教育

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「若者」と「老人」を比較して、次の様に言っていました。

未来を見る☞☜過去を見る
これからの人☞☜これまでの人
覚える人☞☜忘れる人
上を向く人☞☜下を向く人
ピチピチ☞☜ヨレヨレ
異性が好き☞☜異性が嫌い
大食い☞☜小食い
金欠☞☜病欠
発展途上人☞☜衰退途上人
忙日閑あり☞☜暇日閑のみ

『そうだよなー!』と思ってしまいました。だからででしょうか、でも中学に入った時を、昨日のことの様に思い出すのです。父親は県立中学校から、家庭の事情で、都内の私立中学校に転校しています。この中学校は、<一高>への入学者数の多く、東京の私立では名門中学だった様です。そんな父が、私を、私立中学に入れてくれたのです。私の街で、大きなパン工場を、経営していたお父さんを持つ同級生が、同じ中学の女子部に入ったきりでした。

兄たちも弟も、街の公立中学に進んだのに、父の寵愛と期待を受けて、私は進学したのです。その学校の校長を、教育者の「鑑(かがみ)」と、父が高く評価していたからでもあったのです。そこは、<大正デモクラシー>の、日本の近代では、文化や芸術が花開いた、とても好い時代で、その時代の風の中で、独自の教育観に立った学校を建てたのです。

幼稚園、小学校、中高と、そして、<団塊(だんかい)>の進学者を受け入れるために、何年か後に、大学を併設しようとしていた学校でした。丸刈りの坊主頭で、海軍兵学校の様な、蛇腹の制服を着ました。医者や市会議員や商店主や中央競馬会関係者の子弟の中で、6年間学んだのです。

髭の生えた高校三年生と、産毛の生え立ての中学一年生が、同じ敷地の中で、過ごしたのです。次兄が高等部に、同時に入りましたので、《◯◯の弟》で、先輩に一目置かれていたのです。入学してすぐの時に、120人ほどの同級生の中から、五人が学年主任に呼ばれたのです。『しっかり勉強して、☆大を目指しなさい!』と発破を掛けられたのです。

五人のうち、誰も学校の期待に応えませんでした。三流の学校に、私は進んだのですが、その学校は、自分に一番相応しい学舎(まなびや)だったと、今も思うのです。幕末にやって来たアメリカ人医師や教師たちが、横浜と築地(つきじ)に建てた学校でした。「教育」とは、人のうちにある可能性を引き出してくれる働きですが、受けた教育は、私にもそうしてくれたのです。父や学校の期待に沿って、偉くはなれませんでしたが、これまでの歩みに満足しております。そうですね、もう「30年」、生きるつもりでおります。

年を重ねて、上述のリストの様に、マイナスばかりが残っているではなく、就学前に、重篤な病で死にかけたのに、ここまで生きて来られ、今も健康が与えられ、夢も自分には、まだあるのは、感謝なことであります。

(明治初期の「築地」の様子です)
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暖まってゆきなよ

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1974年の1月のことでした。よく聞こえてきたのが、「襟裳岬(作詞岡本おさみ、作曲が吉田拓郎、唄が森進一)」と言うフォーク調の歌でした。暦の上では「初春」ですが、まだ真冬の天気、そんな寒さの中で、聞こえてきたのです。

1 北の街ではもう 悲しみを暖炉で
もやしはじめてるらしい
わけのわからないことで 悩んでいるうち
おいぼれてしまうから
だまりとおした歳月(としつき)を
ひろい集めて 暖めあおう
えりもの春は 何もない春です

2 君は二杯めだよね コーヒーカップに
角砂糖をひとつだったね
すててきてしまった わずらわしさだけを
くるくるかきまわして
通りすぎた夏のにおい
想い出して なつかしいね
えりもの春は 何もない春です

3 日々のくらしはいやでも やってくるけど
静かに笑ってしまおう
いじけることだけが 生きることだと
かいならしすぎたので
身構えながら 話すなんて
ああ おくびょうなんだよね
えりもの春は 何もない春です
寒い友だちが 訪ねてきたよ
えんりょはいらないから 暖まってゆきなよ

この歌詞に、「暖めあおう」とか「暖まっていきなよ」と誘っている「暖炉」があり、暖房は、炬燵と火鉢、薪や石炭や石油のストーブ、そしてエアコンくらいしか知りませんでしたから、「暖炉」は、どんなにか暖かいかと羨ましく想像していたわけです。

