囲は二〇里である。』、ケッペルの滞在期間が、元禄年間でしたから、長崎から陸路で二度ほど江戸に参府(オランダ人に課せられた大名のような参勤交代と言えます)の経験を綴ったわけです。

 江戸は、当時のロンドンやパリよりも文化的であったと言われています。徳川幕府の統治が優れていたと言うことになります。幕末から明治期に、日本を訪ねた外国人も、おしなべて好印象、驚きを書き残しています。鎖国国家なのに、長崎を通じて、幕府に益するものは受け入れ、そうでないものは排除したから、二百六十年も統治が続いたのでしょう。

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 太宰治の「東京だより」に、1944年ごろの東京の街の様子を、次のように記されています。

 『東京は、いま、働く少女で一ぱいです。朝夕、工場の行き帰り、少女たちは二列縦隊に並んで産業戦士の歌を合唱しながら東京の街を行進します。ほとんどもう、男の子と同じ服装をしています。でも、下駄の鼻緒が赤くて、その一点にだけ、女の子の匂いを残しています。どの子もみんな、同じ様な顔をしています。年の頃さえ、はっきり見当がつきません。全部をおかみに捧げ切ると、人間は、顔の特徴も年恰好も綺麗に失ってしまうものかも知れません。東京の街を行進している時だけでなく、この女の子たちの作業中あるいは執務中の姿を見ると、なお一層、ひとりひとりの特徴を失い、所謂「個人事情」も何も忘れて、お国のために精出しているのが、よくわかるような気がします。』
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 当時の東京が、何か個性を欠いた日本人が溢れていて、戦時下の窮屈さや灰色の色彩が感じられてなりません。戦争が終わってしばらくしてからですが、山奥から東京に越すことを決めた父は、引っ越しを考えていました。当初、新宿駅の南に家を買うつもりでしたが、花園などの繁華な街での子育てはふさわしくないと決めて、大田区や三多摩地区に家を求めたのです。それで、『ベエ、ベエ!』と語尾を飾る南多摩に、家を買ったのです。そこに、私は二十歳になるまで住み、結婚して本籍をその街に置いて、宣教師さんについて離れます。

 「火事と喧嘩は江戸の華」と言うのは、木造建築で、密集した町並みで、「火消し制度」が設けられましたが、猛火に襲われ、何度も大火に焼かれても、また復興をし続けた街だったのです。『江戸っ子!』と誇りをもって、「粋(いき)」であることに拘り、短気で喧嘩っ早い気質を誇示した人たちの街でした。初期には、職人や加工業者や商い人が、全国から集められたのが、江戸でした。伊勢屋、越後屋など、故郷を屋号にした商家が多くあったわけです。東洋一を誇る街としてあり続け、1962年には、〈一千万都市〉の東京となっています。

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 都花は「ソメイヨシノ」、都木は「銀杏(いちょう)」、都鳥は「ユリカモメ」で、人口は1400万人です。東京都市圏の神奈川、千葉、埼玉を含めますと、3700万人も人口があるのです。大正期の関東大震災、戦時中の空襲で壊滅していますが、瞬く間に復興したのは驚くべきことでした。

 1929年に発表された「東京行進曲」に、いくつかの地名が挙げられています。銀座、丸ビル(建物)、浅草、小田急(私鉄電車)、新宿、武蔵野などです。

昔恋しい 銀座の柳
仇な年増を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりゃダンサーの 涙雨

恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文書く 人もある
ラッシュアワーに 拾った薔薇を
せめてあの娘の 思い出に

ひろい東京 恋ゆえ狭い
粋な浅草 忍び逢い
あなた地下鉄 わたしはバスよ
恋のストップ ままならぬ

シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で 逃げましょか
かわる新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る

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 この東京には、山も海も島もあります。中学の時に、誰も誘わないで、奥多摩の御前山に、一人で登ったことがありました。都有林の伐採をしていたおじさんたちにからかわれたのが思い出に残っています。一人での山行きって、けっこう楽しいのです。また知人が、伊豆豊島で教師をしていて、招かれて、家族で出掛けたことがありました。

