17年

 

 

昨日は、2001年9月11日、アメリカのニューヨークなどで起こった、”同時多発テロ”から数えて、「17年」でした。信じたくない光景を、テレビで見たあの時の衝撃が、想像できないほど大きかったのを思い出します。娘から、連絡があって、『大変なことが起こったの!』と言ってきました。すぐに、テレビのスイッチを入れて、配信されてきた映像を見たのです。現実に、こんなことが起こるのだと、驚愕ししてしまいました。

今朝、"Facebook"を見ていましたら、ニューヨークの世界貿易センターの崩壊の様子を写した動画がアップされていて、それを見たのです。最近見つかった動画です。この撮影者は、きっと亡くなって、カメラだけが残されていて、それがアップされたのでしょうか。勇敢に実際の記録を残そうとされたわけです。その救助や消化などで駆けつけた消防士が、1700人も犠牲になったそうです。

また、その廃塵を吸った消防士、救助隊員、警察官などのみなさんが、今日、ガンに侵されていることも伝えられていました。その数は、10000人以上だそうです。すでに、もう何もなかったかの様に、人間は振る舞うのですが、犠牲になった方のご遺族、それが原因でお病気なった方々絵のことを考えると、胸が痛みます。

「憎しみ」や「怨み」といった感情が、こう言ったことを生み出すことを思うと、人間の心がいかに陰湿なのかが分ります。人はもともと、喜んで、楽しく生きられる様に造られているのです。でも、すぐに悲惨な暗い闇に、人が包まれてしまったわけです。世界中で、悲しい叫び声が上がっています。すべてのものが呻いいるのです。

明日に希望や夢を繋いで、人は生きていけるのでしょうか。孫たちに明るく屈託のない明日を、残して上げられるのでしょうか。この小区で、夕方になると、幼い子どもたちが、空き地に出てきて、嬉々と声を上げて遊ぶ姿が見られます。何も心配のない今を、楽しく過ごしているのです。両親やおじいちゃんやおばあちゃんから、限りない愛を受けて満ち足りているからです。

平和が安心や穏やかさが、この地上に戻ってくるでしょうか。猛禽が羊の赤ちゃんと戯れる様な日がやってくるのでしょうか。台風やハリケーンや暴雨や地震や崖崩れのない自然界が帰ってくるのでしょうか。病気や悩みやいじめのない社会が再生するのでしょうか。食べ物や水や空気は安心しての飲食できるのでしょうか。物や機会が満ち溢れてあっても、人の心に落ち着きがなければ、何もなりません。

私の知り合いのお嬢さんが結婚されたのは、飛行機のパイロットでした。上海への空路に就いていました。ところが、あの"同時多発テロ"のあった後、操縦桿が握れなくなってしまいました。それほどの衝撃を、多くの人に与えたのです。その後、リハビリを受けていたそうですから、この方は復職できたのでしょう。一番は、幼い子供の心が傷ついてしまうことです。癒され回復されて生きていける様に願う、週日の午後です。(9月12日記す)

(ニューヨーク名物の「ブルックリン・ブリッジ」です)

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キレイ!

 

 

初秋の東広島市に咲く、「ノアズキ」と「センニンソウ」です。[HP里山を歩こう]が配信してくださいました。撮影技術が優れていて、いつもキレイな写真を楽しませていただいて、喜んでいます。ありがとうございます。また、ここ大陸に、台風22号がまた近づいています。注意注意です。

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別れ

 

 

12年前、こちらに参ります時に、どうしても置いてこなければならないものがありました。それは、連れて来られなかった<猫たち>でした。猫の嫌いな私が、飼うことになったのは、しかも二匹もですが、事情がありました。

この猫たちは、娘婿が、南信(長野県に南部)にある高校で、“JET “と言う働きで、英語教師をしていました時、通勤途中に捨てられているのを、2度も拾って来て飼っていたのです。見捨てておけなかったほどに、娘婿の優しい性格によってです。その彼らが、生まれたばかりの息子を連れて、3年の任期を終えて帰国することになり、その猫を飼って欲しいと、私に言ってきたのです。

