黄昏

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いつのことでしたか、壁に寄り掛かって、何を考えるでもなく、遠くに視線を送っていましたら、『何をタソガレているんですか?』と、あるご婦人から話しかけられたことがありました。夕方ではなく、昼過ぎだったでしょうか、「黄昏れる」という言葉を初めて聞いたのです。物思いに耽っている様に、あるいは放心している様に見えたのでしょうか。また、人生の「黄昏期」に差し掛かって、初老を感じさせていたからかも知れません。『あまり、活動的に見えないよ!元気を出して!』とでも言いたかったのかも知れません。

「黄昏」は、「誰(た)そ彼」と言う古語から生まれた言葉で、夕闇で誰れだか分からないので、そう問い掛けて言ったのだそうです。それを、漢字で、そう表記する様になったのです。私が、<漢字検索>で使う「漢典」という中国語サイトには、「◎ 黄昏 huánghūn[evenfall;dusk]∶日落以后至天还没有完全黑的这段时间」とありました。日没後、まだ空が暗くなる前の時間帯のことを言う様です。唐の時代、李商隱が詠んだ「樂遊原詩」に、「夕陽無限好,只是近黃昏。」とありますし、「三國演義」にも、「時至黃昏,風雨暴至,兩下各自收軍。」とありますので、ずいぶん昔からある言葉だとい言うわけです。

夕方を、「燈点し頃」と言ったりしますが、冬にはもう真っ暗な時間帯なのに、さすが夏至の今頃は、まだ外が明るいのです。アメリカの西海岸のオレゴンを訪ねた時に、夜の9時、10時になっても、まだ空が明るかったのには驚かされてしまいました。その時、『「白夜」とは、こう言った感じなんだろうか?』と、感じ入ってしまいました。

日本には、「◯◯百選」と言われるものが多くあるのですが、「夕日百選」と呼ばれるものがあります。私の母の故郷、島根県の宍道湖(しんじこ)に、「島根県立美術館(写真)」があって、その湖に沈んでいく夕陽の景観が素晴らしいのだそうです。全面ガラス張りの建物から、その夕日が眺められるる様な作りになっています。3〜9月までは、閉館時間が、日没30分後にされていて、参観者が夕日を見られる様に配慮されているのです。

今春、入院手術のために帰国中、こちらに戻る前の一週間、弟の家に泊めてもらったのです。彼との話しの中で、今度、私が帰国したら、母の故郷に、母の親しい知人を、兄弟で訪ねる計画が提案されたのです。みんな人生の「黄昏期」に入って、時間を工面できますので、表敬訪問したついでに、宍道湖の「シジミ」の味噌汁を飲むことができそうです。できたら、この美術館で夕日を眺めて見たいものです。
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オカッパ

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中国の街に住み始めてから、街の風景が大きく変わってきています。その一つは、道路が整備されてきたことです。信号機が設置され、道路の幅員が広げられ、中央に分離帯ができ、歩道には、点字マークも入れられてきました。ただ、歩道に電気自転車が、結構速度が速く通り抜け、時々、乗用車が走ったりしているのには、迷惑されているのです。それと、信号の待ち時間が長いことです。なかなか青信号に変わらないのは、忍耐の学習です。

その他には、「幼稚園」が、たくさん増えたことです。「小区」ができると、新居を購入して住む若い方の所帯に、子どももが与えられて、その子育てを助ける意味で、ほとんどの小区の正門の脇で、開園しています。前に住んでいた小区の幼稚園は、300人もの園児がいて、大賑わいでした。毎朝、軍服を着た四人ほどの上級生でしょうか、国旗をかざして入場し、掲揚のポールに掲げて、朝礼をしています。

やはり「愛国教育」を、幼い日から施しているのです。先生たちから号令がかかり、統率のとれた行進をしていて、"小軍隊"の様にも感じられます。そこでは、よく先生たちが入れ替わっていました。院長が厳しいからでしょうか、傍目に”ピリピリ感”が伝わってきていたのです。幼児教育は、一番難しい教育ですので、しっかりと明確な使命感を持たないと、続かないのも一つの原因かも知れません。