 武蔵野の一角、櫟林の中に、私が6年間学んだ母校があります。武蔵国の府中、国分寺近くにありました。江戸が中心ではなく、母校あたりが武蔵国の中心であったのです。戦国の代に、戦が行われたという分倍河原があり、その近くで高校の考古学部のお手伝いで、土起こしの発掘をしたことがありました。日本国有鉄道の研究所もありました。もう今では、その武蔵野の面影はわずかですが、あの木の葉を揺する風の音が聞こえそうですし、グランドを駆け回っていた姿も思い出せそうです。夕闇にたなびく秋刀魚を焼いた白い煙が、秋の夕べにはたなびいていました。

 多摩川の流れで泳ぎ、その岸の学舎で学び、二十年ほど、この東京に住んだでしょうか。都下の多摩地域は、明治初期には神奈川県だったようですが、東京市に編入されて行きます。中央線沿いの長野や山梨の人たちは、東京でも東京駅から高尾駅の間の多摩地区に、多くが住み、東北地方の方は京浜東北線、茨城あたりは常磐線、神奈川あたりに人は横須賀線の沿線に住む傾向があるのかも知れません。

 人の多い東京は、一番孤独を感じさせる街に違いありません。首都圏に人が集中し、地方がさらに過疎化していくのでしょうか。また、どなたかが、「新・列島改造論」を論じて、日本を変えて欲しいものです。これから、どんな街に変貌していくのでしょうか。

(山吹、道灌と娘、ソメイヨシノ、ポトマック川の桜、隅田川の花火、新宿御苑、江戸の火消し、神宮の銀杏並木、小田急線の古写真です)

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[旅に行く]音吉たちの旅

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 三浦綾子が、197879年の間に、週刊朝日に連載した「海嶺」と言う作品があります。時代は、江戸の後期、1832年のこと、伊勢湾に面した知多半島・小野浦の千石船・宝順丸が、大阪で米を積んで寄港した熱田港から江戸に向けて出帆しました。ところが、嵐に遭ってしまい、遭難してしまうのです。その船に、水夫としていた乗船していた少年たちの数奇な物語です。

 私たちの長男の嫁御は、この愛知県知多半島の出身で、こちらを訪ねた時に、隣り町の美浜町にある、その宝順丸に乗っていた岩吉、久吉、乙吉(音吉)の「頌徳記念碑」に案内していただいたのです。

 十四人ほどの乗船仲間が、漂流中に次々と亡くなっていく中で、一年二か月の後に、この三人だけが生き残るのです。アメリカの西海岸、ワシントン州のケープ・アラバの海岸に漂着し、アメリカン・インデアンに助けられるのです。古里では、墓まで設けられていたのに、奇跡的に生き延びていたわけです。

 そこからイギリス船籍の船で、コロンビア川を登って、フォート・バンクーバーに連れられて行きます。そこで、英語とキリスト教に出会うのです。そこからハワイ、イギリスと移動することになります。その後、ロンドンに滞在した後、清国のマカオに行きます。そこで素晴らしい出会いを、彼らはすることになります。

 マカオには、ドイツ人の宣教師のギュツラフがいて、この人が三人の世話をかって出てくれたのです。シンガポールに移った彼らは、そこで日本語の最初の聖書の「約翰福音(ヨハネの福音書)」の翻訳(ギュツラフ訳)を始めます。一年二ヶ月がかりで翻訳を完了したのです。有名なのは、

『ハジマリニ カシコイモノゴザル。

コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。

(約翰福音第一章第一節)』

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 その冒頭の一節です。私の義母は、アメリカ人宣教師から長女がもらってきた、「ヨハネの福音書11節」を読んで、救いに導かれ、その信仰を全うした、聖書に書き記される神と、その御子との出会いを経験しています。その翻訳には、尾張国の知多半島の方言が見られるのも、翻訳の手伝いをした音吉たち三吉(久吉、岩吉)のことばだからでしょう。