事情が事情でしたので、思い切って飼うことにしたわけです。ところが、飼っているうちに、情が移るというのでしょうか、可愛くなって仕舞ったのです。猫はあんまり懐かないと言われていましたが、人懐っこくて、可愛くなってしまったのです。オスの黒猫の“タッカー”、斑ら毛の三毛猫の”スティービー“でした。娘婿は、この猫に避妊手術を施していたのです。

外に出て行くと、一人前ではないことが分かる野良猫どもに、追いかけ回されて、いじめられるのです。それで、ひっそりと隠れているタッカーを見つけては、抱いて家に帰ることがしばしばでした。今度は可哀想になって来たわけです。ちょうどその頃、右手の肩の鍵盤を断裂して、縫合手術を市立病院でしてもらい、リハビリ中でした。家で寝ていると、二匹で走り回っては、寝ている私の体の上を走り抜けて行くのです。どうもわざとです。

私が部屋にいると、閉めてある襖戸を、タッカーが体を横にして寝転がって、前足2本で開けてしまい、入り込んで来るです。その仕草が面白く、笑っていました。<猫じゃらし>でからかうと、これも本気で飛びついて来るのです。猫の習性が少し分りかけている頃に、こちらに来る決断をしたのです。物は捨てたのですが、生き物を、どうしたらいいか考えましたが、術がありませんでした。

結局、家内が留守の間に、市の環境センターに連れて行ったのです。あんなに辛い気持ちはしたことはありませんでした。あの時、タッカーは、どこに行くか気付いていて、不安な呻き声を上げていました。それは聞くに忍びなかったのですが、後戻りできません。その辛い決断と、その断行は、今になっても忘れられません。

今朝、タッカーとスティービーの話が、家内と話題になりました。何十年と、して来た仕事を辞めることも、仲良くなった人たちとの別れも、家族から離れることも、みんな辛かったのですが、この<猫たち>との別れは、胸を締め付けられるほど悲しかったのです。それだけの犠牲があって、こちらで新生活が始まったわけです。多くの人と出会い、戦争責任の赦しを請い、学校で教え、近所の人たちと、倶楽部のみなさんと交流して今日を迎えています。

そんな12年前の決断を思い出して、秋空を見上げています。今朝は、24℃を、ベランダの寒暖計が指し示しています。今夕は、3人の方がやって来ます。家内と食事を作って待つつもりです。(9/10記)

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日記

 

 

書いた試しがないのが、「日記」です。小学校の夏休みの宿題にもあったと思いますが、多分、私は提出していないのです。その日その日のことを、綿密に記す人と、簡潔に記す人がいます。そして、私の様に、記憶の中にだけ止めておきたい人、人は多様です。

「日記」に記すのは、次の様な項目だそうです。

1.月日

2.天気

3.その日の主な出来事

4.人との関わりと約束

5.所感

6.書簡の交信記録

7.本の読後感

8.計画と予定

ポルトガル人のルイス・フロイスは、日本滞在中に「日記」を記していて、日本の歴史の編纂の資料として、重要な証言を残している様です。1586年に、近畿、中部地方で起きた「天正地震」について、その「日記」をもとに書き上げた、「日本史」に次の様に記されてあります。

『ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。その後40日間一日とて震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛もよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。若狭の国には、海に沿ってやはり長浜(☞TAGAHAMAとあったそうですが、TとNと勘違いしていたかも知れません)と称する別の大きい町があった。揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が遠くから恐るべきうなりを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。(高)潮が引き返すときには、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑み込まれてしまった。』

織田信長の時代、戦国の世に起こった「大地震」の記録です。今の時代の出来事は、映像で残されていくのでしょうが、やはり、「日記」は、書き手の主観が入り込んだり、勘違いがあるという弱さはあっても、歴史の概要は伝わってきそうです。このフロイスが、信長と秀吉を、次の様に記しています。