九月の入園の時期には、園内から鳴き声が聞こえ、登園時に、尻込みをして親に、『帰りたいよう!』と泣いたり、渋ったりしている子がいて、送って来たお父さんやお母さんやおばあちゃんを困らせている光景を、よく目にしました。どこの国でも見られる光景でしょうか。わが家の子は、まだ就園してないのに、留守の間に帽子やバッグをつけたりし、兄や姉にくっついて行こうとして止めるのが大変でした。

こちらの登園や帰宅の際の光景が、こちらでは独特なのです。おじいちゃんやおばあちゃんが、孫のカバンを背負って手を引いているのです。これは小学生でも同じで、重いカバンを、ずしりと感じさせるのも、学習が厳しいものであるということ、忍耐力や自立心を養い育て、お教える機会なのに、それを奪ってしまっているのです。

『孫に重いものを持たせて、なんという爺婆だ!』と言われたくない心理もありそうです。何でもやってもらえる依頼心の強い子どもが出来上がってしまったら、後が大変ですね。ほとんどの子どもは、二人の両親と四人の爺婆を背後にした《王子様(こちらでは"小皇帝"》になってしまいます。

これって、山の中で育って、幼稚園に行かせてもらえなかった私の<やっかみ>かも知れませんね。ただ、こちらの子どもたちが、愛情深く育っていることは確かです。でも、この間、結婚式に行って会った、一人の幼児は、"オカッパ"頭の「ちびまる子」みたいで、随分昔の小学校時代の同級生を思い出してしまいました。みんなテレビに出てくる子役の様に、ブランド品を身につけて都会的になっている中で、郷愁を感じさせられて、何となく"ホット"させられたのです。
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住んでみたい街

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最近の街中の様子ですが、老朽化した集合住宅が、あちらこちらで取り壊されているのです。煉瓦造りの家が、6、7階の集合住宅に建て替えられ、今やその立て替えたものが、きっと修理箇所が増えたりしてきたのでしょう、それで、高層の集合住宅があちこちに建ち始めていて、ふたたび工事ラッシュが見られます。

しばらく行かなかった地域が更地にされていて、重機が入って、基礎づくりをしているのです。昨晩、この街の商業の中心地に行ってきました。そこは、水運を利用して、物資の集積地で、情報交換の場でもあったようです。近隣の街や村との間で、物流をしてきた、古代からの商業地域なのです。そこにある御宅に、食事に招かれて行ってきました。

17階のベランダからは、遠い向こうの周辺地域に、高層の住宅やオフイスビルが建ち並んでいるのが見えます。でも足下に広がって見える低層の住宅群があって、やがて取り壊されて、建て替えられる計画があると言っておられました。やはり個人が、相当な資金を持っていて、政府から土地を長期にわたる借款料を払って、借りるのか買うのかして、集合住宅の建設事業を展開しているのです。

建設するにあたって、1、2階は「商店」や、最近では「文化教室」や「予備校(塾)」にして、入居者の利用を見込んでいるのです。それに伴う道路の拡幅工事も進み、街全体に開発事業が盛況です。農地の転用が盛んで、瞬く間に商業施設(shopping mall)ができ、ホテルやスーパーマーケットや遊戯施設が出来上がってきて、めまぐるしいほどです。

外資が投入されるのでしょうか、私たちが引っ越してきた「小区」は、30棟ほどがあって、そう言った「小区」が周りに、十数個もある、一大住宅地になっている地域です。聞くところによりますと、これらは、マレーシア在住の華僑の方の事業なのだそうです。隣の高級別荘地の中に、この方が家を持っていて、来華の折の住宅とされているようです。

こちらに来ましてからの12年間の変化と発展は、驚くほどのものがあります。自動車が増え、それに伴う道路の拡幅整備、そう言えば旧市街と新開発地域との間に流れる、多分、日本でいう一級河川は、最近、水質が良くなって、流れの底が、浅瀬では見えるようになってきています。かつては異臭がし、浮遊物も多くて、流れに足をつけることなどできなかったのです。環境整備も進んでいる昨今です。