 奉仕を終えた三吉は、帰国船に乗って、日本に戻ります。三浦半島の浦賀に着くと、幕府の砲弾で退去を命じられるのです。幕府の外国船への「打払令」によってでした。それではと薩摩藩に助けを求めるですが、ここでも砲撃されてしまいます。帰国の道を断たれた彼らは、断腸の思いで祖国を離れます。その一人、音吉は、上海に住むのです。その後の20年、自分たちのような漂流民の救助や援助のために手を尽くすのです。

 上海で貿易商として生活をし、安政元年(1854)には、イギリスのスターリング艦隊とともに長崎へ来ています。その時には、「日英和親条約」の締結交渉に、通訳者として力を尽くしいるのです。音吉は、その頃にはジョン・M・オトソンと名乗ったそうです。マレー人のジョスィと結婚をし、シンガポールに移って生活をし、貿易商として過ごし、1867年に召されます。

 「数奇(すうき)」という言葉があります。デジタル大辞典には、「[名・形動]《「数」は、運命、「奇」は、不運の意》 

1  運命に巡り合わせが悪いこと。また、その様。不運。「報われることのなかった数奇な人」  2  運命に波乱の多いこと。また、その様。さっき。「数奇な運命にもてあそばれる」

とあります。波風にもてあそばれたこと、漂着したこと、帰国を拒否されたことなど、とくに音吉の人生は厳しも、数奇な一生であったわけです。それは、全能者の奇しき導きであったのです。

 でも、この三吉が、本邦初の「聖書」の翻訳に携わったことは、驚くべき特権だったことになります。ゴーブル訳、コナント訳、そしてヘボン訳があって、King James version を基盤に、明治訳聖書、元訳聖書、文語聖書、口語聖書、新改訳聖書などの、日本語訳聖書が誕生していきます。

 上掲の地図のように、アジア、ハワイ、アメリカ大陸、からヨーロッパにかけて、音吉たちが幕末から明治にかけて、広く各地を訪ねたことは特筆に値します。

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沖縄県

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 これまで戦時中の話を聞いてきた中で、一番の衝撃的なことは、沖縄戦での出来事です。一つは、本土守備のために、多くの戦闘機が、その海域で、アメリカ軍の戦艦に向かって、爆弾もろともに突撃したという、特攻隊の出来事です。

 弱冠十七歳で、突撃した少年飛行兵は、『自分が死んでも絶対に泣かぬよう。国のために死ぬのです。』と、家族への最後の手紙に記しています。父や母や兄弟姉妹を思う、あの時代の少年の一途さと気持ちが読み取れて、なんとも言うことばがありません。勇ましさへの憧れが、私の少年期にもあったのですが、残念な出来事でした。

 世田谷の朝顔教会を長く牧会した井出定治牧師の手記を読んだことがあります。特攻隊員の生き残りで、出撃の準備中に終戦を迎えています。19歳の時でした。『それまで私を支え、かつ永遠と信じていた「神国」がまさに崩れ去ると、もはやこの「国宝」を支える何物も残らなかったのです。在るものといえば、ただ軍隊という組織の中で、人間性を喪失した形骸でした。痴呆、虚脱、それが私の二十代の開幕でありました。(「泉への細きわだち」から)』と述べておいでです。戦後、イギリス人の婦人宣教師との出会いを、感慨深く記しています。

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 海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2045人、陸軍では1022人の兵士が亡くなっているのです。特攻機だけではなく、「人間魚雷」での爆弾攻撃もありました。その様な時代を再び迎えたくない思いでおります。

 もう一つは、捕虜になることを恥とする思いから、集団自決をされたみなさんのことです。『アメリカ軍は捕虜は殺さないから!』と言うことを聞かなかった人たちと、聞いた人たちとの差に、私は驚かされたのです。読谷村(よみたんそん)の「ガマ(洞窟を沖縄ではこう呼んでいます)」に攻撃を避けて避難した人たちの二つの決定的な違いです。