古い歌に、「ぺチカ」という暖房器具が歌われて、知っていましたが、歌を聞いただけでは想像することができませんでした。満州やシベリアで使われていたもので、暖炉と調理に使われていた様です。朝鮮半島では、「オンドル」という壁や床に暖気を送って、部屋を暖める暖房の仕方ががあった様です。

子ども頃、父の家には、炬燵と火鉢があっただけで、それが標準的な日本の冬の暖房でした。それでも寒さの記憶がありません。今春、入院した札幌の病院で、子どもの頃の冬の「開拓部落」の自分の家の思い出を、食後のテーブルで、何度も聞かされました。と言うか、聞き出したのですが。窓の隙間から入ってくる雪で、朝になると寝床に雪が積もっていたとか、雪を沸かして水を作ったとか、冬の生活の大変さを聞かされたのです。でもみなさん、逞しかったのです。

もう北海道、襟裳あたりでは、「暖炉」に火が入ったことでしょうか。燃料は、薪ではなく、重油が燃やされて、部屋を暖かくしているのでしょう。そして、「暖まってゆきなよ!』と誘い合っていることでしょう。そう言えば、山形の新庄の出身の同級生が、冬の東京の寒さに凍えていたのです。東京の暖房が、十分な熱を与えていなかったからです。互いに「老いぼれ」てしまったのですが、半世紀も前の話です。横浜に住んでいる様ですが、どうしてるでしょうか。

(衛星から撮影した「襟裳岬」です)
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隙間風

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ニュースで、『はしだのりひこ、12月2日亡くなる!』と報じていました。同じ戦時下の時代の風のもとに生まれ、焼け野原から立ち上がって生きていく両親に育てられ、平和の時代に学び、経済の躍進を爆走する社会で働き、年を重ねて、後進に道を譲り、そう生きて来た同世代人の死は、やはり考えさせられるものが重く大きいのです。

"フォークソング"が流行っていた時代がありました。ヴェトナム戦争が、泥沼化していた頃に、その「反戦」の叫び声を上げて、アメリカの若者たちの間で歌われていた歌でした。それが日本の若者の共鳴を呼んだのです。私は"ノンポリ"で、『しなければならない戦争があるのかな?』などと思いながら、同世代が敵味方に別れて戦っていたので、早期終結だけを願っていました。

そんな"フォークソング"の流れの中で、1969年に、「風(歌:はしだのりひことシューベルツ、作詞:北山修、作曲:端田宣彦)」が歌われていました。

人は誰もただ一人 旅に出て
人は誰もふるさとを 振りかえる
ちょっぴりさみしくて 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
人は誰も人生に つまづいて
人は誰も夢破れ 振りかえる

プラタナスの枯葉舞う 冬の道で
プラタナスの散る音に 振りかえる
帰っておいでよと 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
人は誰も恋をした 切なさに
人は誰も耐えきれず 振りかえる

何かをもとめて 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
振りかえらずただ一人 一歩ずつ
振りかえらず 泣かないで歩くんだ
何かをもとめて 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
吹いているだけ 吹いているだけ
吹いているだけ…

「難破(本来は軟派です)」なギターも、あえてやらない私でしたが、タバコを吸い、酒も飲み、恋もした青年期でした。時たま隙間風(すきまかぜ)が、心の中を吹き抜けていく様な、寂しくて、空虚な日がありました。何か泥沼に嵌って、底に吸い込まれる様な、そんな地獄への淵で、心の目が開いたのです。きっと私の魂の叫びを、母が聞き取って、その母性の無言の呼び声に、私の心が応答したのかも知れません。

それ以来、心を風が吹き抜けていく様な、"遣る瀬無い思い”をしなくなったのです。「はしだのりひことシューベルツ」が歌った、「花嫁(作詞:北山 修、作曲:端田 宣彦)」も、よく聞きました。

花嫁は 夜汽車にのって
とついでゆくの
あの人の 写真を胸に
海辺の街へ 命かけて燃えた
恋が結ばれる
帰れない 何があっても
心に誓うの

小さなカバンにつめた
花嫁衣裳は
ふるさとの丘に 咲いてた
野菊の花束
命かけて燃えた 恋が結ばれる
何もかも 捨てた花嫁
夜汽車にのって

そして「小さなカバン」を下げた女性と出会ったのです。今の家内です。その「カバン」の中に、悲しみや涙を仕舞ってもらい、封印したのです。「カバン」は、中身ごと、手の届かない何処かで処分されたはずです。