緑も多く、それで空気もきれいで、上水道の水質も、中国では飛び抜けてきれいだとの調査結果が出ています。日本でも、「住みやすい街」、「住みたい街」が毎年選ばれているようですが、私たちに住んでいる街は、「住んでみたい街」のトップクラスに違いありません。

ターキー

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11月23日は「勤労感謝の日」、アメリカでは"サンクス・ギビング・ディ"でした。この日は、私に様々なことを教えてくださったアメリカ人起業家で恩師の誕生日でした。お元気だったら、今年、82歳になっておられたのですが、お病気で召されました。この方が、"ターキー(七面鳥)"をグリルにしたのが好物でした。きっと、お母さまが、息子に誕生と祝日の祝いにために、毎年、手料理をして、この"ターキー"を食卓に載せた味だったのでしょう。

この祝日に、長女が"ターキー"をグリルして、婿殿と、招いた友人のために料理をし、食事会を持ったそうで、その時の写真を送ってくれました。立派な食卓ですね。私も、恩師から分けていただいたりして、好きなのです。いつでしたか冷凍の"ターキー"の肉を買ったのはよかったのですが、グリルがなくて、結局、どなたかに上げてしまったことがありました。

いつか、お腹いっぱいに食べて見たいものです。垂涎(すいえん)したままで、その時を待とうと思っています。晩秋の味覚の一つなのでしょう。働いておいでのみなさん、そして働き終えたみなさん、ご苦労様でした。
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婚礼

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次女が、栗を蒸したそうで、その皮をむいた写真を送ってくれました。孫たちが、日本の様に、蒸したり、茹でたりしたものを食べたことがなかったので、初めて秋の味覚を、その様にして孫たちが食べ、とても美味しかったと言っていました。

私たちの町では、ドングリと同じ様な形状の栗があって、胴のところにナイフで傷をつけて茹でるのです。皮をむきやすくするためです。よくお邪魔する家で、秋になると、奥さんが、この栗を出してくれます。この栗が、ほんとうに美味しいのです。また日本の栗と同じ形状のものもあって、先日、家内が茹でてくれました。ホクホクして、子どもの頃を思い出してしまいました。それが秋の運動会の定番だったでしょうか。

『秋はいいな!』ですね。涼しいし、空気は澄んでいるし、食べ物は美味しいしからです。この週末に、車で2時間ほどの街で、婚礼があって、若いお二人を祝福するために出掛けてきました。私たちに結婚生活を聞きたいと、二度ほど、やって来られたお二人でした。ご主人のお仕事をされる街に嫁入りをしたのです。

大勢の若いみなさんに祝福されておいででした。中国語では「先輩」を「長輩」と言うのですが、"46年"も結婚生活をしてきた家内と私にも、一言すすめの言葉を話して欲しいとのことでした。花嫁の友人で、大学で日本語を専攻された方に通訳していただいて、お話をさせていただきました。『多くの人が訪ねてくる素敵な家庭を作ってください!』とすすめたのです。

雨降りの寒い週末でしたが、溢れる喜びが、ホテルの式場に溢満ちていました。帰りに、車に乗り込もうとした私たちにのために、花嫁がドアーを開けてくれたのです。気配りや優しさに溢れたお二人です。幸せを願いつつ、暖かな思いやりを感じながら帰路につきました。
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過ぎたるは

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ネットで、ニュースを読んでいますと、どうも世相が、「殺伐(”goo辞書”[形動][文][ナリ]殺気が感じられるさま。また、潤いや温かみの感じられないさま。「見えない手の揮 (ふる) う剣の光が、もう一度彼を―な争闘の心につれて行った」〈芥川・老いたる素戔嗚尊〉」としてきているのではないでしょうか。ちょっとしたことだと思えることに、不愉快を覚えるのでしょうか、言葉荒く非難し、要求する人が増えています。

帰国時に、市役所で、留守の間にしなかった市民としての義務の届け出や支払いで、市庁舎の中を行ったり来たりしていた時、「納税課」の前の椅子に座っていた、40才ほどの男性が、大声で自己主張を繰り返していました。担当課長もいたでしょうか、係が3人で対応していて、この人が『金を返せ!』と横柄に言いながら、喚き散らしていました。手のつけられない状況に見えたのです。