 今は、平和が戻っていますが、民間人94000人の犠牲者を出した沖縄での戦争を思うにつけ、戦争が何をもたらすのか、国家の威信、発揚、野望などが、人の犠牲を伴なうということなのです。今まさに、ウクライナ戦争で、その亡くなられる方の数を聞きますと、震えるほどの思いになります。

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 私は、沖縄には出かけたことがありません。子どもの頃に、父が、戦時中に撮影された写真集を買ってきてくれたことがありました。見た私には強烈な衝撃ばかりでした。そのせいもあって沖縄を訪ねることをしないままでおります。県庁は那覇市にあり、県花は「デイゴ」、県木は「琉球松」、県鳥は「ノグチゲラ」、人口は147万人です。第三次産業が、80%に届こうとしている観光が主要な産業の県です。

  「試練の歴史」を乗り越えて、今の沖縄があります。この沖縄、かつての「琉球王国」は、薩摩藩が1609年に攻め入って、支配下に置いている歴史があります。豊臣秀吉は、朝鮮半島や琉球を支配下に置こうと企てますが、その間に死んでしまいます。その後、島津家久が、侵略したのです。大陸は明の時代でしたから、日明貿易での利益のための侵攻だったのです。

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 戦後、アメリカの支配が続き、日米安保条約の下で、アメリカ軍の極東戦略の重要基地が置かれ続けています。「基地問題」は、大きいのですが、基地があることでの経済効果とか、また観光収入の財源に頼る県にとっては、難しい立場を持ち続けているのです。沖縄外の私たちには、何も言えない立場に置かれているわけです。

 琉球語があり、台湾や福建省の一部の言語の「闽南语minnanyu」に似た語もあると、沖縄からの中国への留学生が話していました。沖縄で歌われた歌で有名な歌があります。