(ヴェトナムの世界遺産の「ハロン湾」です)
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相撲

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私たちの世代では、戦争で出征して、戦地で戦闘や病気で亡くなった、「父なし子(ててなしご)」が多くいました。とくに親しかった小学校での長島くんや馬場くん、高校での池宮くん、大学での今村くんなどがいるのです。赤紙で召集され、一兵卒であったり、陸軍士官学校を出て、高級士官だったりで戦死しています。叔父も、南方で不帰の人となっています。

今では、病気や事故などで、父親を亡くした子がいます。今朝、家内が、『"日馬富士"は、父なし子として育って、十六歳で、75kgの軽量体重で日本にやって来て、相撲界に入ったんだそう!』と言っていました。ニュースで聞いたのだそうです。そんな辛さを知っていて、同じ様な境遇の"貴之岩”を、特別に目に掛け、可愛いがってきたのだそうです。

横綱は、そんな彼が、<土俵に落ちている金>を拾って、強い相撲取りに大成して欲しいと思っていたのでしょう。結構我儘だった"貴之岩"に、規律と愛とが行き過ぎて、白鵬に対して無作法をする彼を叩いてしまったのが真実の様です。泥酔しての行為だったのではなさそうです。

もちろん暴力はいけません。でも横綱の心意気とか思いやりを知ると、気の毒に思えて仕方がありません。私たちの世代は、相撲取りには、特別な憧れがありました。二所ノ関一門が、私たちの街に巡業に来ました。通っていた小学校の校庭に土俵を作って、そこで勝負する相撲を見てから、兄たちと、二所ノ関部屋の力士の不安になったのです。そこには琴ヶ浜とか玉ノ海などがいたでしょうか。

当時、相撲と野球とプロレスが、<三大スポーツ>でした。サッカーの試合で気勢を上げている今日日の若者たちの様に、一喜一憂しながら取り組みや勝負に、関心を向けていました。まさに<気が踊る>と言うのでしょうか。もちろん、スポーツと言うだけではなく、<興業>と言われる、<見世物>の面を併せ持っているわけです。

以前の大相撲は、貧しいけれど、体格が大きい子どもが、誘われて入門するケースが多かったのです。その後は、大学相撲から入門するケースも増えてきていますが、かつての貧しい時代の<立身出世>の機会だったのです。ものすごい稽古量を積んでしか、這い上がることのできない、まさに実力と努力の世界です。 今では、モンゴル出身の力士の活躍が目立ちますが、豊かな時代になって、貧しさを克服しようとすることが必要ではなくなってきていますし、自分を打ち叩く様な稽古は流行らなくなっているのは事実です。近代スポーツをやってきた私たちでさえ、ビンタや拳骨は当たり前でした。連帯責任も取らされたのです。全国制覇をするレベルでしたから、とくに厳しかったのでしょう。 平和的な決着を願っています。 (大相撲の「番付」です) .

誕生日の朝顔

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今朝も、ベランダの柵の外で、朝顔が開いています。その隣に、金木犀が植えられていて、今朝は、曇っているからでしょうか、昨日の様な甘い香りがして伊豆、ほのかに香っています。先ほど、長女の主人に、"FaceTime"で、『誕生日おめでとう!』と祝福することができました。東部時間では、12月4日は明日ですが、北京時間で、そうしました。婿殿は、喜んでくれました。今年は、家族が一人増えたので、大変嬉しい年になりました。
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デザート

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この上の写真は、「シログアイ(ある地域で正月料理に使われる"クアイ"とは違います)」とか「水栗」と言われて、九州や南西諸島でも栽培されているそうです。「馬蹄(ばてい)」に似た栗ほどの大きさをしています。私たちに住んでいる街では、この時期になると、道端でカゴに入れて、量り売りで売っているのです。よく皮剥き器で薄皮を剥きながら、それを売っていいます。ほのかに甘く、梨の様な食感で、水分も結構あります。