ピリピリした空気が、二階の他の部署まで張り詰めていました。どなたかが警察に通報して、制服の警察官が四人やって来て、この人の背後で、彼の主張を聞いていました。警官の前では、流石のこの人も声を落として、ボソボソと言っているのが聞こえてきたのです。こう言った「迷惑行為」に、店などで、時々出くわすことがあります。

流通業などが加盟する産別労組「UAゼンセン」が5万人を対象に行った調査の報告があります。従業員の約7割が、迷惑行為を受けた経験があるのだそうです。その迷惑行為の内容は、「暴言」27・5%、「同じ内容を繰り返すクレーム」16・3%。「土下座の強要」も1・8%でした(複数回答)。随分、大きな数字になっているようです。

いわゆる"サーヴィス"の仕事をしている人たちは、その対象者に、<サーヴィス優先>が過ぎているのも気になるのです。飛行機のアテンダントの仕事ぶりを見ていて、こちらの航空会社と日系の航空会社のサーヴィスは、歴然として違います。今回の帰国で、日系の便に搭乗したのですが、ひっきりなしに乗客の必要に届こうと目配り、気配りをしていました。『こう言ったサーヴィスをする様に、マニアルにあるんだろうけど、疲れないかな?ストレスは大きいのでは?』と思ったのです。<程々>で好いのです。

余りにも《お客様》扱いをし過ぎているのではないかと思います。こちらの様に、あまりにも素っ気ないのも、『どうかな?』ですが、《おもてなし》も行き過ぎてはいけないのです。私の兄は、<名物ホテルマン>でした。宿泊客に抜群の支持を得ていました。それは『ここに泊まって好かった!』というサーヴィスに腐心していたからです。海外からの宿泊客とは、こちらからx手を延べて握手を常にし、対等な立場も示していたほどでした。《へつらいし過ぎないサーヴィス》に徹していたのでしょう。

ですから休日にはゴルフに誘われる様なこともあり、次回の利用時には、お土産までもらうことが多かったそうです。アルゼンチンのブエノスアイレスに行った時に、入ったレストランで、ウエーターが、『これこそがプロフェッショナル!』と言えるほど、誇りと自信で、毅然と給仕しているのを見て、流石だと思ったことがありました。客は<求め過ぎ>で、サーヴィス業のみなさんは<し過ぎ>です。"過ぎたるは及ばざるが如し"、ですね。
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家事分担

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朝食の用意、毎食後の皿や茶碗や鍋やフライパンの洗いは、私の当番で、ずっとしてきています。時々嫌になる時もありますが、結構忠実にしています。母親が、二度長期入院をしたので、兄たちは父の家を出て、働いたり、学校に行っていましたので、父一人に家事をさせるわけにはいかず、よく手伝いました。

その所為もあって、家事が苦にならないのです。ハンバーグやオムライスやカレーライスや酢豚やサンドイッチやフレンチトーストなどを、時々作ってきました。それは、アメリカ人起業家と、長く、そして近くで過ごしたので、彼らが家事をしている姿を見てきたからだと思うのです。家事の分担は、男もすべきでしょう。掃除機をかけたり、床を乾燥モップで拭いたり、水モップで拭いたりもします。

総務省の「2016年社会生活基本調査」で、次のように報告されています。『家事関連時間は女性が1日3時間28分に対し男性は44分。女性は男性の4・6倍である。』そうです。夫婦双方が、外で働くことが多くなっていても、やはり、家事の負担は女性の方がはるかに重く多いのです。

今住んでいます家は、若い友人の留守をしているので、きれいに保つ責任があるので、注意しています。前の家より、広くなっていますから、すべきことが増えているのです。今朝も、洗濯機を回しました。私は早寝早起きですので、そうなってしまいます。

この住んでいます街の男性は、「亭主関白」の反対で、よく家事をこなすのだそうです。食事に招かれると、奥さんは話に夢中で、ご主人が台所で、料理に腕をふるって、もてなしてくれる家庭がほとんどです。テーブルを拭くのも、後片付けも彼がしています。それで、じょせいは、この街の男性と結婚するのが好いとされてるとか。