一、てぃんさぐぬ花や
爪先(ちみさち)に染(す)みてぃ
親(うや)ぬゆしぐとぅや
肝(ちむ)に染みり

<意味>
ホウセンカの花は 爪先を染める
親の教えは 心に染みる

二、天(てぃん)ぬ群(む)り星(ぶ)しや
読(ゆ)みば読まりしが
親(うや)ぬゆしぐとぅや
読みやならぬ

<意味>
天の星々は 数えれば数え切れても
親の教えは 数え切れないものだ

三、夜(ゆる)走(は)らす船(ふに)や
子ぬ方星(にぬふぁぶし) 目当(みあ)てぃ
我(わ)ん生(な)ちぇる親(うや)や
我んどぅ目当てぃ

<意味>
夜の海を往く船は 北極星が目印
私を生んだ親は 私の目印

四、宝玉(たからだま)やてぃん
磨(みが)かにば錆(さび)す
朝夕(あさゆ)肝(ちむ)磨(みが)ち
浮世(うちゆ)渡(わた)ら

<意味>
宝玉と言えど 磨かなければ錆びる
朝夕と心を磨いて 生きて行こう

五、誠(まくとぅ)する人や
後や何時(いじ)迄(まで)いん
思事(うむくとぅ)ん叶(かな)てぃ
千代(ちゆ)ぬ栄(さか)い

<意味>
正直な人は 後々いつまでも
望みは叶い 末永く栄える

六、なしば何事(なんぐとぅ)ん
なゆる事(くとぅ)やしが
なさぬ故(ゆい)からどぅ
ならぬ定み

<意味>
何事も為せば成る
為さないから 成らぬのだ

七、行(い)ち足(た)らん事(くとぅ)や
一人(ちゅい)足(た)れ足(だ)れ
互(たげぇ)に補(うじな)てぃどぅ
年や寄ゆる

<意味>
一人で出来ないことは 助け合いなさい
互いに補い合って 年を重ねていくのだ

八、あてぃん喜ぶな
失なてぃん泣くな
人のよしあしや
後ど知ゆる

<意味>
有っても喜ぶな 失っても嘆くな
それが良いか悪いかは 後になって分かることだ

九、栄(さかい)てぃゆく中に  
慎しまななゆみ
ゆかるほど稲や
あぶし枕ぃ

<意味>
栄えても 謙虚でいろ
実るほど頭を垂れる稲穂が
あぜ道を枕にするように

十、朝夕寄せ言や
他所(よそ)の上も見ちょてぃ
老いのい言葉(くとぅば)の 
余りと思(うむ)ぅな

<意味>
お年寄りの言葉にはいつでも
世間を見習い耳を傾けよ
老人の繰り言だと侮るな

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 沖縄の県庁勤務だった方が、早期退職されて、中国語の留学で、華南の町で、一緒の寮にいたことがありました。毎朝、新聞を買いに出て、学んでいた熱心な同世代の留学生でした。また、アルバイト時代に、まだ本土復帰前でしたが、その仲間に、沖縄出身者がいて、一緒に働いたことがありました。

 家内は、東京の晴海埠頭から那覇まで船に揺られて、学校の教授の引率で、沖縄を訪問したことがあるのです。食堂の手伝いをしながら、揺れに苦労しながらの旅だったそうです。卒業した先輩たちのいる離島を訪問して、交わりをもったそうです。民家に泊めていただいたのだそうですが、いつまで経っても布団が出てこなかったので、家のみなさんの様子を見にいったら、ゴザの上に横になっていたそうで、それに倣って夜を過ごした思い出があるそうです。

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 米軍の基地が多くあることが、沖縄県の大きな課題で、県の財政ににも、基地存続は欠かせないのですが、建前だけではいけないのかも知れません。一朝事ある時には、再び戦場にもなる可能性が大きく、重い課題であります。

 同じ年の生まれ、川上や藤田元治に憧れた野球小僧で、沖縄から、初めて甲子園に出場した沖縄高校のピッチャーとして、南九州代表でした。プロ野球の広島、阪神、そして再び広島で活躍した安仁屋宗八がいます。漁師のお父さんに育てられていて、同じ時代の風を感じながら生きた沖縄県人として、身近に感じる人です。

(「白旗の少女」、「ガマ」、「デイゴ」、「黒糖」、「沖縄そば」です)

雪中花のスマホ撮影を

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 上の写真は、家内の散歩コースに咲いていた「水仙」です。下のものは、華南の街の家のベランダで、いただいたものが咲いたものでした。この水仙の花は、スペインやポルトガル、そして地中海あたりが原産で、絹の道で運ばれて、中国大陸に伝えられたそうです。

 日本には、遣唐使が、それを持ち帰って、増え広がって行ったという説と、中国の川岸に咲いていた花の球根が、海に流出され、海に漂い、海流に乗って、日本の海外にやって来て、波に打ち上げられて根付き、咲き始めたとの説があります。

 何度も、上海から船で帰国したのを思い返しますと、海流に運ばれた球根が漂流して、日本の海岸部に運ばれ、そこで群生したという方が、ロマンチックでいいかも知れません。福井県の越前岬、兵庫県の洲本、淡路島などに群生ていますから、あながち想像上の渡来説だとは言えなさそうです。

 別名の「雪中花」の呼び名が、私は大好きです。

風に風に 群れとぶ鴎
波が牙むく 越前岬
ここが故郷 がんばりますと
花はりりしい 雪中花
小さな母の 面影ゆれてます

紅を紅をさすこともなく
趣味は楽しく 働くことと
母の言葉が いまでも残る
雪をかぶった 雪中花
しあわせ薄い 背中を知ってます

いつかいつか薄日がさして
波もうららな 越前岬
見ててください 出直しますと
花はけなげな 雪中花
やさしい母の 笑顔が咲いてます

 雪の深い越前の岬に咲く雪中花の写真を見たことがあります。雪を被りながらも、寒さの中に、吹く風に負けず咲く姿が飄々としていいのです。家内が入院中に、一人で住んでいた貸家の道路際に、洗濯物を持ち帰った折、ひっそりと白と黄色に咲いている花を見ることができました。その健気さに、どんなに励まされたか知れません。