この下の写真は、「马蹄糕matigan」と呼ばれている、食後の甘味の"デザート"で、この「水栗(马蹄)」を粉末にした澱粉質で作った、「羊羹」に似たもの(食感はゼリーの様)です。時々、いろいろな形にしたものが、中華料理に出てきます。美味しいのです。
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もう一輪

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昼前に、出先から外に出ましたら、真っ青な空が広がっていました。家に帰って、ベランダの外に伸びた蔓に、もう一輪に朝顔が咲いているのを発見したのです。それを、午後5時前に、撮ってみたのが、この写真です。子どもの声が賑やかに聞こえてきます。入り口に広場があって、そこで遊んでいる声です。何処かで、ちょっと調子外れのカラオケで歌う声もしてます。日曜日の夕方の様子です。

「冬至」に向かって、日が短くなっていく大詰めなのですが、まだ明るいのは、今日は、久し振りに晴れたからでしょうか。いつもより暖かです。入り口に中型のトラックに、リンゴの入ったダンボールを満載して停めてあります。そこで、産地直送の直売会をしているようです。金木犀に植え込みから、甘い匂いもしてきています。穏やかな日曜日の夕刻の様子です。
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大好き

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高校の国語で、「古文」を学びました。あの文語体の文章の歯切れの良さが、大好きだったのです。話し言葉には、何か余計なものがあるのとは違って、実に簡潔だったからです。多分、子どもの頃に「時代劇」で、月形龍之介とか市川右太衛門とかの台詞を聞いらからでしょうか。「あなた」を、『おぬし』と言ったりしてました。一度、そう言ってみたくて仕方なかったのを思い出します。

それに、「漢文」も好きでした。杜甫や李白の詩を、<返点の"レ">などを付けて、日本語にして読んでしまうところが面白く、これも簡潔で大好きでした。先日お邪魔した家に、「小一xiaoyi」の男の子がいて、テーブルの上に、「漢詩」の国語の教科書が載っていました。小学校一年生で、漢字だけの「国破れて山河あり」を読めるのです。日本の小学校一年では、「80字」に制限されていますから、学習漢字数は、中日では<雲泥の差>がある様です。

その「古文」で、「徒然草」を学んだのですが、全編ではなく、「大学入学試験」に出そうな箇所だけを学んだに過ぎませんでした。その「徒然草」に、次のような事が書かれてあります。『酒は百薬の長というが、全ての病気は酒から起きている。知恵を失わせ、善行を火のように焼き尽くし、悪を増し、戒律を破って地獄に落ちるに違いない。(現代文に翻訳)』とです。吉田兼好の時代にも、「酒害」が多くあったのですね。

私の愛読書の「格言集」に、「強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。」とあります。「葡萄酒」には、心に痛みがある人の「痛み」を、一時的に和らがせ、忘れさせる効用があるのです。私は、25才の時に、お酒をキッパリとやめました。「好い酒」ではありませんでしたし、もう「酒」の力を借りないで、素面(しらふ)で生きていられる様になれたからだと思います。

あのまま半世紀も、酒を飲み続けていたら、家内の言葉によると、すでに生きてはいないかも知れません。ビールを2、3瓶、毎日飲んでいて、単純計算しますと[3瓶×365日×50年]、すごい瓶数、酒量、そして金額になる様です。弟に聞いた話ですが、『頭が酒でクラっとするたびに、脳細胞が驚く数で死んでいく!』のだそうです。

(杜甫が書いたとされる「書」です)
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師走の朝顔

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おはようございます。「師走(しわす)」の「朔日(ついたち)」、12月1日です。午前7時のベランダの寒暖計は17℃を示しています。室内の方が寒い感じがしています。「时间过了很快shijianguolehenkuai/時間って早く過ぎゆきます」ですね。

2017年も暮れゆくのですね。もう秋ではなく冬なのですが、Tシャツでいることもあるほどです。最近、カラッと晴れないのです。

「最後の朝顔」になるかも知れません。今朝、ベランダの流しの下で、小さな花を開いてくれました。

前に住んでいた家で咲いていた朝顔は、年を越しても咲いていたのですが、日射量が、ここよりも多かったからでしょう。家の南側には、向こうのビルとの間が広く離れていたので、燦々と陽が射していたのです。でもここは、緑が多くて、気が落ち着きます。

好い年末、好い1日をお過ごしくだだい。
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