『信長は、「・・・睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。・・・彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、崇拝、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。」。そして秀吉は、「・・・彼は自らの権力、領地、財産が順調にまして行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えていった。・・・彼に対して憎悪の念を抱かぬものとてはいないほどであった。」』

けっこう偏見が見られそうですが。鋭い人間の観察眼を持って、正直に人間像を捉えています。

”blog“とは、『「WebにLogする」のウェブログ (weblog) をブログ(Blog)と略称する。』のだそうですが、これって「日記」とか「日誌」の部類でしょうか。子どもや孫たちに、自分の考え方や生活史や価値観を伝えたいので、次男の勧めで始め、続けております。

(フロイス直筆に「日本史」です)

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アニ

 

 

二十代でお会いして、男っぽくも、いい男でもないのですが、お会いして、話をしてから、「アニ」の様に感じた方でした。その後、一緒にテニスをしたり、読書会をしたり、コーヒーを飲んだり、風呂に浸かったりしていました。その方の近影を、"FaceTime"で見付けたのです。今朝のことです。今の情報社会というのは、ヒョンなことで、写真や文章を見付けたりできる、驚くべき時代なのですね。

この方が、東京から遠くに行かれて、私も遠くに来てしまってから、音沙汰なしの時が過ぎていました。昨年、鍵盤断裂の縫合手術を、札幌でして、退院後の6ヶ月検診で、秋になって、札幌まで行きました。帰りに、遠回りをして、この「アニ」の住む街を、家内と一緒に訪ねる予定を組んだのです。八十を超えているのに、自分の責任の事務所を、息子さんに任せて、ご自分は無任所の事務所に出掛けている、まだバリバリの現役なのです。

私が訪ねた日は、この方は、東北の街に出掛けていて、生憎の留守でした。奥様が残っていらっしゃって、お会いし、しばらくお交わりをしたのです。街案内をしてくださると言われたのですが、お忙しそうにされていたので、せっかくの親切をお断りし、辞してしまいました。私が、実の兄と一緒に、台湾に講演旅行をした時に、台南に行きましたら、そのホテルの席に、この方がおられたのです。私がメイン・ゲストになっていて、ちょっと申し訳なかったのです。

この方は、気張らず、威張らず、見栄も張らない謙遜な方でしたから、多くの方に慕われていて、私もその一人でした。この方が、誘ってくださって、アメリカの北西部の街を訪ねる「旅行団」に加えてくれたのです。子ども含めて、15人ほどでした。彼と同じ学校の同窓生で、この「アニ」を尊敬している、アメリカ人の事務所に行ったのです。その尊敬が、私たち一緒に行った者をも厚遇してくださって、大歓迎してくださったのです。

4日ほどの滞在でしたが、高級ホテルをご用意くださって、その間の茶菓や果物を、大き目の袋に入れて、ホテルの部屋のテーブルの上に、一人一人の分をおいての歓迎でした。その所長の奥様のされたことでした。"100$紙幣"まで入っていて、久し振りの<お小遣い>でした。あんなに快適な、ゆっくりした旅行は初めてでした。

35℃も気温が、まだあるのに、やっぱり見えない「秋風」が、頭をくすぐっているのでしょうか、どうにも人恋しく、慕わしく思い出されてきた様です。思い返すと、良い人たちと出会ってきたものです。来年の帰国時に、この「アニ」を訪ねてみたいと、今から思っています。実の兄が二人もいるのに、もう一人の「アニ」に恵まれたのだと、ただ感謝しているのです。

6日の地震の影響は、どうだったのかも、ちょっと心配です。ちょうど10歳違いの方 です。

(海から眺めた(臥牛山(函館山)です)

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おめでとう!