 まさか、散歩中に、そんな家内がスマホをかざして、雪中花を撮れるように回復するとは思いもよりませんでした。感謝な春三月です。

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まだヨチヨチ歩きの春

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 ラジオ体操仲間の方の家の前の木に、「梅」が咲き、図書館への道の途上に、この近辺で一番早く咲くと言う、「桜」が開いています。昨日の家内の散歩での撮影です。相馬御風の作詞です。お嬢さんが生まれた大正10年の作だそうで、弘田龍太郎が作曲しています。

春よ来い 早く来い
あるきはじめた
みいちゃんが
赤い鼻緒の
じょじょはいて
おんもへ出たいと
待っている

春よ来い 早く来い
おうちの前の
桃の木の
蕾もみんな
ふくらんで
はよ咲きたいと
待っている

まだヨチヨチ歩きの「春」で、週末はまだ寒そうです。

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懐かしい思い出になる

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 『強い男にならなくっちゃ!』と、死に損ないの私は決心しました。弱虫は男の敵だと思って、けっこう我慢強く生きようとしていたのですが、すぐに風邪をひき、起き上がる力がなかったのです。咳が出て、微熱が出ると、go sign を読みとった母は、肺炎の再発をさせないために、そんな私を電車に乗せて、隣街の最良の国立病院に連れて行ってくれました。

 ただ帰りにガムやチョコレートやピーナッツのどれか一つを買ってくれると言う餌に釣られて、食いしん坊の私は、ついて行ったのです。そんな病院通いが、三年生までの間中、繰り返されていました。ところが4年になった頃から、健康を取り戻して、好きな学校に行けるようになったのです。でも落ち着いて座っていなくて、よく担任の先生に叱られたわけです。

 大正9年に、「靴が鳴る」や「雀の学校」の作詞をした清水かつらが作詞し、広田龍太郎の作曲で、「叱られて」が発表されました。物悲しい歌でしたが、有名な童謡の一つです。

叱られて
叱られて
あの子は町まで お使いに
この子は坊やを ねんねしな
夕べさみしい 村はずれ
こんときつねが なきゃせぬか

叱られて
叱られて
口には出さねど 目になみだ
二人のお里は あの山を
越えてあなたの 花のむら
ほんに花見は いつのこと

 清水かつらのお母さんは、弟を産んで、精神的な問題をきたしたと言う理由で家を出されてしまいます。そんな辛い経験をさせられたのが、かつらが4歳の時でした。9歳の頃に、父親が再婚し、その継母に育てられています。優しい女性ではなかったようです。

 これは母から聞いたことですが、私の父も、明治の終わりに、産んでくれたお母さんが、家の格に合わなかったと言う理由で、家を出されたのだそうです。間も無く祖父は結婚をします。継母は、男の子を生んで、その子が嫡出の子になり、父は庶子、家督を継ぐことのない子だったのです。妹が三人いて、『お兄さん!』と慕われますが、旧制中学生の頃に、家を出て、東京の親戚の家から、転校した中学校に通うのです。

 お弁当におかずが入っていなかったり、弟妹とは、違っていたのだそうです。そんなもがく父を、親戚が助け舟を出して受け入れてくれたのでしょうか。でも、継母の名を呼び捨てにしていた父が、『辰江さんは・・・』と言って、『あの時代、シュークリームを作ってくれたり、トンカツを揚げてくれたりで、料理の上手な人だった!』と思い出を話してくれたことがありました。父が亡くなる少し前のことでしたから、しがらみを投げ捨てて、赦していたのでしょう。

 その継母の葬儀に、なぜか父は私を連れて行ったのです。人間は、やはり偏見があったり、自分の産んだ子の方が可愛いし、先妻の子の父に対して、あったことは仕方のないことなのかも知れません。全部神が許されなくては起こらないことだとするなら、その辛い出来事に、神を認め、どんな仕打ちだって赦すことができるではないでしょうか。