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十二月になると、母が忙しくしていました。障子の張替えやら、大掃除をするのです。それを見ながら手伝ったので、いつか「障子の張り替え」は、私の当番になっていました。襖(ふすま)も張り替えたこともありました。掃除機も、文化モップも、洗濯機もない時代、脇目も振らずに働いていた母を思い出します。"四人+一人"、五人の男の子の世話をしていたからです。

(茶碗と障子です)
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あさがおの葉っぱ

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ずっと雨続きの日でしたが、今日は、久し振りに太陽が出て、眩しいほどで、好い天気になりました。それでも、外出時には、冷たい風が吹いて、上着の前のチャックを閉めるほどでした。ベランダの朝顔の葉っぱが陽を受けて輝いているところを撮ってみました(上は午前9時過ぎ、下は午後4時過ぎ)。

数年前に、こちらを訪ねてくれた娘が買ってくれた、テフロン加工のフライパンが卵焼きなどをすると、焦げるようになってしまい、もう買い替えの時期かと、アメリカ系のスーパーに行ってみたのです。以前よりも、物の量が溢れるように積み上げられ、種類も多くなっていて、<3個で◯◯元>の商品の種類が多くなってきています。

商品棚を眺めていたら、店員(服务员fuwuyuan)が、『これが好いですよ!』と進めてくれたので、それを買って帰ってきました。これで美味しく調理ができることでしょう。これから夕飯後、知人宅にお茶会に行くことにします。
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アサガオ

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急激に寒くなってきました。午後2時の気温が15℃ですが、「炬燵(こたつ)」に入りたいほど、寒さがこたえます。ちょっと形が整わないのですが、朝顔が開いてくれました。葉が枯れ始めてきています。寂しそうに咲いていても、朝顔は朝顔です。小声で、『ありがとう!』と言ったところです。
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好きだから

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「好きこそものの上手なれ。」とは、"大辞林"によると、『何事によらず、好きであれば自然それに熱中するので、上達する。』と解説されています。世の中って、嫌々、渋々、仕方なく生きている人が多いかも知れません。時々、買い物に行く雑貨店があるのですが、店の中に入ると、先ず、"ジロリ"と見られ、『要什么yaishenme何が欲しいんだいw?』と言われるのです。『いらっしゃいませ!』と言って迎えて欲しいのに、そう言われると、もう購買意欲がなくなってしまって、帰りたくなるのです。

思うに、この店は、窃盗されることが多くて、その対策上、来店してくれた時に、喜び迎えたいのに、『もしかしたら?」と思うからでしょうか、買い物をする私に付いて回ることもあります。もしかしたら、つまらない仕事をしていて、つい無愛想になってしまうのかも知れません。何を買っても、『ありがとう!』と言われて見たいなと思って、店を出るのですが。それでも物揃いが半端なく、多種多様なのが、この店なのです。

「カズ」と親しまれて呼ばれているサッカーの「三浦知良選手」は、50才になったのですが、来季も現役を続けていくのだそうです。十代で、ブラジルにサッカー留学をしてから、この一事に励み続けた名選手です。多くの人が、転職や退職を考え始める年齢になっても、続けていく理由を、カズは次の様に言っていました。『サッカーが好きだから!』だそうです。

私たちも、今していることを、『好きだから!』と言えるなら、80や90になっても、することができるに違いありません。23才になったプロ野球の大谷翔平選手は、小学生の低学年で野球を始めたそうです。そして、来季は、メジャーリーグですることに決めました。彼も、野球をし続けて行く理由を、『好きだからです!」と言っています。

<親子二世代>の年齢や経験の違いを超えても、この二人に共通していることが、能力があるから、不安が期待しているからだけではないのです。《夢》を実現させていくのは、その《夢》を増殖させる、『好き!』という思いなのです。幼い日の感情を持ち続けて、夢を追いかけて生きて行く姿は、素敵ですね。

そうですね、今していることを、改めて《好き》になろうと決心した次第です。
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