 

 

テニスの四大大会の一つ「全米オープン」で、大坂なおみ選手が、優勝しました。快挙と言えるでしょう。若干20才の新チャンピオンです。お父さんがハイチ系アメリカ人、お母さんが日本人です。とくにお母様は北海道出身で、今回の北海道胆振(いぶり)東部地震の被害のニュースの中、道民のみなさんにとっては、大きな激励になったのではないでしょうか。

素晴らしい態度が賞賛されている若者です。驕らずに、練習を積まれて、活躍を期待したいものです。おめでとう!

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オクラ

 

 

これは、東広島市の畑に咲く「オクラ」の花です。よく食べるのですが、花は初めて見ました。綺麗な花ですね。いつもの様に、[HP里山を歩こう]の配信の写真です。こちらのオクラは、三倍くらいの大きさで食べるのは、しばらく敬遠していたのですが、茹でたり、生食で食べると、けっこう柔らかくて美味しいのです。やはり品種が違うのでしょうね。

日本の山は、岩山も多いのですが、都市部に近い所には、盛り土の山が多いのでしょう。大雨が降ったり、地震がくると、滑るように崩れてしまう様です。私たちが長く住んだ街は、巡りが山でした。要塞の中にいる様で、落ち着いたのですが、その山が崩れてしまった北海道や熊本や岡山や広島は、地肌が露出してしまっています。時間とともに、植生が回復するにでしょうか。花の種が落ちれば、来季は花だって咲いてくれることでしょう。

それにしても、遥か昔に積まれたものが、崩れ落ちていくのは、辛いですね。

お見舞い

 

 

9月6日未明に起こった「北海道胆振東部地震」で、被災されたみなさんの1日も早い、精神的、物質的な両面の回復を、心から願っております。昨年、入院手術とリハビリをしたていただい病院の院長と、こちらでお会いした旭川出身の日本語の教師をしておいてられた方に、お見舞いのメールを差し上げました。

昨日の朝の時点で、病院長からは、正常な診療が再開されると言っておられました。また旭川の先生からは、震度4の揺れがあって、それは初めての経験だったそうで、驚いておいででした。お二人ともご無事だそうです。特に入院中の病友のみなさんの様子も心配になっています。

停電、断水、余震、物資の不足と、生活不安が大きい様です。早期に通常の生活に戻られます様にと願っております。

(厚真町吉野の山の崩落現場です)

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勢い

 


スポーツの世界でも、文学や芸術の世界でも、医学などの自然科学の世界でも、《ニッポン女子》の勢いがすごいですね。元気で、溌剌として、世界に伍して活躍しているのに驚かされます。「女三界に家なし」とか「三従」とか、男の陰で抑圧されて来た、東アジアの世界で、最近の活躍が目立ちます。

父と母を見ていて、結局は、強がりを見せていた父よりも、何時も『はい!』と父に従っていた母の方が、肝が座っていて、何が起こっても動じないで、冷静に全体を見ていた様に思うのです。母は、幼い日に<メソメソ>を十分にしたからでしょうか、子育てしていた頃に<メソメソ>しているのを見たことがありませんでした。

家事を終え、夜遅くに終い風呂に入って、床につき、朝一番に起きて、朝食の支度をする、これを毎日毎日繰り返していて、文句ひとつ言いませんでした。家族を送り出した後に、自分の時間があって、それを楽しんでいたのでしょうか。子どもたちが大きくなってから、週一で、中央線に乗って新宿に行き、街歩きや買い物をしてくるのが楽しみだったそうです。”高野フルーツパーラー“か、“デパート”の食堂街で、何か食べるのみ楽しみだったのでしょうか。そんな息抜きの芸当のできる女(ひと)ではなかったのです。

<女々しさ>のない母だったのです。でも、けっこうみんなのいない所と時間に、泣いたこともあったのかも知れません。十代で、カナダ人の家族との出会いがあって、その頃から「本」を読む様になって、歌ったり、人のことを思ったりする習慣が、身についていた様です。よく、食事の後片付けをしてから、駅裏にあった家での「読書会」に出掛けて行っていました。