 かつらは、だれに叱られているのでしょうか。実母に会えない自分の惨めさや寂しさの中で、叱られて街まで買い物に行かされたり、狐が泣く頃まで、家に帰れないようなことが、まだ小さいかつらにあったのでしょうか。継母が、そんなことまでするでしょうか。

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 その父は、私を叱って、家から2回追い出したことがあったのです。鉄道の貨物の荷揚げや荷下ろしをする引き込み線に停車してる列車の最後尾の車掌室で寝たことがあります。そんな所で寝たことのある人は、多くはないことでしょう。また、裏山の林の中で枯れ草を集めて、その中で星を見上げながら泣いて、寝た夜もあります。

 「叱られて」を口ずさみますと、そんな出来事を思い出してしまうのです。でも、この歳になると、懐かしい思い出になるのがいいですね。まあまあ長生きさせていただいて、残りを、懐かしく過去を思い出し、これからも、まだ前に拓け行く世界に向かって、楽しく感謝して生きていこうと思っております。今日から、父の誕生月、弥生三月になりました。

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如何ともし難いこと

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 最近は、手紙を書かなくなってしまっているのですが、何か足りなさを覚えます。今は、[ e-mail ]という便利な通信手段がほとんどになってしまい、電子活字では伝わらない、心情のこもった肉筆の手紙が懐かしく感じてしまいます。

 クリスチャンの政治家で、総理大臣を務められた、大平正芳首相の書かれた手紙を読む機会が最近ありました。恩師が著された本の寄贈へのお礼なのです。明治末に、香川県和田村(現在の観音寺市です)で生まれ、尋常高等小学校で教えを受けた、稲田先生から回顧の書をいただいたお礼の手紙なのです。

謹啓、時下、愈々御清健に渉らせられ、慶賀の至りに存じます。偖て、本日は、貴著『あした葉』御恵投に預り、誠に難有、厚く厚くお礼申し上げます。日頃は御無沙汰ばかりで全く汗顔の外なく存じていますのに、お忘れもなく御芳誼を頂き、感激の他ございません。ちょうど明後三十日より九日間北米中南米方面に出向きますので、機中絶好の読物を得ていささか心が躍っております。何れ読後改めて御礼申上げる所存でありますが、不取敢思わざる御芳情に接した悦びをお伝えいたします。

先は要々御礼まで。御令室様によろしく御鳳声下さいませ。     不一

四月弐八日夜
大平正芳拝
稲田伊之助先生  玉案下

 そして読後の感謝の手紙です。

前略先般御恵投頂きました『あした葉』、偶々過般外遊中五十八時間機中におりましたので、楽しく読ませて頂きました。私が驚きましたのは、稲田先生の御記憶の強さ、正確さです。私など幼少の頃の記憶が不確かであるのに比して、先生のそれの正確さには只々舌を巻く次第です。次に用語が平易、表現が簡明、これこそが正に達人だという感嘆の思いで一杯です。それよりも何よりも、先生の人間に対する思いやりや愛情の深さに痛く感銘するとともに、先生御自身の清涼な人生が崇高なものであることに羨望の思いさえ感じた次第です。本当に御恵投有難うございました。

どうかいつまでも御健勝で、われわれ後進を御指導下さいますようお祈りいたします。先は御厚礼まで。     不一

五月二十日早朝
大平正芳拝
稲田伊之助先生  玉案下

 社会的な立場を得ても、こんな思いで恩師に感謝をする大平首相の生き方、接し方に驚かされます。この方は、私の父と同じ、1910年3月に生まれておられ、明治、大正、戦時下の昭和、戦後の昭和を生きた方です。聖公会の信徒で、ご自分の信仰を言い表しておいででした。

 私も、多くの良き師に出会い、薫陶や行く道を教えていただいたのですが、恩師への感謝は、心の中では思ってはしましたが、大平首相のように言い表わすことはありませんでした。「玉案下(ぎょくあんか)」などと書いて、恩師に敬意を払いたかったなあ、と思いますが、もうすでに、恩師方は亡くなられておいでですから、如何(いかん)ともし難いことであります。

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