「しっかり者」でした。縫い物も料理も器用だったので、料理研究を自分でして、色々と考えながら、男五人の食事を作ってくれていました。ちらし寿司、カタ焼きそば、ハンバーグ、カレーライスなどは絶品でした。母の幼友達が、『お転婆で、今市小町だったのよ!』と、子どもの頃の母のことを教えてくれたことがありました。

お転婆仲間の幼馴染がいて、満州にご主人と出掛けて、その後、行方知らずになったのだそうです。母を思い出すと、今日日の《ニッポン女子》の活躍が頷けられるのです。恥ずかしがらず、衒(てら)わず、自分の境遇に抗(あらが)わずに、今の責任に生きていた古い女子だったのです。そんな岡さんたちに育てられた世代が、私たちでしょうか。もちろんナイロン・ストッキングの強さも聞いています。

(アジア大会の女子サッカー、なでしこジャパンの横山選手のシュートです)

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雨と水

 

 

バケツ一杯の水は、下げてみると随分重いものです。このところ、私の住んでいる街に降る雨の量も、半端なく多く強いのです。よく、『バケツをひっくり返した様な雨!』と言ったりしますが、天気ニュースでは、『1時間に100ミリの雨が降りました!』と言っていますが、どれほどの雨なのか、調べてみました。

上欄のイラストの様に、イラストで、相撲の力士の重さで例えている様です。『集中豪雨の危険性は雨量の数字だけだとなかなかイメージしにくいので、私はよく「1時間100ミリの雨」を重さに換算し,「100キロの力士が1平方メートルあたり1時間にひとり落ちてくる」と解説してます.1時間に150ミリは,極めて危険.(“FUNDO”によります)』とありました。

続いて“FUNDO”に、『ちなみに、気象庁では雨の強さを分かりやすく伝えるために、「やや強い雨」、「強い雨」、「激しい雨」、「非常に激しい雨」、「猛烈な雨」の5段階に分類しているといいます。例えば「激しい雨」とは1時間に30ミリ以上50ミリ未満の雨であり、バケツをひっくり返したように降るイメージ、「猛烈な雨」とは、1時間に80ミリ以上の雨で息苦しくなるような圧迫感がある。恐怖を感ずるイメージとしています。』とありました。

家内の話によると、実は、毎朝、5階から(家内が見上げて確かめた様です)、洗面器かバケツの水が、窓の外から捨てられるのです。直接かぶることはないのですが、ちょっと常識外れかなと思っていますが、いろいろな生活方式があるのでしょうか。ですから、そんな雨降りが、地上に降っているのには、驚かされるのです。

この「寝耳に水 」の様なことを、「水に流す」べきでしょうか。「水入らず」の我が家に被害が被るので、「立て板に水」の様に抗議すべきでしょうか。3階や4階の住民も、毎日のことですから、目撃しているのでしょう。「年寄りの冷や水」だと思われそうですが。抗議しても、「焼け石に水」になってしまいそうです。

そう言えば、一度だけですが、石鹸を持って外に出て、大雨の時に体を洗ったことがありました。隣の家の同じ年頃の女性が、窓の上段の透明ガラス越しに覗いていたのです。もちろん非は、こちらにあるのですが。ちょっとやり過ぎかなと思ったのですが、若気の至り、後の祭りでした。でも、あんなに爽快な気分は、その後味わっていません。

今日、関空が、想定外の高潮で、滑走路が被害を被ったとニュースが伝えていました。来年、再来年、もっと雨量が多くなるのではないだろうかと、心配になってしまいます。今年だって、台風の襲来が、まだまだありそうですから、この自然の対決で、私たちは知恵比べをして、被害を被らない様に、対策をして行く必要がありそうです。これは、「水にする」ことはできませんね。

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